ウォンマガ夏フェス2015

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Theme:銀色のセレナーデが聞こえる

Author:藍間真珠さんTwitterID

 微睡んでいたことに気づいたのは、柔らかいものが頬を撫でたせいだった。こそばゆくて身じろぎをした私の手から、何かがこぼれる。膝の上に落ちた重みに驚いて背筋を伸ばすと、すぐ隣で窓掛けが揺れていた。大きな窓は少しだけ開いたまま。その隙間を無理に通ろうとした風が、甲高い声で鳴いている。
「寝ちゃっていたのね」
 お気に入りの椅子に腰掛けて本を読む、優雅な昼下がり。この屋敷に来てようやく得られた贅沢な時間なのに、いつの間にか終わってしまったらしい。分厚い本の表紙を撫でると、私は小さく伸びをした。室内に入り込む陽射しはずいぶんと傾いている。もう少しすると、私の本棚も寝台も夕陽色に染められるだろう。そんな光景も嫌いじゃあないけど、お別れの時を思い出すから今はあまり見たくない。
「先生、そろそろ来てるかな」
 ゆっくり立ち上がった私は、椅子の上に本を置く。カタカタ震えている窓を開け放つと、ふわりと膨らんだ窓掛けが白くて長い髪を巻き込んだ。
 昼間のような熱気はもうない。このくらい涼しくなれば深呼吸しても大丈夫だ。草原の中に立つこの屋敷では水の匂いがしないから、私も息がしやすい。思い切って窓から顔を出すと、夏着の襟がぱたぱた揺れて耳をくすぐった。
 風の声が小さくなったおかげで、別の音が耳に飛び込んできた。聞き慣れた古楽器の音色だ。ぎこちない指が奏でる不器用な音楽は、笑いたくなるくらいに頼りない。
「やっぱり先生だ」
 視線を下へ向けると、飴色の頭が見えた。先生は露台の隅にある白木の長椅子に座って、古楽器の弦を弾いている。聞き覚えのある旋律を響かせながら、ぼんやり空を眺めていた。木の床を小気味よく叩く靴先の動きは、不器用な先生としては滑らかだ。手と足の動きが合っていないのはずっと変わらなかった。
「先生ー!」
 大声で呼ぶと、先生が振り向いた。古楽器を椅子に置いて慌てて立ち上がり、両手を大きく振り始める。もう三十にもなるのに先生は子どもみたいだ、なんて言ったら叱られてしまうかな。
「ヘイリア様! そんなところから顔を出してはいけませんよ!」
「わかったわ、今そちらに行くからっ」
 ますます狼狽した声が聞こえた気がしたけれど、今ここには先生しかいないから平気。私が話さなければ、お母様もお医者様もわからない。力一杯窓を閉めると、私は階下へ急いだ。白木の階段を降りて露台へ出る扉を開けると、生温い風が全身を包み込む。
「ヘイリア様は困った人ですね。また私が叱られてしまいます」
 長椅子の前に立ち、先生は眉尻を下げていた。空を水に溶かして薄くしたような先生の瞳が「駄目ですよ」って言っている。私はくすくすと笑いながら露台へ足を進めた。大好きな青い靴が立てる軽くて高い音。私の耳にも優しい響きが、先生のため息を隠してしまう。
 さらに近づいていくと、先生の肩掛けが無残にもくしゃくしゃになっているのに気づいた。せっかく瞳とお揃いで綺麗だと評判なのに、またそのままお昼寝でもしたんだろうか。
「大丈夫ですよ、先生。最近は調子がいいんです」
「でもね、ヘイリア様」
 困ったように微笑む先生の手が、私の方に伸びてきた。そうやって誰でもごく自然に触れようとするのが、先生の駄目なところ。ずるいところだ。その指先に掴まらないようひらりと身をかわして、私は露台の真ん中まで逃げた。長いスカートの裾が足に絡みついたけれど、もう転ぶようなこともない。
「お願いですからおとなしくしてください。まだ儀式の影響が――」
「平気です。ほら、この通り」
 私はその場で一回転してみせる。柔らかいスカートがふわりと広がり、そして萎みながらたおやかに揺れた。私の髪と同じ真っ白なそれは、お母様からもらった物だ。「水乙女に相応しい」と言って、ずっと着せたがっていた。私が本当に水乙女になれるかどうか、きっと不安だったんだろう。
「もうヘイリア様っ。子どもではないんですから、お願いしますよ」
「私を子ども扱いしているのは先生やお母様でしょう? こんなところに閉じ込めて」
 カサハの水乙女としての役目を果たした私を、療養のためだからとこんな場所に押し込めたのはお母様たちだ。今の私は水に影響されやすくて、川の近くには住めない。酔ってしまう。先生は監視という名目で、この屋敷に時々やってきていた。でも先生には別の目的があるってことを、私は知っていた。
「閉じ込めるだなんてひどい言い方しないでください。あの時はあんなに弱っていたのに……」
「一時ですよ。ランコさんのために頑張っちゃいました。最近は風邪を引いてもすぐに治るんですよ? 昔とは違います」
 先生の頭の中にはまだ幼い私が住んでいるみたい。すましてみせた私は、白木の長椅子に近づく。そして戸惑う先生を無視してすとんと腰掛けた。
 まだ小さかった頃はよく先生から肩掛けを借りた。寒いといって震えてはねだり、柔らかい布に包まれて丸くなっていた。今はこんなに薄くて真っ白な夏着一枚でも平気だ。
「あの頃私が弱かったのは、外に出ていなかったからです。先生のおかげでこんなによくなりました」 
 無造作に置いてあった古楽器の弦を、人差し指で弾く。ぽろんとこぼれた音色が心地よい。私が最初に先生からもらった音だ。怖々と窓掛けの陰に隠れていた私を誘い出した、不思議な音。
「私にそこまでの元気がなかったら、ランコさんは帰らずにすんだのに。残念でしたね先生」
 それでも意地悪なことを言ってしまうのはどうしてなんだろう。困らせたくなるのは何故なんだろう。背後に立った先生は大きなため息を吐いて、私の頭を撫でる。
「どうしてそんなことを言うんですか、ヘイリア様。私は別に、彼女のことは……」
「先生。そういうことは、そんな声を出さずにいられるようになってから言ってくださいね。あ、お母様には内緒にしておきますから大丈夫ですよ」
 あえて先生の顔は見ずに、私は古楽器のざらざらとした表面を撫でた。そして今にも壊れそうな糸巻きに触れる。
 先生の声には強がりがいっぱい詰まっている。寂しいという気持ちが満ちている。先生が私の世界を広げてくれたおかげで、こんなことまでわかるようになってしまった。
 先生が黙ってしまったので、私は丸くて小さくて不恰好な古楽器を見つめた。「言葉が通じぬ者と意思疎通を図る」ことを生業としている先生は、この古楽器を含めて幾つか不思議な道具を使う。どれも歪な音しか出せない物だ。それを不器用な先生が使うのだから、まともな音楽にならない。
 先生。私の音がわかりますか? 通じていますか?
 弦を弾くと気持ちがこぼれていく。
 私は知っているんです。先生が、いつもランコさんを見ていたこと。誰もが「それは仕事だから」と笑うでしょうけど、私にはわかるんです。先生がランコさんへ向けた眼差しは、そういうものじゃあなかった。
「ランコさん、元気かなぁ」
 そっと背中を椅子に預けて空を見上げる。雲の向こう側が茜色に染まっていて、ランコさんの唇をふと思い出した。カサハに召喚されたランコさんは、どこかの国で一生懸命仕事を探している、普通の女性だった。召喚したのは私だ。カサハの水乙女は、カサハが窮地に陥るとその力を発揮する。カサハの助けとなる救世主を呼び出すことができる。十五歳になったばかりの私が精一杯の力を使って召喚したのが、ランコさんだった。
「彼女ならきっと元気でしょう」
 私の独り言に先生が答えてくれる。ランコさんと過ごす時間が一番長かったのは先生だ。先生がそう言うなら、きっとそうなんだろう。
「うん。ランコさんは強い人だから」
 突然こんな場所に連れてこられて、戸惑わない人なんていない。ランコさんも最初は混乱していた。それがカサハの言葉がわからないためだと気づいた先生は、すぐに力を貸してくれた。身振り手振りで、時には音や絵を使って、先生はランコさんと話し合う。
 カサハがどうして困っているのか。どうしてランコさんが召喚されたのか。彼女の持つ「何」が救いの力となるのか。一つ一つ探っていくのはとても大変なことだ。
 でも先生の力で、ランコさんの努力で、カサハは変わろうとしている。水路の建設はまだだけれど、一つ目の風車はできあがった。水に救われながらも常に水に怯えていた私たちは、これからも水と共に生きる道を探そうとしている。
 役目を終えたランコさんを元の場所に帰してあげるのも、水乙女としての私の仕事。まだまだ未熟な私では死んでしまうかもしれないと、お母様は泣いた。先生も心配していた。でも私はランコさんを水鏡の向こうへ送り届けた。
 私だって、迷った。怖かった。不安だった。でもランコさんの目を見ていたら、このままカサハに引き留めていては駄目だと思った。召喚した時のランコさんは、どこか怯えて、自信がなさそうで、憂鬱そうな顔をしていた。そんなランコさんを見て私も不安になった。間違えて別の人を呼び出してしまったのかと蒼くなった。
 水乙女失格。そう言われるのをずっと恐れていたし、お母様を落ち込ませたくなかった。だからランコさんにも、何度かひどいことを言ってしまった。
 それでもランコさんは、自分の持てる限りのものを、私たちのために役立てようとしてくれた。間違えたなんてちらりとでも考えた私は、とても失礼な人だった。
「……彼女は、強くなんかないですよ」
「違うよ、先生。ランコさんは強くなったんです。先生が、ランコさんを強くしたんですよ」
 また弦を弾く。頭を撫でていた先生の手が止まる。真っ白な髪が風に揺られて、肩からこぼれ落ちてきた。
 私が大嫌いだったこの髪を、ランコさんはいつも褒めてくれた。水乙女としては相応しくない琥珀色の瞳も、ランコさんは好きだと言ってくれた。今では私もお気に入りだ。
 ランコさんは髪も瞳も黒くて、背も高くて、真面目で優しくて。私とは全く違う。どうやって生きようかと悩み、いつも何かを必死に勉強しようとしている、努力の人だった。定められた道の先を見て震えていた私とは正反対だ。
 濁った水の中で溺れているみたいなんだと、ランコさんは言っていた。疲れ切った目をしていた。そんなランコさんを助けてくれたのは先生だ。
 ランコさんのために頑張っている先生の横顔は、私の知っているどの顔よりも頼もしかった。男の人だった。私の前では、先生はすぐに「先生の顔」をする。
「――そう、ですかね」
「そうですよ。先生が自信を持たなくてどうするんですか」
 私はゆっくり立ち上がった。そして脇に置かれたままになっている古楽器をそっと持ち上げる。手入れの行き届いていないかわいそうな弦楽器。私が抱えられるくらい小さなもので、いつ壊れてもおかしくない。それを先生はずっと大事に持っている。
「私がこんな風にお話できるのも先生のおかげなんですからね。もっと胸を張ってもいいんですよ?」
 微笑んで振り返った私は、困ったように笑っている先生へ楽器を押しつけた。先生はランコさんのことをうまく語れない時、いつもこの古楽器を奏でる。暮れつつある空を見上げながら寂しくかき鳴らす。あの時のことを思い出しているんだろう。ランコさんには届かないこの旋律も、私には響いてしまうのに。
「ほら、もっと堂々と。ランコさんに笑われますよ!」
 手の中を見下ろして、先生は切なそうに頬を緩めた。そんな先生の顔を見ていると、私の胸もぎゅっと痛む。私だって、本当は、先生に幸せになって欲しかった。たくさんのものをくれた先生に、恩返しがしたかった。
 私が倒れた振りをすれば、弱った振りをすれば、ランコさんを帰さずにすんだかもしれない。そうすることはできたはずだった。でも私はそうしなかった。
「ヘイリア様は、本当にもう」
「照れてるんですか? 先生ったら可愛い。ほら、先生の音を聞かせてください」
 私は先生に背を向けて、今度は露台の端へ進む。ふわりと揺れたスカートが小さな鉢植えをかすめた。躓かないように注意して木の柵まで近づき、大きく深呼吸する。草の匂いのする風が気持ちいい。
「かわいいだなんて言わないでください」
 ちょっと拗ねたような先生の声音。私は頷きながら歌う準備をした。先生のぎこちない旋律にあわせて私の調子外れな歌が響くのは、きっととても滑稽なことなんだろう。それでも気にしないようになったのは、先生のおかげだ。
「可愛らしいヘイリア様に言われると困ります」
「先生、ちゃんと聞こえてますからね!」
 わざと低い声で呟いた先生は意地悪だ。それでも耳を澄ましていたからしっかり聞き取れた。
 私は生まれつき少しだけ耳が弱い。小さな音が聞き取れないだけでなく、一部の音が特に聞こえづらい。そのせいで色々と苦労をした。幼い頃、私が話をしようとすると、お母様たちはよく困った顔をした。私はますます口を閉ざすようになり、人目を避けるようになり、いつも部屋の隅に隠れていた。どんな言葉にも反応しないようにした。私をよく知らない人は、私の耳がほとんど聞こえないものだと思って、好き勝手なことを言った。
 そうではないと気づいてくれたのは先生だ。私に話す喜びをくれたのも、歌う楽しさを教えてくれたのも先生だ。今では大勢の前で話ができる。堂々としていられる。私の言葉が聞き取れない人もいない。きっと小さな頃だって、ちゃんと大きな声で喋っていたら通じたんだろう。自信がなくて、そうできなかっただけだ。
「じゃあかっこいい先生、演奏お願いします」
 先生は嬉しいとか寂しいとか辛いとか、たくさんの感情を学ばせてくれた。それをどうやって人に伝えたらいいのか、どうやって言葉を紡いでいけばいいのか、教えてくれた。先生がいなければ、今の私は存在しない。
 でも先生は、この気持ちの伝え方を教えてくれなかった。この気持ちの名前も教えてくれなかった。とても大切で、幸せになって欲しい人なのに。でも私はいつだって先生を一番にできない。
「ヘイリア様も言うようになりましたね」
 広い世界をくれた先生。水乙女のしがらみから解放してくれたランコさん。二人とも、私の恩人だ。同じくらい好きなのかと言われたら困ってしまうし、どちらが大事なのかと聞かれても悩んでしまうけれど。大切な人たちだ。
 本当はどうすればよかったのか、わからない。何かよい方法があったのかもしれない。でも今の私にできるのは歌うことだけ。先生の音楽に耳を傾けながら、私の気持ちを音にする。我が儘でどうしようもないこの拙い思いを、先生は「仕方がないな」って笑うのかな。
「先生の教育のおかげです」
 ねえ、先生の思いはちゃんとランコさんにも伝わっていましたよ。先生がいない場所で、ランコさんは嬉しそうに笑っていましたよ。たまに恥ずかしそうに私に話してくれました。そんなことも知らないのでしょう?
 それでもランコさんは、戻るんだって言った。やり残したことがあるからって。先生が強くしたランコさんは、それをそのままにしておけなくなってしまった。強くなったランコさんは、逃げるという道を選べなくなった。
 本当にどうすればよかったんだろう。先生も、ランコさんも、私も。今だって、何が正しかったのかわからない。
 ――ただ、大事に思っているということだけは、どうか知っていて欲しかった。
「ほら早くしてください」
「はいはい、わかりました。いつものでいいですね?」
 ぽろんと古楽器から音色がこぼれた。私は深く息を吸い込んだ。

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れとさんのイラスト

Illustrator:れとさんTwitterID

見たよ!
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