『白雨』
Illustration:三島花鶏さん
theme:『白雨』
お題提供:白藤宵霞さん

Author:天海六花さん


 白雨の降る樹林の中を、傘も差さず、雨除けコートも羽織らずに駆ける少年がいた。
「どこにいる? どこに行ったんだ?」
 繰り返し口の中で呟きながら、彼はひたすらにさがし続けていた。

 明るい空から降る白雨は、彼の褐色の肌にしとしとと降り注ぐ。少し癖のある黒い髪の先から滴る水滴。濡れそぼったシャツを透けてもはっきり分かる、若い少年の健康的に焼けた肌。袖からは少年らしい細くしなやかな筋肉質の腕が覗いている。
 雨はぐっしょり全身を濡らしていたが、彼は諦めず、さがし続けていた。
 諦めず、ただひたすらに、まっすぐに──
 
 樹林の枝を掻いて進むと、細い枝葉は彼の腕を、体を、容赦なく叩く。最初は気にしていなかったが、細い枝は何度も彼の皮膚を叩き、細かな引っかき傷をたくさん作り出していた。その細かな傷が、徐々に徐々に大きくなり、彼も気にしないとは言っていられなくなる。細くじわりと血が滲み始め、彼はそこで初めて足を止めた。
「ちぇっ……」
 濡れた手で傷をこすると、赤いものが滲んだ。まだ痛くはない。こそばゆく、痒い程度だ。しかし小さな傷を甘く見ていると、後が大変だ。雨で血は流れるとはいえ、もし菌が入り込みでもすれば、後々膿んでしまい、大変な事になる。
 彼は濡れたシャツでやや乱暴に傷を拭い、ズボンのポケットからハンカチを取り出して、一番大きな傷のある腕に巻き付けた。
 ハンカチは一枚きりなので、他の傷は保護できない。
 彼は余計な傷を広げないよう、注意しながら再び目的のものをさがし始めた。枝葉を掻き、ぬかるみを飛び越え、顔に掛かる白雨の飛沫を払いのけながら。
 
 あの時、彼の必死の訴えを、彼の両親も兄弟たちも端から信じようとしなかった。幻だと、誰もが一笑に付した。
「本当だよ! 本当におれを助けてくれたんだよ!」
「そんな嘘を言わなくたって、父さんたちはヤナイを怒ったりしないよ」
「溺れてパニックになって幻覚を見たのね。可哀想に。でももう大丈夫よ」
「本当なんだって! 本当におれは見たんだよ!」
 兄弟で川遊びをしていた時、彼、ヤナイは一人急流に足を絡め取られて流された。そして彼は激しい水流に揉まれながら、確かに誰かに助けてもらったのだ。
 白い水の泡と、川底の暗さ、空の青とが混ざり合って、ヤナイの視界を乱す。もがきながら、彼は死を覚悟した。 兄弟たちは危険だから深みに行ってはいけないと何度も忠告したのに、自分は泳ぎが得意だからと、少々驕っていた。その油断が命取りになるとは。
 溺れて息が出来ず、泳ぐにも急流が体の自由を奪う。おれは溺れて死ぬんだ──そう思った矢先、水の泡とは違う白い色が彼の腕を掴んだのだ。
 
 兄弟たちのいた場所から随分と流され、彼は岸へと引き上げられた。たくさん飲み込んだ水を吐き出し、激しく咳き込む。
 生きている──
 ヤナイはあの激しい水流を乗り越え、生きている自分に驚き、そして水の中で腕を掴まれた感触を思い出す。
「あれは一体……」
そう呟きかけ、自分の傍らに誰かいる事に気付いた。白い服を来た少女だった。いや白い服ではなく、それは煌めく白い……──
 
「どうしてもお礼を言いたいんだ。あの子はどこにいるんだ?」
 自らを助けてくれたあの少女にもう一度会いたい。ヤナイはそれだけを願って、毎日毎日、彼女の姿をさがして、あの川辺や、近くの樹林の中を駆け続けていた。
 なぜこうまで彼女に会いたいのか。
 彼女に助けてもらった礼をちゃんと言いたいという理由もあるだろう。しかしそんな単純な気持ちだけではない。 ひと目見て恋をした、というほど大袈裟でもない。
 彼女の事を知りたいとは思ったが、それからどうするといった事はまるで考えていなかった。ただ彼女ともう一度会って、礼を、話をしたいだけだ。それ以降どうするかなど、会ってから考えればいい。
 そして今日、朝から妙に気持ちが高まり、彼女に会えそうな気がして、早くに家を飛び出した。ところが空は明るいのに、突然しとしとと雨が降りだしてきた。そして明るい空から降る白雨は容赦なく彼の全身を打ち、ぐっしょりと濡らした。
 しかしヤナイは自分の勘を信じてさがし続けた。
 ──きっと今日、会える。
 そんな漠然とした予感を信じて。

 幾つ目の樹林を越えたただろうか? ヤナイはまた川辺へと出た。この辺りは真っ先にさがした、彼の溺れた場所だった。
「おおい! いないのかー!」
 声を張り上げると、川のせせらぎに混じって自分の声がこだました。しかし答えるものはない。
 ここでもやはりダメかと諦めかけた時、パシャンと水を叩く音がした。ヤナイは慌てて周囲を見回してみる。 すると少し離れた場所に、白い花が咲いていた。いや、花ではなく、あの少女の白い色だった。
「いた! あの子だ! おおい! おれだよ! あの時助けてくれた……!」
 ヤナイは嬉しくなって、声を張り上げながら彼女に駆け寄る。彼女はヤナイに気付き、何も言わずにパシャンと水面を叩いて川の中に消えてしまった。
 ──白く煌めく美しい鱗を、空の光に反射させて。
「君! お礼をさせてよ! ねぇ!」
 水の中に消えた彼女に呼びかけるが、彼女は二度と姿を現さなかった。
「話もさせてもらえないんだ……」
 彼女に助けられた時の事を思い出し、ヤナイは血の滲み出した腕のハンカチを押さえた。



見たよ!