ウォンマガ夏フェス2015

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Theme:針一本ぶん嘘ついた

Author:時幸空さんTwitterID

 一、

 家を解体していた。
 店へと向かっていた紙屋の店主は、解体現場の前で足を留めた。
 すでに屋根はなく、外壁もない。紙屋の立つ道路から見て奥の壁だけがぺらんと残っている。頼りなげな壁を、巨大なペンチがついたような重機が容赦なく千切ってゆく。残るのは瓦礫の山だ。
「他人の家の中が乱暴に暴かれている感じがなんとも……」
 紙屋を知らない者が聞いたらどうかと思うような独り言をつぶやき、つと眉を寄せた。
「そういえば、どんな家だったっけ?」
 昨日ここを通ったときにしっかりとこの家を見たはずだった。そろそろ食べ頃だと思ったのだから確かなはずだが、なぜ思い出せないのかと、店主は首をひねる。
 初夏のこの時期、この家の前庭の一角には苺が実をつける。小さく日当たりの悪い庭だが、よく手入れされているのか、苺の粒は大きく色も良い。昨日の出勤時も苺はあった。一昨日もあった。
 十年以上もこの家の前を行き来していながら、昨日までそこにあった家の本来の姿を、もはや思い出すことはできなかった。
 見えているようで、捉えていない。
 見ているようで、認識しない。
「我が儘なものだな、人の目というのは……」
 店主は廃材を乗せたトラックの横をすり抜けて、庭へと入った。
 果たして苺は、無事だった。でも時間の問題だろう。
 水色のワンピースのひだをつまむと、そこへありったけの苺を摘んで放り込んだ。
 ワンピースに苺を一抱え、紙屋店主は足取り軽く、商店街の中程にある店に向かう。
 町の教会が、正午を報せる鐘を鳴らした。


 二、

「六月ですねぇ」
 しごく当たり前のことを言いながら、勝手に煎れた珈琲を旨そうに飲んでいる馴染み客を、紙屋店主は「そうですねぇ」と適当に受け流し手元の作業に意識を戻した。
 枚数を数え、ばらつきを整える。
 百枚単位に帯をかける。
 帯には店の紋をあしらった印をもって封をする。
 その手の動きは淀みない。
 それは、原稿用紙だった。
 紙屋は、紙と名のつくものなら何でも売る店だ。
 便せんや封筒、ノート、メモ帳、半紙、画用紙、ラッピング用紙、コピー紙を始め、色紙、伝票、模造紙、紙やすり、段ボール、果ては紙コップやちり紙、トイレットペーパーまで。
 店内の棚にはそうした紙ものが店主にしかわからない法則で所狭しと並べられている。初めてこの店に足を踏み入れたものは誰一人例外なく、泥棒にでも入られたんですかと驚く。この店で片づいているのは、店奥にある二畳分の大きな作業台の上だけだ。飴色に艶めくその表面はどこまでもなめらかだ。
 今、この作業台の上にあるのは、金紙の帯をかけられた十束の原稿用紙のみである。
 紙屋の原稿用紙。
 それは、特別な意味を持つ。
 それだけで「ああ、あれね」と通じる。
 巷にはこの原稿用紙にまつわる噂がこれでもかと流れているからだ。
 ——紙屋の原稿用紙を使うと字書きになれる。すでに字書きである者は本が売れる。
 この噂がいつ頃生まれたのか、その時期も出所も定かではないが、今、売れっ子と言われる作家や歌人、俳人、脚本家たち商業字書きのほとんどすべてが、この紙屋の原稿用紙を使っているという事実が噂に拍車をかけている。
 噂を鵜呑みにした浅はかな若者たちが日々、原稿用紙を求めて訪れるが、そんな輩にも店主は原稿用紙を売る。彼らのうち何人かは実際に作家になった。そんな噂がまた流れるものだから、客は後を絶たない。近頃では、休日ともなれば押し寄せる客を一人では捌ききれなくなってきた。原稿用紙の調合ができるのは紙屋店主だけだというのが、目下、店主の悩みだ。
 この店が売るのは、大量生産されたメーカーの原稿用紙ではない。
 字書き一人一人に合わせて特別に調合したレシピで作られた、たった一つの原稿用紙なのだ。
 色や厚み、手触りの違う数百種類の用紙、紙の大きさ、一枚の文字数、罫線の形状と色、レイアウト、余白、そしてわずかな香り。使う筆記具の種類、インクの色、筆圧、それらすべての要素を考慮した上で、店主が作家に合わせて調合し、設計し、レシピを作る。レシピを元に印刷屋が印刷し、そして納品された紙を店主自らチェックする。
 作家が原稿用紙が求めると、そのときに必要な分だけを帯をかけて封じて売る。
 生きた言葉を捉える原稿用紙もまた生きており、買いだめはできない。使うときまでに劣化しないよう封印している。というのが常連客に対する紙屋の説明だ。
 本当のところを店主は語らないから、憶測を含めた噂話が一人歩きしてしまうのだろう。
 今では、噂が噂を呼び、紙屋店主は魔女だとさえ言われている。
「神森さん」
 作業台の隣に置かれた応接セットでくつろぐ馴染み客の名を呼ぶ。ちなみにこの壮年の男は、海外の有名な賞をいくつも受賞している某有名SF作家だ。
「お待たせしました。ご確認ください」
 客は読んでいた単行本を閉じると、ゆっくりと立ち上がった。古い革張りの椅子と、古い木の床が順番にギシギシと音をたてる。
 店主は帯封した原稿用紙を馴染み客の前に滑らせた。
「少しですがレシピを改めました。わずかですが、罫線の色を淡くしました」
「ああ、いいね。最近、老眼が進んでねぇ。目が疲れるんだ」
「神森さんはインクの色を変えた方がいいんじゃないですか。まだ酒紅色でしょ」
「デビューして二十五年、最初にインク屋さんに勧められてからずっとあれなんだよ。今更、違う色もなじまなくてね」
「あいつのいうことを鵜呑みにしてはだめですよ」
 客は乾いた笑い声をたてた。
「相変わらず、インク屋さんには厳しいねえ。僕たち字書きからすると、紙とインク、あんたたちは兄弟みたいなもんなのに」
「あり得ません。兄弟ならインク屋と万年筆屋でしょう」
「ああ、そうだった。万年筆屋に修理に出していたんだ。取りにゆかなくては」
「万年筆屋だけじゃなく、インク屋にも行くのでしょう? 新しい紙のサンプルを入れておきますから、一応、あれにも見せてください。連絡しておきます」
「わかったよ」
 防湿、耐水性に優れた油紙で原稿用紙を包むと作家を店の入り口まで送りに出る。
「次の締め切りが決まったら、また連絡するよ」
「はい。ご健筆をお祈りします」
「大丈夫、僕にはこれがあるからね」
 作家は笑いながら小脇に抱えた包みを叩くと、対面の万年筆屋へと歩いていった。
 常連客たちは知っていた。
 作家の生み出す言葉は生きている。それらを生きたまま閉じこめるには、紙にインクでしみこませるしかない。
 昨今、猛スピードで発展しつつある電子機器は、便利な反面、文字は干からびて死んでしまう。
 それは本物の物語にあらず。詩にあらず。歌にあらず。
 それが紙屋の原稿用紙を利用する作家たちの信条だった。
 自分だけのために特別に用意された最良の原稿用紙に、インク屋が選び抜いたインクとしっかりメンテナンスされた気に入りの万年筆で文字を刻む。その最高の環境が、最高のパフォーマンスを生み出し、作家の力を幾重にも膨らませる。
 けっして、原稿用紙に魔法がかかっているわけではない。
 作家たちはそう思っていた。
 常連客の後ろ姿に、何を思いついたのか、紙屋店主はにやりと口角を上げた。
「噂を真実にしてみるか」
 そのつぶやきは、誰にも届かなかった。



 三、

 はらはら。
 店先の薔薇を水滴が慎ましやかに叩く。
「雨だ」
 紙屋店主は、硝子のはめ込まれた引き戸に額をぴたりと張り付け、雨のしみこんでゆく商店街を眺めていた。退屈を持て余した子供のような顔だった。
 程なく通りをやってきた濃紺色のバンが店の前に止まる。降りてきたのはバンと同じ濃紺の前掛けをした、いかつい顔つきの職人、印刷屋だった。
 紙屋の店にあるひときわ大きな作業台は、運び込まれた注文の品でいっぱいになった。主に原稿用紙だが、名刺や、便せん、封筒、ノートなどもある。
 いつもはだらりと下ろしている長い黒髪をきゅっと一つに結い上げ、レシピを片手に丁寧に検品していく店主の表情は打って変わって厳しい。紙屋店主に相応しい姿だ。
「問題ない。いい出来だ」
 店主が顔をあげると、印刷屋はいかつい顔をやっと崩した。その顔にも職人の職人たる満足感が刻まれている。
 他のどの客よりも、この紙屋からの注文は難しく、高い品質が求められる。最初のうちは、この一風変わった紙屋の要望が理解できず、大喧嘩を繰り返した時期もあった。次第に店主の望んでいるものを掴めるようになると、若い頃の達成感を思い出すようになったという。店主からの要求はさらにグレードアップしたが、それすら、楽しかった。
 納品書にミミズが宇宙人と交信しているかのような店主のサインを受けて、印刷屋は問うた。
「次のレシピは決まってるのか?」
「とっておきのが一つ」
 にやりと笑った店主は、まるで黒い魔女のようだった。
 はらはらはら。
 雨は、まだ止まない。



 四、

 匂い立つほど濃密な水を含んだ夜が町を呑み込んでいる。
 まだ梅雨は明けておらず、暑さも盛りではない。ひやりとした夜気の底から見上げれば、雲間にちんと、三日月が座る。
 町外れの古く小さな一軒家の、狭い庭に面した狭い縁側で、三毛猫が一匹、せっせと顔を洗っている。白い髭は元気よく伸び、少々上向きの鼻と大きく吊り上がった目は、やんちゃな少女を匂わせる。仕上げに身体を振るうと、紅い首輪で鈴がりりんと鳴いた。
「小梅? 戻ったのか?」
 開け放たれた居間から低い男の声がするや否や、三毛猫は畳の上を弾むように駆け、男の膝頭にぴたりとその細い身体を寄せた。
 黒い瞳に、やせこけた男の今にも闇に呑まれそうな顔が映り込む。
「裏のおばあちゃんちで飯を貰ったのか? 良かったな、小梅」
 骨張った手が猫の頭を撫でる。猫はもっともっとと、背伸びをしてまで頭をその手に押しつける。猫の柔らかい毛の下の、骨張った身体が男の手に触れると、男はどこかが痛むかのように顔を歪ませた。
「すまないなあ。私が貧乏なばっかりにお腹いっぱい食べさせてやれなくて……おまえ、おばあちゃんちの子になった方が幸せかもしらんなあ」
 目を閉じてうっとりと撫でられるままだった猫が、不意に男の顔を見上げた。まるで言葉がわかっているかのように男をじっとみつめるその目に明らかな感情が交じっている。不安ではない、それは怒りの色だった。
 小さな猫の前身から溢れ出る感情を、男はその繊細な心で受けとめる。
「ごめんごめん。言ってみただけだ。おまえがいなくなったら私はさみしくて死んでしまうだろうからね。だからがんばってこの原稿を書きあげるよ。そして今度こそ、出版社に認められて本にしてもらうんだ。いっぱい売れたらいいなあ。そうしたらお腹いっぱいになるまで飯を食べさせて、おまえをころころに太らせてやるぞ」
 小さな丸い卓袱台の上には、書きかけの原稿用紙が散らばっていた。卓袱台の周囲にも、くしゃりと丸められた紙がいくつも転がっている。猫は男の邪魔をしたくないとばかりに部屋の隅に丸くなり目を閉じた。
 男の溜息に、猫が閉じたばかりの瞼を押し上げる。
「嗚呼、原稿用紙が切れていたのだっけ……」
 ノートもない。裏紙もない。脳内から溢れんばかりの物語を、吐き出すための場所がない。
 男は右手に万年筆を握ったまま、ぱたんと仰向けに寝転んだ。
 文鎮代わりの小さなクリスタルが男の右手のそばで、電灯の灯りを吸い込んで、小さな虹を作っている。
「嗚呼、あの原稿用紙があったらなあ……紙屋のあの……」
 猫の耳がピクリと動いた。
 猫は男の言葉を自分に刻みつけるかのように、深く息を吸い込んだ。
 呟きはやがて寝息に変わった。
 静かに眠る男の手に、一度だけ小さく身を寄せてから、猫は再び縁側に出た。
 月は隠れている。
 でも雨は降っていない。
 りりんと鈴が鳴いた。


 五、

 星も月も、なかった。
 けれど、暗闇でもなかった。
 町の灯りはそこここで、小梅の姿を鮮やかに浮き彫りにした。毛皮は水分を吸収し重さを増していたが、足取りはどこまでも軽かった。
 小梅の中では、あの人と過ごした今日までのすべてが喜びとなって、綿菓子のように軽く軽く膨れ上がっていた。

 朝から降り続けた雪が、町全体を明るく包み込んだ真冬の夜、小梅はその人に拾われた。
 その手は、行き倒れていた小雪を抱き上げ、懐の中に入れた。ガリガリに痩せ汚れきった小梅の小さな身体を、その少し骨ばった手が温度を分け与えようとするかのように撫で続けた。
 最後の力を振り絞って逃げることもできたはずなのに、なぜかその手を傷つけることができなかった。
 その夜から、その人間との生活が始まった。
 その人は、欠かさずにご飯をくれた。暖かい寝床をくれた。
 小梅という名をくれた。
 そのとき、小梅の中で弾けるように何かが生まれた。
 あの雪の夜、なぜその手を拒まなかったのか。兄弟の中で、なぜ自分だけが生き残ったのか。なぜ自分は生まれてきたのか。それらすべての答えを受け取った気がした。
 誰かのために生きる喜び。
 小梅の中の命ぜんぶが、その喜びを叫んでいた。
 そうして小梅は、その人の声に耳を傾けて過ごすようになった。その人のために生きようとした。けれどその人は、何かが欲しいと口にすることはなかった。腹いっぱい食べさせてあげられなくてすまないね、そう言いながら、少ない自分の食事を小梅に分けてくれるような人だった。
 いつかその日が来たなら、その時にはきっと……
『紙屋の原稿用紙があれば……』
 今夜が、その日となったのだ。

 小梅は、商店街の中程に建つ小さな店の前で足を止めた。
 看板に『紙屋』とあるのを確かめる。
 店の裏へと回ると、裏口の横に開いたままの窓を見つけた。まるで小梅が来るのを待っているかのようだった。
 音もなく窓によじ登り、店の中へするりと身体を滑り込ませる。若い猫には造作もないことだった。
 店の中は暗かったが、小梅の目はそこにあるすべてを捉えることができた。
 大きな台から白い何かがはみ出していた。
 興味をそそられた小梅は台に飛び乗った。
 肉球が何かを踏みつける。
 小さな升目が視界いっぱいに飛び込んてきた。綺麗に並ぶそれに、見覚えがあった。
 原稿用紙だ。
 家でよく見るものと、ほとんど同じだった。違いといえば、この紙から立ち上る微かな匂いだけだ。薬草のような線香のような、落ち着いた香りがした。
 小梅がつとその桃色の鼻先を寄せた。その刹那、小さな光がいくつも原稿用紙から舞い上がった。
 光は途切れることなく、ふつふつと立ち上る。
 これが紙屋の原稿用紙。
 小梅の大きな黒い瞳がたくさんの光を受けて、きらきらと輝く。
 小さな口に咥えられるだけを小梅は運び出した。原稿用紙からは、光の粒がこぼれ落ちた。
 原稿用紙を家の縁側に置くと、また紙屋に走って戻った。
 原稿用紙を咥えては、家へと走った。
 それは、明け方まで続いた。
 その夜、紙屋から町外れの小さな家まで、一本の光の路が生まれた。せせらぎから飛び立った蛍が舞うような、それは美しい光景だったが、夏の早い朝がすぐにかき消してしまい、気付いたのは数匹の猫と、勉強疲れした受験生と、白衣を着た背の高い男だけだった。



 六、

 蛇の殻を見つけたのは、紙屋店主がまだ眠い目を擦りながら店に出勤したばかりの昼下がりだった。
 紙屋の主な客である作家たちは、夜な夜な活動する昼夜逆転者が少なくない。原稿用紙が途中で切れてしまったと、夜中に店の戸を叩く近所迷惑な非常識者が絶えなかったため、紙屋の営業時間は正午から夜中の二時までとなっている。
 昨夜は、先日、印刷屋に発注した特別レシピの原稿用紙が納品され、最後の一手間を加えようと作業台に広げたところへ、老齢の詩人から電話が入り、追加の原稿用紙を家まで届けることになった。町外れの彼女の家から店に戻るのも億劫でそのまま直帰し、翌昼、つまりほんの一分ほど前に、作業台にあるはずの原稿用紙の束が消え、代わりに蛇の抜け殻を見つけたというわけだ。
 抜け殻を指で摘む。
 完璧な抜け殻は驚くほど軽く、その美しくも不気味な乳白色は周囲の光を集めて煌めいている。
 白蛇を神として崇める者は多い。それほど信心深くなくとも、白蛇の抜け殻を幸運の印として御守りのように身につける者もいる。
「つまりは礼といったところか……だがよりによってアレと物々交換とは……まいったな」
「何がまいったの〜?」
「……まだ店は開けていないのだがな、インク屋」
 突然、背後からいるはずのいない者が声をかけてこようとも、驚いて声をあげるような紙屋ではない。
 そんなことは先刻承知の上でのインク屋のこの登場は、もちろん驚かそうなどという気はさらさらなく、もはや単なるデフォルトだ。
 インク屋は通りの向こう、万年筆屋の隣にある。
「外でお客さんが待ってたから様子を見てきてあげようと思って。ほら、中で倒れてたら大変でしょ〜」
 インク屋は作業台横のソファセットに細身の身体を投げ出した。長い足を組み自宅のような寛ぎっぷりだ。羽織っただけの白衣の裾が皮のソファを滑り落ちる。
 銀縁の眼鏡を銀髪の頭部に載せ、細い指を組み合わせている姿は大学で研究している教授といった風情で、加えて涼しげな顔の造作とともに町の女性たちの人気が高い。見目が良い、それには紙屋店主も同意を示すが、但し書きがつく。口を開かなければの話だ、と。
 間の抜けたへらりとした口調は、そのまま彼の性格を表している。
 以前、町のコミュニティ紙の取材を受けたとき、インク屋のことを聞かれ、紙屋はこう答えた。
 どんなタイプの人間ともへらへらと付き合い、世話好きなおばちゃんの如くどこへでも首を突っ込むがまったく世話はしない。社交的かと思えば実は相手の様子を覗っており、用心深く巧みに自分を隠している。観察力に優れているくせに、本能や興味の赴くままほとんど周囲を顧みずに行動する迷惑者である。しかし、一度、スイッチが入るとハイクオリティな仕事する。
 後日、コミュニティ紙に載った紙屋のコメントが「インク屋さんは商店街でも愛されていますよ」と要約されているのを見て以降、紙屋はコミュニティ紙を読まなくなった。
「大きなお世話だ。他人の店の心配よりも、自分の店はどうした」
「うちは優秀な弟子がいるから大丈夫〜」
 紙屋のこめかみに青筋がたった。小さな拳をぎりぎりと握りしめる。
 今の時代、どこも後継者不足に泣いているが、紙屋とて例外ではない。元から持つ素質が重要なため、ここに店を開いて二十年、早いうちから探し続けているのだがまだ弟子はいない。
 否、かつて一度だけ、弟子候補として若い男性を探しあて研修を開始したのだが、紙屋とは切っても切れない繋がりのあるインク屋に出入りするうちに、彼はインク屋店主の仕事振りにメロメロにされてしまった。
『彼、僕の弟子にするって決めたから〜』
 へらりと笑ったインク屋の顔を紙屋は忘れていない。素質のある子だっただけに、悔しさ倍増だ。弟子が欲しい……という言葉は紙屋の口癖だが、インク屋から弟子という言葉だけは聞きたくないのだった。
「それは良かったですねえ。うちは弟子もいないんで、私一人でぜんぶやらなきゃならんのですよ。店を開ける時間なので帰って貰えませんかねえ」
 蛇の殻は作業台の下の引き出しにしまった。
 店の入り口のガラス戸を覆っているカーテンを開く。
 見覚えのある作家と、見知らぬ若造が数名、待ち構えている。
 ああ、今日は休日だったのか。またぞろ、『作家になれる魔法の原稿用紙』を求めて人々が押し寄せることを思うと、紙屋はげんなりと肩を落とす。
 そんな紙屋の頭をぽんぽんとインク屋が叩く。
 長身のインク屋の肘の高さから紙屋が睨む。
「さっさと帰れ」
 憎まれ口をたたかれてもインク屋はなぜか嬉しそうに笑った。細く開けた引き戸から、半身を返して、ねえ、と紙屋を呼ぶ。
「盗まれた原稿用紙で、何か良からぬことをしようとしてたでしょ?」
「……どういう意味だ。なぜ盗まれたと知っている」
「昨夜、小さな泥棒さんが店に出入りしていたよ。裏口からね」
「見ていたなら何故止めなかったのか、おまえは」
「知りたかったから」
「はあ?」
「君がこの商店街にやってきて十年。そろそろ、君が何者なのか、ほんとうのことを知りたくなった」
「なにを……」
「君は何者なの?」
 硬化した紙屋に問いかけを一つ残し、インク屋は通りの向こうにある自分の店へと歩いて行った。
「どうかされましたか? ご店主」
 開店を待っていた作家に声をかけられるまで、店主は深く思案の海に沈んだままだった。



 七、


「隣町は、今日、花火大会らしいですねえ」
「インク屋さんは行かれるんですか?」
「どうしようかと思ってるんですよ。一人で行ってもつまらないですしね。桐生先生はどうなさるんですか?」
「うちは高台にあるので、家の庭からちょうど真正面に見えるんですよ。毎年、この時期には孫たちが泊まりがけでやってきましてね、庭でバーベキューしながら一緒に花火を楽しむことになっとります」
「それは素晴らしい」
「インク屋さんこそあちらこちらからお誘いが来ておられるでしょうに。お噂は聞いてますよ」
「みなさん社交辞令でお誘いくださっているだけですよ。インク屋ごときに誰も本気になりゃしません」
「いやいやいや、これは作家や編集のお嬢さんたちには聞かせられませんな」
 静かに笑い合う中年男子二人が囲むテーブルに、重そうな風呂敷包みをドンと置いたのはこの店、紙屋の店主だ。
「ここは喫茶店じゃないんだがな、インク屋」
「だってここ、居心地がいいから〜。喫茶店よりもずっといいよ。珈琲も旨いし。ってなんで僕だけに怒るの? 桐生先生はいいの?」
「桐生先生はお客様だ。インク屋、おまえは客か? 違うだろう? おまえがそうやって四六時中居座るから、みんなが集まってくるんだ。珈琲なんてどこでも飲めるだろ。この商店街には喫茶店だけで五軒もあるんだぞ」
「そんなこと言っちゃって〜。僕、紙屋さんが先生方のお茶や紅茶や珈琲の好みを把握して、いつ来てもストック切れにならないようにしてるの知ってるよ〜。今日のは桐生先生の好きなキューバ産のクリスタルマウンテンだよね。僕の好みのやつだってちゃんと揃えてくれてるくせに……」
 がたんと大きく机が動き、珈琲カップが悲鳴をあげる。
 紙屋がインク屋にのしかかるように、首元を締め上げていた。
「貴様、なんでそんなにうちの店に詳しいんだ?! 私はしゃべったことはないぞ! ストーカーか!」
「お店じゃなくて店主に詳しいって言って欲しいな〜っうぐぐ!」
 紙屋の手に力がこもる。
 二人の視線がからみつく。
 怒りに燃える紙屋と、未だ笑顔を保ったままのインク屋の間には、大きな溝と温度差がある。だがそう認識しているのは紙屋だけでインク屋はまるで溝など存在していないかのように振る舞う。軽々と踏み込んでくる。紙屋がいくら囲いを作っても、立ち入り禁止の看板を掲げても、扉を釘で打ち付けても飄々と突き抜けてくる。
 そうして笑うのだ。
 君を知りたいから。
 そんな言葉を吐いて。
 インク屋のそういうところが、紙屋をいらつかせた。
 いっそこのまま殺してしまおうか。紙屋が指に力を込めようとしたときだった。絡みついたままの二人の視線を奪うように、二人の間を何かが横切った。
 こちん。
 かさかさかさ。
 かすん。
 見れば、白い紙飛行機だった。
 僅かに見える罫線の色、隙間のない升目、桐生専用の原稿用紙だ。
 二人の視線がテーブルの向こう側へ向かうと、そこでは作家はにこにこと笑っていた。
「そのくらいにしときなさいよ。どっちもね」
 紙屋の頬がさっと紅く染まるのを、インク屋は見逃さなかった。
 インク屋を締め上げていた手を離し、乱れたワンピースの裾と長い髪を直し、桐生に向き直る。
「桐生先生、お見苦しいところをお見せして申し訳ありませんでした」
「喧嘩するほど仲がいいなんて嘘だと思うけれど、まあほどほどにね。せっかくの美味しい珈琲がこぼれてしまいそうだったよ」
 紙屋が小さな声でごめんなさいと唱え、小さい体をさらに小さくすぼめる。
「さて私はこれで。お代はこれでいいかな」
「ありがとうございます。確かにいただきました」
「珈琲美味しかったですよ。いつもありがとう。次の締め切りが終わったら、今度はあの珈琲に合うお菓子をもってきますよ。楽しみにしていてください。ではまた」
「ありがとうございます。ご健筆をお祈りしております」
 作家を見送る紙屋の背中から、先程とは正反対の柔らかな光がこぼれ落ちていた。
 軽い足取りで店奥の作業台に戻ってきた紙屋は、鼻歌交じりに散らかった作業台を片づけ始めた。
「嬉しそうだねえ。君、桐生先生のこと、大好きだよねえ」
「ん? おまえ、まだいたのか。おまえも早く帰って仕事をしろよ?」
 インク屋の言葉を軽くスルーする紙屋に、インク屋は苦笑した。
 インク屋は小さく息を吐き出すと、作業台の前に立ち、一冊の本を差し出した。
 鉛筆だけで丁寧に描き込まれた植物のイラストは、一目で有名な画家の作品だとわかった。艶のない白い紙の全面に散りばめられた花や草木の合間に表題と作者名が紛れ込ませてある。フォントではなく画家による手書き文字だ。書籍紙はハイランクのものを使っている。どこまでも淡い白桃色が特徴だ。透明感のあるコバルトブルーの花ぎれだけが、唯一、色彩を放っている。出版社の力の入れようが伝わってくる、妙に存在感のある本だ。今時、珍しい。が、それ以外に言うべきことはなかった。インク屋の意図がわからず、紙屋は小さく首を傾げる。
「この本がなにか?」
 前髪の隙間からそっとインク屋の様子を伺うと、珍しくその顔から笑顔が消えていた。
 嫌な予感がした。
 以前もあった。あれは二ヶ月前だ。
 何者なのか、と問われた。
 この町に紙屋を開いて十年、紙屋は自分のことを語ったことはない。どこから来たのか、ここに来る前は何をしていたのか、家族はいるのか。そうした人間としてのバックグラウンドを隠してきた。そんなものがなくとも、商売はできるし、生きていけることもわかった。
 過去は、紙屋にとって痛みでしかなかったからだ。
 インク屋に問い詰められた後、しばらくは構えていた紙屋だったが、インク屋の方が全く普通だったので、忘れていた。
「この作者、知っている?」
 問われて本を手に取った。
 奥付を開き著者のプロフィールを読む。どうやらこの本がデビュー作のようだ。発行日は二週間後となっている。こんな仕事をしているので、作家や出版社から新刊が送られてくることが多い。インク屋が発売前の本を持っていたとしてもなんら不思議ではない。
 不思議なのは、インク屋が本を持って来たということだ。紙屋の記憶にあるかぎり、今まで本や作品ついてインク屋と語り合った記憶はない。彼の口から出るのはくだらない世間話ばかりだ。
「烏野宗也? 知らないな。うちの客ではないと思うが」
 本を差し出したが、インク屋は受け取るそぶりを全くみせない。どころか「読んで」と言い出した。
「忙しいんだが?」
 夕飯の時間が近くなっていた。今日はどこから出前を取ろうかとそろそろ悩まねばならない。それ以外には今夜は約束もなく作業もなく実は暇なのだが、インク屋の言葉には条件反射で抵抗してしまう紙屋だった。
 インク屋の方は引き下がるつもりはないらしかった。
「冒頭だけでいいから」
 読めと強要する。
 嫌な予感はもはや予感ではなく、しっかりとした実体をもって紙屋を追い詰め始めていた。
 裏口から逃げてしまおうか。そんな考えがちらりと頭を過ぎったが、インク屋に背を向けることが気に喰わず、しぶしぶと本を開いた。
 美しい字体を使っていた。
 活版印刷で丁寧に紙に刻み込ませている。
 職業柄、どうしてもそういう部分に先に目が行ってしまうのだが、やがて意味を持って文字を拾い始めた紙屋は、すぐにその視界がにじんでいくのに気づいた。
 まだいくらも読んでいない。物語の冒頭の数行をさっと流しただけだったにもかかわらず、そこに刻まれた文字は紙屋の心を強く揺さぶり、静かに泪を溢れさせた。
 はたはたと、雨が葉を打つような音が紙屋店内に響く。
「結論から言おうか」
 インク屋が静かに口を開いた。
「これは君の原稿用紙のせいだね?」
 紙屋は両手で本を持ったまま、顔をあげることができなかった。
 インク屋は紙屋の反応を待たずに続ける。
「君のデザインする原稿用紙には、不思議な力があるという噂が絶えない」
 超大作が書けた、ベストセラーになった、いつも締め切りに遅れがちな作家が締め切りを守れるようになった、新人賞や栄誉ある賞を獲った、長時間書いても疲れない、云々……インク屋はすべての噂を列挙した。中には紙屋の耳に入っていないものもあった。
「君は噂話を持ち出されても、そんな魔法みたいなことがあるわけないだろうと、まともに相手をすることはなかった。それは何故か」
 インク屋は言葉を切った。
 紙屋は閉じた本にしがみつくように抱きしめていた。
「君にとっては、すべて、想定の範囲内だったからだ」
 長い髪に隠されてその表情は見えないが、紙屋は小さく首を振っていた。紙屋とは思えないほど、それは弱々しい否定だった。
「君はそうなるように原稿用紙に術をかけた。そうして君は結果を待った。期待通りの反応が作家たちから返ってくる。そして満足する。つまり君は、作家たちを操っていたんだ」
「違う!」
 紙屋が叫んだ。
「頼まれてやったとでも言うのかい?」
「誰にも頼まれていない。私は……」
「苦しんでいる作家たちを助けたかった? なんて傲慢なんだろうね。その苦しみさえも作家の血と肉になる、そんな機会を君は君の勝手で摘み取り、楽をさせるだけの道を進ませた。君の原稿用紙さえあれば彼らはいくらでもベストセラーを書き続けられる。君の原稿用紙の虜という訳だ。なんて商売上手なんだろう」
 紙屋は唇を噛み締めたまま、作業台を挟んで立つインク屋を睨みつけた。その姿は必死に言葉を呑み込もうとしているようだった。
 そして、とインク屋は続ける。
「……作家たちの話が噂になり、噂はいつしか一人歩きしはじめた。自らの身を削って書こうとしたこともない、ただ夢を見ているだけの若者たちが楽な道を求めて集まって来た。君は良く言っていたね。うざいって。そしてついに、彼らを懲らしめるために一計を案じた。手厳しい君のことだ。夢を見させた後は地獄に突き落とす、そんな術をかけた原稿用紙を作ったんじゃないのかい? 噂を聞きつけた若者に売りつけるつもりだったんだろう。その前に何者かによって盗まれたわけだが、犯人がわかったようで良かったねえ」
 インク屋が黙ると、生まれたしじまは店の中をひたひたと満たした。
 インク屋の言葉に溺れて、紙屋以外のこの世のすべてが遠い存在になっていく気がした。深い水底に、静かに静かに沈んでいく。こぽこぽと気泡が割れる音がする。
 反論しないのか?
 誰かにわかってもらおうとは思っていない。
 前の町と同じ結果になってもか?
 インク屋の言ったことのすべてが憶測ではない。
 ほんとうにそれでいいのか?
 それでいい。
 ならばおまえはずっと一人だ。
 この十年、最初から一人だった。
 これからどうするつもりだ。
 また引越でもすればいいさ。
 気泡が割れる度に、内側から声がした。
 ほんとうに、それでいいの?
 一際、するどく突くような声が響く。
 と同時に、紙屋を取り囲む水が震えた。遠くから響いてくるドンドンという音が水を振るわせている。
 花火の音だった。
 隣町で花火大会があると言っていたから試し打ちだろう。
 時計を見ると、針は午後六時を指していた。花火大会にはまだ早い。
 また遠花火の音がした。
 重く響く音の刺激が、紙屋に空腹を思い出せた。
 こんな時に腹具合とは……
 紙屋は小さく笑った。
 その細い肩からふっと力が抜けた。
 ぎゅっと抱えたままだった本に視線を落とす。
 素晴らしい書き出しだった。
 それがどこから生まれてきたのか、それは誰よりも紙屋が知っていた。そして、盗まれたあの原稿用紙にきざまれたものであることも、明らかだった。
 安易に楽な道を求めてくる若者たちを懲らしめるために術を使おうなどとは最初から思わなかった。彼らにはただ普通の原稿用紙を売れば良いだけだ。紙に命を閉じこめる。その覚悟のない者に物語は紡げない。原稿用紙と向き合うだけで、彼らはそれを思い知るだろう。
 盗まれたあの原稿用紙は、全く違う目的のために作ったものだった。思いつきから作ってみた試作品であり、誰かに売ろうとも思っていなかった。ベストセラーを書ける術など、紙屋が使うはずがなかった。それは紙屋の消したくても消せない過去だった。
 紙屋は、前の町で、すべてを失った。身を削って苦しむ作家を助けたくて使った術が裏目に出たのだ。作家からも、町の者からも、家族からも糾弾された。魔女だと言われた。
 同じ過ちは二度と犯さない。
 遠く離れたこの町で再び紙屋を始めたのは、その誓いを常に胸に刻むためだった。
 この町で紙屋がデザインした原稿用紙にかつてのような傲慢な術はかけられていない。しかし、何も仕掛けがないわけでもなかった。目が疲れにくくする、手に負担の掛からぬようにする、少しだけ気力を長続きさせる。主に薬草を使って、ほんの少しだけ手助けする術がかけられていた。それらの術をインク屋の言うように作家を操っているととることもできる。そのときには、町を去るしかない。そしてもう二度と、紙屋を開かないだろう。
 しかし、盗まれた原稿用紙は少し違う。
 最後の仕上げの前に盗まれたから、意図したものとは違う力が作用している可能性がある。盗まれてから二ヶ月。季節はすでに初夏から盛夏へと移っている。たった二ヶ月という速さで執筆から出版まで進むのは異例だ。術師として、中途半端なものを放っておくことはできなかった。
 術師であることがばれて、最終的に町を出ることになったとしても、後始末は必要だろう。
 紙屋の中にもはや迷いはなかった。
 紙屋が顔をあげたときに、そこにいるのはいつもの紙屋がだった。
「言いたいことはそれだけか? インク屋」
 ニヒルの中にシニカルさを混ぜたような紙屋の物言いに、僅かにインク屋がたじろいだ。インク屋の反応を待たずに、紙屋はスタスタと戸口へ向かって歩き出す。
「まだ答えを聞いてないけど?」
 インク屋が呼び止めると、白いワンピースがふわりと翻り黒い瞳がインク屋をまっすぐに見返した。
「私は術師だ。私の作る原稿用紙には術が掛かっている。そして、この本は私が作った原稿用紙に書かれた物語だ」
「認めるんだね」
「事実だからな」
「でも君は人を貶めるような術なんてかけていない」
 紙屋が片眉をあげた。
「さっきと言っていることが逆だぞ、インク屋」
「さっきのは話を盛っただけだよ。君のことは誰よりも理解しているつもりだからね」
「やめろ。キモイ。死ね」
 インク屋がははっと笑う。
「で、どこへ行くの?」
「後始末してくる」
「花火までに帰ってくる?」
「さあな」
 がらりと開いた戸を開けっ放しのまま、紙屋店主は店を飛び出して行った。
「店、開けっ放しだし……ちゃんと帰ってきなさいよ。ここが君の場所なんだから」
 インク屋は笑いながら、黄昏漂う商店街を北へと駆けてゆく白いワンピースが見えなくなるまで見送っていた。


 八、

 千鳥草の蒼い花の影から、小さな猫の小さな金色の目が二つ、賑やかな家をじっと見つめていた。
「今夜はデビュー作出版のお祝いですから。さあ、先生、呑んでください」
「いや、先生なんて呼ばないでください。まだ駆け出しなんですから」
「あれはすごいですよ。ベストセラーになりますよ」
「まだ出版されていないのですから、そんなことはわからないですよ」
「編集者として三十年の経験を積んだ私が言うのですから信じてください」
「たくさんの人に読んでいただけたら嬉しいですねえ」
「何百万という人が先生の本を読むんですよ。そして次の本はまだかと首を長くして待つでしょう。次もうちから出版させてくだいよ、先生。社長も期待してますから」
「次も書かせて貰えるのですか? 嬉しいなあ。がんばります」
 烏野宗也が痩せた身体でぺこぺことお辞儀をした。編集者に注がれた酒を上手そうに呑んだ。
 りりんと、鈴の音がした。
「ん? 今、鈴の音がしたような。先生、猫を飼ってらっしゃるんですか?」
「いえ。飼ってないですよ」
「鈴の音がしたような」
「ああ、裏のおばあちゃん家の猫かもしれません」
「なるほど」
「ずっと独り暮らしなので、寂しくて猫でも飼おうかと思ってたんですよ」
「これから忙しくなりますから、寂しいなんて言ってられませんからね」
「ほどほどにお願いします。ほんとうに駆け出しなので」
 楽しそうな笑い声が黄昏を迎えた庭に弾けて消えた。
 そして、猫の姿も消えていた。

 紙屋店主は、走っていた。
 走りながら、携帯電話で必要な情報を集めた。
 烏野宗也は、この町の北のはずれに住んでいること。新人賞への応募歴はあったが一度も評価されなかったこと。二ヶ月前に出版社へ直接、持込があったこと。それを読んだ編集者がその場で編集長に原稿を渡し、わずか一週間で出版が決まったこと。その時たまたま別件で出版社を訪れていた画家が、たまたま原稿の冒頭を読み、その場で表紙を描かせてくれと申し出たこと。
 そして、小梅という名の猫を飼っていること。
 烏野宗也の家に着く頃には、紙屋の脳内で一つの仮説ができあがっていた。
 普通ならあり得ない話だが、その仮説を裏付けるだけの事実があった。紙屋の裏口には常に鍵がかかっており、店主もほとんど利用したことはないこと。裏口の横の小窓はいつも少し開いていること。そして、蛇の抜け殻を見つけたあの日、小窓付近に小さな足跡を見つけたこと。インク屋の証言「小さな泥棒」。
 紙屋が烏野宗也の家に着くと、その裏は、あの原稿用紙が盗まれた夜、紙屋が原稿用紙を届けた詩人の家だった。
 この町には多くの作家が住んでいる。
 字書き町と言われる所以だ。
 烏野家から数人の笑い声が響いてきた。どうやら宴会の真っ最中らしい。編集者や友人を招いての出版祝いだろう。
 今、会うべきは烏野宗也本人ではない。
 家の周りを一周した紙屋は、辺りに耳を澄ませた。
 小さな鈴の音が遠ざかっていく。
 紙屋はまた、走り出す。

 どうして?
 わからない。
 悲しい。
 つらい。
 戻したい。
 戻りたい。
 あの人のそばに。
 もう戻れないの?
 どうして?

 小梅が一晩かけて運んだ原稿用紙を縁側で見つけた烏野宗也は、じっと小梅を見つめた。
 そして何も言わずに、小さな歯形の散る原稿用紙に向かった。三日三晩、飲まず食わずで、書き続けた。さらに三日三晩、原稿用紙だけを見つめていた。七日目、彼は原稿用紙の束を持ってどこかへ出かけ、夜も遅くなって帰ってきたとき、玄関で出迎えた小梅にこう言った。
「あれ? どこの猫だ? 裏のおばあちゃんのところか? もう遅いからお家に帰りなさい」
 彼は小梅のことを忘れていた。
 私の家はここなの。
 どうしたの?
 忘れたちゃったの?
 なにがあったの?
 叫んでも、喚いても、彼には届かなかった。小梅は抱き上げられ、そっと外に出された。
 何が起こったのか、わからなかった。
 二か月間、小梅は、庭の隅から彼を見続けた。
 知らない人が何度も家にやってきた。彼はとても忙しそうだった。けれど、とても楽しそうだった。
 小梅が手に入れた原稿用紙で、彼の夢は叶ったのかもしれない。
 けれど彼が小梅の名を呼ぶことは二度となかった。
 
 初めて彼がその名を呼んでくれた日を、何度も何度も思い出した。
 でももう、誰かのために生きる喜びは溢れてこなかった。
 代わりに、哀しみだけが溢れていた。
 誰もいない夜の公園のベンチで、小梅は泣いた。
 小さな身体を震わせて叫ぶように泣いた。
「小梅?」
 小梅の身体がびくんと飛び上がった。
「ああ、良かった。見つかった」
 小梅の前には見たことのない女の人がいた。
 長い黒い髪がだらりと垂れ下がっている。たくさん汗をかいてべたべたの顔に髪が幾筋も張り付いている。荒い息を整えながら、大きな目は小梅を見ていた。
「隣に座ってもいいか? 走り通しで疲れたよ」
 猫である小梅に訪ねてくる。不思議な人だ。小梅が反応を返す前にすでに座っていた。ベンチの背もたれにだらりと身体を凭せ掛けて、「ちょっと、待ってて、息が、苦しくて」と、途切れ途切れに言った。
 小梅は動かなかった。
 否、動けなかった。
 なぜだかこの人の話を聞かなければならない、そんな気がした。
 しばらく深呼吸が続き、ばさばさとスカートを捲って扇ぎ、最後にぐしゃぐしゃの髪を頭の上でくるくると丸めてお団子を作ったその人はこう言った。
「私は紙屋だ」
 小梅は目を見開いた。
 紙屋といえば、原稿用紙を盗んだ店だ。小梅が泥棒をしたことがばれて、捕まえにきたのだ。
 小梅が逃げようと身体を反転させたときだった。
「申し訳なかった」
 紙屋は小梅に向かって頭を下げた。おでこがベンチに付きそうだった。
 小梅は逃げるのをやめて、紙屋を見た。紙屋はまだ頭を下げたまま言った。
「あの原稿用紙は、私が作った試作品だ。本当に命をかける覚悟のある者が使うと、その力を最大限引き出し、欲しかった未来を引き寄せることができる術をかけた」
 そこで紙屋は思い出したように顔をあげた。
「あ、かけようとしていた、が正しい。まだ術は完成していなかったんだ」
 小梅は逃げだそうとした姿勢のまま、顔だけを紙屋に向けた。
「術を完成させたのは君だ。会ってみてわかったけど、君には術者としての素質がある。君が触れたことで術が完成し、烏野宗也が命を削って物語を紡ぎ出しあの原稿用紙に刻んだことで術が発動した。そして、君という代償と引き替えに、彼に作家としての未来を運んだんだ」
 小梅は紙屋の言葉を一つ一つ噛み締めるように、頭の中で反芻した。
 ならば、彼は夢を叶えて作家になれた、ということなのだろう。
 そのために自分は役に立てた。
 ならば、もういい。
 自分の役目は終わったのだ。
 小梅は、ベンチから飛び降りた。鈴がりりんと鳴る。
「小梅」
 久しぶりに名を呼ばれて、嬉しかった。
 さっきまでの哀しみが嘘のように消えていた。
 小梅の中にはあの日と同じように、誰かのために生きる喜びだけが溢れていた。
 小梅は足を止めて紙屋を見上げた。
 一度だけゆっくりと瞬きをして、紙屋に感謝の意を伝える。
 そのまま身を翻した。
「私のところへ来ないか!」
 紙屋の声に引き止められた。
「ずっと弟子を探していたんだ。私の後を、紙屋を継いで欲しい。君から彼と君の居場所を奪っておいて虫が良すぎるかもしれない。罪滅ぼしととってくれてもいい。嫌になったら出て行ってくれていい。少しでもいいから」
 目の前に差し出された手を、小梅はじっと見つめた。紙屋の瞳の中に、大切なものをなくした者の哀しみを見た気がした。
 いつかまた、誰かのために生きることはできるだろうか。
 この人となら、そんな日がまた来るだろうか。
 小梅はそんな未来を、ふと見てみたくなった。
 そっと右手を紙屋の手に重ねる。
 その刹那、ドンっという大きな音とともに、空に花が咲いた。
 紅く眩しい、大きな花だ。
 ふと見ると、小梅は人間の少女になっていた。
 紙屋とお揃いのノースリーブの白いワンピースを身につけ、二本足で立ち、その手は紙屋に繋がれていた。
「花火だよ、小梅。綺麗だね」
 大輪の花が咲いては散る。
 紅も、黄檗も、虫襖も、瑠璃も、蘇芳も、重なる輪を一つも見逃さないよう、空を見上げていた。
 その間、ずっと紙屋と手を繋いでいた。


 九、

 緑陰を求め、人々が足早に商店街を通り過ぎていく。
 真夏の陽射しが肌を刺すように落ちてくる昼過ぎ。
 紙屋開店の時間はすでに過ぎていた。
 おかっぱ頭の少女が、だらだらと歩いている紙屋の手をひっぱった。
「店主! もう少し早く歩いてください」
「だって暑いんだもん。なんでここはこんなに日陰がないんだ」
「夏なんですから、暑いのは諦めてください」
「君さ、こんな性格だったの? 家でも店でもなんかまるでお母さんがいるみたいだ」
「こういう性格だったんです。これも諦めてくださいね。あ! ほら! 店の前でもうお客様が待ってますよ!」
 小梅が紙屋の弟子となり、一週間が過ぎていた。
 昼は少女の姿で店で働きながら学び、夜は猫に戻って紙屋の自宅で一緒に眠る。
 紙屋の見込んだとおり、小梅には素質があった。紙屋の教えることを、砂が水を吸うようにぐんぐん呑み込んでいった。
 ただ予想外だったのは、小梅はかなりの世話好きで、なんでもきっちりするタイプだったことだ。
 家でも店でも、散らかし放題な紙屋に黙っていられなくなったのは三日目だった。遠慮無く、小言を言う。
「先に店を開けてお迎えしておきますから、すぐに来てくださいね」
 小梅が走って行くおかっぱの後ろ姿を、紙屋は眩しそうに眺めた。
 その日の午後のことだ。
 ガラリと店の戸が開く。
「いらっしゃいませ」
 応接のテーブルの上を片付けていた小梅は、店に入ってきた客を迎えるために顔をあげた。
 その手から珈琲カップが零れ落ち、異音をたてる。作業台に向かっていた店主が「どうした?」と声をかけた。
「あの、こちらで原稿用紙を作っていただけると伺ったのですが……」
 烏野宗也だった。
 紙屋は小梅の頭をぽんと叩くと、そっと耳元で囁いた。
「小梅、それ片づけてから、お客様に麦茶を持ってきて」
 小梅が弾かれたようにコクコクと頷くと、お盆を持ってキッチンへ隠れるように引っ込んだ。
「烏野先生ですね。初めまして、紙屋店主です。先生のご本、拝読させていただきました。素晴らしかったです」
「初めまして。烏野です。まだまだ未熟でお恥ずかしいです」
「今日は原稿用紙をお求めですか」
「はい。初めての原稿料が出たら、こちらで作っていただこうと思っていたのです」
「それは光栄です。では先生のお好みなどを詳しく伺わせていただきたいので、そちらのソファへどうぞ」
 紙屋がレシピ用のノートを持って座ると、小梅が冷たい麦茶を運んできた。
「どうぞ」
 ガラスのコップの中で氷が澄んだ音をたてる。烏野に麦茶を出すその手が震えていた。
「アルバイトさんですか?」
 烏野が問う。
「いえ、弟子です。やっと後継ぎに巡り会えまして」
「お弟子さんですか。それは良かったです。最近では後継ぎがいないということで店や病院をたたむ方も多くて」
「ほんとうにその通りですね。私は運が良かった。彼女は素質もいいんですよ」
「そうですか。紙屋さんもこれで安心ですね。がんばってください」
 烏野は小梅に笑いかけた。小梅が嬉しそうに頬を染める。
 そんな小梅の様子をみて、ふと、何かを思いだしたように、烏野が首を傾げた。
「前にどこかで会ったかな?」
 烏野の問いに少女は笑って答えた。
「いいえ。初めまして……なのです」
 それは、最初で最後の小梅の嘘だった。
 一生懸命、笑顔を作る小梅の大きな目から、涙が一つだけ、ころりと零れ落ちた。

「こんにちは〜。小梅ちゃん、麦茶ちょうだい〜」
「インク屋! ここは喫茶店でもおまえの店でも家でもないと何度言えばわかる。今は来客中だ。帰れ」
「あ! 烏野先生じゃないですか〜。初めまして〜。僕、通りの向こうでインク屋やってます〜。先生のデビュー作、読みましたよ。歴史に残る珠玉の作品ですね。紙屋さんなんて最初の数行で泣いてましたもん。あ、先生、もしかしてここで原稿用紙を作られるんですか? そしたらうちにも寄ってくださいよ。先生専用のインクを調合させてください」
 さっさと烏野の隣に座り込み営業を始めたインク屋に、紙屋が怒鳴り散らす。
 今にも殴りかかりそうな紙屋を止める小梅を、烏野が優しい目で見つめる。
 少しだけ新しくなった紙屋の日常の風景だった。

***

早藤尚さんのイラスト

Illustrator:早藤尚さんTwitterID

見たよ!
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