ウォンマガ夏フェス2015

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Theme:いつか朽ちるひかり

Author:玉蟲さんTwitterID

 戦争が終わった。待ち望んだ朗報に、あたしはパーティを期待した。すると同僚のハウスメイドのエマは大きくため息を吐く。
「ルイーズあんたね……パーティ、パーティってそればっかり」
「えっ? エマだって楽しみにしてるでしょ?」
 ヴィクトリアお嬢様の部屋の暖炉に石炭を足しながら、あたしは唇を尖らせる。ハートリー・パークとその主人の威光をもってしても、冬の寒さは退かないのだ。線が細くてか弱そうで、天使もかくやというお嬢様が風邪を引いてしまっては心が痛む。
 手際良く始末を終えて、次の部屋へ。ルートは既に身に染みつき、迷うこともなくなった。家政婦ハウスキーパーのミセス・マクレガーの無駄嫌いは大旦那様の受け売りで、だから私語もひっそりと交わされる。
「浮かれてられないわよ。……ライオネル様がお戻りになるまでは」
 エマの囁きにあたしは肩を竦める。ライオネル様は、大旦那様ことメイヤー侯爵の孫で、次期当主様だ。出征前のパーティで、赤い軍服の美青年と、若草色のドレスのお嬢様が並んだ姿を思い出す。仲睦まじい兄妹の再会を、あたしだけじゃなく階下の皆が望んでいるだろう。
「でもライオネル様は指揮官でしょ? 前線にはそうそう……」
 出ないわよ、と言い終える前に、メイドの一人が部屋に駆け込んできた。
「ルイーズ、エマ! ミセス・マクレガーがお呼びよ。急いで!」
 青ざめた同僚の顔を見て、あたしたちは慌てて階下に戻る。ああ、神様! 嫌な予感を打ち消すように、あたしは手早く十字を切った。けれど、執事のミスター・ローグが告げたのは、あまりに残酷な事実だった。
「ライオネル様が戦死なさいました」
 彼は眼鏡を押し上げ、黒枠の手紙を読み上げる。ライオネル様がどこで戦い、どう亡くなったのか、あたしの頭には全く入ってこなかった。ただ、ヴィクトリア様の陶器人形ビスクドールのような顔が曇るのは嫌だなあ、とぼんやり考える。
(あんなに、お兄さんの帰りを待っていたのに)
 お嬢様は二日と開けず教会に通い、祈りを捧げていた――この三年間ずっと。あの賢明な祈りに絆されないなんて、神様は意地が悪い……っと、あたしの舌が毒に満ちてしまいました、お許しください。
「大旦那様もヴィクトリア様も、ライオネル様の死に気落ちしておられる。皆も同じだろうが、ライオネル様の葬儀の準備に忙しくなる。一層、心して励むように」
 はい、と応じる声は自然と重くなった。後日渡された喪章は絹のリボンなのに、鉄の鎖のようだった。
 ――戦争が終わった。待ち望んだ朗報に、パーティを期待したあたしはなんて罪深いのだろう。
 跡継ぎを失ったメイヤー侯爵家は、あたしたち階下の人間は、どうなるのだろう……?

「別に、今まで通り職務を全うするだけよ」
 長い黒髪をとかしながら、エマは淡々と言い切った。ランプに照らされてつやつやと光る頬、通った鼻筋。丸顔で、そばかすだらけで、おまけに癖の強い赤毛のあたしにとって、エマは憧れの美人だ。はっきりとした物言いが敵を生んでしまいがちなのを、当人も気にしているらしく、こっそり懺悔帳をつけているのをあたしは知っている。
「すごい……。あたしもそれくらい割り切りたい」
 枕を抱え、ベッドに転がっているとエマに睨まれる。
階上うえ階下ここは別世界。知ってるでしょ」
「そうなんだけど……」
 メイヤーの大旦那様は、跡継ぎ息子すら追い出す方だから、あたしなんかすぐにクビになる、と家族には笑われたけど、何とか三年続いている。  メイヤー家は雲上の存在で、あたしの心配には一ペニーの価値もないけど、辛い目に遭って欲しくない。働き口がなくなって、お給金が絶えるのも困る。あたしはいつかロンドンに出て、良い人を見つけて結婚して、何か店を持てたら良いなと考えているのだ。
「ヴィクトリア様もいらっしゃるわ。喪が明けたら結婚式でしょう」
 お嬢様は十七歳で、婚約者がいる。大旦那様の甥のご子息のアレキサンダー様だ。ライオネル様の幼馴染みで、整った顔立ちと気さくなお人柄で有名だ。彼はふらりと階下に現れて、珍しいお菓子や小物を配ってくださる。化粧箱に入ったフランス香水の小瓶やバラの石鹸は彼の贈り物の一部で、あたしのお気に入りだ。
「ヴィクトリア様には幸せになってもらいたいなあ」
「毎日言ってるわね、それ」
「エマだってそう思うでしょ!?」
 お嬢様は、追い出された旦那様がメイドに生ませた私生児で、お屋敷に戻られるまで修道院にいらしたのだ。つまりライオネル様とは腹違いのご兄妹。加えて、絹糸のような黒髪に神秘的な菫色の瞳、バラ色の頬の儚げな美少女だ。長く神様にお仕えしているせいか謙虚で、控えめで、非の打ち所がない。もし小公女セーラが実在するなら、それはヴィクトリアお嬢様に違いない。
「はいはい、明日も朝が早いんだからそれくらいにしてよ。ランプ、消すわよ」
 エマの呆れた目線が突き刺さる。あたしはわざとはぁい、と間延びした返事をしてベッドに潜り込む。
 エマのため息を聞きながら、お嬢様のことを考える。不思議と、不安が消えていくような気がした。



「やあ、ヴィクトリア。気分はどう?」
「わざわざありがとう、アレク。大分良くなったわ」
 立ち上がったお嬢様がふらつく。あっ、と私が声を上げ、手を差し出すよりも早く、青年の腕が少女を支えた。
「ごめんなさい、見苦しいところを……」
「いいや、女王陛下に頼られるなんて光栄だよ」
 そんな、と恥じ入るお嬢様の黒髪ブルネットに、青年の指が絡む。少女の頬にさっと赤みが差し、瞳が潤んだ。控えめなノックの音に私が応じ、メイドがお茶の準備を始めた時にはもう、二人の間には適度な距離があった。
「ミス・スタンリー、君がついていながらヴィクトリアに無茶をさせたね?」
 席に着いた青年――アレクサンダー・キングにからかい混じり詰られ、私は「申し訳ありません」と頭を下げた。
「アレク、エルザを責めないで。私が言うことを聞かなかったの」
「そうかい? でも気分が悪くなったらすぐに言うんだよ」
 青年の気遣いにお嬢様はこくんと頷き、カップを口元に寄せた。
 ライオネル様の葬儀の後からお嬢様は塞ぎ込み、寝台を離れられぬ日が続いていたのだが、今の少女の顔に病の翳りはなかった。
「それにしても、お爺様まで倒れてしまうとはね」
 キング氏は顔を曇らせ、呼応するようにお嬢様も眉を下げる。明敏にして苛烈なハートリー・パークの王、パトリック・チャールズ・メイフィールド氏は齢六十五。だが、唯一の継嗣を失ったショックで、炯々としていた目が落ち窪み、屋敷に満ちていた厳粛さも、大旦那様の気配と共に薄れつつある。メイヤー侯爵不調の報は瞬く間に社交界に広がり、絶えず見舞い客が――取り分け若い男が訪うようになった。彼らの狙いは明確だ。即ち、ヴィクトリア様と、彼女に譲られるであろう侯爵家の莫大な財産だ。

 午後の和やかな時間を堪能したキング氏が暇を告げる。お嬢様が名残惜しそうに「またいらしてください」と微笑み、青年は礼儀正しく婚約者の手の甲に口づけを落とす。
「もちろん、貴女のためならいつでも」
 甘い囁きに少女が頬を染め、見送りを申し出たが、キング氏は首を振った。
「外も冷えてきた。無理は禁物だ」
 穏やかながらきっぱりと告げられ、お嬢様は大人しく引き下がる。代わって、侍女の私がキング氏を見送ることになった。
「ミス・スタンリー」玄関ホールに向かう道すがら、突如呼びかけられた私は肩を強ばらせる。「あまり僕を邪険にしないで欲しいな」
「……そう感じるのは、貴方に疚しいところがおありだからでしょう」
 私の反論に、青年の眉が跳ねた。素早く私の腕を掴み、壁際に追いやられる。間近に迫る秀麗な顔を睨みつけても、青年は動じた風もない。
「エルザ」彼は熱っぽく呼びかける。「僕が愛しているのは君だけだ」
「お戯れを。放してください」
 抵抗する私に、彼はお嬢様との婚姻は家の事情であり義務だと、哀れっぽく訴える――彼は、私が想いを拒むのは、身分に引け目を感じているせいだと、幸せな勘違いをしていた。
「大丈夫。君を決して悪いようにはしないから」
 彼は、貝のように閉ざしていた私の唇を容易く割って舌を滑り込ませ、私の意志を塞ぐ。
 やがて彼は何事もなかったように玄関ホールで別れを告げ、車に乗り込んだ。私が踵を返すと、偶然メイドと目が合った。黒髪を引っ詰め、神経質そうな目をした娘だ。確か名前は、エマ。
 彼女は顔を歪め、ふいっと背を向けて階下へと降りていった。私はため息を吐く。明日には、屋敷中の使用人が私の不貞を嘲うのだろう。
 
 スタンリー家の没落は一瞬だった。株の投資に失敗し、財産も住む家も失った両親は、私を弁護士の叔父一家に預けてどこかへ消えた。私は一家に馴染もうと手を尽くしたが、年毎に叔父から好色な目を向けられ、それに嫉妬した奥方から手酷く叱咤され、使用人として雇われた先々でも、同じ悲劇に見舞われた。緩く波打つ金髪に淡い湖水の瞳、花も褪せると賞賛された美貌は、最早呪いだった。
「お湯? そんなの自分で沸かしたら?」
 キッチンに出向いた私に、メイドが冷ややかに応じる。お嬢様の身繕いに使うと言っても、彼女は鼻を鳴らすだけで取り合わない。女の陰湿さにはうんざりだ。私が憤然とキッチンに背を向けると「うわっ」と声が上がり、視界を大量のリネンが覆った。
「あっぶなかったぁ」
 崩れかけたリネンを抱え直し、大げさに息を吐いたのは赤毛の少女だ。丸い目にそばかすの浮いた頬の線があどけない。
「ごめんなさい。邪魔をして」
「ううん。あたしも前見てなかったし」
 彼女は小さく舌を突き出し、立ち去りかけたが、不意に首を傾げた。「何かあった?」
 私は余程困った顔をしていたのだろうか。躊躇いがちに事情を話すと彼女は「あたしがもらってきてあげる」と請け負い、その通りにしてくれた。 「ありがとう」ほっとして告げると、なんのなんの、と少女は手を振った。
「――ルイーズ、何してるのよ!」にわかに飛び込んできた叱責はエマのものだ。「他人の仕事手伝ってる暇なんてないでしょ!」
 彼女は一度私を睨み、ルイーズの腕を引っ張る。ルイーズは苦笑すると、私にウインクをした。
「ミス・スタンリー、ヴィクトリアお嬢様によろしくね」
「ルイーズ!」
 はいはい、と妹を宥める姉のような風情でルイーズは去っていく。私はくすりと笑い、彼女に感謝した。ルイーズの行動が、今の私にどんなに沁みたか、彼女には分からないだろう。
 お嬢様の部屋に向かいながら、私は真実を打ち明けようと決めた。
 侯爵に、私とキング氏との間に起きたことを告白し、キング氏にお嬢様から身を引くよう、命じてもらうのだ。
 例え、屋敷を追い出されることになっても構わない。あのメイヤー侯爵が、私の悪名を知らぬはずがないのに、こうして雇われている。少しは私の言も取り上げてくださるだろう。
 今のお嬢様の想いを踏みにじってでも、本当の幸福を掴んでもらいたい――お嬢様を救うことで、私は自分を救おうとしている。
 神様、どうかお導きを。大旦那様が一刻も早く快復なさいますように。
 私はマホガニーの堅牢な扉をノックし、部屋に入る。
「お嬢様、お待たせして申し訳ありません」
 いつもなら一言あるはずなのに、応答がない。私は不審に思い、お嬢様の定位置である窓際に目を向ける。
「ヴィクトリアお嬢様?」
 呆然と立ち尽くしていた少女が、ゆっくりと振り返る。彼女の頬には既に幾筋か涙の跡があった。
「エルザ……お爺様が……」
 私はお嬢様に寄り添い、頼りない背を撫でる。少女が胸に縋りつき、嗚咽を奏でる中、私は張り詰めていた弦が切れる音を聞いた。私の足下が、瓦解してゆく……――



 沢山のフリルとレースがあしらわれたクレープの喪服は、大きなバッスルが目立つ。黒玉ジェットのイヤリングやネックレスを重ねて手袋を填め、ベール付きの帽子を被ったわたしは、旧時代の亡霊のようだ。
「悲しみを表すのに、ドレスは必要かしら?」
 祖父の死が兄のそれよりも悲しくないことに罪悪感を覚えながら、アレクを見上げると、彼は困ったように笑う。彼の青い瞳に、窶れた己の顔が映るのが嫌で、わたしは俯いた。
 家長を失い、重石の消えたハートリー・パークは、演奏者のいないヴァイオリンだ。楽器に魂がないのと同じで、この屋敷もただの抜け殻のよう。そうこぼすと、アレクは淡く微笑む。
「すぐに元に戻るさ。君はしっかりしているからね」
 祖父の葬儀を終えてから、アレクの訪問は頻繁になった。彼がいれば心強いし、他の見舞い客も婚約者の訪問には遠慮してくれる。
「アレクには感謝しているの。貴方がいなければわたしは……」
「大丈夫だよ」彼は私の肩を抱き、耳元で囁く。「これからはずっと傍にいる」
「……」
 アレクはいつでも優しく、わたしの欲しい慰めをくれる。
「ところで、遺品の整理は進んでいる?」
 彼は側に控えるエルザに聞こえぬよう、声を低めて問う。
「弁護士と執事に任せているわ。帳簿は彼がつけているから」
 わたしもまた、小さく返す。きっとエルザには睦言を交わしているように見えるだろう。
「それは良くないな。今は君が屋敷の主だ。使用人に任せきりにしてはいけない。きちんと管理しないと」
「でも、彼は信頼できるわ。あのお爺様が重用していたくらいだもの」
「侯爵に忠実だったからといって、君に対しても同じとは限らない。使用人は、時に驚くほど賢く主人を欺くものさ」
 そうだろうか……。私は執事の厳しい面立ちを脳裏に浮かべる。祖父に似て規律を好む彼に、不正の文字は似合わない。だが、世知に疎いわたしと違って、アレクはよく物事を知っている。どちらの判断に説得力があるかは明白だ。
「君がしっかり手綱を握らなくては屋敷は立ちゆかない。相談ならいつでも乗るよ」
「……ええ。ありがとう、アレク」
 彼の唇が手の甲に触れ、別れの挨拶を交わす。見送りは断られたので、エルザを代わりに送り出す。いつもなら、車に乗り込む前にアレクが手を振るのを確かめるのだが、この日は時間を空けてから、そっと部屋を出た。人気のない廊下で二人の姿を見つけ、慌てて隠れる。二人が交わす囁きに耳をそばだてると「愛しているよ、エルザ」と、彼の告白がはっきりと聞こえた。その彼の声音だけで、分かった。分かってしまった。
 アレクは優しいだけで、わたしを愛してはいない。

 祖父との関係は希薄だった。彼は私に修道女の『マリア』でなく、とうに死んだ嫡流の令嬢『ヴィクトリア』の人生を強き、ろくに会話もしていない。その代わり、兄はわたしに親身であった。侯爵家の権威に押し潰されそうになる度、救いを兄に、兄がいなくなってからはアレクに求めるようになった。彼は嫌な顔一つせず、わたしの不安を取り除くことに腐心し、それが愛の証なのだと信じていた。
(馬鹿みたい)
 アレクの、あんな陶然とした声を知らない。わたしには慰めを紡ぐだけで、愛を説いたことなどない。よく気をつければ分かったはずなのに、浮かれて、舞い上がって。
「お嬢様? 顔色がよろしくないようですが」
 わたしは、エルザを見つめる。月下美人の如き侍女は、長すぎる沈黙に首を傾げた。
「エルザ、あなた……わたしに話すことはない?」
 使用人は時に驚くほど賢く主人を欺くもの、というアレクの声が脳裏に蘇る。
「いいえ、何も」
「……そう」
 わたしは失望していた。エルザが真実を語らなかったことに。何より、わたしが彼女の経歴に憐れみを覚え、優しくできたのは、結局他人事でしかなかったからだということに。わたしはひとつ、覚悟を決めた。
「エルザ、今夜ミスター・ローグに部屋を訪ねるよう伝えて。屋敷の帳簿を持って、ね」
 侍女はわずかに目を見開いたが、抗弁せずに命をこなした。食事を終えてひと息吐いた二十二時頃、姿を見せた執事に席を勧める。
「ヴィクトリアお嬢様。わたくしめにご用でございましょうか?」
「帳簿の見方を教えて欲しいの。わたしが自由にできる財産はどれくらいあるのかしら」
 わたしの問いに、執事は眼鏡の奥、皺だらけの目を細める。
「お嬢様の手で管理なされたいと?」
「そうよ」
 わたしはミスター・ローグの眼光に負けぬよう、なるべく毅然と見返す。世間知らずの小娘が口を出すことに怒るかと心配したが、杞憂だった。
「よろしゅうございましょう。僭越ながらわたくしめがお教え致します。ミス・スタンリーにもお手伝い願えますかな?」
 突然協力を求められ、戸惑うエルザをよそに、わたしは胸を撫で下ろして微笑む。「頼みます」と二人に向かって頭を下げた。

「ヴィクトリア! 遺産を手放すとは本当なのか?」
 挨拶もなしに書斎に飛び込んできたアレクに、わたしは首を傾げる。かつての祖父の定位置に腰かけたわたしに、彼は「一体どうしたんだ」と半ば呆然と呟く。
「わたしが屋敷の主として、財産を管理すべきと忠告したのはアレクでしょう?」
「それはそうだが……」
「キング家の借金のことならご心配なく。こちらで処理します」
 珍しく取り乱した彼に、わたしは淡々と告げた。執事が言うには、アレクが『ヴィクトリア』に興味を持ったのはわたしが屋敷に入ってから。同じ頃、キング家の財政にも翳りが差し、帳簿には少なくない額の援助をした記録が残っていた。
「いや、君の手を煩わす訳には」
「アレク」わたしは慌てて弁明する彼を制して、続ける。「婚約も解消しましょう。あなたは、本当に愛する人と結ばれるべきだわ」
 ちら、とエルザに目線を向ける。アレクは虚を突かれのか、一瞬表情が抜け落ちた。だが、すぐさま「君は、分かっていない!」と吐き捨てる。つかつかと歩み寄り、机に手を突いた。
「栄えあるメイヤー侯爵家の伝統を、放棄するというのか?」
「ええ」
「どうしてもか」
「もう、決めたの」
 わたしの答えに、アレクはいらいらと頭を掻く。やがて、ため息ひとつこぼすと、丁寧に辞去の挨拶を述べて出ていった。後日届いた手紙には、婚約破棄に同意する旨が手短に記してあった。私情は、一切見あたらなかった。
(……これで、良かったのよ)
 愛の告白などされては、わたしの決意が揺らいでしまう。
 キング家の凋落は、執事の横領によるものだった。アレクの父親は、長年信頼してきた使用人の裏切りを、教訓として息子に吹き込み続けたという。
 祖父は、こうした親族の細々とした事情を綴った書状を執事に託し、わたしが望んだときだけ開封せよと言い残したそうだ。
 わたしは、ふと考える。祖父は最初から、わたしに屋敷を任せるつもりなど、なかったのかもしれない。
 情があれば、躊躇う。それは人から恐れられるハートリー・パークの主とて同じなのだろう。アレクの手紙を折りたたみ、瞼を伏せると、こぼれた涙がインクを滲ませた。祖父が生前、何度も握りしめたであろう、椅子の肘をそっと撫でる。わたしの役目は終わったのだ。
 その時、控えめなノックの音がした。訪ねてきたのはエルザだ。侍女は思い詰めた表情で、わたしを見つめる。
「お嬢様、お話がございます……」



 大旦那様の葬式の後、ミスター・ローグが書斎の整理中に遺言を見つけた。そこには遺産は全てヴィクトリアお嬢様に譲ると記してあった。
 けれどお嬢様は遺産を、ご自分のものにはなさらなかった。それどころかハートリー・パークも手放して、使用人に退職金を払い、残りは全て領内の教会に寄付すると告げたのだ。
 あたしたちはびっくり仰天した。まさかお屋敷そのものがなくなるなんて、考えたこともなかった。
「もちろん、皆には次の雇用先を用意します。最後の日まで、しっかりと勤めを果たしなさい」
 ミセス・マクレガーが垂れる訓辞を神妙に聞きつつ、あたしの頭にはいくつもの疑問が浮かぶ。あたしはここを去って、どこに行くのだろう? お屋敷も財産も失って、お嬢様自身はどうなるの?
 三百人はいる使用人の先行きが全て決まるまで、ハートリー・パークを維持するとはいえ、なくなると聞かされた日はふわふわして、ミスを出してしまった。あたしだけじゃなく、エマは大量の卵を割るし、ミセス・マクレガーですら客の来訪時間を間違えた。
 三日も経つと落ち着いて、大旦那様が生きてらした時と同じく静かすぎるお屋敷で、いつもの仕事を正確にこなす日々が戻った。朝の六時半に起きて炭を足し、ハタキをかけて手すりを磨く――この日常が、あたしの中から消えるのかと思うと、心なしか惜しくなり、いつもより入念に磨き続けては、エマに白い目で見られたものだ。

 とうとう屋敷を去る日が決まった、その一ヶ月後。階上の舞踏室を解放してパーティが開かれた。使用人全員が張り切って準備をし、それぞれ一張羅を着込んでお酒を空けていた。あたしも上等のクラレットのグラスを手にして、ミスター・ローグとダンスをしているお嬢様を眺めた。
 まだ喪は明けていないけど、最後だから、とお嬢様はいつか見た若草色のドレスで着飾っていた。家族も、婚約者も、お屋敷もなくなって、どうしてヴィクトリア様はあんな曇りない笑顔を浮かべられるんだろう?
 あたしがお嬢様を目で追っていると、同じようにお嬢様に視線を注ぐ人がいた。ミス・スタンリーだ。
 生真面目でお堅い彼女も、今日はお酒が入っているのか頬に赤みが差し、どこか上機嫌だ。あたしは人波を避けて彼女に近づき、声をかける。
「ご機嫌よう、ミス・スタンリー。お話してもいい?」
「ルイーズ」あ。あたしの名前、覚えててくれたんだ。「もちろんよ」
「キング氏と結婚するの?」
 あたしが単刀直入に尋ねると、彼女は思いっきり顔をしかめた。
「まさか。使用人は、彼の愛人以上にはなれないわ。……あなたは次へどこへ行くの?」
「ロンドン郊外のお屋敷。これからもメイド。ミス・スタンリーは学があるからもっと良いところにいけるんだろうなあ」
「そうでもないわ。人に雇われるのはこれで最後」
 どういうことか尋ねる前に、彼女はふと目元を和ませる。目線の先では、リールを踊り終えたお嬢様がちょこんとお辞儀をしていた。
「これからは神様に雇われるのよ。ヴィクトリア様と一緒にね」
「……そっかあ」
 あたしは、ミス・スタンリーの内情を知らない。だけど、今まで見た顔の中で、一番素敵な表情だった。
 エマは隣村のお屋敷を紹介され、ミス・マクレガーは退職金で仕立屋を始めると話していた。皆、自分の道を選んで進んでいく。もう、後戻りはできない。

 村を離れ、ロンドンに向かう日を迎えたあたしは、早めに家を出て、一目屋敷を見に行った。見晴らしの良いハートリー・パークは、村のどこからでも分かるけれど、どうしても近くで見ておきたかったのだ。
 門に近づくと、既に先客がいた。トランクを手にした二人の女性は、ちょうど立ち去るところだったらしく、振り向いた時に目が合った。ヴィクトリア様とミス・スタンリーだった。
 あたしがその場で膝を折ると、二人はくすりと笑い合い、同じように膝を折って会釈する。会話はなかったけれど、それで十分だった。彼女たちの背を見送って、あたしは屋敷の偉容を目に焼き付ける。
 屋敷は既に、メイヤー家でなくロンドンの実業家の某氏のものになっていた。戦争の余波で、屋敷を手放す貴族は多いらしい。その点、あたしみたいな庶民は気楽なものだとしみじみ思う。
 ――ハタキをかける時は、高価な絵皿や壷を割らぬように。手摺りの真鍮を磨く時は、ポリッシュを無駄にしない。リネンのシーツは角を合わせ、皺なくきっちり取り替える。ミセス・マクレガーの小言、エマやほかのメイドたちの笑い声。時に煩わしく、頼りになる彼女たちの面影が、脳裏でくるくると入れ替わる。代わり映えのしない些細な出来事を、はっきりと覚えている。
 さよなら、ハートリー・パーク。あたしの記憶の箱は、すぐに新しい物に埋め尽くされて、ここの思い出は時代遅れになるだろう。でも、決して捨てられはしない宝物だ。
 教会の時鐘が、列車の出発が迫っていることをあたしに知らせる。まずい、急がなくちゃ!
 あたしはぞんざいに屋敷に一礼し、踵を返すと駅に向かって一目散に走り出した。

***

三島花鶏さんのイラスト

Illustrator:三島花鶏さんTwitterID

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