ウォンマガ夏フェス2015

»Return

Theme:ましろの目蓋をおしあげて

Author:湖丸あひるさんTwitterID

 どうにもこうにも。急な転校から、ふた月ばかり。

 慣れない。

 この春まで、わたしは、ごくごく普通の中学校へ通っていた。夏休みを過ぎれば受験勉強に足を突っ込むのであろうなあ、と。
 そんな空気を感じ始めた、とある春の連休。

 今思い返せば、あれが全てのコトの始まりだ。

 わたしを呼び出したのは、しばらく会わずにいたせいで、顔すら忘れかけた遠い親戚である。
 よく理解していないけれど、海辺の近くに大邸宅を構えるその家は、本家とやらにあたるらしい。
 わたしが物心つくか、つかないかする内からなんとなく、曽祖母の仏壇のあるその家に、親戚みんなが逆らえない空気を、薄々感じていた。
 本来はその本家というのは、長女である祖母が相続するものであったそうだ。しかし、祖母がそういう古い慣習を厭うて、祖父との大恋愛の末に都会に飛び出したという。共感はできる。だが、当時、親戚中はそうは思わなかったらしい。祖母は、しばらく一切の関わりを断っていたか、断たれていたと母から聞いている。
 とはいえ、その親戚だってひとり亡くなり、ふたり亡くなり。都会に出る人間も増えて。
 母が中学に上がる頃までには、祖母と親戚、つまり祖母の姉妹や祖母の従姉妹らとも和解し、今の何年かに1度の正月に会うという付かず離れずな関係性が成立していたらしい。
 今では、大伯母さんの孫娘がひとり残るのみ。続柄的には、はとこに当たるとはいえ、わたしが幼稚園に通っている頃に顔を合わせたきりだ。

 それでも、わたしがそんな人物の急な呼び出しに応じたのは、本家と呼ばれるその屋敷が、有名な観光地にあったからにほかならない。この連休、わたしには何もすることがなかったし、一番仲の良い友人達は家族で惑星間旅行や大会を控えた部活に出ていて、皆、予定が合わなかった。
 白い砂浜、青い海。リゾート地で過ごす数日間。その言葉は、とても魅力的な響きをもってわたしを誘惑した。

 で。

「というわけでね、継いでほしいんですって。」
「はあ」
「今までの話、わかってくれたかしら。」
「いえ。ぜんぜん。」
「では、もう一度最初からお話するわね。」

 カレン、という名の通り、白くて細くて小柄なその女性の話は、観光気分で2日間を過ごしていたわたしを非常に混乱させた。
 彼女の話は、奇妙な言葉で始まった。
「見えないモノが見えてしまった経験はある?」
 力を入れずとも、すう、と牛肉に吸い込まれるナイフに感心し、口の中でほろほろと崩れる赤身に感動しながら、わたしは首を傾げた。
「はい?」
「幽霊みたいなもの、見たことはある?」
「なんの話ですか?」
「私は無いの。」
「怪談ですか?ありますよ。友達の友達が経験したトッテオキの怖い話。」
「そうではなくてね」
 形の良い弓形の眉を顰めて、彼女は言った。
 テーブルの上で、インテリアのキャンドルが揺れる。
「ベッドの下や、少し開いたクローゼットの扉の奥、書物と書物の間にできた本棚の隙間に、今まで奇妙なモノを見たことはない?」
 正直に言えば、ある。だが、それはまだ想像と現実の区別がついていない幼い頃の思い出や、疲れ切ってベッドに潜り込む寝入り端の悪夢の中だ。
「例えば」
 静かな口調で言う彼女が私の後ろをナイフで示す。
「何かの気配を感じて振り向くことは?」

 ざわっ。

 背骨を伝って、冷たい不快感が頭の天辺から爪先までを駆け抜ける。
「な……!」
 弾かれたように立ち上がる。誰も、いなかったはずなのに。背後に、複数の気配がする。
 椅子が倒れ、取り落としたフォークが視界の端で宙に浮かぶ。

 宙に?

 浮いているのは、わたしの落としたフォークのみ。部屋に重力操作はされていない。
「なん、で」
 浮いている、というのは正確な表現ではない。半透明の手に虚空で保持されているのだから。素早く視線を巡らせて、天井に立体映像投写機を探す。
 今時非常に珍しい木造の天井には、それらしきものはなにもなく、ただゆらゆらとシャンデリアの蝋燭が揺れるのみ。
 ならば、と左の腕の『ナノ』に目をやって、メディカルチェックとメンタルチェックを呼び出すも、共に異常なしを示している。
 つまりはこれは、映像でも幻覚でもない。そこに、実在しているのだ。その小さな手の主が。
 赤い着物の少女。ブルネットのボブ、というか黒髪のおかっぱに着物と同じ色の花簪。生気のない真白な顔に、唇ばかりが紅い。
 拾ったフォークを着物の袂に入れ、新しいフォークの柄をこちらに差し出している。
「えっ、誰?っていうかいつ?」
 わたしが戸惑っていると、カレンさんが言う。
「やっぱり、キヨネちゃんには見えるのね。わたしにはカトラリーが浮いているようにしか見えないのだけど。」
「見える、ってなんですか。どこの子ですかこの子?」
「この屋敷に憑く子だそうだけど、普通は見えないのよ。キヨネちゃんはやっぱり、ひいおばあさまと同じ目を持っているんだわ。」
「話が見えないンですけど。どうやってるんですかこの半透明になるの。こないだ発表された光学迷彩ペインティングって、市販されましたっけ?」
 新しいフォークを受け取り、お礼を言って、ステーキの解体作業に戻るために再着席。
「私たちが、魔女の家系だっていうのは知っている?」
 話が飛び飛びだ。
「はあ、まあ、遡れば欧州のほうの原住民とは聞いていますけど。」
 いつだったか、誰かがそんなことを言っていたような気がする。
「その昔、ある女性が、魔女狩りから逃れて海を渡ってこの地に流れ着いたの。渡った先が、この世の不思議に対して耐性のあった土地だったのが幸いして、安住の地になったのね。それが、私たちのご先祖様。」
 柑橘系をベースとしたソースが肉の味を引き立たせる。隠し味に、ホースラディッシュか何かを使用しているのか、舌にぴりりと刺激がアクセント。
「それで、私たちの一族には、見えないものを見たり、未来を識ったり、物を触らずに動かしたりする能力を持つ人間が生まれたのだけど、年月を重ねるにつれ、代を重ねるにつれて、そういう力も薄れてね。ひいおばあさまを除いては、そんな力も伝説の内になってしまったのだけど……」
 焼きたてのパンは、バターの風味がふんわりと広がり、ほんの少し柔らかな甘みが口に残る。
「不思議な能力をもつ者は不思議に惹かれるのね。たまたまこの国を訪れていたある異世界の貴公子、つまり私たちのひいおじいさまと出逢って、それはそれは素敵なロマンスを……もう。聞いている?」
「キイテマスキイテマス」
 付け合せのポテトはほっくりと。しゃきしゃきのキャロットラペは程よい酸味がとても爽やか。
「でも、ひいおじいさまは異世界のひと。泣く泣く二人は別れて、ひいおばあさまはこちらに残り、ひいおじいさまは ご自分の国へ帰った。だけど、その時にはひいおばあさまは既に大おばさまとおばあさま、つまりあなたのおばあさまと私のおばあさまの双子を身籠ってらっしゃったのね。」

 おばあさま、がゲシュタルト崩壊しそう。

「えーと、それでそのファンタジーと、わたしと何の関係が。」
「そうそう、本題はそれよね。ひいおじいさまの国がね、後継者を探しているんですって。それで、ひいおじいさまの血を継ぐもの、つまり私たちにお呼びがかかったの。でも、誰も『力』を持たなくて。唯一、あなただけだったのよ。ひいおばあさまのように不思議な力を持つ子供は。」
 何と言っても、白いご飯が最高である。新潟産の高級米がきらきらと輝いている。
「というわけでね、継いでほしいんですって。」

 さっぱりわからない。
 人類による宇宙の踏破さえ実現したこの時代に、異世界の貴公子様とか言われても。とりあえず訊いてみる。
「カレンさんが継ぐ気は無いんですか?」
「私にはあなたのような才能はないし、それに」
「それに?」
「月面基地に婚約者がいるから、ここでちゃんと待ってなくちゃいけないもの。」

 そっちが本音かよ。

 わたしが心の中で毒づくと、その気配を察したのか、少したじろぐ。
「でもまあ、会うだけ会ってみない?ひいおじいさまに。」
「えっ!?生きてるんです!?」
 わたしは危うくオレンジジュースを噴きそうになった。
「ええ。ご健在よ。ひいおじいさまの世界への扉が繋がっているから、食事を終えたら地下室にゆきましょう。お鶴ちゃん、そこにいるのでしょう?ランタンを持ってきてくれるかしら。」
 椅子によじ登り、退屈そうに足をぷらぷらさせていた着物の少女が頷いて、ぱたぱたと部屋を出て行く。
 カレンさんがお鶴と呼ばれた少女の方向ではなく、明後日の方向に呼びかけているのを見る限りでは、本当に彼女には少女の姿が見えないらしい。
「わかりました。会って、きちんとお断りします。だって、私は普通の中学生ですし」
「それでも良いと思うわ。あら、お鶴ちゃんありがとう。」
 危なっかしい足取りで、お鶴は、カレンさんのほうによたよたとキャンプで見るようなランタンを差し出す。
 カレンさんは、マッチで灯りを灯し、それからわたしを廊下へと促す。
「食事も済んだようね。じゃあ、行きましょうか。悪いけど、みんな、後片付けはよろしくね。」
 返事を待たずに廊下へ出ると、今は無人のはずの元の部屋からカチャカチャと食器のぶつかる音がする。
「すごいですね。家庭用家事無人機があるんですか?」
「むじんき?ロボットのこと?いいえ。ないわ。だってこの家、電気が通っていないもの。」
 今時そんな生活があるのか。昔話のようである。
「姿を見たことはないけれど、この屋敷にいるひいおばあさまのシキだと聞いているわ。今は私の指示に従っているの。」
 扉を細く開けて、そっと覗き込むと、うわあ見なきゃよかった。
 不定形で真っ黒な影が、部屋の中で蠢き、食器を移動させている。仕組みはよくわからない。
「さて。この廊下の一番奥よ。階段をかなり降りるけれど、大丈夫?」
「え、ええ。」
 敷かれた絨毯に足音が吸い込まれるせいで、薄暗い廊下はしん、と静まり返っている。
 揺れる蝋燭の灯りが頼りない。
 電気が通っていないということは、これはインテリアではなかったのか。
 廊下の突き当たりには、冷たい鉄の扉があり、その向こうには黒々と下へ向かう階段が続いていた。
「足元に気を付けてね。」
 かなり急な階段だ。暗い。壁を唯一の手掛かりに、カレンさんの後へ続く。唯一の光源は、彼女の手にするランタンと、わたしの左腕の皮膚下に埋め込まれた『ナノ』の仄白い光のみ。

 どれだけ降りたのだろうか。
 こんなに下ったら海の中なのではないかと思わせるくらい長い間階段を歩いてくると、ようやく扉のシルエット。
 重いノッカーをカレンさんが三度打ち鳴らすと、扉はひとりでに手前へと開いた。
「ここから先は、もう私は行けないの。私には、壁にしか見えないから。」
「壁、って……でも、向こうに広そうなお部屋がありますけど。」
 本当にそこに壁があるかのように、カレンさんは扉の後ろの空間を撫ぜる。いや、カレンさんには、壁が見えているのだろう。
「子供の頃には出入りできたんだけど。今ではときどき、ひいおじいさま宛の手紙をドアに挟んでおくと、いつの間にか枕元にお返事が届く程度のやりとりしか、私にはもうできないの。」
 そういうカレンさんは、少し寂しそうだった。
「どうする?行く?それともやめて引き返して、これから浜にでも遊びに行く?」
 わたしは首を振った。
「行きます。一言、ひいおじいちゃんにはっきりお断りしてきます。」

 そして、わたしは中へと踏み出した。
 ひんやり冷たい空気が頬を撫ぜる。石造の建物。地下のはずだが、窓から見えるのは高い位置から見下ろす夜の森や湖の光景。
 廊下を抜けると、大広間に辿り着く。
 黒地に紅い糸で何か紋様のようなものの刻まれた壁紙に、燻んだ緑色の絨毯。動物の骨を模したシャンデリア。壁から生えた何かの首。宝石を散りばめた小さなテーブル。背もたれの高い金色の椅子。
 どれも財力がモノを言わせていそうだが、金持ちの趣味はさっぱりわからない。
「清音か?」
 男の人の声。
 しかし、曽祖父というには声がやたらと若い。
 座しているのは、ひとりの青年だった。いつか両親に連れて行ってもらったバレエのプリンシパルのようだ。線の細い綺麗な男の人。銀の髪を後ろで一つに結び、黒色の細身のスーツがよく似合っている。
「よく来たね。歓迎しよう。清音。」
 このヒトがわたしのひいおじいちゃん?どう見ても二十代そこそこにしか見えない。
「清音。君と逢うのは初めてだったね。なにせ、稀世子は父である私に娘の顔も見せてはくれなかったから。」
 キヨコ、というのはわたしの祖母である。娘というのは、私の母、キヨラのことであろう。とりあえず、たどたどしく「はじめまして」と返す。
「それにしても、清音。君は凛の若い頃によく似ているね。会えて、とても嬉しいよ。ましてや、後を継いでくれにきたなんてね。」
 リン、はたしか、曽祖母の名前だ。
 曽祖父が微笑む。一瞬雰囲気に呑まれそうになって、駄目駄目と頭を振るわたし。
「そ、そうです!違うんです。わたしは後を継ぐとか、そういうの、お断りしにきたんです。なんて言ってもまだ十四歳ですし、学校にもいかなくちゃいけないし、まだ恋とか青春とか、そういうのにも憧れますし」
 わたしとの言葉を遮って笑う。
「恋はまだ?」
「こっ、えっと、小学校の頃いいな、と思う男の子はいましたけど、今はなんだかチャラチャラして幻滅っていうか、中学には子供っぽい子しかいないというか。」
 何を言っているのだわたしは。
「座ってお茶でも飲みながらにしよう。」
 曽祖父だという青年がふたつ手を打ち鳴らす。と、小さな丸いテーブルに紅茶の入ったポットと菓子を乗せたティースタンドが現れる。もったいぶった仕草だが、おそらく転送装置を使った物質の空間転移だろう。
 うちにもある。よくトイレットペーパーやお醤油、ミネラルウォーターや油等の重量のある日用品の補充に使う。店舗倉庫から転送されてきて、あとで料金が引き落とされるのだ。
 勧められた椅子に着席。白磁のカップに香りのよいお茶が注がれる。
「良かったら、お菓子もいかがかな?」
 皿に取り分けられたのは、林檎のシャーベットと柘榴のジュレの添えられた無花果のタルト。
「で、でも、さっきおひるごはんをいただいたばかりですし。」
「若いんだ。デザートくらいは入るだろう。」
 まあ。甘いものは大好きだ。
「溶けないうちにお食べ。作ったのは私だから、味の保証はできぬがね。」
 そこまで言われては、せっかく出されたものを残すのも悪い。酸味と甘みのバランスが最高である。都心の高級店のケーキとして出されても素直に信じてしまいそうだ。
 シャーベットには少し大粒の果肉を残して林檎はしゃきしゃきした歯応えが楽しく、柘榴のジュレの酸味がタルト・オ・フィグの控えめな甘みを引き立てている。タルト生地はさくさくと、これも噛むと小気味良い食感だ。
「とても美味しいです。」
「ありがとう。凛が昔よく作ってくれたんだ。似た味が再現できたのは、ほんの四、五十年前だが。」
 曽祖父と曽祖母の思い出の味か。なんだかほんのり切ない。
「それで、位を譲るという話だが。」
 本題がきた。
「わたしにはできません。だって、今までだって普通の女の子だし、これからだって普通に勉強して、就職して、素敵な旦那様と巡りあって、慎ましくも幸せな生活を送るっていう夢があるんです。」
 曽祖父は、
「凛と同じことを言うのだね。」
「突然そんなことを言われてもわたしには荷が重いというか、戸惑ってしまうというか。」
 曽祖父は静かにわたしの言葉を聞いている。
「だから、その、ごめんなさい。」
 わたしがあたまを下げると、曽祖父は穏やかに微笑んだ。
「そうか。まあ、そうだろうね。」
 曽祖父は、カップの紅茶を一口飲んで、ゆっくりと頷く。
「急に、君は王位継承権を持つのだ、プリンセスなのだと言われても、御伽噺ではないのだから、そうすぐには受け入れられはしないだろうね。」
『プリンセス』。そうか。プリンセスなのか。いや。そのような言葉の響きにグラついている場合ではない。
「まだ学ばなきゃいけないこともたくさんあると思いますし、国とか治めている場合ではないのです。」
「まあ、学生の本分は勉学だからね。もちろん、今すぐとは言わないさ。」
「わかってくれてよかったです。そろそろ帰りますね。お菓子、ありがとうございました。」
 ぺこり、と頭を下げて、『ナノ』で時間を見ようと左腕に目をやった瞬間、わたしは凍りついた。
 何故気付かなかったのか。『ナノ』が「警告」の表示を浮かべていることに。
 曽祖父が、口角を引き上げ笑みを深くする。
「ところで、ヨモツヘグイという言葉を聞いたことはあるかね?」
 何故急に、曽祖父がそんな話をしだしたのかはわからないが、言葉くらいは知っている。
 ってまさか。
「まさか凛と同じ手にひっかかるとは思わなかったよ。尤も、もちろんここは死の国ではないから、君が死者となったわけではないが。」
 林檎、柘榴、無花果。こんなにわかりやすい罠だったのに!
 イブは林檎を食べて楽園から追放され、ヘカテーは無花果を、ペルセポネは柘榴をハデスに与えられ、そしてイザナミは黄泉の火で煮炊きしたものを口にして。
「食べる、という行為は、そこで生きる命を取り込んでいるのだ。自分もそこで生きるという一種の契約を交わしているのと同じことだな。だから異界の食べ物を口にすれば、元の世界には戻れない。凛のように、元の世界側の者が連れ戻さない限りは。」
 しかもそれらの果実が全部加工されている。最悪だ。
『ナノ』によって腕に浮かぶ光の文字を見る限り、体がなんらかの変調をきたしていることは間違いない。
 体が熱い。感覚が鋭くなって、自分の鼓動が煩い。
 わたしは部屋を飛び出して、元来た廊下を全力疾走する。
 無い!
 カレンさんの住む屋敷に繋がる扉が無い!
「すまないね。私も手段を選べる段階ではなくなっていてね。」
 曽祖父の声にエコーがかかる。力が入らず、その場に座り込む。
 だんだん視界が狭くなり、ブラック・アウト。

 くそじじい。

 なんだかひどい夢を見た。
 曽祖父が生きていて、異世界の王で、後を継げと言って。
 どんな夢なんだ一体。
 体にフィットして、これまで眠ったどのベッドより寝心地のよいマットレス。カレンさんに貸してもらった部屋のベッドも寝心地が良いと思ったが、こっちはそれを超える。固すぎず柔らかすぎず。
「って、どこだここは!?」
 パステルカラーの少女趣味のベッド。ご丁寧に天蓋付き。そっとカーテン状のレースをめくると、これもまた可愛らしい部屋。くまのぬいぐるみに、花柄のソファ。白いドレッサー。
 鏡に目をやり、唖然とした。わたしの顔が映っている。それはいい。しかし、問題はその姿だ。
 チョコレートブラウンのベリーショートであった髪が、腰まで伸びている。そして、色は祖父のようなプラチナブロンドに。眉と睫毛も同じ色。瞳の色さえ、茶色味がかった黒の瞳が、薄いグレーに変化していた。
 なにがあったのか、記録を確認しようと『ナノ』のメニューを呼び出そうとして、わたしはパニックを起こす。
 左腕に浮かぶはずのメニューが出ない。出ないどころか、左腕に『ナノ』の存在を感じない。何度かアクセスを試みても、何の反応もない。こうなると髪や瞳の色の変化など瑣末なことだ。『ナノ』がない状態で、人間がどうやって生きて行くと言うのだ。
「お呼びですか?清音。」
 途方に暮れるわたしを、抑揚のない声が呼ぶ。聞き覚えのある声だが、誰だったかは思い出せない。
「清音?」
 女の子。歳はわたしと同じくらい。アップに編み上げたスカイブルーの髪に、ライム色の瞳、陶磁器のように白い肌、ほんのりと薔薇色の頬、桜の花びらのような唇、長い睫毛。人形のような美少女である。
「清音。精神の波長が乱れています。深呼吸をして心を落ち着けましょう。」
 その台詞には覚えがあった。
「『ナノ』?」
「はい。清音。」
 少女は無表情のまま頷いた。
「えっ。」
「はい。ナノです。」
「冗談がきついわ。」
「ジョークではありません。私はナノです。」
 大真面目な顔で、彼女はそんなことを言う。
「でも、『ナノ』は機械でしょう?」
『ナノ』とは、人間が産まれて一番初めに行う予防接種と同じタイミングで、体に埋め込む極小のマシンである。
「はい。間違いありません。ナノは、清音のナノとして、清音の体内で体調管理、精神を健全に保つサポート等を行っておりました。」
 軽い病気や怪我なら、『ナノ』の修復機能で治してしまう。これにより、人類の寿命は飛躍的に延び、増えた人口問題解決のために、停滞していた宇宙開発も進んだのだ。今では人間の住める星もその数数百に及ぶ。おかげでかつての学校よりも、地理も歴史も生物の科目も、教科書の容量が相当増えているらしい。ああ、地球のことさえ覚えればよかった過去の人たちが羨ましい。おまけに、人類の住むのが地球だけなら、両親が仕事で幾つもの星を駆け巡り、年に数度しか会えないということもなかったのだろう。
「清音?」
「あっ、うん。ごめん。あなたが『ナノ』だっていうの?本当に?」
「肯定します。お望みでしたら、清音の6ヶ月検診から現在までの生い立ちを思い出振返りモードで再生させましょうか?」
「いいえ結構デス。でも、どうして?」
 どう見ても、普通の女の子である。カラーリングと美少女振りが普通でないのは置いておくとして。
「ナノは、清音があの毒物を口にされたとき、解毒と清音の急激な変化を止めるべく、通常通り治療機能を起動させました。しかし、対象は、ナノを清音の体から弾き飛ばしたのです。ご存知の通り、ナノはユーザーの死亡まで機能を停止しません。ナノは即座に最適化を実行し、外装を構築しました。それが、この外装です。」
か、かがくのちからってすごい。
「ナノは、清音の中にいられなくなりましたが、ナノは清音のお側にいてよろしいでしょうか?」
 きゅっ、と両手を包まれ握られる。ナノの瞳は少し潤んでいるようにも見える。
「わ、わかったわ。ナノ、ところでここはどこ?」
「清音が最後にいらした建物からは移動しておりません。地図を呼び出すことに失敗しました。マップ未実装の外宇宙のどこかと思われますが、特定に失敗しました。エラー情報を開発元バン・マリー社に送信しますか?」
 そうか。カレンさんが異世界、と言っていた。ナノがマップで呼び出せない場所だというからには、信憑性の高い話になってきた。
「いいえ。多分、送られた方もパニックよ。……通信が可能なの?」
「バン・マリー社のマインド・ネットワーク・サービスは、宇宙のどこにいてもリアルタイムで通信可能です。」
 聞きなれた宣伝文句だ。ナノは数秒停止して言い直す。
「この外宇宙では、リアルタイムでは不可能ですが、静止画像とテキストの受送信は可能のようです。新着メッセージが届いています。読み上げますか。」
 がいうちゅう。そういう判断をしたわけか。
「自分で読む……わけにはいかないわね。」
「お望みであれば可能です。」
 ワンピースをたくし上げるナノを止める。なんつーことを急にしだすのだ。
「読んでください。」
「承知しました。『ママより。やっほーきよねちゃん元気にしてる?ママは今、とある惑星の開拓に携わっています。この前言っていた帰国の日はなんとか守れるように頑張るけど、』」
 ああこれ、いつもの帰ってこれないパターンだ。
「『その間、おじいちゃん……あなたにとってはひいおじいちゃんね。が、きよねちゃんを責任持って預かるといってくれました。パパと相談して転校の承諾書にもサインしておきましたので』」
「ちょっとまって!?」
「はい。停止します。」
「転校ってなに!?」
「『転校』の意味を調べますか。」
「いやそうじゃなくて。なんで。」
「この先をお読みしましょうか。」
「え、ええ。お願い。」
「『新しい学校でもいつも通り”うまく”やってね。さすがママの娘!愛してるわ!』とのことです。清音。これは、古い詩の一節ですが、『天の星ほど離れた場所にいても』」
「『心は繋がっている』。わかってるわ。大丈夫。」
 わたしの心の動きを常に観測し、一番適切な反応を示すナノは、いつだってわたしを慰める。
「でも、転校ってどういうことかしら。」
 ノック音。
「それは、その人形娘のせいだ。」
 くそじじい、いや、曽祖父がコーヒーのトレイを運び込みながら顔を出す。
「当然です。清音に今必要なのは、教育です。記録によれば、あなたも学生の本分が勉学であると発言しています。必要であれば、音声記録を再生しますが。」
「この調子で昨日、説得されてね。」
 ため息をつきながら、クロワッサンとコーヒー、ミルクと砂糖をベッド脇のサイドテーブルに並べていく曽祖父。
「こっちにも学校はあるから、明日からそこへ通い給え。いずれ君の配下となる者もあろうから、顔を売っておくのも悪くはあるまい。」
「そんな勝手に!」
 曽祖父はにやりと嗤う。
「ならば、すぐに私の代わりをしてくれるかね?」
「う」
 こんな格好で普通の学校へ通えないのは確かだし、そもそも戻り方がわからない以上、できることをするしかない。ナノが善しとするなら、それが今取れる最良の選択だ。
「了解、わかったわ。でも、すぐにこんなところ脱出してやるから。」
 びし、と曽祖父の鼻先に人差し指を突き付ける。

 そうして、わたしは普通の女子中学生ライフを手放した。

 そして、それから2ヶ月、こっちの学校に通っているわけだが、全く慣れない。
 名門校だと曽祖父は言っていた。広大な敷地。ナノと一緒に通うことも許された。どうやったのかは知らないが、曽祖父が何か手を回したらしい。
 文字も言葉もわからないと訴えたが、ナノが解析した情報を脳に直接ダウンロードしたおかげでなんとか授業にはついていけている。
 毎日授業が終われば、「元の世界に帰った時のために」という名目の、ナノの講義が待っている。
 それはいい。こっちの勉強はまるっきりファンタジーで興味深い。モニターに映すのではなく、わざわざ授業を受けるために教室を移動したり、同じ教科を教えるのに何人も教師がいたり、自分でノートに黒板の文字を書き写すことはものすごく非効率的だとは思うが、それも新鮮でいい。
 ただ、なんというか。
 クラスメイトと教師陣が、皆、古いSF映画に出てくる荒唐無稽なエイリアンっぽい。
 首が三つある鳥顔の者、九本の尾を持つ二足歩行の狐、曲がりくねった山羊の角を持つ人、自律歩行する靴と制服(中身無し)、翼を持った巨大な蜥蜴。人間サイズの昆虫。鳥の翼の生えた人と蝶の翼の生えた人。人型の靄。わたしの幼い頃に、父が演じた舞台の百鬼夜行を思い出す。
 廊下の曲がり角で別のクラスの異形の生徒に悲鳴を上げなくなったのも、ここ最近のことだ。

 そして彼。

 他のクラスメイトに比べれば、彼はかなり普通だった。
 声や雰囲気から推測できるのは、彼がわたしと同じ世代の少年だということだ。身に付けている服は、規定通りに着こなした男子の指定制服。立ち居振る舞いも、言葉遣いも、礼儀正しく、お行儀の良い男の子といった風である。
 ただまあ、彼もまた、他の者と同じく変だった。目の部分にだけ二つの穴を開けた紙袋で、頭部をすっぽりと覆っているのは、ものすごく変である。
 けれど、ほとんど騙し討ちのように転校してきた異世界の学校というこの場所で、変な風体をした生徒や先生を見慣れ始めたわたしにとって、彼が人前で紙袋を外さない程度のことなど、ささやかな問題だ。首から下が普通の人間の男子に見えるだけ、他のと比べてだいぶマシ。

 彼と初めて言葉を交わしたのは、確か、わたしが転入して間もなくの午後に選択した授業がない昼休みだったと思う。ナノが図書館で調べ物があるとかで残り、わたしも同席しようと申し出たのだが、わたしが疲れているとナノが言い、曽祖父の屋敷に戻るよう促されてしまったのだ。
 わたしはひとりだった。こっちに友達はいない。なんだか皆、『王様』の曽孫であるわたしとの距離を測りかねているようだし、それはわたしも同様だ。
 暇だった。すぐに戻る気にもなれず、ナノが戻ると言った時間まで、ぷらぷらと学園内の散歩に出たのだった。
 ここには、保護区でなくとも自然がある。樹々や草花が好き勝手に生えている。保護ドームの中の公園の中で、人間の手によって管理された植物しか知らないわたしには、ちょっとした感動だった。
 そして、あまり足を踏み入れたことのない学園の森で、彼に出会った。
 淡い色の花を枝いっぱいに咲かせた樹の下で、彼はバゲットを千切りながら口に、否、紙袋の開口部に運んでいた。
 そういえば、彼はいつも独りだ。友人と一緒にいるところを見たことがない。わたしは、気まぐれに彼に声をかけた。片手を軽く上げて。
「ハイ」
 彼はきょろきょろと辺りを見回し、他に誰もいないことを確認してから、おずおずと応じた。
「やあ。」
 これが彼とのファースト・コンタクト。彼の隣のスペースを譲ってもらい、とりあえず、当たり障りのない言葉を探す。
「いつも、ここでランチを食べてるの?」
 わたしの問いかけに頷く彼。
「大体は。ここは、誰も来ないから。」
 それはそうだろう。ここは、学園内ではあるが、広大な敷地の端の森の中である。授業に戻るには校舎から遠すぎる。
「静かで良いところね。」
 重なり合う葉の間から射し込む木漏れ日が、優しく降り注ぐ。緑の匂い。柔らかな風が髪を撫ぜる。
 切っても切っても即座に伸びるので、髪を切ることは諦めた。毎朝ナノに編んでもらっている。
「今はね。でも、夜は賑やかだよ。闇の獣が出るからね。」
「やみの、なに?」
「なぜ学園が夜の外出を禁じているか知らないのかい?」
 知らないわ、と首を振る。編入したばかりのわたしは、まだ噂話や怪談を耳にするほど馴染めていない。というか、ナノ以外に話し相手もいない。
「夜は、魔が力を強めるからさ。例えば」
 彼は、バゲットの最後のひとかけらを森の奥へと放り投げた。
 ざわり。
 肌が粟立つ。陰の中から、真っ黒な何かがそれを受けて飛び出し、また陰の中へ戻った。
「昼間はああやって潜んでいるモノも、表に出易くなる。だから、夜は近付かないほうがいいよ。」
「あれはなに?」
 良いものではない。ぞわぞわ立つ鳥肌が告げる。幼い頃に見た交通事故の現場や、心霊スポットと噂されていた廃墟で見たものとよく似た何か。
「神に見放され、同族にも棄てられ、ヒトにも交われず、精霊にも戻れず、暗闇に潜むしかないモノさ。」
事も無げに言う彼に、わたしは同じ質問を投げかけた。
「いつも、こんなところで、ランチを?」
 紙袋の下で、彼は少し笑ったようだった。
「昼間は君が言ったように静かでいいところだし、今の季節は花も綺麗だからね。」
「危なくないの?」
「ある程度の対処はできるさ。」
 立ち上がって、伸びをひとつすると、彼は言った。
「そろそろ戻らないと、次の授業に間に合わないよ。」
「今日は、午前の授業で終わりだから。あなたは、戻るの?」
「うん。次は飛行の実技だから、できればサボってしまいたいけど。」
 さっきのあれを見た以上、ひとりでここに残る気分にはならない。スカートの土埃をはらって、ふと気付く。
「わたしも戻るわ。そうだ。聞いてなかったし、言ってなかった。名前。」
「そういえばそうだね。」
「わたしはキヨネ。中等部の2回生。」
 わたしが名乗ると、
「ぼくはハル。」
 ハルは襟のブローチを指で摘んで示す。ブローチの色は、わたしより一つ上の学年を表している。
「先輩だったのね。敬語で話すべきかしら。」
「結構だ。それに、敬語を使うべきは僕じゃないかな。君は、例のプリンセスだろう?」
「やめて。曽祖父はどこかの王様だっていうけど、わたし自身は普通の中学生よ。」
「どこかの、って、もしかして、君の曽祖父殿が何者かをわかっていない?」
「そういえば、曽祖父が何の王様なのか、何も知らないわ。」
 あのひとがわたしに後を継がせたがっている理由も。
「ああ、そうか。だからか。」
 ハルはひとりで何かに納得した様子で頷いた。そして、声のトーンを落とすと、ハルはわたしにこう忠告した。
「僕達は校則に守られているけれど、できるだけひとりにならないほうがいい。校則は破られるものだから。」
 特に君は、と続けるハル。ああ、あの変な校則か。『生徒を食べぬ事』。時折、クラスメイトがわたしのほうを妙な視線で見ているのを感じていたが、まさか。
「怖がらせちゃったかな。」
 笑い混じりの声。からかわれたのか。
「ひどいわ」
「ごめん。お詫びに、近くまで送るよ。」
「午後の授業はいいの?」
「僕、成績は良いほうだから。試験さえクリアすれば許してもらえるさ。」
 あんなものを見せられた後で、ひとりで置いていかれてはたまらない。お言葉に甘える事にする。

 わたしはナノと一緒でないときは、ハルに勉強を教わったり、他愛のない会話をして過ごした。
 ハルは、ここに来て初めての友達だ。
 ハルとナノのおかげで、わたしはこの世界がほんの少しだけ嫌いになれなくなっていた。

 ある週末、わたしはナノに起こされる前に目が覚めた。この世界にも、昼と夜がある。夜と朝との曖昧な境目にわずかな光を差し始めた時間。
 ナノの起動時間までもまだ早い。わたしは夜着のまま、そっと部屋を抜け出した。
 城の中は、いつもしんと静まり返っている。
 色褪せた調度品、石壁に刻まれた深い傷跡。触るとひんやりと冷たいものばかり。荒れ果てているとまでは言わないが、城の中は古く寂れている。曽祖父は、この広い城でずっと独りでいたのか。曽祖父の銀色の瞳の奥に潜むひどく哀しげな光に気付いてからは、わたしは曽祖父を強く責めることを止めていた。
ナノを介して行う故郷とのメッセージのやりとりが、いつかは曽祖父の元を去り、そこへ帰る決意を強くするとともに、曽祖父をまた独りにすることに対する後ろめたさをわたしに芽生えさせていた。
「清音?」
「『ひいおじいちゃん』。」
 若者の姿をした曽祖父をこう呼ぶことにもすっかり抵抗がなくなった。わたしは現状を甘んじて受け入れている。
 曽祖父に文句を言い続けたところで変化した体が元に戻るわけではないし、元の世界への扉が急に現れるわけでもない。
 それに、ナノは言う。必ずわたしと故郷を繋いでみせるので、それまで心身ともに健康であれと。
 ナノがそう言うならば仕方ない。それに、どのみち右も左もわからぬこの場所では、曽祖父を頼らざるを得ないのだ。
「ずいぶん早いね。今日は学校もお休みだろう。」
「なんだか目が冴えちゃって。ひいおじいちゃんも、早起きね。」
 曽祖父が眠っている姿を見たことがない。
「私は……」
 曽祖父は口を開きかけて、迷ったように沈黙した。曽祖父とふたりきりで話をするのは、ここへ来たとき以来だ。
「ねえひいおじいちゃん。わたし、ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんの馴れ初めが聞きたい。」
 なんだか暗くて重そうな話になりそうだったので、話題を変える。
「凛か。」
 曽祖父は、目を細めた。ああ、このひとはひいおばあちゃんのことを本当に好きだったのだろう。凛、と言葉に出すときだけ、柔らかい表情になる。
「書斎で話そうか。火を入れてあるから。」
 確かに、石の廊下は夜着では寒い。
 ほんわりと暖かい書斎に入ってほっとする。暖炉の薪がぱちぱちとはぜる音をBGMとして、曽祖父の語る思い出に耳を澄ませた。
「当時、この世界は何百年にも渡る大きな戦争の真っ只中であった。終わりの見えぬ戦いに、皆疲弊していた。王であり、指揮官であった私もまた同様だった。」

 もはや、誰も戦のきっかけも理由も覚えていなかった。止めようにも、どうしたらいいのか、方法は誰も知らなかった。
 戦況の悪化に頭を悩ませていたある晩、私は気分転換に外の空気を吸おうとバルコニーに出た。
 そこで、私は凛に出会った。出会った、と言って良いのかどうか。
 凛は、空から落ちてきたのだ。最初は、敵の刺客ではないかと警戒した。しかし凛は、調度、今の君のように全く無防備であった。夜着に裸足。冷え切った体を、仔犬のように震わせていたよ。捨て置くという選択肢もあったが、私は自分でも何故だか分からぬまま、彼女を城内へ導き、土と埃で汚れた体を使用人に命じて清めさせていた。
 そう、その頃は、この城にも数百という使用人がいたのだよ。
 使用人が着替えさせ、戻ってきた凛は、美しい娘だった。凛は、こちらの言葉はわからなかったが、それでも黒髪と黒い瞳という容姿の物珍しさも相まって、すぐに城中の人気者となった。また、彼女は絵の上手な娘でもあったため、皆こぞって彼女に自分の似姿を描かせていたよ。
 私はというと、凛は自分で保護することを決めたのに、全く凛のことを見ていなかった。凛が日に日に窶れていくことに、少しも気付かなかったのだから。
 凛は、こちらに来てから一週間も、食事を摂っていなかった。食事を運ばなかったわけではない。こちらの食物を摂り、元の世界に帰ることができなくなることを恐れたのだろう。だが、食事を摂らねば人は死ぬ。私は、彼女が眠っている隙に彼女の口へ果物の汁を流し入れた。
 目を覚ました彼女はひどく狼狽え、私に抗議し、泣き叫んだが、私は構わなかった。私は、彼女を生かしたかったのだ。
 どうすれば効率的に敵の命を奪えるか。そればかりを考えていた私が。笑ってしまうだろう?
 それから、三日三晩私は彼女に無視され続けたが、彼女は開き直ったのかよく食べるようになったし、感情表現も豊かになった。
 私の周りには、それまで私を崇めるか、私に取り入ろうと媚びへつらう者、そんな者しかいなかったため、彼女のように私に対して遠慮のない者の扱いをどうして良いかわからなかった。しかし楽しかった。
 彼女は、城の中のムードを一変させた。戦況は相変わらず最悪であったし、拠点陥落の報せは相変わらず毎日届いたが、それでも城の者の顔は明るくなったように思う。
 私は、彼女に徐々に惹かれてゆく自分に気付いていた。
 彼女はどうだったのかな。毎晩寂しげに空を見上げ、溜息をついている彼女が、私を受け入れてくれたのは、私を愛してくれたのか、諦めだったのか。
 さて、その頃にはもう、指揮官である私が前線に立たねばならぬ程、敗北は目に見えていた。
 ある日私が戦場から引き上げ戻ってくると、彼女が悲鳴を上げた。それほどまでに私は酷い有様で、長い間の休養を要するほどだった。彼女はその間、私から一時たりと離れようとしなかった。私は、夜空から彼女の視線を奪うことができたのを密かに悦んでもいた。
 私はその頃、戦の意義を見失っていた。私は疲れていた。勝利しても得るものはなく、そもそも何をもって勝利とするのかさえ知るものはなかった。ある者は敵対する種族を全て滅ぼせば良いと言ったが、そんな事は不可能であると私は経験的に識っていた。
 そうした私を快く思わぬ者もあった。また、私がそう考えるのは、凛、つまり異界の人間の娘などにうつつを抜かし、闘いを恐れるようになったからだとも。
 正直言えば、私は凛が来るずっと以前から臆病だった。だが、地位と力が私を奮わせ、体をプライドと他者の創り上げたイメージだけで支えて立っていたに過ぎぬ。私がただの若造でいられたのも、凛の前でだけであった。
『凛さえいなければ、私がかつてのような畏怖すべき王となる』誰かが考えるのも当然だ。凛は、味方の誰かの手にかかった。幸い、一命は取り留めたものの、明日をも知れぬ命であった。私は凛に力の半分を与えて蘇生した。しかし、ここにいればいつ同じことが起きるとも限らない。凛を喪うことを恐れていた。ならば凛を失えばいい。凛を元の世界に戻すことを考えた。
 時空を歪ませ、凛の世界とこちらを繋ぎ、凛を送る。言葉にすれば簡単だが、それには強大な力を必要とした。私には策があった。私と、私の敵の将との力を利用するのだ。私は城の者を全て追い出した。おそらく、彼らは私が『凛を死なせようとしたのは城の者だ』と考え、怒り狂いそのようなことをしたと見えたはずだ。実際は、まあ、巻き込みたくはなかったのだな。
 私の力が落ち、城の精鋭もいない。好機と見たのか、敵の将が乗り込んできた。私の策略の通りだった。
 敵を見て、私は驚いた。たった4人だ。しかも皆、清音、君と同じくらいの少年少女だ。だが彼らの力は凄まじかった。私には好都合だ。力の方向が少ないほど、束ねるのは容易い。
 私の目論見通りことが運び、私は凛を元の世界に送り出すことができた。私は敗北したが、同時に私だけの勝利でもあった。
 相反する力の衝突は、世界に様々な歪みを生じさせたが、そのおかげで、凛の世界と私とを結ぶ道も残ったままとなったしな。
 戦のほうも、討たれた私を諸悪の根源とすることで終息し、めでたしめでたしというわけだ。

「軽い気持ちで聞いた身内の恋バナがとんでもないアレだった。」
 薄々感づいていたが、曽祖父は、真っ当な統治者ではなかった。自分の目的のために世界を犠牲にした上に討たれるという大馬鹿野郎様だった。
「でも、今の話、作り話でしょう。」
「なぜそう思う?」
「だって、討たれたと言うわりには、わたしの目の前で元気そうだわ。」
「ああ、なるほど。」
 祖父は頷いて、
「それなら答えは簡単だ。」
 微笑んだ。
「私は間違いなくあのとき討たれたし、復活にも時間がかかった。」
 ふっかつ。
「凛はもうすでに故人であり、稀世子と稀世美は成人していた。それほどまでに長い時間が過ぎていた。」
 ということは、曽祖父は惑星間戦争や例の集団感染パニック、通称”ウォーキング・デッド・パンデミック”を曽祖母がどう生き残ったかを知らぬわけだ。わたしも歴史の教科書でしか知らないが。それは微妙な距離ができても仕方ない気がする。
「で、なんだって今更、曽孫なんか呼び付けたの?」
「少々、問題が発生してね。」
「問題?」
「これさ。」
 曽祖父が差し出したのは、昨日の新聞記事だった。
「連続強盗殺人事件?」
 被害者がヒトと言えるかどうかは微妙だが。
「復活した私の命を、勇者一行を名乗る者たちが狙っているようだ。まあ、それは良いのだが。」
いいのか。
「彼らの住む場所がここから遠かったばかりに、辿り着く道すがら、そうして正義の名の下に人々を見境なく襲っているらしい。」
 曽祖父は眉間に皺を寄せた。ぴりぴりと、空気に緊張感が走る。初めて見る真剣な顔だ。
「そこで清音。君だ。」
「わたし?」
 急に指名され、首をかしげる。
「君には、今まで通り、この城で寝起きしてほしい。私が出かける夜の間、この城に在ってほしいのだ。」
「うん。なんで?」
「私が凛に与えた力を君が受け継いでいるからさ。私は、というより、私の力はこの城の内部になければならないことになっているのだ。」
「ああ、セキュリティの問題?」
「セキュリティ?まあ、似たようなものかな。」
 なるほどそれなら納得した。おそらくは、城の生活に必要な機能を起動するのに、遺伝子登録ロックがかかっているのだ。一外を出てしまうと、再起動に時間がかかり、不便なため、誰かが残って常にオンの状態にしておきたい。そんなところだろう。何年も前にその不具合は改善されているはずだが、ここがまだ旧式のシステムを使っていてもなんら不思議ではない。
「夜の間に私が彼らを対処するから、清音はあの人形娘と留守番を頼む。」
「了解、わかったわ。」
 わたしはなにも考えず了承した。わたしはその日から毎晩、曽祖父が夜にどこかへ出かけていくのを気楽な調子で見守った。ややこしい事態になることを一切知らぬまま。

 クラスメイトが朝からザワついていた。わたしは週明けに行われる科目の実技テストのことで頭がいっぱいで、そのザワつきの原因には、なにひとつ注意を払っていなかった。
「分子の結合を組み替えれば良いのです。あとは電気刺激を与えれば、この通り、木製のカップを鳩に変更する課題は完了です。」
 澄ました顔で、ナノがわたしに見本を見せる。魔法から一番遠いナノにできて、なぜわたしのカップは、なんの変化もしないのか。
 何か、ナノの手順にわたしと違うところがあるのかと、よく観察する。
「あ。」
 ナノが行っているのは、ただの生体相違転送である。ある地点に用意した鳩を手元に転送し、代わりにカップと入れ替えているだけだ。分子の結合だ、電気刺激だ、は出まかせではないか。通りで昨日、ナノの持ち帰った籠から妙な音がすると思った。おそらく今、籠の中にはカップが転がっていることだろう。
 結果は一緒だ。仕掛けを知らなければ、教師陣にも見破れまい。
「ご希望があれば、ナノは清音の脳に物質転移プログラムをお送りします。マホウ、などという未開の地の技術など、我々のテクノロジーをもってすれば簡単に再現可能です。」
「ありがとう。遠慮しておくわ。」
 わたしが再びカップに向き直ろうとした瞬間、ナノがわたしを引き倒す。
 ふに、とやわらかいナノの外装がわたしを包み込んだと同時に、一瞬前までわたしの頭があった空間をクラスメイトの腕が薙いで過ぎる!
「すぐに立ち上がってください。」
 耳元のナノの指示に従い、わたしはナノに手を引かれるまま身を起こす。
「グ、ガガガガ」
 隣の席の、なんか発音のややこしい名前の狼っぽいクラスメイトが胸を押さえて苦しんでいる。
「だい、」
 大丈夫?と声をかけようとしたわたしを、ナノが自分の方へ引き寄せ背に隠す。
 木製の机がビスケットのように真っ二つ。わたしが受けていたらと、ぞっとする。
 狼の人の爪が鋭く長く。身体中の毛が逆立っている。
 異変が起きているのは、狼の人だけではなかった。クラスメイトの何人かが急に、
「きゃっ!?」
 視界が遮られる。ナノの手が目隠しとなったのだ。
「なに!?どうしたのナノ!」
「清音の精神の発達に悪影響を及ぼすと判断し、遮断させていただきました。」
 悲鳴と、何かが壊れる音、トマトか何かが潰れる音、生臭いにおい。
「脱出しましょう。」
「なんで!?テストは!?」
「これではおそらく中止でしょう。クラスの半数が正気を失っている状態では。」
「メディカルチェックは?」
 集団感染、集団発症の可能性が大きい。もし、わたしが何かに感染しているなら、わたしも教室から出るべきではない。
「失礼します。」
「んむ」
 口の中に柔らかいものが差しいられる。
「……清音の健康に問題ありません。ウィルス、細菌についても同様です。」
「了解。それじゃあ、わたしをひいおじいちゃんのところまで。」
 避難場所、と言ったらそこしか思いつかない。
「承知いたしました。」
 ナノが自分のタイを抜き取り、わたしの目隠しを作る。ナノがわたしに見せないと判断したものは、見なくて良いものだ。抵抗する必要はない。
 わたしはナノの手の引くまま、暗闇の中を走り出した。
 言葉を聞き取れない悲鳴と怒号、足に感じる何かの破片、嫌なにおい。それをすべて無視してわたしはナノの手だけを頼りに脚を動かす。途中、何度も転びそうになるが、その度ナノがわたしを支える。
 足元が芝生の感覚になって、ナノはわたしから目隠しを外す。校庭だ。空は禍々しく赤く、地面はところどころ抉れている。振り向けば、校舎からは煙が上がり、柱がひしゃげている。
 静かで小綺麗だった建物が見る影もない。
 いつまでも眺めてはいられなかった。
「やっと見つけたぜ。オヒメサマ。」
 柄の悪そうな若い男の声と共に、頭上に何かが降ってくる。ナノに庇われ避ける。巨大な爬虫類の首。五、六メートル四方ほど。作り物じみて、凄惨な感じはしない。
「ナノの主人にこのようなものを投げつけるとは、どういった了見ですか」
ナノが声の方に問いかける。
 背の低い男。血で汚れた衣服は、制服ではない。教師陣にも見た顔ではない。
「勇者様に代わって、次期魔王様を滅ぼすのさ。」
 ジキマオーサマって何だろう。そんな単語は授業でも出てきた記憶がない。ユウシャサマ、というのは、聞き覚えがある。つまりは、こいつが例の犯罪者一行か。
「ネエちゃんには悪いことァ言わねえ。おとなしくその女渡しな。」
 下卑た笑み。
「そしたらアンタにもイイオモイさせてやるからよ。」
 いつも無表情のナノが、なんだか怒っているように見えるが、気のせいだろう。ナノに感情プログラムはない。
「愚かな未開人ですね。ナノは清音の物としてユーザー登録されており、清音でなければ誰であれナノのユーザーではありません。」
 それはそうなのだが、今のナノは可愛らしい女の子である。なんだかとても誤解を生みそうな台詞だ。
「さすがは白き魔王の継承者だ。もうヒトを道具扱いしてんのかよ。」
 なにを言っているのかさっぱりだが、やっぱりきっちり誤解はされている。
 わたしが誤解を解こうと口を開く前に
「まあいいや。邪魔すんならアンタも一緒にぶち倒すだけだからな!」
 背中から長い柄のついた斧を抜いて跳ぶ!あんなもの振り回されたら、どうしようもない!
「ナノ!」
 両の腕から内蔵されたナイフを取り出し構えるナノ。
「そんな短いナイフで俺の、戦士のハルバードが受けられるか!」
 だが、ナノは鼻で笑い飛ばす。
「ふっ。ただの鉄。」
 人間には不可能なスピードで、ナノは地を蹴り振り下ろされる斧をナイフで受ける!
「馬鹿な!」
 すっぱりと。鮮やかな切断面で斧がバターのように切れて落ちた。
 超振動カッター!
 ナノったらいつの間にあんなものを!曽祖父と書斎でなにやら夜中にこそこそしていたのはあれかー。
 茫然と、細切れになった戦斧だった棒切れを見つめる男の隙を見逃すナノではなかった。
 ナノが撃ちこんだワイヤーを伝い、流れる大電流!
「ぎっ」
 声にならない声を上げて、男はその場に倒れこんだ。
「しんじゃったの?」
「失神していますが、生命活動は停止していません」
 ナノがてきぱき男の手首をわたしのタイで背中側で縛り上げ、道の端へ転がす。なんだかやってることが悪役っぽいが、非常時である。仕方ない。
 ナノの先導で、再び駆ける。息が苦しいし、横腹が痛む。でもお城まであと少し。もう少しだけ我慢すれば、きっとひいおじいちゃんがなんとかしてくれる。
 城壁が見えて、走る速度を緩めたのが間違いだった。
 熱風が、顔の横を過ぎていった。わたしを抱きかかえて跳んだ誰かのおかげで、難を逃れた、らしい。
「ナノ……?」
 わたしの手を引いていたナノの腕が、焼き切られて落ちた。
 かしゃんっ。
「ナノ!」
 掠れた声しか出ない。ナノに駆け寄ろうとするわたしを、わたしを救った誰か、ハルが制止する。
「あら。青いお人形さんのほかにオトモダチがいたなんて、聞いていなかったわ。僧侶殿も当てにならないわね。」
 とんがり帽子に黒いマント、体のラインを強調した紫色のタイトなワンピース。深いスリットから覗く、黒の網タイツに鋲の打ち込まれた革のハイヒールブーツ。
 真紅をひいた唇、ツリ目の肉感的な魔法使い。
「ま、まとめて片付ければいっか。」
 長い木製の杖の先端をナノに向けて、なにやらぶつぶつ唱え始める。
「ワイバーン!」
 ハルの合図で、頭上に影が差す。
 蝙蝠のような羽根のある巨大蜥蜴。蜥蜴の吹いた焔を避けるために、魔法使いは何かしようとしていたことを中断し、舌打ちする。
「今だ。」
 動かぬナノを小脇に抱え、飛び乗るハル。わたしはハルに促されるまま、蜥蜴の背に這い上がる。ざらっと冷たく硬い。
「しっかり掴まって。振り落とされないように。」
 ぐんっ、と高く飛翔する。気圧の急激な変化で耳が痛い。
「君の友達は」
「破損は外装だけです。このくらいなら問題ありません。」
 ナノが答える。痛々しい姿だが、ナノの言う通り、本体が無事なら自動修復機能が働く。
「一体、なにが起きてるの?急にクラスメイトが暴れたり、あんな人たちが襲ってきたり。あれは、新聞に出ていた勇者一行よね?」
 紙袋の下のハルの表情は当然見えない。だが、声のトーンは低い。
「白き魔王の身に何かあったようだ。多分彼らの仕業だろう。」
「魔王?」
「君の曽祖父殿だ。」
「うちのひいおじいちゃんがなんですって?」
「君の、曽祖父殿は、この世界の闇を統べる魔王なのさ。」
 魔王?ノブナガ?ひいおじいちゃんが?小器用で、わたしの私服を縫ったり、おやつに焼いたシフォンケーキの膨らみ具合に悩んでいるあの人が?
「急ごう。あのひとの身にもしものことがあれば、君に玉座に座ってもらわなきゃいけない。」
「なんのはなしなの?」
「道すがら話そう。」
 空飛ぶ蜥蜴の手綱を巧みに操りながら、ハルは語る。
 ある昔話を。

 むかしむかし世界には、大きく二つがありました。
 ひとつは女神が愛した似姿で、ひとつは女神に見放された出来損ない。
 出来損ないには力がありました。女神の持つのと同等の、強い強い力でした。強い力を持つ出来損ないは、自ら女神の姿を模しました。女神に愛されたいがため、出来損ないは、女神に愛されている似姿を模しました。
 しかし、女神が出来損ないに微笑むことはありませんでした。女神が似姿をその光で照らす時、出来損ないは、いつもそれを影から見つめておりました。女神と似姿が暖かい炎を囲むとき、出来損ないはいつも冷たく寒い暗闇の中でした。
 出来損ないは、ある日ふと暗闇の中で思います。自分が女神に愛されないのは、似姿が女神を独占するからではないのか。似姿さえいなければ、女神から愛されるのは自分ではないのか。
 羨ましい妬ましい。
 出来損ないは、似姿に牙を剥きました。弱々しい似姿は、虫の息。愛しい似姿が傷付くのを悲しんだ女神は、似姿に加護を与えます。
 出来損ないは、そこで初めて気付きます。どんなに似姿を模しても、どんなに女神を愛しても、どんなに似姿を減らしても、女神は自分を愛してはくれないことに。
 出来損ないは、悲しくて。
 出来損ないは、苦しくて。
 出来損ないは、愛しくて。
 とうとう女神の半分を食べてしまいました。
 女神は残りの半分を、最後の力で自分の愛した似姿に与えました。
 そこから、出来損ないと似姿の長い闘いが始まりました。お互いの中の女神を自分のものにするために。
 最初はひとつずつだった出来損ないと似姿は、長い闘いの間に、幾つにも分かれました。
 それから自分たちが何がきっかけで、なぜ戦っているのかも忘れるくらい長い間戦い続けました。
 いつしか出来損ないと似姿は、魔物とヒトと呼ばれ、とりわけ女神の力を強く残す個体は、魔王と勇者となったのでした。

「女神の力を取り戻すはずが、もう誰も、戦いの意義すら覚えていないし、はじめの出来損ないと似姿みたいに、互いを滅ぼし合うところまできたところで」
 ハルはこちらに顔を向けた。向けたのだろう多分。紙袋に開けた穴がこちら側である。
「君の曽祖母殿が君の曽祖父殿の元へ現れた。」
 城の中庭へ降り立つ。
「異界からの娘を、ただ生かそうとし、元の世界に帰すために、様々な知識を得る中で、曽祖父殿は、自分と勇者の中にある女神の力の存在を知った。どちらが欠けてもこの世界が崩壊することも。」
 広間までの長い廊下を進む。
「女神にしてみれば、二度目の反逆だね。最初は自分の力を奪い、次は女神の創造物でない異界の女性を愛したのだから。それは、女神にとっては到底許せるものではなかった。」
 中庭からだと入り組んでおり、迷路のようだが、ハルに迷う素振りは見えない。
「曽祖母殿を送り出した後、曽祖父殿は、勇者に自分を討たせて、世界と心中する気でいた。だけど、そうするには、この世界には曽祖母殿との思い出が多すぎた。それから、魔物とヒトが、ただ女神の寵愛だけを争った出来損ないと似姿でいた頃とはあまりに長い年月を経ていた。それぞれが護るもの、大切なもの、愛するものを得ていることを知ってしまった。」
 ハルは、この城へ来たことがあるのか。
「曽祖父殿は勇者と取引をした。勇者は応じた。勇者もまた、戦いに意味も意義もなく、自分が魔王を滅ぼせば、世界もまた滅びることを旅の中で知ってしまったから。魔王は眷属から似姿への嫉妬の感情を奪い、あの森へ封じた。勇者は人々から女神の記憶を奪い、あの森へ封じた。魔王は全ての咎と罪を背負い、この城で眠りにつくことにした。勇者はただひとり、真実を知りながら、魔王を斃さず封印するに留めた。」
 広間の扉を大きく開く。
「ひー」
 わたしの口から漏れたのは、そんな間の抜けた声。
 曽祖父を呼ぼうとして、目の前の光景に絶句したのだ。
 少女。聖職者のローブに似ている白装束。金属の錫杖。歳の頃はわたしと大して変わらない。ゆったりとした足取りで、こちらに歩いてくる。
「おや。一足遅かったね。魔王はこの通り今からボクがトドメを刺すところさ。見て!模造品の癖に血なんか流しちゃってるんだよ。」
 玉座に崩折れる黒い服には、見覚えがあった。
「これで、女神に愛されたものだけが存在することができる、正しいセカイになる。魔王が消えれば、魔物も消えるんだ。魔物のいないセカイは、とても素晴らしいものになる。」
「なんて、ことを」
 ハルが呻く。
「あとは、キミを始末すればおしまいだ。」
 無邪気な笑顔には、これっぽっちも罪の意識など映らない。
 少女が錫杖の頭をこちらに向けると、円と直線を複雑に組み合わせた光の紋様が虚空に浮かび上がる。
 紋様は、すごいスピードでわたしに迫り、
「清音!」
 ナノがわたしを抱えて真横に跳ぶ。ハルは逆側へ跳んで避けたようだ。
 ハルとわたしたちの、ちょうど間に炸裂した魔法陣は、じゅっ、と音を立てて絨毯を消し炭にし、床の一部を沸騰させた。
 冗談ではない。あんなものが肌の一部にでも触れたら、と想像するだけでゾッとする。
 今だって、ナノがわたしを守らなかったらどうなっていたことか。わたしの体はひとりでは動かなかった。
 びりびりする空気。本物の殺気の前に立ったのは、もちろん生まれて初めての経験だ。
「キヨネ。ここは僕が時間を稼ぐ。君は曽祖父殿のもとへ。」
 ハルが紙袋の下から叫ぶ。
「できるものなら」
 錫杖を円の形に動かしながら、少女。
「やってごらんよ!」
 ハルは、再び浮かび上がった魔法陣に自分から飛び込む!
「ハル!」
 ハルが、魔法陣の中心を右手で掴むような動作をした途端、光が砕け消滅した!
「な……!」
 少女の顔に驚きの色!しかしすぐに口角を笑みの形に吊り上げる。
「ラスボスを倒す前には、中ボスがいるよね!幸い、仲間も間に合ったようだ!」
 わたしはナノに突き飛ばされ、前……曽祖父の方へ転倒した。
 背後から魔法使い!
「あたしも参加して良いかしら?」
 わたしたちを追ってきたのだ。魔法使いの傍らには、縛り上げておいた斧の男。今度は戦鎚を携えている。
 対してこちらは、ただの女子中学生のわたし、丸腰のハル、わたしが知っている限りでは、最低限わたしの護衛ができる程度の装備のナノ。
 切り抜けられるわけがない!
「ナノ君、キヨネを玉座へ!」
「承知しました。」
 隙をついてナノがわたしの手を引き玉座、曽祖父のほうへ走る!
「させないわ!」「させるかよ!」
 きれいにハモった魔法使いと戦士が、こちらに向かってそれぞれ攻撃を仕掛ける!
「ぐっ!?」
 だがしかし、呻き声を上げ壁に背を叩きつけたのは、魔法使いと戦士のほう!
 素早く移動したハルが、いつの間にか手にした鞘に入ったままの大剣で2人を吹き飛ばしたのだ。
「僕が、時間を稼ぐ。そう言っただろう。」
 いつもの通り、学生服に紙袋で変な格好だが、今だけはとても格好良い。
 見れば、白装束の女も床で蹲っている。
 なんだか知らないがこれはチャンス!
 わたしはナノと一緒に曽祖父に駆け寄って、そっと曽祖父に呼びかける。
「ひいおじい、ちゃん?」
 いつもノリの効いた清潔な衣服が、今は見る影もない。玉座の横に倒れこみ、曽祖父は少しも動かない。
『清音か』
「わっ!?」
 急に頭の中に曽祖父の声が響き、わたしは驚いて声を上げる。思念伝達か。急にやられるとびっくりする。しかし、普通に喋ることができないほど、曽祖父はダメージを受けているのか。
「何をどうしたらいいのひいおじいちゃん!応急処置って習ったとおりでいいの!?」
『私のことは良い。清音。玉座に座りなさい。』
 わけがわからないよひいおじいちゃん!?
 わたしは混乱した頭で、それでも言われた通りにする。

 玉座に座った途端、頭の中に情報が流れ込んでいく。
 曽祖父の記憶、それよりずっと前の歴代の魔王の記憶、この世界の仕組み、創世から今この瞬間まで。
 ちょっと情報量が多すぎ。
 頭がぐわんぐわんかき混ぜられているようだ。吐きそう。
 情報の奔流の中で、わたしの手を握る者がある。
 水色の髪の女の子。最も信頼のおける存在。ナノがわたしの中に戻ってきたのだ。
 『ナノ』の演算処理で、情報が整理されてゆく。濁流が澄み切った流れに。ゆったりとした海に。
 このまま、身を任せて眠り溶けてしまえたら、とても気持ちが良いだろう。

 って、だめだめ。
 わたしは誘惑を振り切らなくては。わたしは今必要な情報を『ナノ』で検索する。

 あ

 わかった

 ぜんぶ

 わたしは、真白の瞼を押し上げて。白き魔王として目を開けた。

「ハル。」
 わたしは、静かに呼びかけた。
「勇者。」
 ハルと戦っていた『勇者一行』の面々は、呆然とこちらを見つめている。
「とりなさい。」
 ハルは、黙ったまま頷くと、頭部を覆っていた紙袋を外した。少年。どこかに影のある、寂しげな、哀しげな少年。
「袋をこちらへ。」
 わたしはやっとの事で言い、ハルがこちらに差し出した紙袋を受け取って、中へと今日食べた物を全部戻しました。
 力と知識の使い方がわかったところで、体は普通に生身の人間である。洗濯機の中に放り込まれたようなあんなアトラクション、二度とごめんだわ本当に。
 胃の内容物がようやく空になったので、わたしは力を奮い紙袋ごと消滅させる。

「勇者様?」
 僧侶、魔法使い、戦士。『勇者の仲間』が驚いている。それはそうだろう。勇者であるハルが、曽祖父の、魔王のために自分たちと戦っていたのだから。
「なぜ!」
 魔法使いは叫ぶ。ハルに向かって。
「なぜ、勇者さまが魔王を護るのです!魔王さえ亡ぼせば、すべての魔物が消えるのに!」
 顔を歪ませるのは、怒りなのか悲しみなのか。
「魔王が復活したせいで魔物が凶暴化しているのを勇者さまとてご存知でしょう!こうしている今でさえ、人々に襲いかかっているかもしれないのに!」
 それはちょっと違う。今では、わたしにも、わかる。むしろ、彼らが曽祖父を攻撃したために、森に封じた悪意を留める力が弱まり、元の場所、つまりは魔物たちの中へと戻ったのだ。
 魔物としては悪意と力とを持つ姿は正しい姿なのかもしれない。ヒトと魔物が互いに反発しあい滅ぼし合うのは、自然な姿なのかもしれない。
 だが、長い年月を経て、平和で文化的な生活を営む今、それは在るべき姿ではないと思う。
 ハルは静かに言葉を発した。
「蜜蜂が死に絶えれば、花は結実しない。」
 言わんとすることは理解できるが、もうちょっと言い方。
 しずしずと、白装束の女、僧侶がハルの前に跪いた。
「ああ、勇者様。」
 芝居ががった仕草で。
「お労しい勇者さま。」
 ハルの手を取り。
「ボクたちがどんなにアナタを想っていたか、今アナタにお逢いできてどんなに嬉しいか、いっそ貴方の目の前で胸が張り裂けてしまえば、示すことができるのに!」
 目を潤ませて。
 あっ、なんか心の中がモヤッとする。なにかしらこの気持ち。
「アナタはボクたちの前には姿を現さず、たったおひとりで魔王と戦っておられたのですね。そして、魔王により使命や正義の心を凍てつかされて、そのようなことを仰るんだ。」
「僧侶殿。それは違う。」
「いいえ、違わないよ!でなければ、ボクたちと一緒に、魔王を倒す冒険にでていたはずなんだから!でも、ボクたちは、勇者さま、アナタがいなくても、たくさんの魔物を倒す!魔物を倒せば倒すほど、女神の力が覚醒するのも感じたんだ!」
 だめだこれは。話を聞く気が全然ない。ならば、こちらにも考えがある。

 わたしは受け継いだ魔王の力を使って、ある映像をここにいる全員の脳に投影する。『ナノ』にシミュレートさせた、仮定の未来の姿。彼らの言う通りに、魔王が斃された後のこの世界の姿だ。何パターンか想定してみたが、どれも、バランスが急激に傾いた世界が崩壊した。
「なら、俺たちのやってきたのはなんだったんだ?」
「前の勇者様が魔王を滅せず、封印に留めたのは、倒せなかったのは、力及ばなかったからでしょう!?だってこれじゃあ、あたしたち一体なんのために」
 膝をつく、戦士と魔法使い。
 それはそうだろう。正義と信じて行ってきた行動により、もたらされる結果を知れば。
「こんなの、これが本当ならボクたちは、何の罪もないひとたちをサツリクしていただけじゃないか!そんなの、そんなのあるわけがない!オマエ、ボクたちにこんなもの見せて惑わそうって魂胆だな、ハーフ・ブラッド!」
 僧侶はひとり仁王立ちし、こちらを睨み付ける。
 まだ、わからないのか。
 わたしは、この世界を崩壊させたくない。魔王としてではない。わたし、個人としての感想だ。
 ここには、天井に映されたのではない本物の空がある。木々や草花が好き勝手に生える美しい大地がある。人々の営みがある。ハルもいる。曽祖父もいる。

 信念だか使命だか知らないが、勝手に壊して良いものではない!

 いつの間にか、わたしが愛しいと感じていたものが、ここにはたくさんありすぎる。
「訂正させていただくわ!魔王のハーフ・ブラッドなんかじゃない。わたしはワン・エース!サラブレッドよ!」
 祖父も祖母も父も母も偉大な功績の持ち主である!
 撃墜王にゾンビ・クラッシャー、セラミック・ソードの凶戦士にブラッディ・ハイヒール、エトセトラ。……我が身内ながら、どんな異名だろ。
 ともかく、星ひとつ、銀河ひとつ護ったような身内がいるのだ。わたしにだってできるはず!
 僧侶の魔法、いや、女神の力を抑え込むため、わたしは力を揮う。『ナノ』が計算する限り、あれに負ける気は全然しない!魔法陣の発生位置から予測して、発動前にアンチ・マジック!
「出来損ないのくせに、女神の力に逆らうな!ボクたちは、オマエたちを滅ぼして、真の平和を勝ち取るんだ!」
「彼らと僕らが共存している今を、君たちは平和だと感じていないのか?」
 ハルがぽつりともらした言葉に、僧侶が絶叫する。
「そんなのはマヤカシで、真の平和は魔物が全て滅びた後にしかありえない!」
 そして、たぶん最大にして最強の呪文を掌に展開する。まずい。あんなのここで発動したら、この辺一帯焦土と化す!
 こうなったら、あれを喰らうの覚悟で対抗魔法をぶつけるしかない!
「滅びろ魔王!」
「このわからずや!」
 最大出力の、わたしと僧侶の力がぶつかり合い、白と黒との稲妻が、嵐が、光が闇が荒れ狂い。

 静寂。

 わたしは、気を失っていたらしい。顔にかかるチョコレートブラウンの前髪をとりあえず耳にかける。
 わたしは、硬い床に座り込んでいた。疲労感がすごい。
「派手にやったね。」
 傍らにハル。苦笑している。大剣を杖がわりにして、やっと立っているといった様子だ。
「わたし、負けちゃったの?」
 いいや、とハルはかぶりを振った。
 大広間は、見る影もなく破壊されている。天井は粉砕され、青空が見えた。
「小鳥が飛んでるわ。」
 ぺたん、とハルが隣に座る。
「世界は現状を維持しているよ。」
 ごろん、とハルは大の字に寝そべった。このひとこんなに綺麗な顔をしていたのか。
「そう。あの子たちは?」
「生きてる。生きてはいる。たぶん今は、それぞれ転送された自分の国の牢の中で落ち込んでるんじゃないかな。力も魔法も技術も消えちゃったからね。君みたいに。」
 言われて、やっと気づく。髪がチョコレートブラウンだ。わたしの、本当の髪色。
「僕も君の曽祖父殿も、君たちの力をこの城内だけで抑え込むのに魔力の殆どを使ってすっからかんだ。」
 吹っ切れたようなハルの表情に、さっきのような翳りはない。
「女神の力も妄執も、散り散りになって世界に降り注いでしまったし、僕は晴れてお役御免だ。」
 ありがとう、と微笑むハルを見ていると、なんだか、脈が速くなって、顔が熱くなってくる。
「結局、ナノ君のひとり勝ちってところかな。」
 そうだ。ナノ!左腕には『ナノ』のメニューはない。と、いうことは、またあの可憐な少女に戻っているのだと思うが、姿が見えない。
「ナノはどこ?」
「曽祖父殿のところさ。この城に残った塔の一番上にいるはずだ。」
 わたしは重い体を引き摺って、ハルに見送られながら、塔への階段を一段一段昇っていった。

 ナノはそこにいた。

 塔の一番天辺で微笑んでいた。
 かなり大人びて、身長も伸びて、女性らしい体付きになって、ナノは曽祖父に寄り添っていた。
「清音。あなたの帰り道です。」
 ナノが示す方向には、きらきらと星屑を散りばめたような道が暗闇に輝いていた。
「どういうこと?だってわたし、帰れないって。」
「人形娘が清音の中へ戻り、再び分離したときに、清音の体のこの世界で生きるために作り変えられた部分を奪い再構成したのさ。無茶をするところが凛そのものだな。」
 思ったより元気そうな曽祖父がため息まじりに言う。
 そういえば、『ナノ』シリーズには、曽祖母も携わったと聞いたことがある。
「言ったでしょう。必ず清音と故郷を繋いでみせると。それに、マホウ、などという未開の地の技術など、我々のテクノロジーをもってすれば簡単に再現可能だと。」
 ウィンクし、胸を張るナノ。
「ですが、あまり保ちません。せいぜいが、数時間。座標と時間を制御できている間に。」
 あまりに急過ぎない?
「ナノは?ナノも一緒よね?」
 ナノは困ったように眉根を寄せた。
「いいえ。清音、ナノは行けません。」
「どうして?」
 ナノから予想外の言葉が出てきてわたしは狼狽えた。
「ナノは、元の世界に帰れば不良品ですから。ユーザーの意志に反して勝手に行動しましたから。元の世界に戻ればメーカーが回収し、外装は壊され、メモリーは破棄され、ナノは清音のナノでなくなってしまうでしょう。それを嫌と思うほど、ナノは感情を得てしまったのです。だってナノは、清音がだいすきですから。」
「わっ、わたしだって好きよ!」
「ありがとうございます清音。」
「わたしナノがいないと何もできないわ!髪も綺麗に編めないし、着て行く服も選べないし、迷わず目的地にたどり着けないし」
 いいえ、そんなことが言いたいんじゃない。でもうまく言葉にならない。
「今ではナノは、単なるツールなんかじゃないわ。もっと大きな存在で、わたしの大事な友達よ!」
ぎゅう。
 ナノに無言で抱き締められた。
「ナノと離れるなんて嫌よ!でも、ナノが壊されるなんてもっと嫌!」
「ユーザーにそう言っていただけたナノは、きっとナノだけでしょうね。ああ清音。ナノも本当は清音のそばで清音の成長を見守りたいのです。清音がどうすれば一番愛らしく見えるか知っているのはナノだけですし、清音が体調を崩したら、すぐに治療して差し上げたいのです。でも。」
 ナノは、わたしを抱擁から解放すると、今度は手を握った。
「清音は、ここで、ナノがいない間も、自分で考え自分の足で立っていました。それを見て、ナノは、そのときはわからなかったけれど、今ではわかります。ナノはとても寂しかったけれど、同時にとても喜んでいました。」
「ナノ!」
「清音!」
 わたしもナノも、涙で顔がぐしゃぐしゃだ。
「わたし、わたし、将来、ここと故郷とが簡単に行き来できる方法を開発する科学者になるわ!それまでナノ、あなた わたしを忘れず待っていてくれる?」
「もちろんです清音。『天の星ほど離れた場所にいても』」
「『心は繋がっている』約束よ!」
 ここは、天の星よりずっと遠い場所だが、今や外宇宙まで舟航する時代だ。やってやれないことはない。
「ひいおじいちゃんも、長生きしてね?次来るときは、異界の食べ間を食べようと食べなかろうと、行って帰ってこれるような手段を見つけるから、そうしたらまた、一緒にお菓子を作ってね?」
「ああ。わかった。待っている。」
「ナノは、テキストメッセージを送ります!」
「わたしも手紙を書くわ!」
 ひし、と何度目かのハグを交わしていると、曽祖父が問うた。
「勇者殿には、何か言わなくて良いのか?」
「えっと」
 ハルにも、言いたいお礼や、いろんな話がたくさんあるけれど、そうしたら、帰りたくなくなってしまうのが怖い。ハルは人間だから、数ヶ月しか一緒にいなかったわたしを、ふたりのように覚えておいてはくれないかもしれない。ならばいっそのこと、別れを惜しまないほうが良いのかもしれない。
「うん、ひいおじいちゃんから、お礼を伝えておいて。」
 わたしが、そう言うと、塔の階段からハルが姿を現した。
「それはひどいんじゃない?僕はこうしてやっと昇ってきたのに、さよならも言ってくれないなんて。」
「ハル!だって、わたし、ハルにもう会えないんだと思うと」
 また涙腺が崩壊するから。こんなぐしゃぐしゃの顔、ハルに見せたくないんだ。
「僕も寂しいよ。でも、君が忘れないなら、僕も君を忘れない。それに、いつか逢いにきてくれるんだろう?」
「だってわたし、そのときには、おばあちゃんになっているかもしれないわ。」
「そのときには、僕もおじいちゃんだ。」
 ハルは、襟に身につけていた綺麗な石のブローチを外して、わたしの胸元に留めた。
「待ってる。僕も、君と逢える道を探そう。むこうとこっちからやれば、案外早く見つかるかもしれないよ。」
「ええ。わたし、頑張るわ。」

 そのときまでさようなら

 居住区のドームに映る人工的な空の色。ああ、わたし帰ってきたんだ。
「あら。おかえりなさい。」
 カレンさんがわたしを出迎える。
「大冒険してきた、って顔ね。ああ、学校のことなら心配しないで。コネクションがたくさんあるの。夏休み明けから、また元の学校に戻れるわ。……泣いているの?」
 ぱたぱたと、着物の少女、お鶴がハンカチと何かの本を差し出してくる。驚くべきことに、本がこの時代のこの世界に、紙で残っている。
「ああ、それね。書庫を整理していたら見つけたの。ひいおばあさまの日記帳なの。」
 ぱらぱらとめくっていると、曽祖母が、あの世界を訪れたきっかけも書かれていた。
 満月の夜、ムーンストーンを口に含んだまま、井戸を覗き込むと、運命の相手が水面に映る。
 曽祖母の覗き込んだ水面には、曽祖父の姿が映っていたそうだ。
 驚いた拍子に、井戸に落ち、曽祖父の真上に落下した。
 最初は警戒して差し出される全てを拒絶していたが、あまりに一生懸命な曽祖父に、いつしかすっかり心を許していたことが、こっぱずかしい感じでいろいろ書かれている。
 なんだ。相思相愛じゃない。
「最後のページに、ひいおばあさまの写真もほら。」
 わたしは再び驚いた。映っているのは、ナノである。そうか。ひいおじいちゃんと、ひいおばあちゃんは、時を超えて再会したんだ。
 それならば、わたしだって、必ず、いつかふたりに、ハルに再会できる。

 天の星ほど、いや、時空を超えていたって、心はいつも繋がっている。
 それを証明するように、ハルのムーンストーンのブローチがきらりと光った。

***

原幸幸子さんのイラスト

Illustrator:原幸幸子さんTwitterID

見たよ!
»Return«