『夏は暑いからきらい。でも夏の日のきみはすき。』
Illustration:漣猗さん
theme:『夏は暑いからきらい。でも夏の日のきみはすき。』
お題提供:朝倉藍月さん

Author:八坂はるのさん


 じりじりと焼ける防波堤の果てに、ぽつりと黄色。おれがそれを見つけたのは、水泳部の活動終わりのけだるい体を引きずって家路についているさなかだった。ただでさえ体がつらいのにこう暑くてはたまらない。十分に乾かさなかった髪から一滴なまぬるい水がしたたって、襟の内側を流れ落ちる。辟易しながら海沿いの道を歩いていると、視界のはしにあざやかな色がひっかかった。面白みのない灰色のアスファルトのうえにあって、その黄色はよく目立つ。おれは思わず足を止め、じっと目をこらした。フィンだ。泳ぐときに使う足ひれ。
 なんでかそれから目を離せずに、おれは防波堤に乗り上げた。沖に向けてのびた堤の果てで立ち止まり、フィンを拾う。なんでこんなところにあるんだ。このあたりは遊泳禁止のはずだけど、これじゃまるでだれかが飛び込んだみたいだ。いぶかしみながら海を見る。そのときだった。
 みなもが揺らぎ、明るい色の影が大きくなる。ぱしゃりと水音がたち、視線の交錯。蝶番はずれたみたいに口がぱかっと開いた。
「……いりえ?」
「あれ。青葉くんじゃない」
 足元から顔を出したのは、おれもよく知ってる女だった。入江颯(そう)。同じクラス、同じ部活の顔見知り。濃い桃色の水着のうえに白いシャツを着て、器用にも立ち泳ぎのままそこに浮かんでいる。でもおれがびっくりしたのは、ここが遊泳禁止の区域だからとか、まさかこんなところでクラスメイト――それも入江に出くわすと思ってなかったからとか、海水ごしにも腹や太ももが露出していることがわかったからとか、そればっかりじゃなくて。
 天使の輪がまばゆい白にかがやいている。桃色のゴムで、ひとつに結い上げた髪。それは光をはらんだ麦穂の色をしていた。おれの知ってる入江の髪は真っ黒なのに。
「……夏休みデビューか」
「ちがうちがう」
 入江はおれのことばを笑い飛ばし、首を振った。右手が髪の毛をつまむ。
「夏のあいだだけ、この色になるの。そうしたらわたし水のなかで息ができるから、実家に帰れるんだ」
 言うなり、入江の体が一度水のなかに沈んだ。かと思うと勢いをつけて軽々とジャンプ、すとんとおれのまえに足をつく。水しぶきにほほが濡れた。
 入江はおれのほうに手をぐいと突き出す。
「それ、泳ぐのに便利なんだけど飛び込むときにうっかり忘れちゃって。返してくれるかな、青葉くん」
 目の前の顔を見れば眉やまつげまできれいに金茶に変わっている。染めたわけじゃないのはほんとうらしい。へんなの。ふつうの人間はあんなイルカじみた飛び上がりかた、できないし。
 ……そう、こいつは変だ。ふつうの人間じゃ、ない。
 おれは目を逸らして言った。
「嫌だ」
 降りそそぐ光も足もとの影も、どっちもが目に痛い。まぶしすぎるから夏はきらい、それから目の前のこの女も、おれはきらいだ。

 入江の実家が海にあって、やつ自身そっちの血を受けて生まれてきた子どもだってのは、学校でも有名な話だった。だって速すぎるし、泳ぐの。そんな凹凸のある体して、よくわかんないけど水のテーコーとかあるんじゃねえのかよ、って思うんだけど、入江はおれよりずっと速く泳ぐ。そんで、まだまだ速くなるって顧問が言っていた。
 でも入江は、ヒーローなんかじゃない。
「あいつ、また入賞したなあ」
 二週間ほど前。夏休みはじめの部活終わり、校門を出ようとするとよっしーが言った。やつの見上げているさきには、校舎のてっぺんから下ろされたでかい幕があり、浮かれた文字が入江のはなばなしい戦績を告げていた。おれがラスト五メートルで押し負けて、予選を突破できなかった大会だった。
 表彰台で記念の楯を受け取る入江のはにかんだ顔が脳裏をよぎる。おれは強くくちびるを噛み、吐き捨てた。
「……けど、ずるいじゃん。あいつ海の人間だろ」
 おれたち陸の人間とは根本的にちがうんだから、勝ててあたりまえだ。唇から滑りでたそんな思いは、おれが思うよりずっと低く剣呑に響いた。よっしーはちょっと意地悪に笑う。
「マラソンで黒人の選手が走ってるのと同じだよな」
 ほんとにな。うなずきあい、校門を出る。そのときだ、忘れ物に気がついたのは。
「あ。弁当箱」
「ん、忘れ物?」
「うん……取りに行ってくるわ、さき帰ってて」
 よっしーと別れ、今しがた出てきたばかりの校舎に舞い戻る。もう日の入りも近くて、あたりに人気はない。橙色に染まった廊下に、くろぐろとした柱の影が落ちている。教室までたどりつき、引き戸に手をかけた。
 けれど開くことはできなかった。会いたくないやつのすがたが、ドアにはめ込まれた窓越しに見えたからだ。
 窓辺にたたずみ、外を眺めている後ろ姿。セーラー服のえりからのぞく首筋が、きわだって白く目に焼きつく。入江。練習終わったのに、こんなところでなにしてるんだ。……視線のさきを追うと、そこに広がっているのは海だった。沈みかけの日を浴びて幾億幾千のきらめきをばらまく、海。
 ときどき遠い目をする。入江は。ここじゃないどこかを見据えている目。だれからも勝利を祝われなくても、部でハブられてても、どころか目の上のたんこぶ扱いでも、苦にもしてないのは、だからだ。居場所がほかにあるから。
 奥歯をぎり、と噛み締める。うらはらに、引き戸にかけた手からは力が抜けていった。おれはしばらくその場に立ちつくしていたけれど、結局は弁当箱をあきらめて、家に帰ってしまった。

「嫌だ、って。それわたしのなんだけど」
「けど落とし物だろ。拾ったおれにも……一割?」
 二割だったか三割だったか。忘れたけど、なんとか理由をつけてつっかかったのは、とにかく気に障ったからだ。
「いじわるだなあ青葉くんは」
 そう言って笑う入江の顔には、おれの悪意を理解した様子がこれっぽっちもない。澄ました顔しやがって、ちょっとは焦ったり困ったり、しろ。思って、おれは口のなかでことばを研いだ。なんとかして切りつけようと、研いで、研いで。けれどそれが口から出ることはなかった。言うより早く耳に届いたざば、という水音、その方向を見ておれは絶句してしまったから。
 黒と白に塗り分けられた大きな体。三角形のひれ。陽の光を受けて、濡れた皮膚はつやつやと光っている。おれが水族館でしか見たことないその生きものの名は。
「…………シャチ」
 入江はなんてことなさそうにうなずいた。シャチだね。
「あれ、わたしの弟。ユラっていうんだ」
「おとうと……はあ? 弟?」
「そう。実の」
 閉口ものだった。そりゃ人間もシャチもほ乳類だけど、ほ乳類ってだけだろう。体の大きさから造りからなにから一から十まで大違いだってのに、血はつながってるって? ――ありえない。
 ぞわりと、肌がさざめくような感覚が足元から這いのぼってきた。むきだしの足、腹、二の腕。見てくれはおれとおなじ人間だ、だけどちがう。人間と海のあわいに立つ、異質のもの。入江を遠いところに感じて、めまいがした。
 ついさっき研いだことばが、今度こそ口をつく。
「シャチが弟って……なにそれ。おまえ、化けもんじゃねえか」
 ひとつ口に出してしまうとあとは堰を切ったように、ひどく残酷な気持ちが喉もとにせり上がる。
「そりゃ、泳ぐのも速いはずだよな。内心笑ってんだろ、のろまな俺たちみて。ヨユーでうらやましいわ」
 一瞬、ほうけたような入江の顔を見た気がした。けれどいつのまにか足元を見ていた。ことばを投げつけたっきり、顔を上げられない。痛いような沈黙が流れ、海鳴りばかりが耳につく。
 ほら、言い返してこいよ。ゆがんだ顔で、おれのこと見ろ。汗がぽたりと足もとに落ちて、焼けたアスファルトにしみを残す。一滴、二滴。
 けれど、つぎに聞こえてきたのは入江の声なんかじゃなかった。ぎゅるぎゅる、そんな妙ちくりんな音。耳骨に直接響くみたいな。音につられて、弾かれたようにそちらを見ている。シャチが大きな口を開きぎざぎざした歯を見せて、声を上げていた。怒っているのだろう。シャチらしくもない人間じみた感情表現。こいつはこいつで、ただのシャチじゃないのだ。
 きょうだい愛、ってか? 美しいことで。皮肉のひとつでも吐いてやろうとした、そのとき。ざぶんと音がしたかと思うと、シャチの姿が水中に消えている。
 次の瞬間、シャチが空を飛んでいた。いや、それは単なるジャンプにすぎなかったのだけれど、あまりに高く跳んだものだからそう見えた。大きくうねりながら宙を舞う巨体の迫力に、思わず見入る。どお、ん。音をたて、シャチの体が水面を叩く。水柱が上がった。高く、高く。重力なんてこの世にはないんじゃないかと、思うほどに。
 はたして錯覚だったわけだが。
 あやまたず落ちてきた水のかたまりに強襲されて、おれはその場でたたらを踏んだ。海水が目にしみて、とてもじゃないが目をあけてなんかいられない。はずみで、手に持ったフィンを取り落とした。みぞおちのあたりに妙な浮遊感をおぼえる。
 ――そして、どぼん。この炎天下でなお侵されることのない、水のつめたさ。それに全身がつつまれるのを感じた。なにごとかと混乱しきりで目をひらくと、青。ごつごつとした岩の陰影。目の前を魚の影が横切ってゆく。
 海の中だ。あのシャチに水をかけられて足をすべらせたのだと、じわじわ理解が及ぶ。遊泳区域でない海は思いのほか深く、ずぶずぶと体が沈んでゆく。服のまとわりつく手足を動かして、浮上を試みる。そうして水面をぐっと見上げたときだった。
 入江が、落ちてくる。
 おれが地上で取り落としたあざやかな黄色のフィンを足にはき、シャチを引き連れてこっちに向かって泳いでくる。ふいに視界がひらけた。どこまでも広がる、青、青、青、そこにいくえにも重なる光の網。そのなかをまっすぐにつっきる入江の髪は、光を紡いだような金色だ。ふわふわ、さらさら、不規則にたなびいて落ち着かない気分になる。白いTシャツがめくれて、脇腹がのぞけている。白かった。のびやかな四肢を動かして、入江はこっちに向かってくる。無様にもがくおれとは大違いの、魚の泳ぎ。
 にわかに息苦しさを感じた。視界がくらみ、上昇してゆく細かな泡が妙にはっきりと目につく。無数の球が、こぽこぽ、きらきら、水面に向かってらせんを描く。虹色の光が乱反射して目を焼く。こんなものは見たくないと思った、光が強ければ影は焼けつくほどに濃くなる、おれはそういうのがだいきらいだ。こぽこぽ。上がらないタイム、突破できなかった予選。こぽこぽ、きらきら。表彰台ではにかむ長い髪の少女。黒からあざやかな色に変わった髪。入江。おれとはちがいすぎる女。
 たったひとりで海を、ここじゃないどこかを見つめていた。おれがなに言ったって、涼しい顔してる。あいつはおれのことなんか見ていないから。
 無意識に伸ばした手をすり抜けて、泡はのぼっていった。遠い。奥歯を噛みしめる、どうしておれがこんな思いしなきゃいけないんだ。

 後頭部にざらつく感触がある。濡れた服がまとわりつくのが不愉快だ。気がつけば砂浜に寝て、暮れかかる空を見ていた。かたわらに入江が座っている。どうもやつに引き揚げられたらしい。入江は弟の非礼を謝ったりしていたけれど、耳に入らない。
「もう嫌だ……」
 つぶやくと、焦った顔をした入江がおれの顔をのぞきこんでくる。慌てて腕で顔を隠した。
「青葉くん、泣いて」
「泣いてねえ」
 寝返りをうって背中を入江に向ける。気遣わしげな視線が向けられているのがわかったけれど、おれはなにも言わなかった。寄せてくる波の音だけが、おれたちのあいだを満たす。
 ぽつりと、入江は言う。
「……青葉くんがそんな顔するなんて、めずらしい」
「そんな顔、ってなんだよ」
「情けない顔」
「だから泣いてねえって言ってんだろ」
 早口の抗議に入江は取り合わず、考え込むように続ける。空気に溶けてしまいそうに紡がれることばを聞いて、おれは瞠目した。
「青葉くんはいつもなんかこう……張り詰めたような……ひりひりしたようなさ……」
 まるでおれのこと、ちゃんと見てましたみたいなもの言い。いつもってなんだよ、いつもって、生意気な。胸がざわつき、舌の根っこのあたりがじわりと熱を持つ。
「……なに言ってっかわかんね」
「だよね」
 入江はへへ、と照れ笑い。それきりまた黙る。おれはしばらく、口のなかで入江のことを罵っていた。なんだよ、それ。おまえ、おれのことなんか眼中にないくせに、どうでもいいと思ってるくせに。なんなんだ、この、くそ。
 手足がもぞもぞするのに任せて、もう一度寝返りをうつ。と、入江の姿が目に入る。海を見ている後ろ姿を見ていると、ふと疑問をおぼえた。
 ……入江は、どのくらい実家帰るんだろう? 帰れるのだろう、と言ったほうが正しいか。「夏のあいだだけ、この色になるの。そうしたらわたし水のなかで息ができるから、実家に帰れるんだ」――そう入江は言った。だとしたら、それはどのくらいのあいだなんだ。
 一年の大半を実家から離れて暮らすのは、どういう気分だろう。
 静かに起き上がり、入江のほうに体を向ける。口を開こうとした、そのとき。
「わっ!」
 顔に水のかたまりがとんできた。塩辛い海水が口に入り込み、思わずえずく。
「こら、なにしてるの、ユラ!」
 入江が鋭い声を飛ばしたさきには、憎たらしいシャチが顔を出している。
「あんの野郎……」
 水をぶっかけられて、我に返る。おれ、いま、入江となにしようとしてた? 他愛のない雑談。そんなの……無理だ、無理に決まってる。だってあいつ、おれよりもあっち、あの性格の悪いシャチに近いんだから。
 虚脱感に襲われて、おれはふたたび砂地に仰向けになった。全身海水につかってずぶ濡れ、そのうえ砂地に寝そべったから、ひどい状態だ。早く家帰って風呂入りたい、だけどそんな気力すら出ないのが本音だった。
「青葉くん、やっぱり泣いてる?」
「泣いてねえっつってんだろ」
 そう見えるんだとしたら、海水が目にしみているのだ。おれはぎゅうと目をつぶった。まぶしい痛い、きらいだ、こんなやつ。それなのにまなうらにも夏だけの麦穂の色が焼きついて、きらきら、きらきら。耐えかねて、まぶたをこじ開ける。入江の太ももに、細かな白砂がくっついている。まっすぐな背筋。あらわになった、なめらかな皮膚のうなじ。
 手を伸ばしかけたけど触れられるはずもなくて、やっぱりこいつを、遠いと思った。



見たよ!