『眼裏を焦がす走馬燈』
Illustration:南亜月さん
theme:『眼裏を焦がす走馬燈』
お題提供:炯さん

Author:宮崎笑子さん


 汗が玉のように噴き出すとある真夏日のことだった。
 覚えているのは、蝉のけたたましい鳴き声、太陽とアスファルトの熱に挟まれて茹だってしまいそうな身体と、鮮やかな色をした向日葵の誇らしげな満開の笑顔だ。水彩のチューブ絵の具みたいな青空に映える入道雲が、その巨体を揺らしていた。
 私と「彼」は明日から夏休みで、重たいランドセルを背負って汗を背中いっぱいにかいてひどく暑くて、それでもはしゃいで、踊るように走り回っていた。どこまでも続きそうな空は、町を飲み込むように大きくて雄大で、青々と広がっていた。

 こんなふうに暑い日は、嫌でも「彼」のことを思い出す。私は高校からの帰り道、ひとりきりで歩きながらぎらぎらと照りつける太陽を遮るように額に手を当ててひさしを作った。真っ白な太陽の光が無防備にさらされている私の腕や足を焼いていく。白いハイソックスを、制服を、今すぐ脱ぎ捨ててしまいたくなるくらいの熱だ。
 セーラー服の襟が風にはためいた。その風はぬるりと湿っていて、暑い空気を更に助長させる。
 近所の小学生たちが、ランドセルの中身をことこと鳴らしながら向こうの通りを走っていく。
「夏休みさー! いっぱい遊ぼうなー!」
 最近はいろんな色のランドセルがあるんだな、と思いながらその背を見る。あんな背中にべったり貼りついて、暑くないんだろうかって。汗だくの子供たちは、だけれどもそんなことは気にもならないのか一生懸命叫ぶように喋り続けている。その声は、向かい側の通りを歩く私にも聞こえるほど。
 男の子が三人と、女の子が二人。どの子の首筋も、滴るくらいの汗でびしょびしょに光っている。
 青やピンク、薄い紫のランドセルは元気に遠ざかっていく。その背中をぼんやりと見ているうちに信号が変わってしまって、私はこの炎天下の中、車優先でなかなか顔色を変えない信号を待つ羽目になった。
 車道の遠くのほうに陽炎ができていて、それを見るだけで暑さが倍増する。車が通るたびにむわっとした風が吹き抜けていく。
 スカートが揺れて、信号が青に変わった。歩き出す。
 髪の毛が首筋に貼りついて少し気持ち悪い。家に帰ったら温度の低いシャワーを浴びよう。制服の下に着たキャミソールもぐっしょりと汗で濡れている。
 ぱり、という感触がして何かをローファーが踏んだ。足を持ち上げてみると、それは蝉の抜け殻だった。こなごなになった抜け殻。
「気持ち悪い」
 それはもう命の入れ物でしかなくて、しかもすっかり空っぽなのに、大切な何かを踏んづけて壊してしまったような後味の悪さ。
 汗が流れ落ちるのに合わせるようにして、蝉が合唱する。鼓膜を破るようなその大音量が無性に苛立たしくて、すうっと息を吸う。でも、言葉は出てこない。何か叫び出したくてがなり立てたくてたまらないのに、喉が渇いてからからになって、何も言えずにのろのろ歩く。
 じっとりと陽射しが私の後頭部を焼いた。真昼の太陽光はあまりにも近い。
 蝉の声が遠くなる。耳鳴りがして、わんわんと身体の奥で反響する。並木の間の茂みに植えられた向日葵の向こうの陽炎が、「彼」をかたどるように姿を変える。暑いのに、ぞわりと肌が粟立つ。
「あこちゃん」
 なんでそんな舌足らずな声で私の名前を呼ぶのだろう。思わず立ち止まってしまう。陽炎が見せたまぼろしはすぐに消えたのに、私はしばらくそこで呆然としていた。
 こんな場所に「彼」がいるはずがないことは分かっていた。赤と黒のランドセルを揺らして、私たちはたしかにあの日そこにいたけれど、「彼」はもういない。
 だってあの太陽がかんかんに照りつけるひどく暑い日に、「彼」は――。
「絢子?」
 背後から呼ばれて、思わず振り返る。音が戻ってくる。蝉がうるさい。クラスメイトで、この間彼氏になった男の子がぼんやりとした輪郭で立っている。陽炎のせいでそうやってぼんやりしているんだ、と思った。
 近づいてきた彼から、制汗剤のシトラスの香りがふんわり漂う。その時立ち尽くす私の隣を、一組の小学生のカップルが走り抜けていった。思わずそれを振り返る。赤と黒のランドセルが、やっぱりその小さな背中に貼りついている。
 ふわっと子供特有の甘い汗の匂いがして、不意に吐き気が襲う。匂いに、じゃない。匂いによって引き出された記憶に、だ。
「絢子、どうしたの?」
 気遣わしげな声が鬱陶しかった。
 くらくらする頭で、彼を見上げた。顔は似ても似つかないし、そもそも年齢だって違うのに、なぜかゆらりと重なった。反響する耳鳴りと蝉の声が私をあの日に引き戻していって、それで「彼」が言う。
「あこちゃん、また明日ね」
 明日は来なかった。私は明日に置いてけぼりを食らった「彼」をじっと思い出す。「彼」は、あの絵の具のチューブから出したままの青色のような空に飲み込まれてしまったのだった。水で薄めることを知らない、凶暴で幼気な青色に。
「あこちゃん」
 声が、まるで機械を通したようにひずんだ。しゃがれたような割れたような音。それで視界がぐにゃりと曲がって、私は思わずよろめいた。
「絢子」
「……ごめん」
 乾き切った喉から、ようやく絞り出した。身体を支えられて彼の手の熱さに驚いた。いや、私が冷たいんだ。彼も同じことを言う。
「冷たい……貧血?」
 貧血と言うよりは熱中症に近いような気がする。「彼」の姿や声が見聞きできるなんて、そんなのはありえない、幻覚や幻聴に違いないから。
「帰ろう。絢子」
「うん……」
 ふらふらとよろける身体を支えてくれる腕は、しっかりと大人の手をしていて、怖いくらいにがっちりしている。「彼」の手も、こうなっただろうか。あの日あんなことさえなければ、こうなっただろうか。そして私を支えたのだろうか。それとも、ほかの誰かを支えることになったのだろうか。
 そんなことを考え始めると、痛くて苦しくてたまらなくなった。
 別に私のせいじゃない。そんなことは百も承知なのに、それなのにこんなにも苦しいのはどうしてなんだろう。胃の中のものや心臓に溜まったものを全部吐き出したくなるこの気持ちはなんなのだろう。
 言葉の吐き気が襲ってくる。何か叫び出したくて、全部をぶちまけたくて、けれどそれをやっても意味がないと分かっているような吐き気。
 じりじりと燃やすような太陽が私の心を真っ黒に焦がしていく。焼け爛れた心が、何を叫んでいるのかはもう分からない。分かりたくもない。
 ふと見上げると、そこにあるのは目も眩むほどの青色で、瞳に刺すような痛みが走る。空を覆うように雲が育ち、その紺碧を際立たせている。眩しい。
「絢子」
 もうあこちゃんと呼んでくれる人はそこにいない。やの発音がよく聞こえない舌足らずな声はもうそこにない。「彼」はもう、どこにもいないのだ。
 けれど私はここにいて、きちんと立っている。悔しくてもつらくても、どうしようもなく熱いアスファルトの上に、私はしっかりと立っている。上からも下からも熱に焼かれ、それで眩暈を起こしてもだ。
 じっと、差し伸べられている手を見た。ごつごつしていて、あの日のつるりとした小さな手とは全然違う手のひらが、私を無性に焦らせた。
 ずっとこの場所でこの茹だるような暑さに身を任せることをよしとしない手だった。この手に自分の手を重ねてしまえば、それは記憶との別れを意味するようなものになりそうで、「彼」がもうどこに行ってもいないことの証明になってしまいそうで。
 そんなことはとっくの昔に知っていたはずなのに、今更そんなふうに思う。
 蝉がうるさく鳴いている。この暑さも時折地面の遠くに現れる陽炎も、空の色も太陽の光も、何もかもが煩わしくて鬱陶しい。
 私は、たらりと背中を伝う汗を感じながら、一歩踏み出した。ちらりと、彼の向こう側に、笑って駆けていくあの日の私と「彼」がいたような気がして目を凝らす。
 陽炎の、まぼろしだ。
 きっとずっと私を焦がすであろう幻覚は、そわそわと向日葵の陰で笑っている。私がそこへ辿りつくのを待っているのだろう。
 もう一歩踏み出して、蝉の声を聞きながら私は彼の手を取った。顎から汗が滴って、ぽとり、地面に落ちる。じゅわっとすぐさま蒸発しそうなくらいに熱いアスファルト。
「絢子」
「あこちゃん」
 それは、とある真夏日のことだった。



見たよ!