ウォンマガ夏フェス2015

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Theme:あなたに降りそそぐ慈雨

Author:八束さんTwitterID

 どうして、あの子の夢を見るのだろう。

 目を覚ましたときにひどい疲労感を覚えるような、そんな夢がある。思い起こせるのはぼんやりとした印象ばかりで、シェバにとって、それはひとりの少女のいる情景に他ならなかった。降りしきる雨。絶え間なく落ちてくる、きらきらと輝く破片。
 そして吹き荒れる風に揺れる、長い黒髪。少女のあどけない面立ち。そこから漂ってくる、言葉にしがたい深い苦悩。
『運命を、退けられますように』
 しゃらしゃらと降る宝石の雨のなかに響きわたる、その
 その光景は、シェバのなかにある種の感情を呼び起こすのだった。
 腹の底から引きずり出される、正体のない、悲しみ。
 遠い昔に集落を去り、けっして親しい仲ではなかった彼女が、シェバになぜそのような情動をもたらすのか。言葉を交わしたこともほんの僅かであったはずの少女が、なぜこうして今になって夢に出てくるのか。そして、この胸を掻き乱してしまうのか。
 目を覚ますたびにひどい疲労感を覚えるこの夢を見るたびに、シェバは夜明けの薄闇に問いかける。
 見つかるはずのない答えを捜しもとめて。


 ○ ○ ○


 朝日が山稜にかかると、やがて荒野は澄み渡る光に白々と染まってゆく。
 黙々と集会場にむかうシェバの足元で、ヒースの群生が朝露にしっとりと濡れていた。気ままな風がそれらをざわつかせながら周囲をさまよう。左右に連なる岩山の洞穴を覆う野草の扉はゆうらりと揺れ、不規則にはためく。いびつな造形をした岩山の表面には、乳白色の、朝日を反射してかすかに透ける結晶が塊となり、ところどころにこびり付いている。それらは光に艶めいていた。この土地では馴染み深い光景であったが、一見して新鮮な獣脂を思わせるそれこそが、シェバたちにとっての生活の糧――岩塩だった。
 かつて異教の徒として迫害されたシェバの先祖たちが、流浪の果てに辿り着いた――ゆたかな岩塩資源をようするこの土地。
 荒れ果てた山脈の合間にある地で、人々は岩山に横穴を掘り、住処を得て集落を作り上げた。住環境としては苛烈を極める一方で、岩塩がこの時代珍重された存在であったことから、岩塩坑の採掘とその交易で生計を立てるには十分な土地だった。
 あちこちに転がる巨岩が日と視界を遮り、天然の迷路を形成する。大半の道が左右から岩壁に逼迫されて狭く、くわえて足元は大抵ぬかるんでいる。シェバもまたその複雑怪奇な道を行き来してようやく、開けた場所に出ることができた。乾いた光の射す広い窪地だ。馴染み深い男たちの顔を見つけ、足早に集団のもとに歩み寄る。本来であれば道具をかついで仕事場の塩坑に向かっている時間帯だが、今日この日に限って、労働の担い手である男たちはみなこの"集会場"に呼びつけられていた。
 居並ぶ男たちに比べて、先日成人を迎えたばかりのシェバの面差しにはまだ初々しさがある。周囲の緊張感に不安を覚えつつ、彼は集団の後方に加わると、男たちの視線の先を追った。みな一様に口をつぐみ、輪の中央に座す首長を見つめていた。
「……さて、集まったようじゃな」
 この不幸な同胞達を束ねるのが、齢九十を越えてもなおかくしゃくとした老人だった――杖を頼りに立ち上がる姿も威風があり、痩せぎすの肉体は飢餓の狼を連想させる。
「仕事前に呼びつけたのには、もちろん訳がある。大方察しておる奴もいるじゃろう。……先日、北の神殿に送った使者が失踪した話を覚えておるな?」
 若輩のシェバですら耳にした話だった。大方獣か山賊の類に襲われたのだろう、というのが当時の見解だった。
 民族単位でこの土地に移住する以前から、同胞たちの間で大切にされているのが、毎年秋口に執り行う祭事だ。その準備のために、例年通りこの時期は"神殿"との連絡が密にっていた。しかし先日の事件を含め、複数の集落が放った使者が揃って戻らない。むろん、神殿側からの反応もないということを簡潔に話した上で、「由々しき事態の可能性がある」、と、首長は渋面をあらわにした。
「由々しき事態……と言いますと、あそこが――『群盲院』が何者かによって陥落したと?」
「その可能性はいなめない」
 首長がうなずくやいなや、あたりに不穏なざわめきが立ち込めた。
 シェバもまた、目を瞠る。――群盲院が?
 "神殿"は、この荒れ地の果てにある地下神殿だ。天上神を祀る施設であると同時に、集落を取りまとめる機能を併せ持っている。なかでも特徴的なのが、「群盲院」と呼ばれる盲人たちの組織――目の光と引き換えに、特別な力を得た者たちの集団だ。
 その「力」の恩恵ゆえに、古くに先祖たちも塩の土地に辿り着いたという。以来、神殿は強い権威を保持しつづけ、兵を常駐させるに至っていた。周辺の集落とたびたび連絡を取っては、政治的問題の解決や祭事の主導を取る。そのような場所が陥落したとなれば、一大事だ。すくなくともここ数十年は保たれていた平穏が、瓦解する。
「まさか。神殿には俺の娘だっているんだぞ!? それが……」
 喧騒にまぎれてふいにシェバの耳朶を叩くものがあった。彼は弾かれたように顔を上げ、その声の主を探す。
 集団のなかにその主を発見するやいなや、こめかみのあたりがちくりと痛む。針に刺されたくらいの、微かな痛みだった。
(あれは……)
 見覚えがある顔だ、と思ったとたん、あの夢が脳裡を過ぎった。荒れ地の澄んだ青空、たなびく黒褐色のゆたかな髪。そして、少女の哀しげな微笑――ああ、あの男は彼女の父親だ。アタルヤの父親だ……、と思い至ったところで、彼は目を眇めた。
 アタルヤ、と無意識のうちにその名に音を伴わせる。彼女の名を発音することはほとんど初めてに近いというのに、今まで数え切れないくらい口にしてきたような馴染み深さがあった。
 それと同時に、なぜだか、胸が痛んだ。
 首長が杖の先で地面を叩き、落ち着きのないざわめきを断ち切る。まだ何も決まったわけではない、と言い切ると、あたりにすっと静寂が落ちた。
「よいか。真実をたしかめる必要性がある。かの地は我らの聖地にもひとしい。地理的にこの集落がもっとも神殿に近い。ゆえに先遣隊をここから出し、かの地の現状を確かめる。名乗りを上げるものはいるか」
 落ちくぼんだ瞳が強い光を帯びて男たちを見すますが、たがいを探り合うような沈黙が落ちるだけだった。
 シェバはせわしなく思考を働かせた。
 場の誰もが、不吉な予感に慄いている。さまざまなものを天秤にかけながら、自身の歴史に思いを馳せる真っ只中にいる。しかしシェバに限っては、かれらが不安に思う要素の殆どが当てはまらなかった。シェバには家族もなく、恋人もいない。あると言えば、孤児である自分を育て上げてくれた首長や集落に対する恩義くらいのものだった。
 今ここで自分が名乗りを上げることが道理であり、恩返しの絶好の機会であることを、彼は冷静に判断した。
 一方で、もうひとつばかり、彼の気を引くものがあった。
 理性では割り切れない部分が、シェバの耳元に囁きかけてくるのだ。行かなくてはいけない、かの地に足を運ばなくてはいけない。何よりも自分のために、と――。
 なぜならば、あそこには夢の少女がいる。群盲院こそが、アタルヤの居場所なのだから。
 塩の結晶が目に突き刺さったことで、数年前、アタルヤは視力を失い――天上の主は、異能というかたちでもって彼女に寵愛を与えた。ほどなくして群盲院に迎え入れられることになった彼女を、シェバをふくむ集落の者すべてが祝福した。群盲院の一員になることは、同胞の間ではこの上ない名誉とされた。
 けれどもそれだけだ。シェバとアタルヤに交友は無く、意識すらしたことのない存在だった。彼女がかの地に旅立ったことにも深い感慨はなく、それ以降も、自分は以前と変わらぬ何の変哲もない暮らしを続けてきたはずだ。――それがなぜ、今になって彼女の夢を見るようになったのか? 
 そして夢を見たあとにかならず残る、あの深い悲しみの正体は……?
「あの……」
 今の自分が知り得ない部分で、なにかがうごめいている。
 この件に関われば、その正体を知ることができる――根拠のない確信があった。
 なかば無意識のうちに声を上げていたシェバは、騒然とする人々の合間をくぐり抜け、輪の最前列にまで飛び出した。
「その、僕は行きます。僕なら……身寄りもいないことですし」
「……シェバか」
 眦の皺を深め、首長は重々しく頷いた。
「……他は? この少年が名乗りを上げたのだ。この勇気に倣い、他に向かう意思のあるものは?」
 シェバを皮切りに、集落の男たちもぽつぽつと名乗りを上げていく。
 やがて、十分なだけの頭数が揃った。

 ○ ○ ○

 黒々とした土の上に、細長い塩だまりの流れが貫いている。粘土質の混ざって黒色こくしょくの、ささやかな塩の川だった。踏みしだくと、霜柱を砕いたときよりも硬い感触でざりざりと音が鳴る。もう随分と長い間、シェバはその音を聞き続けていた。
 塩の土地の大半は岩場が占め、そうでなければ野草の生い茂るぬかるみが人々の行程を妨げる。荒々しく天をつんざく巨岩の合間を縫うように歩く交易路は、つねにか細く、暗く、寒々しい空気に満ちている。年中日が当たらない場所には、こうして凍り付いた塩の流れが残っているほどだった。
 その塩の川をたどった先に、アタルヤの住む地下神殿が存在する。薄暗がりで足場の悪い道が延々と続くなか、シェバは黙々と歩いていた。周囲には、見知った男が数人。裾をたくしあげた長衣の上から矢筒を背負い、腰帯には磨き抜いた短剣を。男たちの軽からぬ武装は、若いシェバとて例外なく身につけている。
 誰も確かなことは口にしないが、地下神殿が何かしらの被害を受けていることはほぼ決まったようなものだった。
 シェバが生まれてからはもとより、長い間目立った争いは途絶えていた。当然、そのことに不安を覚える一方で――シェバ自身も、得体のしれない胸騒ぎを覚えていた。
 心は急くものの、岩場を踏みしめる足は不思議と重い。先導する同胞の背を見つめながら、彼はいつもの夢を思い描いた。ぼやけた印象の、けれどもアタルヤが出てくることだけは確かな夢。しゃらしゃらと宝石の雨が降る、辛く悲しい夢だ。
「すこし休憩しよう」
 朝方に集落を発って、もう何時間も暗い道を歩いている。肉体的な疲労よりも、精神的な消耗が激しいシェバにとってはありがたい提案だった。
 手ごろな岩の上に腰を下ろし、彼は深々と溜息をついた。天上は張り出した岩の穂先に覆われていたが、割れ目から薄日が漏れ出している。陽がまだらに落ちる場所では凍りやすい土も溶け、ぬかるみがひどい臭気を催していた。長靴の底でその表面をなぞり、ふとあるものを目に留めると、シェバは腕まくりをした。
 成長期の少年らしい、とんぼのように細く骨ばった腕があらわになると、五本の指がぬかるみに沈む。土の中はあたたかく、水分を含んで湿り気がある。どろどろとしたそれらを書き分けながら奥へ、奥へ、と進み、手首まで浸かりきったところで、彼の指はあるものを掴んだ。
「塩の花じゃないか。よく見つけたな」
 汚れた手のひらの上に乗っていたのは、拳大の塩の結晶だった。
 土を払えば、青みがかった乳白色の塊が姿を現す。日を受けてきらめくそれはいびつで、ほころぶ花によく似た形をしている。
 細部を削って形を整えれば、珍しい交易品として高値が付く。土の中で生まれたにしては不似合いにうつくしい結晶を、シェバは無言で凝視して――以前にもこれを手にしたことが無かっただろうか、と思いをはせてみるものの、違和感の正体は判然としなかった。
 その後間もなくして旅が再開される。塩の流れ沿いに歩けば、夜明け前には着く計算だ。けれども途中で岩山の一部が崩落していることが分かり、道を迂回せざるを得なくなると、シェバたちは一転してヒースの生い茂るぬかるみを行くはめになった。
 ぬかるんだ土地は水分が多く泥が重く足にまとわりつき、背の低い野草は密集して行く手をはばむ。むっと立ち込める悪臭に、照りつける日差しすらわずらわしくなる場所だった。ままならない状況に、シェバは内心溜息をこぼした。額に貼りついた前髪を指先ではらい、ずっと遠くの、黒褐色の岩山がかたち作る稜線を見つめる。
 傾きかけた太陽の放った西日がまぶしく、黒い目をすがめる。
「………っ、」
 がくんと体勢を崩して、シェバはその場に倒れ込んだ。慎重にぬかるみを掻き分けるべきところを、足元に向ける意識が疎かになった結果だった。
 両の腕を突いて上体を支えようとするものの、足の半ばまで黒い泥の中に沈んでしまう。慌てて身を起こそうとしたところで、かえって足元が滑って上手くいかない。
 仲間の一人が差し出した腕を取ろうといたとき、ハッと、シェバは弾かれたようにぬかるみを凝視した。

 シェバ……。

 そこに少女が浮かび上がって見えたのはほんの一瞬で、幻影はたちまちに掻き消えた。けれども己を呼んだその声はじっとりと耳朶に絡み付いて、ひどく離れがたいもののように、シェバの頭の中を幾度となく反響した。
「シェバ? 大丈夫か?」
 呼びかけに我に帰ると、弾かれたようにおとがいを上げる。輪郭をなぞって汗が流れた。
 取り繕うようにぎこちなく笑みを返して、彼は今度こそしっかりと立ち上がった。
 
  ○ ○ ○

 砂のつぶてを含んだ風がごうと渦を巻き、皮膜のようにあたりを覆ってゆく。
 風は甲高く唸りながら荒れ地の静寂を掻き乱す。岩山の斜面のあちこちに干された絨毯をひるがえし、屈み込む少女の髪を弄ぶ。
 もつれる髪を手で押さえながら、ゆっくりと立ち上がる華奢な後姿を、シェバはよくよく見知っていた。
 湿った土がこびりついた、日に焼けた赤い手。そのなかで握り締められる、拳ほどの大きさの――。
「アタルヤ」
 親しみをこめて名を囁けば。
 少女は振り向き、いびつな――花の形をした塩の結晶を、シェバに向かって差し出した。

  ○ ○ ○

 ぱち、と火のはぜる音で目を覚ました。巨岩の影にうずくまるシェバが頭をもたげると、冷たい風が頬を打った。
 星が燃えがらほどの光をこぼす夜だった。火の番をしていた仲間が顔を上げ、目を瞬く少年を見やる。
「目が覚めたのか?」
「……変な夢を見て」
「疲れてるのか? 眠れなくても休んでおけ。体力は温存するべきだ」
 促され、折り曲げた膝の合間に顔を埋める。数回に分けてゆっくりと呼吸をして、胸のうちにわだまる重い気体ごと吐き出そうとする。
「……最近、アタルヤの夢を見るんだ」
「アタルヤ?」
「群盲院の。ほとんど話したこともないはずなのに……」
「……群盲院の連中の力は侮れないからな。夢を通じて、お前に何か伝えることがあるんじゃないのか」
 本当に? と、シェバの胸のうちで疑念が頭をもたげた。
 あれはまるで、誰かの記憶を、細い針ほどの穴から覗いているようなものだった。
 春の嵐のなかに立ち尽くす少女の後姿。それを見つめる「自分」は、彼女に恋焦がれている。こうして夢を見始めるまで、アタルヤの存在を意識したことなど無かったはずなのに。ましてや群盲院の一員である彼女に恋焦がれるなど、ありえるはずがないのだ。
 それなのになぜ、今や彼女の存在が、こうも胸の中で質量を得てしまったのか。彼女の影がついて回るのか。
 シェバは苛立ちすら覚えつつあった。
(なぜだ)
(なぜほとんど知らない子のために、僕は神殿に向かっているのだろう)
 膝を抱え、目を瞑る。まなうらにはまだ夢の光景が焼き付いていた。
(なぜ、なぜだろう。なぜこんなにも、胸が痛いのだろう)
 いつのまにか、アタルヤという存在にはらわたを食い千切られてしまったようだ。


 神殿が近付くにつれて、シェバの中を占める違和感が膨れあがっている。
 初めて出向くはずの場所なのに、もう何度も足を運んでいるような錯覚。何の変哲もない巨岩、ぬかるんだ地面、点々と広がる塩だまり。照りつける陽の光の熱さえも、幾度となく経験してきたもののような気がする。得体の知れない既視感は少年を混乱させ、しだいに消耗させた。
 ――前にも、こんなことがあったのではないか?
 そんなはずはない、と理性の部分では分かっている。けれども、どうしてかその疑念を否定しきれない自分がいる。神殿に行かなくてはいけないという使命感が質量を増す一方で、そこに足を運んではいけないという、相反する気持ちがせめぎ合っていた。
 陽が昇り、中天にかかりかけた頃。行き交う風が甲高く響くのに耳を澄ますうちに、彼はひとつの予見を得た。
  夢を見たあとにいつも持て余すあの辛い気持ち。それよりもずっとたしかで、大きな悲しみが、この先に待ち受けている――。
 曠野こうやをさまよう風は、砂塵をふくんで黄色く澱み、荒涼と吹きぬけてゆく。やがて数人はいびつな黒褐色の巨岩の影につどい、砂と岩の塊に隠された扉を探し始めた。砂の下にあった古びた木製の板を外すと、石でできたきざはしのつらなる地下道が姿を現した。
 生温い空気があふれ出すのに、そこが長いあいだ、閉ざされたままであったことを知る。目配せをして、順にその中に足を踏み入れた。
 地下神殿は、古代の岩塩坑を人の手で広げた巨大な空間だ。石の階から広々とした柱廊、半円形の天井、透かし彫りのほどこされた壁、そこに飾られる偶像の数々まで、すべて人の手に握られたノミによってのみ削られ、最大限の祈りをこめて形づくられた広大な世界となっている。
 ぼうとわだかまる闇の中を、一歩、二歩、と進んでいくにつれて、シェバの心臓は早鐘を打ち始めた。
「すこし先を見てくる。待っていてくれ」
 仲間のうちでも年嵩の者が二人連れ立ち、短剣を握りしめ階の先をゆく。そのなめらかな岩塩の階段を蹴る音、くぐもって響く地上を吹きすさぶ風の唸り声を除き、あたりには無音がはびこるばかりだった。人の気配がしない、と表現するのが一番的確なような。
 「こっちへ来てくれ!」さほど時間も経過しないうちに、階段の下から仲間の声が響く。声色は切迫していた。シェバは弾かれたように走り出し、不ぞろいな厚さの階をいくつも飛ばして、なかば滑り落ちるように仲間のもとに辿り着く。
 階段を下りた先は回廊に直結していた。その中央で先行した男のひとりが篝火を掲げている。
 えた臭いが、あたりに立ち込めていた。
 ちらちらと燃え盛る火のもと、岩塩は白みがかった褐色をやわらかな色合いに染め、ノミで削り取った痕がかすかなおうとつとなって、濃やかな陰翳を帯びていた。柱廊のあいまに置かれた聖母像は黙したまま、憂いのこもるまなざしで己の足許を見下ろしている。
 「彼女」の視線の先にあるのは、幾体もの折り重なった屍たちだった。もとは清潔であったろう紺色の長衣をまとい、その誰もが、目元から顎にかけての顔の大半を赤く染色した布で覆い隠している。塩の土地に住まう民で、顔を隠すのは群盲院に所属する者だけだ。
「……数日は経っているな」
「強襲されたのか。いったい、どこが……」
 床上にこびりついた血の痕を踏み越え、仲間が死体の検分をするのをよそに、シェバはその場に立ち尽くす。
 同胞の屍を前にした衝撃以上に、なにか見知らぬ感情が腹の底からこみ上げてきていた。
「……シェバ?」
 彼は回廊の奥に向かい、歩き始めた。眩暈でおぼつかない足取りのまま、何者かに導かれるように。やがては仲間の制止をも振り切り、走り出す。
 長い柱廊を渡った先では、膨大な空間が待ち受けていた。
 礼拝堂だ。壁際ではまだ、薄い皮膜を残した蝋燭がわずかな火を灯している。ちらちらと燃える火に、その広々とした場を照らすだけの力はない。かすかに、壁や床に刻まれた直線的な紋様の透かし彫りを浮かび上がらせているだけだった。
 あちこちに点在する屍を踏み越えながら、シェバの足はまっすぐに祭壇へと進んでいく。
 紫紺の布をかけた石製の祭壇では、ひとりの女が寄りかかるようにして死んでいた。なにか鋭利なもので腹部を貫かれたような痕跡があり、長衣には乾いた汚れがこびりついていた。目元はやはり赤い布で覆い隠し、肩からは豊かな黒髪が流れている。
「――――――アタルヤ」
 なぜ、顔も確かめぬうちに、彼女であることが分かったのか。シェバは彼女のもとに走り寄ると跪いて、顔を覆う布に指先で触れたが、それをめくるような真似はしなかった。
 彼の頭のなかを、熱い奔流が流れ出す。いつとも知れぬとき、降り注ぐ宝石の雨を浴びる少女の姿が脳裡をよぎる。
 そうだ、あれは。あの光景は。
 シェバはがくりと項垂れ、下唇をきつく噛み締めた。

 あれは夢ではない―――あれは「記憶」だ。

 血溜まりを踏み越えた先の祭壇。
 しゃらしゃらと降り注ぐ雨は塩の欠片。

 そしてあの時、アタルヤは"シェバ"を膝に抱くと、祈りを捧げたのだ。

  ○ ○ ○

 かつて、アタルヤとシェバは幼なじみだった。
 ついぞ口に出したことはなかったが、たがいに想い合う仲だった。
 天上の主が彼女から視力と奪い、異能を与えた事故は、結果的にふたりを引き離した。アタルヤは群盲院の一員という名誉を授かると、シェバのもとを去った。それでもなお、シェバは彼女のことを想い続けた。神殿に敵勢力の侵攻の兆しありという話を聞かされたときも、いちはやく彼女のもとに駆けつけた。
 そして、シェバは死んだ。
 アタルヤの膝の上で。
 襲撃を仕掛けたのは、岩塩資源に目をつけた異民族だった。
 かれらは神殿を掠奪し尽くしたのちに火薬によって地盤を崩壊させた。シェバとアタルヤが見た塩の雨は、そのかけらが降り注ぐ様だった。
 天井が崩れ、溢れだした陽光。その眩い光を乱反射しながら落ちてくる、無数の塩の破片。それらは透きとおった色をして、七彩に耀いて見えた。
 ――しゃらしゃらと鳴る、塩の雨。
「この運命を、退けられますように」
 ――高らかに響いた、少女の声。
 その声は、砂袋が水を吸い込むかのようなたやすさで、シェバの耳朶の奥に浸透し。そしてほとりと心の底に落ちた。
 冷たい手が彼の目元を覆う。やわらかく、甘い匂いがする。
「アタルヤ…………」
 手を伸ばすが、日に焼けた肌に指先が触れることは叶わなかった。
 彼女の与えた闇のなかで、シェバはおぼろげながらに悟った。
 神が彼女に与えた恩寵の正体を。

 そして、彼女が退けた運命の正体は――。
 
  ○ ○ ○

 塩の土地に暮らす民には伝承がある。
 われわれの生きる世界とは別の世界が存在する。それは過去の選択によって無数に分岐していったもので、星の数ほどあるという。それぞれの世界が交わることはなく、別の世界の存在を関知せぬままに人々は己の生を全うしてゆく。けれども時たま、別の世界の存在を観測する者が現れる。
 現世を映すことのできない代わりに、異なる世界を見つめる「目」。
 それが群盲院の発祥とされる。彼らは異なる世界を観測し、己の世界に限りなく近い未来を予見する。
 ゆえにかれらは権威を持った。同時にその力を異教の者たちは恐れ、迫害の要因ともなった。
 ――そしてシェバが推測するに、アタルヤはそのなかでもきわめて秀でた力を持っていた。
 塩の欠片が深く深く彼女の目を傷つけた代わりに――交わるはずのない世界を、近づける力を得た。
 事の顛末はこうだ。シェバを失った世界のアタルヤが、悲しみから、ふたりの交友が存在しなかった世界を交わらせた。そして、彼女はシェバが死ぬ運命を退けた。
 シェバが繰り返し見つづけた夢は、記憶だ。ふたつの世界が交わったために、死したシェバは消え。アタルヤが失った、「シェバ」の思い出だけが、自分のなかに残った。
「シェバ!」
 背後から強い力で肩を掴まれる。息を吹きかえしたように我に返って、シェバは同胞を振り返った。厳しい顔つきをした壮年の男が、じっとこちらを見つめていた。
「急ぎ、戻ろう。首長に報告をしなければならない。この襲撃は神殿に限った話ではないはずだ」
「……分かった」
 こくりと頷くが、未練のこもる瞳でシェバは女の屍を見つめる。
 ……今の自分に、彼女とのつながりは存在しない。
 けれども堰を切って溢れだした「シェバ」の記憶が、奔流となって、胸のうちを猛る炎で焼き尽くそうとしていた。それを振り切ろうとしても、行き場のない悲しみが膨れ上がる。その悲しみが誰のものなのか、もはや判別はつかない。やりきれない、と表現するのが精一杯だった。
「シェバ。……シェバ、行くぞ」
 再三呼びかけられ、シェバは渋々顔を上げる。
 ――これが彼女の望んだ未来だった?
 懐をさぐったシェバの手に、塩の花が転がり出る。数秒黙ってそれを見つめた後に、慎重な手つきで少女の膝上に置いた。

 ひび割れた天井の隙間から、薄明かりがこぼれ落ちている。
 わずかな光源のもとで、それは輝いた。

***

黒紅碧時さんのイラスト

Illustrator:黒紅碧時さんTwitterID

見たよ!
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