雪之達磨さんのイラスト

 銀の砂の上に一人、真白いワンピースを着た少女がぽつんと座っています。
 目の前に広がるのは、蒼い、蒼い、海。
 どこまでも続いているように見えるその場所に、少女の小指ほどの小瓶を流してから、どれくらいの時が経ったでしょう。
 あの日。少女のもとへ、ひとつの小瓶が流れついた日。
 自分はひとりぼっちなんかではないと気づいた少女は、手紙を書こうと決めました。
 手紙には、大好きなお菓子やお伽噺のこと、誰にも内緒の秘密の場所のことを書きました。
 手紙だけでは物足りなく感じて、物語を編みました。
 夕暮れを。
 オレオフリネラの夢を。
 お気に入りのマグカップを。
 逆回りの懐中時計を。
 レコードを、繭を、さくらを、明け方を、写真立てを。
 他にももっとあらゆることを物語にして、たくさんのお話しを作り上げました。
 物語だけでは寂しく感じて、絵を描きました。
 ダンスホールを。
 砂時計を。
 蒼い目の猫を。
 季節はずれの雪を。
 金平糖を、帽子を、花弁を、首飾りを。
 大事にしていたスケッチブックの一部を丁寧に切りはなし、そこに描いたたくさんの絵にクレヨンと色鉛筆で鮮やかに色を塗りました。
 手紙と物語と絵を大事に大事に小瓶へ入れて、そして双子の月を映す広い海へと委ねました。
 流してすぐ、少女は胸の前で、海水で濡れた小さな手を組み合わせ、じっと夜空の星を見上げました。そして静かに願います。
 “大切な友達を失って、悲しみに暮れるわたしからの唯一のお願いです”
 それから、たおやかに、穏やかに、少女は祈りを捧げました。
 “どうか……どうかあの小瓶の送り主に、わたしの想いが届きますように”
 ただこうして祈ることだけが、少女にとって幸せになれるおまじないでした。
 そんな少女の様子をじっと見ていた星や海や月たちは、やっぱりなんの返事もせずに、ただ光り瞬き、揺れるだけでした。

 ◇   ◆   ◇

 少女は毎日海を眺めて過ごしました。
 いつ返事が来てもいいように。硝子の小瓶が流れ着いてもいいように。
 けれど、待てど暮らせど返事は来ません。さざなみが運んでくるのはいつも小瓶ではなく、白銀の砂と泡沫だけでした。
 それでも少女は待ちました。
 待って、待って、ひたすらじっと待ちました。
 そうしているうちにだんだんと待ちくたびれて、少女はいつのまにか、さざなみの音を子守唄にしろがねの砂浜で眠りに落ちてしまいました。
 その日、少女は夢を見ました。
 幼い頃、寝る間も惜しんで会話した、宝物のように大切な彼女の友達の夢でした。
 夢の中で、少女は旧友である星と数年ぶりに話をしました。
 “久しぶりだね”
 思い出に変わる前の、あの懐かしい星の声がそっと空から降ってきます。少女は明けない濃藍の星空を見上げながら大きな目を何度かまたたかせました。
 “どうしてかしら。あなたの声が聞こえるわ”
 不思議そうに首をかしげる少女に、星はくすくすと笑います。
 “そりゃあそうさ。ぼくはきみに話しかけているのだから”
 あの優しい色の記憶のままの、鈴を鳴らしたような軽やかな笑い声に、少女はやっぱり不思議そうな面持ちで問いかけます。
 “またお話しができるようになったの?”
 “また、というのはおかしな表現だね。だってぼくはずっときみに語りかけていたんだよ”
 ずっと。その言葉に少女はかぶりを振りました。
 “嘘よ”
 “嘘じゃないさ”
 “だってわたしにはちっとも聞こえなかったわ”
 そう言うと、星はまるでうなずいているかのように光ります。
 “そう。それでいいのさ“
 それから、一呼吸ほどの間を置いて、
 “大人になるとは、そういうことだよ”
 そんな星の声に、少女はふうんとうなずきました。それでも、星の言っていることは少女には少し難しく感じます。少女は確かに成長し大人へと近づきましたが、自分ではまだまだ子どもだと思っていたのです。
 少女はささやかな風に吹かれて姿を変えるしろがねの砂子と真白い砂子が入り混じる砂浜の上に座り込み、ちょうど打ち寄せる波に触れるように足をそっと伸ばしました。そしてひとつ、息をつきます。
 “あなたたちとこうしてまたお話しができるのはとても嬉しいわ。……だけど”
 憂鬱さを含んだ溜め息をつく少女に、星は言います。
 “嬉しいのなら、どうしてそんなに悲しげな顔をしているんだい”
 その問いかけに、少女は星を見上げます。
 “だってね、ひとつもお返事が来ないのよ”
 “お返事?”
 “そうよ”
 うなずいて、少し頬を膨らませます。その姿は幼い頃からちっとも変わっていません。
 そんな少女を見て、星は再び言いました。
 “そう。あの子から手紙の返事が来なくて寂しい思いをしているんだね。でも、あとちょっとの辛抱さ。もう少しで、きっときみに素敵な返事が届くはずだよ”
 昔から、星はいつでもそうやって優しい言葉で励ましてくれました。そのたびに少女は救われた気持ちになります。
 けれど今回は、少女は頬を膨らませたままでした。星は少女に小さな嘘だってついたことがありません。だけど少女は沈む思いを堪えきれずに、心の中で「嘘ばっかり」と八つ当たりのように毒を吐いてしまいました。それからすぐ、胸がちくりと痛みます。優しくしてくれた星にひどいことを言ってしまったと後悔しました。けれど、その優しさが苦しかったのです。だって、どんなに期待をしても、どんなに待ちぼうけを繰り返しても、小瓶が遠くのあの子に届いたかどうかは誰にもわかりません。いつも同じ場所で光り続ける星には、きっと知りえないのです。
 少女はくちびるを引き結び、悲しさと寂しさを振り払うように波をぱしゃりと蹴りました。
 “わたしのお手紙は、ちゃんとあの子のもとへ届いたのかしら”
 泣いてしまいそうになりながら、ぽつりと呟きます。
 もしかしたら、小瓶はどこか違うところへ流されてしまったのかもしれません。あるいは深い深い海の底へ沈んでしまったのかもしれません。
 せっかく友達ができたと思ったのに、やっぱり自分はこのままずっと一人ぼっちなのかもしれないと、少女は急にどうしようもない大きな不安に襲われました。
 視界が涙で霞んだ、そのときでした。
 ふいに足を誰かにくすぐられます。
 驚いて海面を覗き込むと、波がたゆたいながら言いました。
 “そんなに不安そうな顔をしないで。大丈夫、あの手紙はきちんと私があの子のもとへ運んだよ”
 少女は大きな目をくりっと丸くしました。
 “本当に?”
 ”本当さ。ほら、ゆっくりと目を開けてごらん。この夢から覚めたとき、きっときみは喜ぶよ”
 ざざあ、と心地よい波のさざめきが耳をくすぐります。
 うたた寝から目を覚まし、少女は目をこすりました。いつの間にか寝てしまっていたことに気づき、ゆっくりと体を起こします。何度かまばたきをして、静かにあたりを見まわしました。
 星の声も、海の声も、もう聞こえてきません。さっきのことは夢だとわかっていても、また一人ここへ残されてしまったようで、なんだか寂しい気持ちになりました。
 そのとき。波に触れていた足先に、こつんとなにかが当たるのを感じました。ふと視線を向けると、見覚えのある小瓶がひとつ、冴え冴えとした蒼い波に揺られて浮かんでいるのが目に入りました。
 少女は目をみはり、慌ててそれをすくいます。
 小さな手のひらに乗る、小さな瓶。
 大きな丸い瞳で、じっとそれを見つめました。
 それは確かに、少女が少し前に海に委ねた小瓶でした。よく見ると、中には一枚の紙が入っています。
 少女は急いでコルクの蓋を開けました。月白を思わせるような優しい色合いの紙を取り出し、そっとそれを開きます。震える指先で文字をなぞり、心の中で読みました。

 素敵なお手紙をありがとう。
 ぼくもあなたに逢ってみたい。
 逢って、話がしてみたい。
 ――あなたが生む物語たちは、いつだって光り輝く宝石のようだから。

 ぽろり。無意識に涙が頬を伝います。
 それは、あのときに流したような、孤独に暮れる寂しい涙ではありません。
 やわらかく、あたたかい、嬉しくて落ちた涙でした。
 手紙にひとしずくの涙が落ちたとき、少女は慌てて目をこすりました。もう泣かないようにと、星屑を散りばめた空を見上げてから、もう一度手紙に視線を戻します。
 少女はそっと微笑みました。
 少女の手紙は、少女の想いは、ちゃんと届いたのです。この小瓶の送り主に。自分と同じ、友達を欲しいと願っているあの子のもとに。
 きっと一人で生きていくのだと思っていました。今までも、これからも、ずっと。だけど、それは違ったのです。
 遠い、遠い、星。
 けれど、いつかは届く星。
 そんな星にずっと手を伸ばし続け、やっと指先が触れることのできた少女は、もう寂しい思いをしなくてもいいのです。一人で涙を流さなくてもいいのです。
 そんな喜びに、嬉しくて、幸せで、心が優しさに包まれていくようで。少女は胸の高鳴りを止められません。
 胸いっぱいに溢れる想いを抱きしめてから、少女はすっくと立ち上がります。そして凛とした表情で海の遥か向こう側を見据えると、生まれて初めて大きな声で叫ぶように言いました。
 「お手紙、ありがとう。わたし、すぐに逢いに行くわ。この小瓶と一緒に、あなたのもとへ。だから――」
 手紙と小瓶を大切そうに抱え、深く、深く、息を吸い。
 「――だから、きっと待っていてね!」
 まるで遠くのあの子が返事をしたかのように、砕けたガラスのように星屑が散る紺藍の夜空に、流れ星がすうっと一筋駆け抜けていきます。
 まだ会ったことのない、それでも大切な宝物だといえる友達に届くよう、小さな体で必死に声を張り上げる少女を見守りながら、星も、海も、砂も、月も――世界のすべてが優しく微笑みかけていました。



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