ウォンマガ夏フェス2015

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Theme:盲目の野百合

Author:久遠さんTwitterID

 どこからか澄んだ鈴の音が聞こえた。小さなそれは人々の喧噪に紛れては溶け、気紛れにまた鳴り響いては、玉響のように消えていった。もう夜も更けているというのに、普段は街灯も疎らな道端には煌々と灯りが灯り、其処彼処に飾られた花の香りが満ち満ちていた。今日は年に一度の特別な日だ。凍える長い冬に眠りについていた生命の目覚めを祝福する、豪勢で華やかな春告げの祭り。今夜ばかりは、全てが華やかに鮮やかに混沌と溶け合い混ざり合い、大人達の度を越えた馬鹿騒ぎも、子供達の夜更かしも黙認されるのだ。
 幼かった私は、母親に手を引かれて祭りの喧噪の中を歩いていた。どこを見ても必ず人の姿があり、それはそれは楽しそうに笑うものだから、私は存外に楽しい気持ちになった。ふいに、華やかな花の群に埋もれた視界に、ひと際目立つ長い行列を見つけた。行列のゆったりとした動きに合わせて透き通る鈴の音が転がった。色とりどりの鮮やかな着物の裾が、水中を泳ぐ魚の尾鰭のように、薄暗闇の中を優雅にたゆたっていた。
「母さま、あれはなに?」
「あれは、高槻家の行列よ」
 母は、厳かに続いてゆくきらびやかな行列を眺めて、眩しそうに目を細めた。高槻家。この街でその名を知らない者はいない。ずっと昔から街を統べる、由緒正しい名家。秀でた者ばかりが血を継ぐこの高槻家は、古くから緩やかに勢力を伸ばし続け、数々の事業で成功を収めていた。とはいえ、平々凡々な家柄の私達からしてみれば、彼らは雲の上の存在だった。
「末の御嬢様は今年で七歳になったそうよ」
「わたしと、一緒」
 手なんて絶対に届かないのに、重なった共通点が何だか嬉しくて声を上げると、母はどこか困ったように笑った。
「そうねぇ。でも、あそこはうちと違うから」
 ささやかな母親の声は、私にはもう届かなかった。それよりも、目の前の光景に、心の臓を鷲掴みにされたような衝撃に打ちのめされていた。長い長い行列のちょうど真ん中で、付き人のような女性が豪奢な花傘をさしていた。その下を、背筋を真っ直ぐに伸ばして歩いてゆく小さな人影が見えた。ひと際強い風が吹いて、咲き誇る花海棠の紅色の花弁が吹雪のように舞い上がり、花傘の影に隠れていた顔(かんばせ)が露わになった。その瞬間、全ての音が掻き消えて、呼吸の仕方すら忘れて、私はその少女を見つめた。透き通るような白磁の肌に、血のように鮮やかな朱色の上質な着物。腰まで届く艶やかな長い黒髪は淡く燐光をまとっているように見えた。美しい少女だった。ふと、流れるような仕草で少女が顔を上げた。透き通った硝子玉のような双眸と視線が絡み合い、すぐに、離れた。行列が背を向けて粛々と歩いていってもなお、私は少女から視線を逸らすことが出来なかった。しゃん、と小さく鈴が鳴った。その音にようやく我に返って、私は母の手を強く握り締めた。
「野百合様よ」
 私の視線を辿って母はそう言った。のゆりさま、と音を口の中で転がした。響きに胸が満たされてゆくような心地がした。



 次に私が彼女と再会したのは、女学校の高等部に入ってからだった。それまで私は共学の学び舎に通っていたのだが、成績が極めて優秀とのことで、高等部から女学校へ編入することになったのだ。造形は古いが白く清潔な渡り廊下を歩くと、広い中庭に花海棠が爛漫と咲き誇っていた。その幹の側に佇む彼女を見つけた時、九年前の夜のことを、まるで昨日のことのように鮮明に思い出した。
「野百合様」
 思わずそう呟いていた。彼女は視線をゆっくりと此方に向けた。あの夜と同じように、透き通る硝子玉のような双眸と視線が絡んだ。その瞬間、微かに感じた違和感に私は首を傾げた。星を散りばめたような、どこまでも深い、透き通る黒い眼差し。まるで、空っぽの、ような。
「だぁれ?」
 初めて聞いた彼女の声は、想像と違わず澄んで響いた。艶やかな黒髪に、頭上から降り注ぐ紅色の花弁がはらりと舞い落ちた。華奢な肩を、腕を、指先を、ひらひらと滑り落ちては、足元に紅色の絨毯が降り積もっていった。
「巴鈴子です」
 彼女はゆっくりと瞬きをした。目から細やかな星屑が零れ落ちてゆきそうな、粉々に砕いた硝子を敷き詰めたような、不思議な色合いの瞳だった。そこで私はようやく違和感の正体に気がついた。彼女は私を見ているようでどこも見つめていない、こんなに近くにいるのに視線が合わない。―――野百合は、目が見えないのだ。
「鈴子」
 名を呼ばれて、私は無意識に野百合のほっそりとした手を握った。指先から伝う熱に、鷲掴まれた心の臓が鼓動を刻んだ。細くて、脆くて、美しい、野百合の手だった。
「決めた。私、お前がいいわ」
 野百合は無邪気にそう言った。理由なんて分からない。けれど私は、その言葉に強く頷いていた。
「はい。野百合様」
「野百合って呼んで頂戴。そういう話し方も嫌」
「……うん。野百合」
 はらはらと、頭上から花海棠の花弁が降り積もっていった。紅色の花の海に溺れて、私と野百合は見つめ合った。
 野百合は透き通る眼差しに私を映したまま、夜空を切り取ったようながらんどうの瞳で、美しく微笑んだ。



 野百合は美しく、聡明な少女だった。紙の上を淀みなく滑る彼女の指先を眺めながら、私はぼんやりと呟いた。
「野百合は、何でも出来るのね」
「そうかしら」
「高槻は、皆、そうなの?」
 野百合はふと手を止めて、私をじっと見つめた。見つめた、と言っても、実際に視線が合っているわけではない。野百合が見ているのは盲いた世界だ。けれどどうしてか、野百合はいつだって、私が居る場所を正確に見つめた。
「高槻は、万能ではないわ」
 その言葉が普段の野百合らしからぬ重さを持って響いたので、私は目を瞬いた。
「でも、野百合は何でも出来るでしょう」
 実際、私の知っている限り、野百合に出来ないことはなかった。勉学はもちろん、運動、料理、刺繍、書道、茶道、華道に至るまで、野百合は何でもそつなくこなした。私にとって野百合は、この世の何より美しく、正しく、崇高な魂を持つ人だった。
「出来ないことは、出来ないわ」
 野百合がそう言ったことが意外で、私は首を傾げた。野百合が出来ないことがあるというのなら、それはきっと誰にも出来ないことなのだ。
「野百合は大丈夫よ」
「なぜ」
「私がいるもの」
 野百合は目を瞠った。傲慢ではなく、その時の私は本当にそう思っていた。容姿も家柄も、外ではほんの少しは秀でていたと思っていた成績もここでは中の中ほどで、何もかも平々凡々、特筆すべきところなど何ひとつ持たない私だったけれど、ただひとつ、これだけは確かだと思うことがあった。
 高槻野百合は美しい。
 私は、この美しい少女を守るためなら、命だって躊躇いなく差し出すだろう。
「……そうね。私には、鈴子がいる」
 小さく、けれどしっかりとした声音で囁いて、野百合は微笑んだ。その微笑みがあまりにもやさしくて、愚かな私は気づかなかった。
「万年筆、変えたの?」
 きっかけは、些細なことだった。野百合の手元を見て、私は何気なくそう零した。お気に入りなのだと、嬉しそうに見せてくれた万年筆がなくなっていた。艶やかな朱塗りの、美しい万年筆だった。たしか、誕生日に二番目の兄から貰ったのだと話していた。
「……ええ」
 野百合は何でもないことのように短く答えた。ひとつの物を大切に長く使う野百合にしては珍しいことだった。ほんの少し引っかかるような気がして、けれどそれが何か分からなくて、私はただ、新しく野百合の指先に馴染むそれを見つめることしか出来なかった。

 違和感が誤魔化しようのないほどに膨らみ始めたのは、その数日後だった。
 野百合の教科書が消えた。野百合は家に忘れたのだと言った。使っていた万年筆がまた消えた。筆箱が消えた。内履きが消えた。野百合の持つあらゆる物が消えて、屑籠から発見された。泥水の中に鞄の中身が散りばめられていたこともあった。野百合はそれに気づかなかった。なぜなら、野百合は目が見えないのだから。けれど、暗闇の中で息を潜めて、襲いかかる瞬間を待っている憎悪を、醜い感情を、聡い彼女が気づかないはずがなかった。
 子供は、自分とは違う存在に敏感で、無垢で、それ故に残酷だ。彼女らは、野百合を自分達とは異なるものと認識し、暗闇の中で静かに、虐げることにしたのだ。
 ある日、焼却炉に塵を捨てに来た私は、朱塗りの万年筆を見つけた。筆の真ん中あたりでぱっきりと折れたそれは、ところどころ煤けて、元来の艶を失くして薄汚く転がっていた。これは兄に貰ったのだと嬉しそうに話していた野百合の笑顔を思い出して、身体を巡る血が沸騰しそうだった。
 悪意は際限なく膨張していった。ある日、廊下で幾人かの女学生とすれ違った。普段ならば何とも思わない、話したこともない女学生達のくすくすという笑い声が、やけに居心地悪く耳に響いた。教室に戻った私は、そこに野百合の姿がないことに首を傾げた。後ろから入って来た教師が、平淡な声音で告げた。知らせを聞いて、私は教師の制止も聞かずに学び舎を飛び出した。頭の中が真っ白になって、ただ、行かなければと、それだけだった。
 野百合が階段から落ちたのだ。

「大袈裟だわ」
 辿り着いたのは普段ならば尻込みしそうなほど大きなお屋敷で、門前払いになりそうなところ使用人を蹴飛ばす勢いで無理矢理入り込もうとした私を、呆れたように諌めたのは、聞き慣れた澄んだ声音だった。長い坂道を駆け上って来たせいで荒く乱れた呼吸を必死に宥めながら、長い長い廊下を歩いて奥の間に通された。天井も幅も奥行きも広い空間だった。窓際にぽつんと置かれた豪奢な椅子に腰かけて、野百合は開口一番に先程と同じ言葉を口にした。大袈裟だわ、と。
「……どうして」
 訊きたいことは沢山あるはずなのに、いざ口から零れ落ちたのはそんな囁きだった。幸い目立った外傷はなかったが、美しい野百合の額に巻かれた真っ白な包帯を見て、焼却炉で万年筆を見つけた時と同じような激情が私の中に渦巻いた。激しい怒りに言葉の端が震えた。そんな私を見つめて、野百合はいつもと変わらぬ態度で静かに言った。
「足を滑らせてしまったの」
「……だれかに、」
 背を、押されたのではないの。
 続く言葉は声にはならなかった。言ってしまえば、野百合を傷つけるものの存在を認めてしまうような気がした。胸の内では苛烈な激情が渦を巻いているのに、どうしてか、声を上げて泣きたくなった。
「鈴子」
 微かに甘く、笑みを含んだ声音だった。この声に名前を呼ばれるのが好きだった。
 揺らめく視界を隠すように俯いていた顔を上げると、あの、どこまでも透き通ったがらんどうの瞳と目が合った。野百合はゆっくりと椅子から立ち上がった。艶やかな長い黒髪が動きに合わせて滑らかに揺れた。こんな時でも、野百合は凛と背を伸ばして、毅然と佇んでいた。華奢な肩越しに、窓枠いっぱいに零れ咲く花海棠が見えた。
「大丈夫よ。どんな言葉だって、ほんの少しも私を傷つけられやしないわ」
「だって、」
「私には、鈴子がいるもの」
 溢れる激情に震える声音を遮って、野百合は告げた。野百合は迷いのない足取りで真っ直ぐに歩いて来た。透き通る眼差しに射抜かれたまま、動けないでいる私を、野百合はそっと抱き締めた。
「あなたは綺麗よ」
 囁きと共に、野百合は私を抱き締める腕に力を込めた。触れ合う箇所から野百合の熱が伝った。息を吸い込むと、今まででいちばん濃く、野百合の匂いがした。やさしくて甘い、野百合の匂い。この匂いを、熱を、憶えていようと思った。
 この花は、ただの百合ではない。強く美しい、野に咲く百合だ。
 目を瞬くと、熱を込めた滴が眦から零れ落ちていった。窓の外を風に乗って滑り落ちてゆく紅色の花弁と同じように、はらはらと、ただ、静かに。私は声を失くして、溢れては零れ落ちてゆく想いいっぱいに、野百合を抱き締めた。



 紅色の花海棠が美しく咲き誇る、春。私はいつの間にか馴染んでいた女学校を卒業した。
 ふと視線を隣に向けても、そこに野百合はいなかった。美しい彼女は、三度目の花海棠が蕾を開く前に、遠くの街へ行ってしまった。教師からは御両親の転勤だと聞いた。本当のところは、誰も知らなかった。
 一度だけ、野百合から手紙が届いた。真っ白な紙に本文はなく、ただ、紅色の花弁を押し花にしたものが入っていた。野百合とは、それきりだった。
 私は女学校を卒業した後、街の小さな商社に就職して、そこでやさしい恋人も出来た。けれど、ふとした瞬間、あの美しい少女のことを思い出すのだ。微かに甘い笑い声と、凜と伸びた美しい背中。鈴子、と澄んだ声が名を呼ぶ、その響きが好きだった。ほっそりと華奢な指先が流れるように動く仕草も、艶やかな長い黒髪も、少女を象る全てが愛おしかった。
 いなくなった少女の残滓を掻き集めて、私はそぅっと目を閉じた。少女と同じ盲いた世界に身を浸して、私はただ、たったひとりの幸いを祈った。

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鳴海マイカさんのイラスト

Illustrator:鳴海マイカさんTwitterID

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