うさぎのお菓子

 時計の針がうさぎの時刻を告げたなら、それは魔法が始まる合図。
 出来立てのパンプディングに、大好きなホイップクリームをかけよう。冷えた真白のクリームをかけたら、スプーンでパンを潰すようにほぐしていこう。適度に混ざり合ったところで、ためらわずに口に放り込むのだ。
 蜂蜜入りの卵液とかりかりのパンの食感が舌の上で転がる。満足げに笑う私に、台所に立っていたあの人は呆れ顔になった。
「冷たい生クリームに温かいパンプディングなんて。変わった子だねぇ、あんたは」
 文句なんて気にしない。卵液で固めて埋まったパンを掘り起こす作業に戻る。あっという間にぐちゃぐちゃになったおやつに、あの人は眉を顰めた。
「本当、汚い食べ方をする子だ」
「いいじゃない、好きなんだから」
 器に入れたホイップクリームを乗せて、かき混ぜていく。
 そんな私に、あの人は勝ち気な笑みを見せるのだ。

 祖母の訃報を聞いたのは、五月のよく晴れた日。大学の入学を機に一人暮らしを始めてから一年が過ぎていた。そろそろバイトをしようと、大量の求人情報誌をアパートに持ち帰ったときだ。
 母は電話ではなく、メールで知らせてきた。酷く戸惑っていたのだろう。その心情が文面から滲みでていた。
 翌日、朝一に電車に飛び乗り、久しぶりにあの人の家に立った。不思議と家を小さく感じた。見慣れない車が駐車し、冠婚葬祭にしか集まらない親戚達が通夜に来ていた。久しぶりねと声をかけられても覚えていない顔がほとんどだ。いつの間にか染みついた愛想笑いを返していくと、泣き腫らした母に出迎えられた。
「おばあちゃん、部屋にいるわ」
 母の言葉に弾かれたように靴を脱ぎ捨て、廊下を駆けていく。
 幼い頃に走り回った廊下は狭く、背が高かった柱時計は縮んでいるように感じた。あの人の部屋に近づけば近づくほどお香の匂いが強くなる。どうしてと湧き上がる疑問を喉の奥に引っ込めた。
 襖を勢いよく開く。
 畳の上で眠る姿が、ひどく小さく見えた。
 そろそろと横たわる人に近寄り、正座をした。顔にかけられた白い布をめくる。
 あぁ。
 顔を合わせないうちに、あの人は本当に「おばあちゃん」になっていた。意地の悪い顔ではなく、疲れきった顔があった。
 そう、あなたは私の「祖母」だったのね。
 そうね、そう。あなたはそうなのよ。
「認知症だったのでしょう」
 膝に置いた拳を固く握りしめる。参列者のひそひそ話は嫌でも耳に入ってきた。
 両親が離婚したのは、小学校に入学する前だった。
 母と幼い私は、しばらくあの人の家で暮らすことになった。文句を言いながらもあの人は私達を受け入れ、仕事で家にいない母の代わりに「母親」を務めてくれた。
 祖母は姿勢が美しい人だった。背筋をぴんと伸ばし、白髪が混じった長髪を一つに結び、シャツにパンツというシンプルな格好を好んでいた。はきはきと物を言う性格から、あの人を好む人は別れた。誰に好まれようが気にせず、来る者は拒まず去る者は追わない主義だった。
 六年間、私はこの家で過ごした。あの人は再婚した母の同居の誘いを断り、中学校に進学する時期に私と母は家を出た。
「もう来るんじゃないよ」
 別れの挨拶は、実にあの人らしいひねくれたものだった。それが本心ではないと幼少から理解していた私は、頷きながら笑って手を振った。
 あの人の記憶が薄らいでいたのは、おそらく、そのときからだろう。
 中学校生活に慣れてきた春の終わりに、久しぶりにあの人の家を訪ねた。電話を嫌う人だ。いちいち連絡するより、手土産を持ってふらりと行った方が喜んでくれる。電車一本とバスを乗り換えて辿り着いた家は、妙に閑散としていた。
 最初の違和感は庭だった。水が入ったままのじょうろ、だしっぱなしの軍手、土に刺さったスコップ。道具が庭に転がっていた。整理好きな性格からして珍しい。疑問に感じ、呼び鈴を押したが反応はない。戸に鍵はかかっていなかった。
 名前を呼んでみる。
 返事はなく、柱時計の振り子の音が返ってきた。
 玄関を上がり、洗面所、居間、台所と見て、最後にあの人の部屋に辿り着いた。
 襖を開ければ、いつもの憎まれ口が返ってくるはずだ。こちらも返してから、一緒に手土産のお菓子を食べよう。草むしりをしろと言われたら喜んで引き受けよう。そのつもりだった。
 そのつもりだったのに。
 返ってきたのは。
「どなたさま?」
 他人の顔で他人のように振る舞う、あの人だった。

「あっという間ね」
「そうね」
 葬儀は滞りなく終わり、一週間が過ぎた。
 今日は休日を利用して、遺品整理を手伝いに来た。小さな家でもがらくたは大量にある。気づくと居間は段ボール箱に占拠されていた。あれもこれも捨てられないと母は呟き、見返していたアルバムを閉じた。
「だめね。これじゃあ、全く進まないわ。業者さんに頼んだほうがいいかしら」
「そうだね」
 リサイクルショップに売ると決めた食器類を新聞紙に包み、段ボール箱に詰めていく。淡々と相づちを打つ私に、気遣う母の視線を感じた。
「あのね、葬儀のとき、お母さんびっくりしたの。あなたったら見ない間にしっかりしちゃって。皆さんからの評判も良かったのよ。いてくれて助かったわぁ。一人暮らしするようになったのもあるのかしら。お母さんがあなたと同じ年のときは、まだ子どもだったわ」
「そう」
「この家で欲しいものがあったら、持って行っていいのよ。一人暮らしで物を揃えるのは大変でしょう?」
「大丈夫。荷物になるから」
「そ、そうね」
 沈黙が流れる。この空気をどうしたらいいのか、母が困惑しているのは知っていた。
 こういうとき、母の行動は決まっている。
「お、お母さん、庭を見てくるね。お父さんに電話もしなくちゃ」
 隣を立った母に、返事はしなかった。
 一人残された居間で溜息をつく。新聞紙に包んだコップを乱雑に段ボール箱に入れた。
 母は私から逃げている。
 今に始まったことじゃないのに、苛立ちを隠せない。
「そんなに気にくわないのかい」
 不満顔で帰った小さな私を、あの人は呆れ顔で迎えてくれた。
 整理どころか荒らしてしまった部屋を片づけるのは、骨が折れそうだ。次第に億劫に感じ始め、作業に集中できなくなってきた。
 こういうときは、気分転換がいい。
 がらくたで溢れた居間を後にし、家の中を歩き回った。かちこちと振り子を揺らす柱時計、歩くたびに軋む廊下、黄ばんだ襖に穴の空いた障子。知っているはずなのに他人の家ように感じるのは、離れてから年月が立っている証拠なのだろう。
 そして、あの人の部屋。
 襖に伸ばした手が震えていた。わかっている。あの人はいない。あるのは、遺影と骨壺だけ。それなのに、あの日と同じように期待してしまっている。勝ち気な笑顔を、またこの家で見られるんじゃないかと思ってしまっている。
 かたん。
 物音がした。
 あの人の部屋からではない。周囲を見渡し、ふらふらと引き寄せられるように音の在処を探した。
 あの人は「おばあちゃん」扱いを嫌っていた。
「好きであんたのババアになるわけじゃないんだ。だから、名前で呼びな」
 それが、この家で最初に教えられたルールだった。
 ある部屋の扉の前に、何かが落ちていた。
 うさぎだ。うさぎの形をした木製の看板だ。先程の物音の正体はこれだろう。拾い上げたうさぎの体には、私の名前が彫られていた。
 これは、私の部屋の扉にかけていたものだ。
 唯一の洋室をあの人は貸してくれた。机がなければ、可愛いベッドもない。初めて案内されたときは、古臭い箪笥にちゃぶ台と布団しか用意されていない簡素な部屋だった。
 この看板はあの人がくれたものだ。ある日突然、好きだろと手渡してくれた。うさぎが好きだと言った覚えはないのに、あの人は私が好きなものを知っていた。
 不器用で遠回りな愛情を、私に注いでくれた。
 部屋を開ける。微かに残る自分の部屋の匂いに懐かしさが込み上げた。水玉模様のカーテンを開く。窓から差し込む陽光に目を細めた。ゆっくりと部屋を見渡す。傷だらけになったちゃぶ台に、あの人が作ってくれたうさぎ柄の座布団。古びた箪笥には、当時流行っていたアニメのシールが貼られていた。
 ちっぽけな少女のものだった部屋は、出て行ったときのままだった。広くはない部屋のところどころに、あの頃の記憶の片鱗が残る。
 箪笥の上に光るものを見つけた。手に取ると、くすんだ金色の鎖が揺れた。
 懐中時計だ。
 蓋を開ける。針は動いておらず、文字盤が数字ではないことに気づいた。右から「子」「丑」「寅」と十二支が回っていた。
 この懐中時計に見覚えがある。祖父の遺品で、あの人が大事に持っていたものだ。どうしてあの人の宝物がここにあるのだろう。
 時計の針は、「兎」を指していた。

「兎の時間になったら魔法がかかるんだよ」

 懐かしい声と共に、ふつりと何かが呼び起こされた。
 かちりと音が鳴る。文字盤に目を移すと秒針が動いていた。なぜか、逆さ回りに。
 カーテンが揺れた。閉じていたはずの窓が開け放たれている。カーテンが揺れるたび、陽光に反射してきらきらと輝く水玉模様は飴玉のよう。小さな頃は風に揺れるカーテンを見ながら、ひなたぼっこをするのが好きだった。
 あれ、ランドセル。
 赤色のランドセルが隣に置かれていた。一目で自分のものだと気づく。この家を出たときに、持って行ったのに。
 ぱたんと開けていたはずの扉が閉まった。誰かの軽い足音が廊下を駆けていく。母ではない。例えるなら子ども。それも、幼い。
 懐中時計は逆さ回りを続けている。
 心臓が他人のもののように、とくとくと胸を打っていた。恐怖心はない。期待と不安が体中に巡っていく。懐中時計を握り、私は部屋を出た。
 同じ風景なのに、どこか違う。
 ぱたぱたと軽い足音がする。目の前を小さな子どもが通り過ぎていった。髪を梳かさないぼさぼさ頭に心当たりがある。
 呼び止める前に、私は追いかけていた。
「また帰って来たのかい」
 ふと、あの人の呆れ顔が記憶の片隅から浮かんだ。
 昔の私は、不真面目な小学生だった。朝は学校に行ったふりをして公園で時間を潰し、昼過ぎに家に帰っていた。早退の常習犯でもあった。クラスでは病弱な子どもを演じ、先生には仕事をしている母に迷惑をかけたくないから、祖母に連絡してと頼んだ。
 あの人は、嘘を咎めなかった。帰宅した私はいつもふくれっ面だった。無言で玄関に突っ立っていると、あの人は肩を竦めた。
「そんなに気にくわないのかい」
 気にくわないよ。だって。
 かちりと懐中時計の針が進んだ。
 台所に子どもがいた。ぼさぼさ頭に不機嫌な顔をした少女が椅子に座っている。この光景を私は知っていた。違う、知っているのではない。
 私は、あそこにいたんだ。
 少女はパンプディングにホイップクリームをたっぷりかけ、スプーンで潰していた。顔は真剣そのもの。何かを無くして消してしまうように、ぐしゃぐしゃと潰してはパンをほじくる。
 流し台に、背筋を伸ばした美しい背中があった。白髪を一つ結びに纏めた頭。白のシャツとパンツというシンプルな格好に、ベージュのエプロンの紐が見えた。
 振り返ったら、きっと、勝ち気な笑顔が
「ここにいたの?」
 振り返ると母がいた。
 私はたいそう驚いた表情をしていたらしい。母の心配げな眼差しから、すぐさま顔を逸らした。
 台所には誰もいない。十二支の懐中時計の針は止まっていた。
「居間にいないから、お母さん捜しちゃったわ」
 母の曖昧な笑いを無視して冷蔵庫を開けた。電源が入っていない冷蔵庫は空っぽだ。ここによく卵が入っていた。それとホイップクリームが入った器。うさぎの時間は三時のおやつ。学校をさぼったり早退したりして帰宅した私に、三時になるとあの人はパンプディングを差し出してくれた。
「今もうさぎさん好きなの?」
 食器棚の前に母は立っている。手にはうさぎの形をした白色の耐熱容器があった。うさぎの時間にうさぎの器。あの人が私のために用意してくれたもの。
 この人が、私にくれなかったもの。
「そうかもね」
 そっけない返事は小学生の頃から変わっていない。あと数年で成人するのに、止められなかった。
「そんなに気にくわないのかい」
 パンプディングを熱心に食べていた小さな私に、あの人はよく問いかけた。
 だって、気にくわないもの。
 母に好きな人ができたのを。
 父以外の人を好きになったのを。
 女になる母が怖かった。幼い私は受け入れられず、面と向かって文句を言えなかった。母が私のために再婚したのは知っている。義父に好意はある。でも、許せなかった。頭では理解していても感情では納得していなかった。
 最初に母から逃げ出したのは、私だ。
 母は私との距離を測りかね、そんな母を見るたびにどうしてそうなのだと苛立ちが募ってしまう。八つ当たりだと自覚していた。
 自覚、しているのに。
 母は椅子に座り、うさぎの器をダイニングデーブルに置いた。縁を指で撫で吐息をつく。
「おばあちゃんね、ここで暮らすことが決まったとき、あなたのことをいろいろ聞いてきたのよ。うさぎはそのひとつなの」
 なぜあの人が私の好物を知っていたのか、薄々気づいていた。けれど、幼い私は尋ねなかった。母とあの人の仲が悪いことを知っていたからだ。
「最初はとても助かったのよ。ただね、あなたが母の日におばあちゃんの絵を描いたときはとてもびっくりしたわ。あなたをとられてるって、思っちゃったの」
 母とあの人の会話を聞いた記憶は少ない。三人で食事をする時間はどこかぎこちなかった。次第に朝は母、夜はあの人と二人だけで食事をするようになっていった。
「あの人、おばあちゃんって呼ばれるの嫌いだったでしょ? でも、あえてそう呼んだのよ」
 母は苦笑した。
 口喧嘩はしなくても、あの二人の間にはちぐはぐな空気が流れていた。どうにかしようと母は思っていたのだろう。離婚をきっかけに三人で暮らすことを提案し、あの人はそれを受け入れた。子どもがいれば変わるかも知れないと、期待されていたのかも知れない。
 結局、何か変わったのだろうか。
 あぁ、だめだ。母が私に歩み寄ろうとしているのに、ふつふつと湧く衝動を抑えきれない。
「だからなんなの」
 喉からでてきた声は震えていた。
「なによそれ、家にほとんどいなかった癖に、勝手に外で男をつくって結婚して。それであの人に私をとられてるなんて思った? 馬鹿にするのも大概にしてよ」
 俯き、母が視界に入らないのをいいことに辛辣な言葉を浴びせる。顔を上げなくても、母が悲痛な表情をしているのはわかっていた。
 でも、でも。
 母は授業参観や運動会に来なかった。風邪をひいても仕事から戻って来なかった。今日、学校どうだったの。顔を合わせるたびに尋ねられる言葉が苦痛だった。私はあなたのことを何も知らないと言われているようだった。
「あの人に私を押しつけた癖に、どうして今になってそんなことを言うの?」
 ダイニングテーブルの隅っこに、母を睨みつけているぼさぼさ頭の少女がいるような気がした。
「今頃、母親面なんてしないでよ!」
 私は、また母から逃げた。
 台所を抜け、走って、逃げて、馬鹿みたいに流れる涙を拭った。
 そして、あの人の部屋の前にいた。
 母から逃げた私に、あの人は寄り添ってくれた。昔は毎朝、私の髪を梳かしてくれた母の仕事を、あの人はとらなかった。ぼさぼさ頭で登校する私を黙って見送った。
「うさぎの時間になったら帰ってこい。そんときだけは、魔法がかかるんだよ」
 学校が嫌だと言うと、あの人はそう答えた。
 襖を開ける。今はもう勝ち気な笑顔も眠る姿もない。仏壇に骨壺と遺影が置かれ、線香が焚かれた部屋に入る。
 母から逃げた私はあの人からも逃げた。認知症になったあの人の世話を母に押しつけた。
 私はあの頃から何一つ変わっていない。体だけが大きくなって、未だに子どもの私を捨てきれずにいる。
 あの人の遺影の前に座り、滲む視界を何度も拭った。鼻をすすり、乱れる呼吸を落ち着かせた。
 握っていた懐中時計の蓋を開ける。針は動いていない。最初に見たときと同じ「兎」を指していた。
 部屋には本棚がある。赤くなった目でぼんやりと背表紙を眺めていると、一冊だけ背が高い本を見つけた。立ち上がり近づいて取ってみる。
 料理の本だ。開くと押し花の栞がついたページで止まった。パンプディングのレシピが乗ったページに、大きな赤い丸がついていた。
 あの人の整った文字が書き込まれている。
「千代子が一番喜んでくれた」
 千代子は、私の名前じゃない。
 母の。
「そこにいるの?」
 襖越しに母の声が聞こえた。
「いるのね」
 疑問から確信に変わった母に、私は沈黙を返した。母が戸惑っている気配がする。反応を返さない私に、小さな声がかけられた。
「……ねぇ、パンプディング。食べない?」
 母が喜んでくれたと書かれた文字は、どこか満足げに見えた。
「お母さん、昔はもっとおばあちゃんと仲が悪かったの。喧嘩なんて毎日よ。でもね、三時になったらパンプディングを作ってくれたの」
 母から溜息が漏れた。
「だから、そのパンプディングをあなたに作っていたなんて、とても驚いたわ。あなたの言うとおり、わたし、何も知らないわね。その」
「謝らないで」
 うさぎの時間は魔法の時間だと、あの人は言っていた。その時間だけは、素直でいようと決めた時間だったのかも知れない。
 それが、不器用なあの人なりの謝罪だったのだろう。
「……謝らないで」
 肩が震える。消え入りそうな声を吐き出し、私は背中を丸めた。
 何よ、それ。
 結局、私たち似たもの同士じゃない。
 懐中時計は、うさぎの時間を指したまま止まっている。
「今度は、私が作るから」
「うん」
「ちゃんと作るから」
「うん」
 ごめんなさい。
 あなたたちから、逃げた私を許して。
「お母さん、楽しみに待ってる。その時間がくるの」
「待ってて」
 簡単に整理できないものがある。整理をしようと思ったら、予想よりたくさんのがらくたがでてきて纏まらなくなるときがある。
 きっとこれも同じ。
 ひとつの感情に対していくつかの要因が絡まって、未だに解けないままだ。
 でも、少しだけ解き口が見えたから。
 時計の針がうさぎの時刻を告げたなら、それは魔法が始まる合図。
 今度は私が母に教えよう。温かいパンプディングにホイップクリームをかける最高の食べ方を。
 冷えた温度を温める魔法をかけるんだ。
 懐中時計はうさぎの時間を指して眠っている。逆さ回りに動かなければ、他の時間を指すこともない。
 もう、そのときだけの特別な時間にしなくていい。
 懐中時計を遺影の隣に置く。手を合わせてから、不器用に私は笑った。

 私には不器用な自慢の母親が、二人いる。



見たよ!