ウォンマガ夏フェス2015

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Theme:彼岸のもろい土を踏む

Author:饗庭璃奈子さんTwitterID

 低速な風に煽られて、洗いたてのシーツがゆったりとふくらんでいる。洗剤のあまい匂いと、微かな潮の香が交じり合って、鼻先を優しくくすぐる。金色の日差しを受けてまぶしいくらいにはためく白に、ハビテは目を細める。
 気分は上々だった。庭に水をまくのは朝起きてすぐにやり終えたし、洗濯物もいま干したシーツで最後だった。小さな庭いっぱいに咲きほこる、赤や白や紫や、いろんな色のアネモネの花は、透明に光る水の粒子をまとって、ひとつひとつが稀有な鉱石のようだった。すがすがしく晴れ渡った空の下、エメラルドの海も、きらきらとひときわ輝いて見えた。
 たまには、おやつでも作ってみようか。と、ハビテは上機嫌に考える。幸い今日は休日だった。作るのは、今日の爽やかな陽気にぴったりな、宝石みたいにつややかに光るオレンジのタルト。紅茶はそれに合うように、ベルガモットの香りがふくよかなアールグレイがいい。
 日曜日。この島に住む人々の多くが教会へ行く日だけれど、ハビテは行かない。ハビテは無宗教なのだ。でも、彼は敬虔な信者だった。宗教家としての彼は、教会に通う誰しもが一目置くような、そんな聡明で、穏やかな人だったと人づてに聞いた。
 辺りを見渡し、完璧な手筈に満足する。颯爽と、花咲く庭をあとにする足取りは、浅瀬の波間を踏むように軽い。

 元々、この家も庭も、ハビテのものではなかった。けれど、ユハニ・アルミラがいた頃から、家の中の様子はちっとも変わってはいない。何か少しでも違えてしまうことを、ハビテが望まなかったのだ。朝起きて、見渡す部屋が昨日と寸分変わりないことは、いつもわずかばかり、ハビテを安堵させた。家具が埃を被ってしまわないように毎日掃除はしたけれど、それ以上、ハビテは家の一切のものに、手を付けようとはしなかった。
 道路へ飛び出した子供を、かばったのだそうだ。
 あの男が、こんなにもあっさりと死んでしまうだなんて、思ってもみなかった。ユハニはいつも自信に満ちあふれていたし、実際にして様々なものに恵まれていた。おまけに死に際にまで美談がついて、見かけばかり絵に描いたようなその生涯は、いっそしらじらしいほどだった。家から一歩外に出れば、大概のことは難なくこなしてしまう彼が、ひとりの子どもを助けるために支払った対価はあまりに重く、世界を回す歯車のたがが外れて、狂ってしまったとしか思えなかった。
 こんな時、ユハニと戸籍上は無縁の、世間的にはただ少し彼に目をかけて貰っていただけに過ぎない身寄りのない少女は、無力だった。ハビテには一切の手出しが叶わぬところで着々と準備は進み、男の葬儀はそれは盛大に執り行われた。葬儀には、島のほとんどの人間が参列した。あの人は奔放ではあったけれど、人望には厚かったのだなと、今更のように思い知った。惜しい人を亡くしただの、彼という人間にふさわしい誠実な行動を取っただの、口々に好き勝手なことを言って、人々は男の早すぎる死を悼んだ。その日、葬られたのは、完全無欠で非の打ち所のない、敬虔なユハニ・アルミラだった。
 ハビテの知るユハニは、そんな完璧な人間ではなかったのだ。彼の立ち居振舞いは確かに堂々として、気品すら漂うものだったけれど、他の多くの人間がそうであるように、彼も家では取り繕うということをまるでしなかった。家事はからっきしで、自炊なんてもってのほか、住まいだってハビテが手を入れるまでは埃だらけで、空き家と見紛うばかりの有様だった。端的に言ってしまえば、彼はあらゆる才と引き換えに、生活力というものが決定的に欠落していたのだ。大きななりをして甘えたがりで、あまり構わずにいるとすぐに拗ねてしまうし、彼の好きな鉱石たちと向き合う時の楽しげな、真剣な表情は、子供じみてさえ見えた。島の岸壁からは、この島特有の鉱石を、たくさん採掘することができた。
 ハビテにとってユハニは、頼りにはなれど手のかかる大人で、その彼が、完全無欠な存在として世間から祭り上げられるほどに、遠い、雲の上の存在となっていくような気がした。そしてそれは本当のことで、世界中手を尽くして探しまわっても、彼はもうどこにもいないのだった。
 男に万が一のことがあった時、島の家と遺産がハビテの手に渡るように、公式に遺言状が残されていたことを、彼がいなくなってはじめて、ハビテは知った。
 嬉しくなどなかった。どんな財も彼がいなければ、ただ生き長らえるために消費されていくに過ぎないものだった。家中の何を見ても、彼と過ごした思い出が蘇ったし、彼がいなくなってしまったという事実をナイフのように突きつけられるだけだった。
 たとえば、珍しい鉱石を飾った戸棚や、ガラスケース。彼自身が島の岸壁を掘削して、手ずから採集したものだ。泥や褐鉄鉱にまみれた鉱石が、骨張った大きな手によって美しい本来の姿を取り戻していくさまを、ハビテはよく、隣で眺めたものだった。土埃の下から、はっとするような、思いもかけない色や質感が現れる瞬間は、少女の瞳に目新しく映ったし、ハンサムな横顔を心ゆくまで眺めていたかったというのも、正直なところだった。
 あるいは本棚に、それだけは整然と並べられた、古ぼけた子供向けの絵本。どう考えてもユハニには似つかわしくないもので、どうしてこんなもの後生大事に持ってるんですか、とからかい半分に尋ねてみたことがある。すると、彼は別段気を悪くしたふうもなく、幼い頃に両親が買い揃えたくれたものでね、どうにも捨てられないんだ、と苦笑した。以来、ハビテにとってもその古ぼけた絵本たちは特別で、大切なものとなった。
 ひとりには広すぎるテーブルも、そのままだった。
 ——このテーブル、一人暮らしには大きすぎたんだね。ハビテが来てくれるようになるまで、気がつかなかったよ。
 ハビテが足繁くこの家を訪れるようになった当初、ユハニは嬉しそうに言った。大きすぎる、という感覚が、その時のハビテにはいまひとつ、実感として湧かなかったのだけれど、ハビテひとり取り残されたテーブルはなるほど味気ないもので、むやみやたらと広大な面積を、寒々しく晒していた。そんなこと、わかりたくはなかった。
 タルトが焼けるのを待つあいだ、ハビテは自分の椅子に腰かけて、テーブルを挟んだ向かい側の、今は主を失った椅子を眺めていた。それも、ハビテが片付ける気になれなかったもののひとつだった。これから先、そこに座る人間は誰もいないのに、一人分の席だけがきっちりと確保されているというのは、酷くいびつな光景だった。いなくなった彼の体積分、空間にぽっかりと穴が開いてしまったかのようだった。壁かけた時計が刻む針の音が、酷く耳障りだった。耐えかねて、ハビテは耳を塞ぐ。うるさい、うるさい、うるさい。
 焼き上がったタルトの生地にクリームを詰め、シロップ漬けのオレンジも綺麗に並べて冷蔵庫に寝かせてしまうと、ハビテは出かけることにした。

 男の亡骸は、島の東の高台の一角にひっそりと埋葬されていた。長閑な島の暮らしにおいても、とりわけ人の寄りつくことの少ない場所だった。
 教会と並んで島の象徴とされる、世界で最も美しいロケット発射場と名高い宇宙センターからほど近く、騒音を考慮して、周囲に民家が建てられることはなかった。そのため手つかずの濃密な自然に囲まれており、海に面した切り立った地形からは、すきとおった珊瑚礁の海を見渡せた。晴れた日には、新しい一日のはじまりをも目の当たりにすることができた。
 輝かしい経歴からはかけ離れたひなびた佇まいもまた、彼自身の遺志によって望まれたものだった。偶然にも行きすがる人がいたとして、かの敬虔なユハニ・アルミラがそこに眠っているなどとは、誰も想像だにしないことだろう。
 ハビテがはじめてその場所で夜明けを迎えたのは、男の遺骨が土の下に納められた翌朝のことだった。彼の遺した最後の一片から、どうにも離れがたく思われて、ハビテはその最初の晩を、もの言わぬ墓石の傍らで明かした。寝るつもりなどなかったのに、膝を抱えてうずくまっているうちにいつのまにかうつらうつらと船を漕いでいて、辺りが明るんできたことに気がつくと、夜明けと共に小鳥のように目を覚ました。明け方の大気はしんと冷えきって、その張り詰めた静寂に、ハビテは思わず息を潜めた。
 低い空が白み、夜の名残の群青に、ほのかな琥珀がまじる。水平線の一点がにわかに輝きを帯び、空と海との境界に、ハビテはじっと目を凝らす。光は次第に弧を描き、明確な円形を成していく。日はゆっくりと、確実に昇る。絶え間なくさざめく海は、波音さえも静けさに満ちて、厳かな黄金色にたゆたう。
 目前に広がっていく静謐な朝が、まるで残された自分への彼からのはなむけのように思われて、ハビテはようやく声を上げて泣いた。泣き濡れた頬を包む、その日最初の日差しはあたたかく、彼の節くれ立って優しい、大きな掌を思い起こさせた。死してなお、彼がハビテを守り、ともすれば立ちすくんでしまいそうな痩せぎすの背中を、前へ、前へと押し出そうとしてくれているようだった。送り出さなければならないのはこちらのほうだというのに、一体あの人はどこまで、格好つけたら気が済むんだろう。
 慎ましやかな痛みを抱いて、それでも少女はなお、生きているのだ。

 その場所の土にふれると、彼の体温がまだ鮮やかに肌に伝わるような気がした。
「こんにちは、ユハニ。また、来てしまいました」
 やわらかく光る草地に膝を突いて、ハビテは囁く。坂を上り、不意に開けた視界の先で、海はその日も穏やかな表情を見せていた。きらめく海の上を、カモメやウミネコの群れが、のどかに飛び交っている。どこかで彼が困ったように笑う気がして、ハビテもおかしくなって笑った。
 ねえ、ユハニ。今日はとても、素晴らしい日なんです。気候は穏やかで、風もちょうどよくって、とても気持ちがいいんです。庭の水まきは朝一番に済ませてしまいましたし、干した洗濯物からは石鹸のいい香りがしました。水滴を乗せたアネモネの花たちは、あなたが見つけてくる鉱石みたいに光っていました。ほら、見て下さい。一輪詰んできてみたんです。どうです、すごくきれいに咲いているでしょう。
 ふと、辺りに地響きが起こる。轟音と共に地面が揺らいでも、ハビテは動じない。じきに、ロケットが発射されるのだ。宇宙センターからほど近いこの場所では、その時が近づくと大地が地鳴りのように震えることも、珍しくはない。
 ねえ、聞いてください、ユハニ。今日はね、おやつも作ってみたんです。オレンジのタルト、あなたも好きでしょう。帰る頃にはきっとよく冷えているでしょうから、アールグレイの紅茶といっしょに、いただこうと思って。
 でも、おかしいですね。あなたがいないんです。あなたがいないだけで、どんなに素晴らしい出来事も、ちっとも素晴らしいように思えないんです。ねえ、ユハニ。おかしいですよね、ユハニ。今日はとても、素晴らしい日なんです。その、はずなんです。
 ——ドオン。
 ひときわ大きな音がして、島の大気が震えた。ロケットが、打ち上げられたのだ。礼砲のように厳かに、音は島の大気を震わせる。事実その音は、島の人々にとって、あるひとつの区切りの意味をも持つ。
 また、時が過ぎる。あの人が、遠ざかってしまう。拒むように、ハビテはくり返す。代わり映えのしない日々をくり返す。天高く、あの人のところへ昇っていくように高く、ロケットが飛んでいく。優美な曲線を持つ宇宙の乗り物と共に、遺された彼の体温までもが失われていくような気がして、逃すまいと、ハビテの細い指はほろほろとした土くれを搔き抱く。
 ああ、魂とは透明な毒のようだ。それらは空中で煌めき、交差し、少女を冒す。
 少し、泣くべきなのかもしれない。けれど、涙などとうに枯れた。彼との記憶はあたたかな虚無となって、今も少女の心をうつろな海で満たしている。
 ねえ、ごめんなさい、ユハニ。今日もあなたが好きでした。

***

空野さんのイラスト

Illustrator:空野さんTwitterID

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