ウォンマガ夏フェス2015

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Theme:潮騒の子どもたち

Author:琴子さんTwitterID

1.


『昨夜、神がまたも死す。神の身を捨て人間社会に顕現した新たな隣人たちと、ヴィクトリア女王陛下との謁見はなるか?』
『十八年ぶりの信仰の剥落、神話はインドでも甦る。東インド会社の動向は』
 熱を持った気配もない新聞のインクで指先を汚しつつ、私はそっと時計をうかがった。もう午前十時をまわるけれど、私を世話するはずのメイドは早朝にこの新聞を置いて姿を消したきり、いっこうに姿をあらわさない。百年前では考えられなかっただろう夢見がちな謳い文句を一面におおきく載せた一流誌をたたんでから、私はためいき混じりに階下へ降りてゆくことを決めた。
 年頃の少女にしては細すぎる痩身に身につけた薄手の生地のデイドレスも、自分で着付けるほかなかった。暗い青灰の瞳には似合わない栗色の髪も、リボンでなんとか整えた。何度ベルをならしても、誰も部屋には来なかったのだ。お父様が仕事で家をあけ、お兄様がこの屋敷を去ってからの、これが私の日常だった。……いつもの、ことだった。きっと使用人たちは、「お言葉ですがお嬢様、私どもは誰もお呼びのベルが鳴る音を聞いておりませんし、なんの報せも来ませんでしたが?」と小鼻を膨らませて笑うのだ。私が怒って抗議しても、きっとおざなりに掃除をしながらのお喋りに戻りたい彼女たちには、適当にあしらわれて終わるだろう。十四歳の頼りない少女とはいえ、私は仮にも女主人なのに。使用人を御し切れもせず、その心の内も察せすらしないなんて。情けのないことだった。
 腰も重く立ち上がって、アッシュバーナム家が代々受け継ぐ、そしていま私が留守を預かるカントリーハウスの三階の自室からふと庭を見下ろす。すると人間の紳士淑女のような小洒落た装いに身をつつみ、けだるい暑さをものともせずに、二本の足で器用に連れ立って歩く猫たちが、塀のあちらに遠目に見えた。
 いや、猫ではない。ケット・シーだ。
 いまやグレートブリテンのあちらこちらに、三代前の国王陛下から賜った領地を構え、大英帝国の社交界にも溶け込むやり手の妖精。
 世界中のあちこちで、最初に神話が崩れ去り、それまで神々だ妖精だ架空の存在だと人々が信じていた生き物が人間の社会に現れはじめた頃、まず真っ先に人と、人に成り下がった神話上に生きていた者との間に溶け込んだ彼らは、今日もグレートブリテンのあちらこちらに堂々と姿を現す。
 羨ましいな、と思った。
 彼らは自由だ。その自由を戦って勝ち得た。人々が不可思議なものごとなど神話上のものだ、妖精や神など架空の存在だと信じていた時代に颯爽と現われ、それは違う、我らは幻想ではないと身を持って否定し、信仰されるべき神話の中で生きる存在から、現実の泥にまみれた社会で生きる隣人となった。彼らはいまや人と共存する生活を、人間社会の偏見や逆風と戦って勝ち得た。
 お母様が亡くなってから、この私、ビアンカ・アッシュバーナムに任せられた屋敷の女主人の地位。その役目を満足に果たすこともできず、反抗的で怠惰な使用人に手を焼き、軽視され、立ち向かえもせずに惨めな暮らしをおくる私なんかとは大違いだった。
 食堂へ向かっても、そこには誰もいなかった。嘆息して厨房へ降りてゆく。あまり階下へ行きたくはないけれど、きっと朝からほろ酔い加減の執事と、いつのまにかその縁戚で固められていた従僕たちを探したり、掃除そっちのけでお喋りに忙しい家政婦とハウスメイドたちの邪魔をして睨まれるよりは、陰気なキッチンメイドに遅い朝食の用意を頼んだほうがましだった。
 無愛想なコックは私が厨房に立ち入ることにいい顔はしないが……空腹のまま、出かけるわけにもいかない。それに、外出するのならば供も仕立てないと。雇って三年目になる二歳年上のスカラリーメイドを、夕方まで借り受けて連れて行ければ上々だと思った。
「夫人、失礼します」
「……ビアンカお嬢様。厨房にはそう気軽に入ってきてほしくはないのですがね」
 厨房の扉を開けて顔を覗かせると、ふくよかだけれども、視線をすがめがちなためあまり目つきの良くないコックのフェラー夫人が咎めるように言った。「ごめんなさい」と頭を下げつつも「でも、お願いがあって」と困ったように微笑む。これしか、私は彼女との距離を知らなかった。
「なんです? メニューは明日の昼食の分まで決まっていますよ」
「あ……いえ、そうじゃないの」
 好きなものを食事に出せとでも、駄々をこねる子どもに見えたのだろうか。私は遅くなったけれど朝食を貰いたいこと、それからスカラリーメイドのジェインを、午後の外出の供に借り受けたいことを彼女に伝えた。夫人は表情のあまり動かない顔で、しばし沈黙を守ったあとにそうですか。と、ひとりだけ雇い入れているキッチンメイドにオムレツを焼くよう言いつけてくれた。
 この様子だと、いま厨房の隅の洗い場で、あかぎれた指先を水に晒して洗い物をしているジェインの都合も、きっとつけてくれるだろう。私は少しほっとして、「部屋で待っているわ」と言いおいてそそくさと退散しようとした。
「お嬢様。こういうことはメイドでも使ってもらわないと困ります」
「……ごめんなさい。気をつけるわ」
 立ち去り際、冷めた声音でフェラー夫人は苦言を呈したけれど、私はそれに曖昧な返事しか返すことができなかった。メイドも、従僕も、執事や家政婦におべっかを使うばかりで……私の言うことなんて、これっぽっちも聞いてはくれないのだ。

 

2.


 ひさしぶりに揺られる馬車は、高く昇った真夏の太陽の下、がたごとと海辺の道を進んでいた。
 厩番や御者、庭師といった屋外に仕事場を持つ使用人たちは、幸い屋敷の内側を取り仕切る執事らの影響を受けず、真面目に仕事に取り組んでくれているらしい。馬車にも整備不足という気配はなく、馬たちにも健康さがうかがえた。
 私が座る席の向かいにはジェインが青い顔をして、外出用の黒いモスリンの一張羅に身をつつみ座っている。馬車に乗る時、進行方向に後ろを向いて座るのは、ひどく気分が悪くなることは私も身を持って知っていた。もう慣れたとはいえ、幼い頃に、いまはもう屋敷を去ったお兄様と二人で、あの頃はまだいっしょに暮らしていたお父様やお母様と向かい合って馬車に乗っていた時は、体調を崩してばかりいたものだ。「場所、変わりましょうか?」と、荒れた手を手袋で隠したジェインに声をかけたものの、首を振られて拒否されたのは、もう四半刻ほど前のこと。
 彼女がそう言うならと、私は夏の陽射しを我慢して、せめて風でも通るように、と馬車の窓を御者に開けさせたけれど……少しでも、楽になっていることを祈りたかった。
「地の果ての海ね」
 望むケルト海に目を細めて、私はわずかに窓辺の方へ身を乗り出した。さまざまな神話や妖精譚が、信仰の対象としては死に絶え、現実に現れるようになったこの現代。あの海の果てにも、伝説上の神々がいらっしゃるのかしらと、想像するだけで心は和んだ。この辛辣な私の現状とはまるで違って、日毎に移ろい不可思議を飲み込む現代社会には夢あふれていると思えた。
 目指しているのは、少し離れた街にある使用人紹介所だ。私が自由にできるお金は、正直、あまりないけれど。家政婦も執事もメイドたちも、みな屋敷の世話はともかく私の世話を放り出すようになったいま、侍女でも雇ってその欠けた役割を埋めるしか、考えつけることはなかった。
 私も半年後には、十五の誕生日を迎える。そして一年後にはデビュタントだ。お父様は手紙づてに心を砕いてはくれているけれど、ふつう、娘の成人の儀礼ともいえるデビュタントの成功に尽力するのは母親である。私のお母様はもういない以上、私は私のデビュタントについて、自分で何とかするしかないのだろう。その時無様な姿を晒したくはなかったし……それに、叶うなら早いうちから、信頼できる誰かをそば近くに置きたかった。
 ぼんやりと海果ての水平線を眺めていると、ざんと風が馬車の内側まで吹き荒れる。馬もきっと驚いたのだろう、馬車は急にがたりと止まった様子だ。一瞬の自然の暴挙にぎゅっと目をつむると、頭に違和感を感じた。慌てて目をひらいてみてももう遅い。私が頭にかぶっていた帽子が、無残に風に煽られて馬車の外、海辺の砂浜を見下ろすなだらかな丘の上に続く道端に転がっていた。
「やだ、待って!」
 私は咄嗟に、目の前でうつむいているジェインのことも、御者がきっと拾ってくれるだろうということも忘れて、馬車の扉を開けて外に飛び出ていた。
 誰に頼んでも何もしてくれないのだから、自分の世話は自分でしないと、だなんていう考えが染み付いていたのかもしれない。両家の令嬢らしからず両足を晒して、道に転がり出て帽子を追いかける。お母様の、形見だった。
 けれど拾い上げようとしても、大気はいたずらに、私の大切なものをさらっていってしまう。
「ビアンカお嬢様!?」
 私は振り向きもせずに、海の方向へ煽られて転がってゆく帽子を必死に追いかけた。御者の制止の声も無視する。だって、たとえば海にでも落ちてしまったら終わりなのだ。私は塩水に晒された帽子をまたうつくしくして使えるようにするやり方を知らない。
 追いかけても追いかけても、帽子は丘の下へ、水辺の方へと転がり落ちてゆくばかりだった。
 それでも必死に足を動かし、ドレスの裾も引き上げて、手に持ったまま飛び出してきた小さな貴重品入れの鞄も無理やりに腕に通して追いかける。周囲の景色は見えていなかった。そしてようやく、ようやくなんとか私が帽子を指先で捕まえた時――私は波打ち際のほど近くにまでたどり着いていた。そうしてようやくほっとして、お母様の形見を胸に掻き抱き、現状を思い出して馬車の方へ振り返る。振り返るも……けれど、そこには砂浜も、丘も、丘の上に止まったままの馬車もありはしなかった。
「なんで……」
 代わりに、眼前で海がせり上がる。水に頭までのまれてゆく。潮のにおいがはなにつく。けれど服や肌に冷たさも感じず、呼吸が苦しくなることもなく、ただ髪と裾がふわりと重力を失って浮き上がるのみだ。
 戻ってゆくはずの風景に代わり――私の背など簡単に追い越して、はるか天上の空まで届こうかというほどに満ち満ちる海に、不安になって涙目であたりを見回す。すると瞬きをする間に、そこには、先ほどまでは存在などしていなかったはずの古風な石造りの町並みと、たくさんの品物が並べられた古びた市場と、そこで店を構える、あるいは闊歩する、時代がかった古い服装に身を包んだたくさんの人々とが立ち並んでいた。
「ああ、お客人だ!」
「お客人がいらしたぞ!」
「何百年ぶりだろうね! さあお嬢さん、ようこそ! 偉大なる女王の都へ」
「ようこそお嬢さん! 我らが麗しき都へ、ようこそ!」
 水面はその頃にははるか、空の青藍と混ざって天で波打っている。どういうことか。理解が追いつかない。追いつかないけれど――ひとつ、思い出されることがあった。
『神は死んだ! 神は信仰の対象から、我らの隣人たちとして転がり落ちてきた! もしもあなたが不可思議さに出会うなら、それはいままでそうされてきたように、幻覚や妄想、背徳的な背信の証拠だと、罵られることはないだろう。人の世界ならざる不思議は、まさしくまさしく!』
「『まさしくすべて……過ぎ去りし神話世界より、この現代に遺されては、いま甦った神々の残滓』――」
 知らず、百年以上前、世界の変革の時代に立ち会った思想家が遺した言葉をつぶやき、息を呑む。
 使用人からも軽視され、屋敷の管理もうまくできない、不甲斐ないビアンカ・アッシュバーナム。
 こんなどうしようもない私なのに、もしかすると、今朝の新聞の一面を覆った記事のような……神話の残光に、迷い込んでしまったのではなかろうか、と。いまはただ呆然とするほかなかった。



3.


「さあお嬢さん、見ていってくれ! とびっきりの品物ばかりだ!」
「蔓花模様の杯はいかが? 妖精の仕立てよ、お若い方」
「お嬢さん、こちらもいいものを揃えているよ。海伝いに取り寄せた、はるか北の国は赤い黄金の耳飾り」
 次々かけられる声に、「すみません」「待って、ごめんなさい」「私帰らないといけないの」と、半泣きになりながら答えつつ、私は逃げるように市の立ち並ぶ大通りを駆け抜けた。
 けれど私が来たはずの方角は既に見失い、目的とする場所など逸してしまった。早く馬車の所に戻らないと、でもここは異界なのかしら。それともジェインと御者が待ったままの馬車も、この場所のどこかに迷い込んでしまった? 脳裏ではそのような頼りない言葉が踊るばかりだ。わからなかった。どうすればよいのかわからなかった。そしていったいどこにゆけばいいのかもわからなかった。けれど、それぞれの手の中の品を大仰に見せてきて、私ひとりに対していやに活気づく異郷の市場の歓声からどうにか逃れたくて、走り出したきり止まれない。
 腕の中に大切に抱いた、お母様の遺してくださった帽子と、それから今日侍女を雇うために用意した手付金、私の自由にできる範囲でかき集めた財産をしまいこんだ小さな鞄だけが、ただ縋りつける先だった。
 走って、走って、やがて市場は途切れる。けれどいつの間にか迷い込んだ広場でも、出会う人々皆から「お客人だわ」「お客様がいらした」と、古びた言葉で喜びの声を上げられた。中には「ねえお客様、私のこの首飾りを買ってくれない?」などと、身につけているものまで必死に私に引き取らせようと、声をかけてくる女すらいる。
 いや、彼らは人間ではないのだろう。きっと、古い神々の領域に在る者たちなのだ。だって人々の服装は、千年以上昔のものであるような見慣れないもので、コルセットもつけていなければ、靴の形もまるで違う。私は怖くてしかたない心をおさえつつ、広場で群衆に囲まれるのをなんとか振り払って、ぎゅっと唇を食いしばった。人通りの少ない狭い小道に駆け込んでゆく。自由な世界は望んだけれど、不可思議な世界に憧れたけれど、実際に自分の身にふりかかってしまったいま、高揚感より、浮遊感より、不安な気持ちが上回っていた。
「だれか」
 もがく足を止めることもできずに焦りつつ、走り来た道を振り返っても、もうどの道を通ったかも定かでない。不意にこぼれた動揺の言葉とともに、ふたたび前をむこうとした時、腕と胸におおきく衝撃を感じた。なにかにぶつかったようだった。咄嗟に足を踏みしめることもできず転びそうになったけれど、背中に冷たい腕がまわり、地面に伏せることは免れる。
「ちょっと、ねえ、大丈夫?」
 声が降る。誰かにぶつかったようだった。「すみません」と反射で返したけれど、その声には聞き覚えがあった。懐かしい、私達がまだ家族であった当時のような、やわらかな兄の声だった。
 咄嗟に、見慣れない色あいの布に覆われた胸に縋る。私よりは頭ひとつとすこしほど高い位置から見下ろす顔を見上げた。
「お兄さ、ま……? じゃ、ない?」
 もっとも、見上げた先で瞬いたのは、黒い前髪ごしにはしばみ色のまなこをきらめかせるお兄様とはまるで違う、澄んだ水面の青だったけれど。その少年の輪郭を覆うのは、男性にしてはどうにも長いくすんだ金髪で、秀麗な面差しもなにもかも、遠い土地へと家を捨てて旅立ってしまったお兄様とはまるで違っていた。
「私はこの土地のものだよ。お客人、あなたの兄君ではない」
 まるで海の底に息づくかのような異界の街にて、初めて私に触れたわずかばかり年長にみえる彼は……お母様の死に際し、私達家族を捨てていった異父兄の幼い頃と、どうにも似通った声音をしていた。
「ようこそ、姫君。既に時代より失われてひさしい、我らがイスの都へ」
 古風であっても仕立てのよい、上品な装飾を身に散りばめて長い金髪を揺らす少年は、姫君だなんてふさわしからぬ言葉を、私に捧げて微笑んだ。
 知らず、涙が頬を伝う。いつか、まだお母様が生きていて、お父様も屋敷にいて、お兄様が家族だった頃。『私達のお姫様』だなんて、ただ可愛がられていた頃の思い出が、この異界へ迷い込んだ不安と重なり、私の感情を爆ぜさせた。



4.

 お兄様、お兄様と、違うとはわかっているのに止められない言葉を繰り返して泣き出した私に、少年は困ったように眉を下げて、背に回した腕もそのままにあやし続けてくれた。
 泣きじゃくりながらも、留められるはずもない言葉はするするとこぼれ落ちていく。「お兄様、どうして出て行ってしまったの」「私たち、半分でも血が繋がった家族なのに」「おいていかないでほしかったわ、もう私、あの家に一人でなんて居られない」……そんな声が、脳裏で反響し、また口からもつたなくあふれ続けた。
 お母様が生きていた頃は、お父様と、それから私とはお父様の違うお兄様はまだ家にいて、私はただ幸せな子どもだったこと。けれどお母様が亡くなって、お母様がもう居ない以上はと、お母様の連れ子だったお兄様はアッシュバーナム家を離れてしまったこと。やがてお父様もお仕事のため外国から帰って来れなくなって、私はひとりで、家を切り盛りしなければならなくなってしまったこと。
 どうにか必死やってきたけれど――使用人たちからしたら幼い女主人なんて面倒なもので、出し抜ける相手で、気づけばお母様のように彼らを御すなんてこと、とてもできなくなってしまっていたこと。そしてもう、なにもかもかもぼろぼろで。どうしようもないこと。
 そんな現状でためこんだなにもかもを吐き出して、とじこめていた不安を叫んだ。やがて優しい声音で、少年は「行こうか」と、淑女然として手袋を嵌めた私の手をとる。その声に従ってしまったのは、彼の声があまりにも、幼い頃のお兄様のそれとそっくりだったからだとわかっていた。
 彼は人の少ない道を抜けつつ、私の手を引き口ずさんだ。
「私はフィニステール。あなたは? お客人」
「……ビアンカ。ビアンカ・アッシュバーナム」
「そう、ビアンカ嬢。もう涙は落ち着かれた?」
 なかなか止まらない嗚咽を恥じながら、私は彼の顔を上げて彼の後ろ姿を眺めた。背に流すように、ゆるく結い編んだ金髪がひかりをはじく。
「悲しいことが、あったのだね。そして悔しいという感情を、あなたはおぼえた」
 フィニステールは問い直した。まったく、そのとおりだった。正しくは悲しいというよりも、不甲斐ない、という心だったけれど。
「……悲しいことも、悔しいことも。毎日そればかりだわ」
「それでは、あなたは剣を望む? あなたの矜持を辱める、彼らを退ける刃を」
 うねる道筋をたどり、やがて私は彼の手で、異界の都の外れにまで導かれていた。高い城壁と、その合間にしつらえられた水門が見える。あいもかわらず、世界は水底にたゆたっており、感覚はおぼろげて髪のはしも、ドレスの裾もふわりふわりと波にわずか泳いでいる。
「いいえ。傷つけたい、わけじゃないの。いやな思いをしなければ、それでいいの」
「なら、あなたを彼らの無体から救い上げる、助けがほしいのか?」
 フィニステールの表情が見えないからか、私はいつのまにやら兄に慰めてもらっているかのような心地でいた。異質な現実が、逃避の味方をしていたのかもしれない。思考する力は明らかに落ちていた。
 けれどもその分、本音は心の表に浮き上がった。
「――そうね。でもそれより、助けてくれなくてもいいから味方がほしい。誰かと寄り添いたいの。そばにいてほしかった」
 だから、私だって信頼できる誰かを求めて、今日街までゆこうとしていたのだわ。
 そうこぼして顔を上げる頃には、フィニステールも歩をとめて振り向いていた。水と空の乱れるような、底知れぬ碧眼が私を見つめる。
「それなら、ビアンカ・アッシュバーナム。もしもあなたに寄り添って、あなたを守り、あなたを助け、いかなる時も裏切らないものがあなたのものになるとしたら……あなたは約束と対価を差し出せるというのか?」
 それは侍女を雇い入れる、給金のことだろうか。ふと腕に下げたままの小さな鞄と、その中に詰め込んだ財産を思い出し、曖昧に頷く。
 するとフィニステールは、「そうか」と呟いて、私の指先をひとまわり大きなてのひらに納めたまま、おもむろにふたたび口を開いた。あいている手で、城壁越しにそびえる水門を示す。
「――かの、約束の門を見るといい。かつてこのイスの都が異界と現世のあわいにあった頃、水の他界と、人の王国の、境界としてしつらえられていた門を」
 かつて、このイスの都は、地上にそびえていたのだ。人の王国と違わずして。
 フィニステールは、夢見るように語った。
 悠久の昔、賢明な王と、妖精を母に持つ王の娘が、このイスの都を治めていたと。けれど一神教の到来により、王は奉ずる神を改めてしまった。……改宗を拒んだ王女は水門の鍵を他界の恋人に委ね、その手により水門は開け放たれ。そして、並ぶものなきほどうるわしき、と謳われたイスの都は、女王の名のもとに棲人ごと海の底深くに沈み――その時を止めたのだと。
「けれど、あまりにも他界の悠久は緩慢で、水底に沈んだ人々は、幾とせも繰り返す潮騒の狭間で見えない死者でいることに飽いて。そしていつしか救いを求めだした。あなたにも、彼らは縋っただろう。あなたが信頼にたる相手を望んだように、イスの都の棲人は、あなたに救いを望んだのだ」
「見えない死者の、救い」
「そう。誰もがなにかを求めている。彼らがあなたの道行きを阻んで、私があなたの惹かれるものを示して、あなたがこの都に招かれたのも、ただもがくような悪あがきだ。あなたの求めるものを装い、あなたから手渡される救いを求めた」
 ではあの風も、この声も、すべて彼の手の内だというのだろうか。私が訝しむように瞬くと、フィニステールは「すべて昔、昔からの繰り言だ」と嘆息した。
「けれど、お客人。ビアンカ・アッシュバーナム嬢。さいわいにしてあなたは、私達をこの水底から救いあげる、対価をその手に持っている。この都において、どんなものでもいい、なにか一つを購ってくれたならば、我らはイスの都ごと、地上へ掬われてゆくだろう。ねえ、お願いだ。あなたが対価さえ差し出してくれれば、私は彼らをすくいあげられる。あなたの望む寄りそう相手だとて、きっと差し出すと約束しよう」
 ここにきて、私はようやく彼によって、この身が水底の都にかどわかされてきたのだと理解した。
 不思議と、恐ろしさは感じなかった。異界の不思議はいつだって、寛容で無慈悲で気まぐれで厳格なのだと、いまのこの時代に生きる人々は、誰もが知っている。そして、異界のすべてに嘘や虚実は必要ない。彼らとただ平和に親しむ隣人でありたいのならば、本能に従えばよいのだということも。
 私は迷い、沈黙とともにフィニステールの口元をみつめてから……咄嗟に、勇気戸呼べるだろうものを振り絞った。それは日常に帰るためにどうにか、などと怖気づいてのことではなく、どうにも、もとの現実になど帰りたくはない思いゆえだった。こうして彼らの現実を変えれば――私も、変われるかもしれないと期待した。いやに理性的に淡々と、私は繋いでいたままだった少年の指先をほどき、小さな鞄の奥底から、今日持っていたすべての財を、いくらかの硬貨を取り出す。
「なら、それならあなたの時間を、買ったわ。あなたは私が望むものを差し出してくれた。お礼に、私は対価を渡す」
 私の望むもの。信頼に足る相手。あるいは安らげる時間。あるいは、安心。
 この少年の前で流した涙が、何を変えたのかはわからない。けれども確かに、お兄様の声でささやかれたいたわりだけは、どうにも、私を安堵させた。
「きっとあなたを、あなたがたを自由にしたら。私もきっとこれから、自由を選べる気がするの」
 そしてふたたび少年の手をとって、金貨を選んで握らせる。侍女を雇うためにと用意したお金だったけれど、そうすることが正しいように思えた。私は、きっと寄りそう相手を得ることで、こんな安堵が欲しかっただけだった。
「私達が、差し出す対価は?」
「私に、安心をくれたわ。それでじゅうぶん」
 ふわりと、周囲の水が揺らぐ。
 フィニステールが「承った」とかすれた声音で応じると、ざんと、渦巻くように海が胎動した。彼は騎士が姫君にそうするように、財貨を受け取ったそのままの動作で私の手の甲を掲げ跪く。
「礼を、あなたに掲げよう。ビアンカ・アッシュバーナム嬢」
 フィニステールは高らかに声を捧げたけれど、波打つ水の拍動はあまりに荒々しく、わたしは咄嗟に目をつむってしまった。
「ならば約束のとおりに、我ら潮騒に抱かれた子らもまた救われるだろう。あなたがやがて、我らによって救われるように」
 世界が変革するような奔流に全身が気圧されるなか、耳元で、お兄様の声によく似た、フィニステールの声がささやいた。




5.

 気づいた時には、私はお母様の形見の帽子と、そして空っぽの鞄を手に、浜辺に立っていた。ぼんやりとした視界がぱちんと合わさり、遠くに馬車と、私の姿をうかがう御者と、元のとおりの景色が広がっていた。
 海を振り返っても、水面はすべて静かに波打つのみで、水のせり上がる気配もない。現実に寄り添った不可思議のすべては、なにもかも終わってしまったようだった。
 ……結局、私はそのまま屋敷に引き返した。私も疲労していたし、いっしょに連れてきたジェインの体調は最悪といってよかっただったし、なにより、街の使用人紹介所で使うためのお金は、フィニステールに渡してしまった。
 屋敷に帰っても優しい出迎えはなかったし、待っていたのは以前と変わらない日常だったけれど……それでもどうしてか、幸運なことが続いた。
 まずお父様からの手紙で、秋には帰ってこれるとの報せが入った。なんでも、お仕事のほうが一段落つくのだそうだ。また、家を出て以来行方のしれなかったお兄様の手がかりも、しばらくのうちに入った。新聞の片隅に載せられていた広告。小さな弁護士事務所において書記を募る求人の連絡先は、まさにお兄様の名前だった。特徴的なその綴りは、たやすく私の前に現れた。
 ……『あなたがやがて、我らによって救われるように』と。幻のようだったイスの都で、フィニステールが言っていたのは、こういうことだったのかもしれないと思われた。異界の住人は、時にいまも、私たちとは異なる軸でなにかをもたらす。
 そのほかに、私の暮らしに、変わりはない。けれどあの水底での涙を思い出すごとに、相変わらず私を軽んじる使用人たちとの相容れない生活も、耐えられるものと感じられた。そう思っていた。
 お父様の帰邸が近いことを、フェラー夫人に伝えるまでは。
 何気ない会話だった。けれど、時が悪かったのだろう。隠していたわけでもないけれど、伝えることもできなかったアッシュバーナムの家長の帰邸の報せが、厨房にたまたま顔を出していたハウスメイドのひとりの耳に入ると、またたくまに屋敷の内に、つまりは問題のはびこる部分に知れ渡った。
 尾ひれ背びれがついたわけではないけれど、自分たちの行いに対する自覚はあったのだろう。いまさら私に媚びはじめるメイドや、「ああ、お嬢様。お父上にはあなたの監督が行き届かなかったことなんて、まさか言えたことではありませんよね?」などと、どこか脅すような言葉を吐いてくる従僕がではじめて。
 そしてようやく――私は、このままではいけないと心を定め。いつか彼らを救い上げたのだと信じるように、もう一度勇気を持ってみることに決めた。


6.

 自室に、使用人達のまとめ役――コックだけではなく、家政婦と執事をも集めることができたのは、きっと彼らにとって望ましくない空気が、あまりにも蔓延していたからだろう。
 確かに、執事も従僕も、家政婦もハウスメイドたちも、屋敷を維持するという仕事はこなしてはいた。そこに私という存在を、組み込まなかっただけだった。
 けれどもご当主様が帰ってくれば、お嬢様は不平不満をお父様にぶつけて、自分たちは悪いようになるかもしれない。私ひとりがこの屋敷に取り残されて以来、徐々に命令系統が乱れていったにしたがって、意識の麻痺していった彼らも……そんな考えにようやっと至ったのだ。きっと。
「当家に今後も仕えることを、望まない方は申し出てください。紹介状を書きますから。……そしてこのことを、すべての使用人に伝えてください」
 開口一番に私が告げると、形ばかり耳を傾けていた一同はしんと静まった。
 勇気をもって、口にした言葉は……思いがけずずいぶんと軽い。
「私を、主人として仰ぎたくはない方が多いのは、知っています。そのせいで仕事をしてくださらない方が居るのも、知っています。そういった事態は望ましくないので……私を女主人とは呼びたくはない方には、屋敷を離れて、いただきます」
「お言葉ですがお嬢様」
 ゆっくりと言い切ると、真っ先に家政婦のバセット夫人が口を開いた。苛立ちつつ、彼女は「私どもを解雇すると仰るなら」と続ける。
「きちんとお屋敷を管理できる人員のあてはあるのでしょうね?」
「ないわ」
 私は即答した。そんなもの、ありはしないけれど。でも、私は軽んじられるだけの存在じゃない、と。このまま屋敷の空気が荒れたとしたって、主張を、どうしてもしたかった。
「……それで、我らを追い出して、ほかに後任のあてもなく、この由緒ある邸宅を維持すると?」
 執事が言った。その言葉が、彼らの切り札なのだ。使用人として優秀な人材は、集めるのが難しい.だから世の主人達は頭を悩ませる。私は「そのつもりよ」と答える。そして「あなたがたが、そのままでいるのなら」と付け加えた。
「私は、憎いだとか懲らしめたいだとか、そういう気持ちよりも、ずっと、ふがいない自分がいやなだけで……もし、あなたがたが私を軽んじて、認めずに、そうして死人のようにみなかったふりをするのがいやなだけなの」
 それだけ、どうにか言い切ると――私はゆっくりと、彼らを眺める。
「見えない死者では、いたくはないの」
 コックのフェラー夫人が、陰気な双眸で私をみつめ、執事はあきれたように口元を引き結ぶ。バセット夫人は、ため息交じりのまま、一礼だけして部屋を後にした。それ以上を続けずにいると、やがて残る二人もつかつかと部屋の外へ出ていった。
 部屋にたった一人取り残された私は、やがて斜陽の光が差し込む中、書庫から取り出してきては机の端に積み上げた、数冊の本へと指先を滑らせる。
 なにもかも、投げ出したような現状が、これでよいように代わるとは思えない。けれどこれ以上悪くなることだってないだろうと思える。どうしようもならなくなったら、それこそお父様に泣きつくのだ。私は、私にできないことを、どうにかしようと試みなくたって、きっともう、よい。
 見えない死者では、いたくなかった。
 あのイスの都の住人のように。潮騒の狭間で息づいていた、失われた楽園の子らのように。
 ――私が迷い込んだイスの都については、あの不可思議な邂逅以来、話の一つも聞くことはなかった。
 書庫をひっくり返してみたところ、イス、というのはかつて、私の暮らすブリテンとは海を隔てた大陸側、フランスはブルターニュの半島の端にあった都だったことはわかった。ケルト海につきだしたその場所は、しかしフィニステールが語ったとおり、洪水によって沈んだという。理想郷として名高かったかの場所は、もう地上のどこにもないのだという。けれど……それだけだ。この神すら人の世に紛れ込む現代においても、イスの都の報せは私の耳には届かなかった。
 けれど、それでもいいと思った。それがいいと思った。
 私は、この世のすべてを知らなくていい。いままでのように完璧であろうなんて、考えなんてしなくたって、よいのだ。
 知らなければ、いつかまたこうして私が視線を向けるものを見失ったとき、きっとどこからか現れて、そうして私の道を示してくれる。
 そして、その心こそを、フィニステールが、語った言葉と、彼の時間を購った記憶こそを、私は伴ってゆこうと、いつしか思っていた。
 神が死に、神話が息絶え、信仰が世に剥落し――いままで幻想だと切って捨てられてきたものごとが、日常の隣人としてあるこの時代。
 使用人の心のうちも、不可解で理不尽な現実も。なにもかもを常に見通してばかりいては、きっといつか躓いたときに、泣き出した私の手を引いていってくれる誰かは……非情な現状に、唐突に入り交じる奇跡のような変革は、潮騒の子どもたちはふたたびはもう――きっと、現れないのだろうから。

***

ろうさんのイラスト

Illustrator:ろうさんTwitterID

見たよ!
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