ウォンマガ夏フェス2015

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Theme:ケット・シー、嗤う

Author:綿津見さんTwitterID

 老若男女、さまざまな人間の声が石畳へと落ち、また別の人間の靴裏で踏みしめられて消えていく。大通りは夏の強い日差しの下、物を売る人間と買う人間で溢れていた。張り上げられた声に人混みの熱、肉の焼ける香りに酒瓶の触れ合う音。ありとあらゆる隙間を埋めようとするかのような様相がそこにはあった。
 この街はいつもこんな風だ。店も客も、過剰ではないかと感じるほどに賑やかしく振る舞っている。
(どうしてこうも煩いんだ)
 もはや慣例化したぼやきが一つ。誰にも認識されぬまま、口から出ることもないまま胃の中へ再び戻っていく。
 雑踏を、するり、抜け出た影があった。一匹の猫である。
 可憐な少女、あるいは愛情を注ぎすぎるきらいのある奥方──そんな類の人間に、過保護に育てられたと言った体ではない。しかし惨めなその日暮らしを送る野良猫という感じでもなかった。黒い毛並みは艶めいているとは言わないまでも、丁寧に撫でつけられていた。
 猫は両目を細めながら路地裏へと入っていく。日陰においてその右目は青色に、左目は黄色に、微かな光を放っていた。
 煉瓦造りの建物は、その隙間に細い路地を作り出している。賑やかさの裏に出来たようなこの道には、木箱やゴミ、後ろ暗い眼をした人間が散らばっていた。埃めいて淀んだ空気が醸成されており、爽やかな風が通り抜けていく日は遠い。
 黒猫が道を進むと、酒瓶の入った木箱の上に灰色の猫が丸まっているのが見えた。こちらから気づいたのなら高い位置にある向こうからも姿は捉えられているはずで、案の定、灰猫も首をもたげる。それから四肢を伸ばし、頭を下げるような仕草をとった。そのまま微動だにせず、黒猫がただ道を通り過ぎるのを待っている。
 どちらも親愛の情を見せない。
 黒猫は歩みを早めることも遅くすることもせず、灰猫に気づいていないかのような態度で進んでいく。
 そうして路地を進んだ先に、数々の路地の終着点のような、開けた空間があった。円形の広場のようなこの場所は四方八方を壁に囲まれている。どこを見ても古ぼけた色の煉瓦が目に入った。唯一上を見上げれば、ぽかりと切り取られた空色が対照的に眩しい。
 人間の姿は見えず、ただ確かに生き物の活動している音と匂いだけが空気を伝わって流れてくる。日頃接している景色だが、黒猫は不機嫌そうに眼を細めた。尻尾がゆらり、と揺れる。
「今日もご機嫌ナナメかい、ケット・シー」
「何かあったの、オウサマ」
 遠くから声がかかる。黒猫は足を止め、瞬きもせずに声の発信源を見つめた。二つの声の主はそれぞれ、洗濯物を吊るした紐に両足をかけて休んでいた。紐が重みで少したわんでいる。
 そこにいるのは黒々とした濡れ羽を持った、二羽の鴉だった。鴉たちは好き勝手に嘴を動かす。
「相変わらず君って人生……猫生か、ツマラなさそうだ」
「臣下もいないし、話相手もボクラ以外いないしネ」
「この国はキョーワセイだよ、オウサマ」
「前王の葬式には参列するやつが全然いなかったらしいネ?」
「フツーの猫たちに案内を出さなかったの?」
 翼を動かしながら脈絡なく繰り広げられる話に、黒猫は──「猫の妖精ケット・シー」と呼ばれた猫は、後ろ足だけで立ち上がった。
「煩い」
 言葉がざらついた舌の上を転がる。無意識だったが、実際に口へ上らせていたようで鴉たちが俄かに騒ぎ出した。
「オヤ、うるさいとはご挨拶!」
「イジッパリの君と仲良くしてやってるっていうのに!」
 ケット・シーは相変わらず後ろ足で直立している。その姿勢のまま、右前足で髭をするりと撫ぜた。
 その瞬間、埃を孕んだ空気に道が生まれたかのように、空中にきらきらとした光の筋が走る。
 途端、鴉の一羽と、遠く離れた場所にかかっていた洗濯物の位置が入れ替わった。
「ヌっ!?」
「アッ、コラ、ケット・シー!」
 突然宙に放り出された鴉は両翼をばたつかせ、もう一羽は目を白黒させながら様子を見守る。黒い羽をまき散らしながら鴉は何とか体勢を落ち着かせ、ケット・シーに向かっていっそう喚き立てた。
「イタズラにも程があるだろ!」
「たしかにボクラも言い過ぎたけどネ!」
 その騒ぎ声は、人間にとってはカアカアという、一律の音にしか聞こえない。騒ぎに耐えかねたのか、人間の女性が箒を振りかざしながら窓から姿を見せた。
「鴉どもめ、騒ぐなら別でやっておくれ!」
 女性とは思えぬ力強さで持って、箒は鴉たちを襲う。鴉たちは空を切る箒を避けながら、慌てふためいて空へ飛んでいった。その様子を、ケット・シーは地面へ前足をしっかりと下ろして眺めていた。鴉の姿は今や見えない。
 ケット・シーはわらう。
 やがてふっと、熱から冷めたように口の歪みを元に戻した。「普通」の猫と同じように、木箱の積み上げられた一角へ向かう。身軽に箱を駆け上り、その上で身を丸めた。
 猫に九生あり、と聞くが本当だろうか。ケット・シーの一族をまとめていた前王は、至極あっさりと死んでしまった。確かに鴉たちの言う通りだった。前王の葬式は、王であったとは思えないほどに簡素なものだった。
(そうして僕がオウサマになった)
 その証である二色の瞳を闇に閉ざして、ケット・シーは休息に身を委ねた。



「きゃあっ!」
 その人間は、いっそ大げさなまでに声を上げ、前のめりに倒れた。手足が地面に擦れる嫌な音がした。
「うぅ……」
 無造作に放り投げられた手を地面を掻くかのように丸め、力を入れて上半身を起こす。その少女は目の端に涙を滲ませながらも周囲の状況を確認した。
 夕暮れ時の細い路地、何もない場所でつんのめって転んだ少女が一人。視線の先には、先ほど手元を離れていった酒瓶──否、酒瓶であったもの。今は地面に染み入りつつある赤い液体と、粉々に砕けた硝子の破片だ。そして散らばる破片の奥には、ケット・シーが二本足で立っていた。
 少女は勢いよく立ち上がり、硝子を恐れる素振りも見せずに駆けた。
「大丈夫!?」
 そして何の躊躇いもなくケット・シーの前足を手に取る。
「ごめんね驚かせて、怪我はない?」
 少女は擦り傷のついた頬も、ほつれた三つ編みも省みずに言った。
 ケット・シーは青と黄の目を白黒させる。
 この少女は何歳くらいなのだろうか。人間と行動を共にしたことのないケット・シーには分からない。ただ、手にしていた酒瓶は自分で飲むためのものではなさそうだった。親か主人にでも頼まれたのだろう。少女は肩口までの髪を緩い三つ編みにして、上下の繋がった衣服の上にエプロンを重ねていた。
 少女の淡褐色をした瞳は、驚くほど純真さに満ちていた。見つめ続けていると吸い込まれてしまいそうだ。
「大丈夫、そうね?」
 ケット・シーの様子を確認していた少女が呟いた。ケット・シーははっとする。そしてつい、「王に気安く触れるな」人間にも通ずる言葉を再び発してしまう。
「あなたは王さまなの?」
 手を振り払われた少女に気分を害した様子はなかった。無邪気に輝く瞳で見つめられ、ケット・シーは居心地の悪さを覚える。少女から目を逸らした。
「わあ凄いわ、『長くつを履いた猫』みたいに二本足で立つし、喋れるし、そのうえ王さまだなんて!」
 わたしは猫の言葉も分かるようになったのね。少女は頬を上気させながら言う。
 ケット・シーは少女に取り合わなかった。両前足を地に下ろし、普通の猫のようにぺろりと前足を舐めると、おもむろに歩き出す。少女に背を向けるようにして。
「あっ」
 少女は声を上げた。そしてケット・シーがちらりと視線をやった先をつられて見て、声音に含んだ熱を急速に冷ましていった。そこには瓶の破片が横たわっていた。一杯分の酒さえ残っていなさそうだ。
「……ああ、もう一度買いに行かなきゃ……。お金もかかるし伯父さまに怒られるわ」
 落ち込んだ声音で少女が一人ごちる。
 ケット・シーはそれを、徐々に小さくなる声として背中で聞いた。その気になれば、妖精の力でもって酒瓶を壊れる前の状態に戻すことができる。しかし、ケット・シーはそうしなかった。
「王さま、また会えたら、またね」
 衣服の裾を翻して、少女が足早に去っていく音が聞こえた。



 その日以来、ケット・シーは何度か、三つ編みの少女を見かけた。いや、実際には今までも見かけていたのだろう。それを一人の人間として認識していなかっただけだ。
 少女は大通りに面した酒場で働いているようだった。壁が一面取り払われた酒場は半ば屋外のようになっていて、中の様子がよく見えた。少女は昼間から酒を飲む大人たちに囲まれ、酒場の亭主らしい伯父に使われ、給仕や買出しで一日中動いていた。
 西陽が石畳を橙色に染める夕暮れ時。大通りを往く人に挟まれた、酒場と反対側でケット・シーは丸まっていた。店の屋根代わりに張られた布の上へ我が物顔で居座っている。その店の主はケット・シーに気付いているのか、はたまた商売の邪魔をしない限り寛容なのか、特に追い払うような素振りは見せなかった。
 ケット・シーは薄目を開ける。議事堂の向こう側へ消えていく太陽が、一日の餞別として仄かな温もりを送ってきている。肉や魚の焼ける香ばしい匂いが風を伝わってきて鼻腔をくすぐった。
 匂いの発信源、酒場は今も盛り上がっている。テーブルはほとんど埋まっていた。体力仕事をしていたらしい大柄な男たち、田舎から商売に、あるいは嘆願にやって来たのであろうくたびれた男たち。旅人と思しき姿もちらほら、酒をあおりながらつまみを口に運んでいる。目にも耳にも鼻にも、騒がしい。
 その客たちの隙間を何度も何度も縫うように、くるくると動き回っている影があった。三つ編みの少女である。先日ケット・シーが出会ったときと同じ、純真な光を瞳から振りまいている。客の注文をとったり、伯父たちがつくった料理を運んだりしているらしい。客の雑談に付き合わされていることもあったが、客や亭主からいびられているようには見えなかった。一日の労働量は置いておいて、それなりに楽しく働いているようだ。
(……ただ)
 ケット・シーは片目を開けて、遠くの酒場を見遣る。
 少女は重ねた皿に加えて、客が差し出したジョッキを受け取ろうとしているところだった。皿を抱えた腕に重みが加わり、少女はよろめいた。それを別の男が支えようとしたのに驚いて、軸足を変え、バランスを失って、背中から床に向かう。木とガラスのぶつかり合う音、どよめき声が弾けた。
「嬢ちゃん、大丈夫か!?」
 割れた皿、零れたスープ、慌てふためく酔っ払い、何事かと駆けつける亭主。男たちが次々に立ち上がり、怪我はないか、と屈強な腕を差し伸べる。その円の中心で、申し訳なさを全身に貼り付けて少女が立ち上がるのが見えた。目立った怪我はないようだ。
 外傷のないことに安心したせいか、亭主がかえって少女を叱りつける。ケット・シーの耳は良いので、亭主が十分気をつけるようにと口を酸っぱくしているのと、少女が場の雰囲気を壊し、皿を駄目にしてしまったことに対して謝罪しているのが聞き取れる。周りの客たちが「その辺にしておいてやったら」と仲裁に入り、場はもとの和やかな空気を取り戻した。
 少女がともすれば大怪我をしそうな事態に遭ったのは、今この時だけに限らない。ケット・シーが少女に会ったのは、少女が裏路地の何もないところで転けて瓶を放り投げた時であった。さらに、ケット・シーはこの数日間で、少女が馬車に轢かれそうになっている場面、壁に立てかけてあった梯子が少女目がけて倒れていく場面を目撃している。どれも大事には至らなかった。それは、今少女が酒場で無事働いていることからも明らかだ。周囲の驚きと本人の擦り傷程度で済んでいることを、幸運と捉えるべきだろうか。いや、とケット・シーは頭を振る。こうも頻繁に不幸に見舞われることがあるものか。
 あの少女は、妖精なんかよりよっぽどお伽噺にふさわしい。
 だが本人がそれを自覚していないようだ。周囲はとっくに気がついていることだろう。下手をすれば死んでしまう、そこまでは行かずとも大怪我を負ってしまうような状況を、少女は回避し続けている。そんなことがずっと続くはずがない。いつか取り返しのつかない事件が起きる。
(その「いつか」まで、保つものか)
 ケット・シーは嗤う。
 そこへ、二つの羽音が降りてきた。鴉たちだった。
「その顔キモチワルイよ、オウサマ」
「ニンゲンたちを見てたの? なんで?」
 二羽の鴉は翼でうまく調節しながら高度を落とし、ケット・シーの両脇に収まった。先日人間の女性に追い出されたことを考慮してか、心なし小声で続ける。
「アッ、そうだ」
「猫たちに聞いてきました、ケット・シーの直した方が良いトコロ、十選!」
 鴉は拍手のごとく翼を揺らす。ケット・シーは疎ましげな表情のまま、目線を酒場の方へ向け続けていた。
「一つ目、何を考えているのか分からない。これはあるよネ、ボクラみたいに付き合い長くなると分かってくるけど」
「二つ目、偉そう。アー……オウサマだしネ」
「三つ目、猫と関わる気がない。これホント?」
 鴉が小首を傾げてケット・シーを覗き込んでくる。ケット・シーは答えなかった。鴉に傷ついた様子はなく、いつものことと言わんばかりに続ける。
「四つ目──アッ」
 ケット・シーはするりと二羽の間を抜け出て、大通りへ飛び降りた。妖精の力による混乱に乗じて抜け出す案もあったが、最近鴉たちはそれに慣れてきてしまっている。無駄に使って体力を消耗するのはやめた。体のバネを用いて、負荷を受けることなく地面へ降り立つ。あと七個も欠点を聞かされては堪らない。あのお喋りな二羽に付き合っていては、耳にタコができてしまう。
「ケット・シー! まだまだあるのに!」
「何匹もの猫たちを尋ねて来たのをムゲにしないでよ、オウサマ!」
 ケット・シーは顔だけで振り向くと、「また今度」そう言って舌を出し、雑踏の中へ消えていった。



 今日もまたひとりで歩く。正確には、ケット・シーはいつもひとりだ。鴉たちが構ってくる時以外は、他者のいない、自分だけの思考に埋もれている。
 満月が大通りを照らす。街を出入りするための関所はとうに閉じられ、店をやっている人間もいない。人工の灯りはひっそりと消され、真夜中の静寂を作り出していた。
 誰に憚ることもなく、ケット・シーは二本足で石畳の上を歩く。大きく見える満月の光を存分に浴びながら、特にあてもなく、議事堂の繊細な装飾を遠目にじっと見つめていたりもした。
(前王の葬式もこんな晩だった)
 ふと、思い出す。ケット・シーがこの世に生まれ落ちた時から、前王は既に一族の主君として存在していた。ケット・シーが二本足で立てるようになり、この街に知らぬ場所などなくなってくるにつれて、一族は少しずつ少しずつ数を減らしていった。ほとんどが老衰だった。ある日突然に妖精の力を失って、事故で死んだものもいた。一族の者が滅多に生まれない状況で、妖精の力をきちんと持ち、両目の色が異なるという資格も備えたケット・シーは、生まれながらに新たな王であることを保証されていた。一族が他に誰も残っていなくとも。
 ゆるりと尻尾を揺らす。
 一歩ずつ進み、やがて、ケット・シーは人間の影を見つけた。四足の体勢へ戻る。路地裏へ入ろうかと逡巡していたところで、こちらの気配を察知したかは定かではないが、その小さな影が緩やかに振り向いた。
「王さま!」
 ぱあっと輝いた顔は、少女のそれだった。スカートの裾がふわりと広がる。普段三つ編みにしている髪は解かれて、ふわふわと波打っていた。一際明るい今宵の満月に照らされて、髪の輪郭が輝いて見える。両手で、胸の前に花の束を抱えていた。それからよく見れば、少女の膝には包帯が巻かれていた。また新たな傷を作ったらしい。
「こんばんは、王さま。お散歩中?」
 少女は微笑む。その眩しさに、ケット・シーは瞬きを忘れた。
 月の道を行く少女につられるようにして、ケット・シーも歩を進める。横に並ぶつもりなどないのに、自然、一人と一匹が共に散歩しているかのような図になった。
 アーチ状にかかる石橋を渡る。街を半分に横断する川は幅が広く、場所によっては深さもある。川の水は生活のあらゆる場で使われていた。二つに分けられた街を繋ぐこの橋は、だいぶ昔に作られたものだった。近々補修工事をするらしい。下りに差し掛かり、少女が口を開いた。
「王さまはこの後、どこへ行くの?」
 橋を渡りきれば正面の議事堂で大通りが終わり、街並みは左右に広がる。少女はケット・シーの返事を待たず、東を指差した。
「私は教会に向かってるの」
 本来、人間が一人で出歩くような時間ではない。いくら表面に犯罪の少ない街と言えど、女子供が安心して出歩けるようなものでもなかった。街の表も裏も知り尽くしているケット・シーはそれを知っている。少女がたった一人で外出していること自体変であるのに、さらに行き先が教会とは。
 少女は花を握る手に力を込めた。
「あのね、そろそろ、お母さんとお父さんの命日なの」
 吐き出された言葉に、悲嘆の色はなかった。
「あ、と言っても二人が亡くなった時期はずれているんだけど……。お母さんが、私を産んで亡くなってしまって、お父さんは、きっかりその五年後だったわ」
 だから、今は伯父さまと暮らしているのよ。少女はそう付け足して、「それで、毎年、命日が近くなると、お墓にお花を置きに行っているの。最近はお店が大繁盛だから、こんな時間になってしまうけれど」繁盛し過ぎるのも困り者よね。微かに笑みを零す。
(神というものがいるのなら)
 ケット・シーは、少女の持つ花を見る。花だけを見つめる。
(どれだけ不幸を積めば気が済むのだろう)
「……お前は」
「なあに?」
 猫の姿をした生き物が人語を話すことなど意に介した様子もなく、少女が相槌を打つ。ケット・シーは、後の言葉を口にしなかった。
 不思議そうな顔をした少女と、ケット・シーは橋の終わりで別れた。



「王さま、こんにちは」
 ケット・シーと少女は、店の裏で、買出しの途中の裏路地で、夜の大通りで、出会うようになった。ケット・シーにしてみれば、避けようとすればそれを避けることができた。それでも、少女に見つかってから逃亡するのは後が面倒くさい気がして、されるがままに挨拶を受けていた。
 ケット・シーは猫と同じような食事を必要としない。それを知らない少女は調理場で出た切れ端なんかを持ってきて嬉々としてケット・シーに差し出す。生まれて初めて口にした魚の切り身は、舌の上にしばらく消えない旨味を残していった。
「美味しい?」
 少女が楽しそうに問う。ケット・シーは無意識のうちに口元を舌で拭っていたが、素直に感謝するのも癪で、尻尾で地面を叩く。少女は気分を害した様子もなく、くすくすと笑う。
 そうこうしているうちに、少女が仕事に戻らなければならなくなって別れるのだった。ケット・シーはまた、意味もなく街をふらつく行為に戻る。
 相変わらず鴉たちは定期的に構いに来る。街の猫たちも変わらない。ケット・シーからは近づかず、向こうからも接触してこない。ただ姿を認めれば、猫たちは礼をするような仕草をとる。「臣下のいない」「たったひとりの」王様でも、最低限の礼節を示さなければならないという思いは持っているらしい。一つ変化を上げるなら、最近は、猫たちと出くわす頻度が増えたということか。
 少女の両親の命日は月のない晩だった。ずっと降っていた強い雨が夕方には止んだものの、空は厚い雲に覆われていた。
 ケット・シーが闇に沈んだ大通りを歩いていると、石橋の真ん中に少女がいるのを見つけた。ちょうど橋の真ん中で、欄干に腕を預けている。雨が上がったばかりにも関わらず、どうやら地面に座り込んでいるようだった。墓参りは既に終えたらしい。
 ケット・シーは少女へと近づき、猫のごとくに鳴いてみせた。少女が緩やかに顔を上げる。その顔は涙に濡れていた。両親の墓へ花を手向けた後、ずっとここにしゃがみ込んでいたのだろうか。
「王さま……迎えに来てくれたの?」
 少女はぼんやりとした目に弱い光を取り戻した。立ち上がろうとして、ずっと泣いていたせいで酸素不足に陥っているのか、ふらついた。欄干に手をついて体を支える。
 その瞬間、欄干が崩れた。
 石を繋いでいた部分がぼろぼろと零れ落ちる。
「……あ」
 ぐらり。少女はバランスを崩して、ちょうど人間一人分、できた空間に体を落としていく。
 取り乱した様子のケット・シーが端へと姿を見せる。が、猫の小さな体躯で、人間を掴み支えられるはずもない。少女の両目は大きく見開かれたまま、水面が近づいてくるのをただただ網膜へ映していた。少女の体は一直線に、川へと吸い込まれていった。
 空中に光の筋が走る。
 温かな何かを全身に感じ、少女が我を取り戻したときには、少女は石畳の上に、ケット・シーは川の真上にいた。少女とケット・シーの位置が入れ替わったのだ、と認識するのに数秒を要した。
「──っ、王さま!」
 どぷん、と、ケット・シーの体が水に沈みこむ瞬間に、悲痛に満ちた少女の声が響いた。
 水は冷たく、そして想像以上に重たかった。短い足を動かしたところで無駄な足掻きで、瞬く間に、底へ底へと押し込められていく。妖精の力はさっき使い切ってしまった。その上、川の流れは存外早く、ケット・シーをどことも分からぬところに運ぼうとしていた。仮に少女が飛び込んできたところで、きっと見つけようがないだろう。
 小さな肺を水が浸食していく。
 苦しい、と思う暇さえない。意識が朧気になっていく。それでも、少女は無事だということが最期まで頭の中を占めていた。
(妖精の力まで使わせておいて、これ以上の不幸があるものか)
 ケット・シーは笑う。
 それが、水の底での最期だった。



 教会の鐘が鳴り響く。教会の敷地内、いくつも並ぶ墓のうちの一つ。古ぼけた灰色のそれを前にして、打ちひしがれている影がある。空は清々しく晴れていたが、少女の目は暗く濁っていた。
 本当は伯父の店を手伝っていなければならない時間だ。しかし少女の腫れぼったい目を見るや否や、伯父は「今日は休みだ」と言い張って少女を酒場から追い出したのだった。とぼとぼと、覇気のない足が少女を運んだのは、両親の眠る墓の前だった。
 墓碑を見た瞬間、膝が崩れ落ちる。ふ、と唇の端から音が零れ出て、気がつけば外面も気にせず泣いていた。
「おう、さ、ま」
 涙に混じって、言葉がぽつりぽつり、地面へ降る。
 両親は死に、そして、親しくしていた猫も死んでしまった。じゃあ次は、という仄暗い想像が首をもたげる。あれだけ色々とやらかしても自分を見捨てない伯父も、いつ呆れ果てるか分からない。その前に、そもそも、次々と降りかかる事故で自分を、あるいは周囲にいる人を殺してしまうかもしれない。また巻き込んでしまうかもしれない。また。無愛想で意地っ張りな、あの猫のように。
 泣き過ぎて喉が痛い。頭の片隅で、冷静な自分がそんなことを思う。
 いい加減に泣き止まなければ、目も声もひどくて、明日もお店に出られなくなる。働けない自分は伯父にとって要らない存在かもしれない。普段は明るく振舞う少女の影に隠れていた部分が囁く。
「……っ」
 いっそう泣きそうに目を引き下げて、それでも涙を目じりに留めて。少女は右手のひらで土に触れる。ざり、と音を立てて、少し土を掘り返す。柔らかくした部分に、枝を二本組み合わせた十字架を突き刺した。寂しがりやの王様のための、墓だった。



 鴉たちの声が聞こえる。最初は何を言っているか分からず不鮮明だったものが、だんだんはっきりと、耳に痛いものになってきた。
(煩い)
 そう思ったのを、やはり、口に出していたらしい。
 目を開ければ、ケット・シーの目覚めに喜ぶ鴉たちの姿が目に飛び込んできた。体を起こそうとすれば四肢が痛み、肺が悲鳴を上げる。
 それでもどうやら、生きていた。ケット・シーはその事実を全身に行き渡らせていく。
「イヤ、絶対一回死んでるよ。ケット・シー」
「生きてておめでとう、オウサマ」
 鴉たちがよく分からないことを口にしている。
 一匹と二羽は川べりにいた。川に落ちた時は確実に死んだと思ったが、どうやら九死に一生を得たらしい。少女の強運を分けてもらったのだろうか。どこまでが自然の力でどこまでが鴉たちの力か分からないが、とにかく命を救ってもらった礼は言わねばならない。
 躊躇いがちに尻尾を揺らし、口を開いたケット・シーを、鴉が止めた。
「ケット・シーをここまで運んだのは、猫たちだよ」
「だからお礼は猫たちにだネ、オウサマ」
 その言葉の意味が飲み込めず、ケット・シーは瞬きをする。
「まず猫たちのお礼参りで、そのあとニンゲンの女の子に顔見せかな? 心配してるだろうから逆でも良いかもネ」
「ソレ、意味合ってる?」
「やる事沢山だし、会わなきゃいけないひともいっぱいだね、オウサマ」
 鴉たちの言葉にケット・シーはゆっくりと頷き。そして、泣き出しそうな目をしながら、笑った。鴉たちの声へ遅れるようにして、街の生きる音が聞こえてくる。あれだけうるさかった音の数々が、今は耳に心地良かった。

***

kou.さんのイラスト

Illustrator:kou.さんTwitterID

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