ウォンマガ夏フェス2015

»Return

Theme:ジルコニアの涙

Author:鳥井蒼さんTwitterID

ーー詩織は木綿子によく似てるよ。
 そう言いながら私の頭を撫でてくれた祖母の手は温かかった。木綿子というのは若くして亡くなった祖母の妹の名だ。美人だったらしいその人に似てると言われて、私は子どもながらに嬉しかったけれど、母はそうではなかったらしい。祖母がそう言って遠い目をするたび、母は眉をひそめていた。
  嫁と姑の関係が悪いのはよくあることで、私の家もご多分に漏れず、母と祖母は不仲だった。といっても、母が一方的に祖母に苦手意識を抱いてるだけで、祖母自身は飄々と母に話しかけた。だからなのかもしれない。母は祖母との距離を掴めず、どんどん祖母に寄りつかなくなっていった。毎年、長期のお休みには遊びに行っていた、祖母が独りで住む父の実家。最初は親子三人だったのが父と二人になり、いつしか私一人になった。それでも祖母は変わらず笑いながら「よく来たね」と迎えてくれた。
 そうして何年かが過ぎ、私が中学生の頃、祖母が死病に伏した。お見舞いに行った病院の白いベッドの上でも祖母は穏やかに微笑んでいた。少し見ない間に一回り小さくなった祖母は、まるで子どもが内緒話をするように私に耳打ちをした。
 祖母が亡くなったのは、それから数日後のこと。お葬式を終えて、私は祖母が耳打ちで教えてくれた箪笥の引き出しを探った。祖母がお嫁入りの時に持ってきたという古い箪笥の引き出しは立て付けが悪くなっていて、開けるのに苦労した。おそるおそる伸ばした指先に触れる硬質。取り出してみると、それは白く輝く雫型の石のついたペンダントだった。
 首に掛けてみる。光を反射してキラキラと輝く石がとても綺麗だ。この宝石はなんというのかしら、と思っていると、早々に喪服から着替えた母が私を探してやってきた。
「詩織、そろそろ帰るわよ」
 言いながら私の胸元に目を留めた母が「それ、なに? どうしたの?」と訊ねるのに、私はありのままを答えた。
「おばあちゃんの宝物。ずっと大切にしてたんだって。おばあちゃんが私にくれるって教えてくれたの」
 母は忌々しげに息を落とした。
「そんなイミテーションダイヤ、ありがたがるんじゃないの。ただの偽物よ。まったく、どこまで詩織を馬鹿にするのかしら、お義母さんは」
 母の軽蔑の混じった視線が、私の胸元で揺れる石を射ぬく。それ以上に冷えた言葉が心に突き刺さった。
「そんなガラクタ、捨ててしまいなさい。さ、早く帰るわよ」
 そして母はさっさと玄関へと向かって身を翻した。しばらく瞬巡したあと、私はしぶしぶペンダントを外した。小さな石はまだ私の手のひらで健気に光っている。私はもう一度それを撫でた後、引き出しにしまう。押し込んだ引き出しはギイギイと悲しい音を立てた。

***

 閉めきった雨戸を押し開けると、夏の午前中の、暑い一日が始まることを予感させる日差しとともに、まだ夜明けの名残を含んだ生温い風が吹き込んできた。
 大学三年の夏休み。私は久しぶりに祖母の家を訪れていた。祖母が亡くなって以来、隣の市に住む伯父がアトリエとして使いながら管理していたのだけれど、とうとう売却が決まったこの家。子どもの頃に親しんだ場所がなくなってしまうことに寂しさを覚えて、最後のお別れに来たのだ。
 雨戸を開いた先は庭だ。かつてはきちんと手入れされていたそこも、今は一面を緑に侵食されて当時の面影はほとんどなかった。ただ、祖母自慢の芙蓉だけが変わらずに見事な花を咲かせている。
 庭は荒れ放題だが、屋内の伯父の管理は丁重だったのだろう。懐かしい部屋に荒廃の気配は遠く、私の記憶にあるままだった。これなら、少しの掃除でしばらくは滞在できるだろう。電気も水道もまだ生きているそうだし。私はひとつ伸びをして、掃除にとりかかった。

 祖母の住んでいた町はかつて、外国との貿易で栄えた港町だ。祖母の家は海に迫った山の斜面を切り開いた住宅地の中ほどにあり、町の中心部へ行くには山をぐるりと走る国道か、斜面に沿って作られた、傾斜がきつく古い石の階段を使う。
 私はこの古い階段が好きだった。敷かれた石はあちこち歪み、傾いていたりもするけれど、一直線に伸びた階段からは遮るものなく海を一望できる。空の青と海の碧が混じりあう景色が子どもの頃から好きだった。
 夕暮れ間近になって、私は階段に立ってみることにした。蝉時雨。両脇から伸びる梢が緑の影を落とし、吸い込む空気まで夏に色づいていそうだ。すう、と大きく深呼吸したところポケットの携帯電話が鳴った。液晶に表示された名前を見て、心がしぼむ。でも出ないわけにはいかないから、私は憂鬱な気持ちでボタンを押した。
『もしもし? 詩織?』
 とたんに流れて来たのは母の声だ。
『ちょっとあなた、留学の件はどうなったの? 休み前に試験があったんでしょ? どうだったの?』
 矢継ぎ早の質問になんとか溜め息を押し殺して、
「試験は何度かあるの。それから決まるんだから、まだわからないよ」
『音大まで行かせてるんだから、しっかりがんばりなさいよ。じゃないと、今までしてきたこと、全部が無駄になるんだからね』
「……うん」
『それで、こっちにはいつ帰ってくるの? あなたって子は、なんにも連絡いれないんだから』
「ごめん、まだ大学の寮にいるの。あと何日かしたら帰るから」
 電話を切り、波打つ心が平らかになるのを待つ。
 祖母の家にお別れを言いに来たのは事実だ。でも、もうひとつ、理由があった。
 私は小さい頃からピアノの才能を周囲の大人たちに見込まれ、将来を嘱望されていた。私自身も、世界に羽ばたくピアニストになるのだと夢みていた。けれど、それはただの思い上がりだと気づかされてしまった。
 志望通りの音大で出会った、同じピアノ専攻のライバルたち。彼らの腕は私よりも数段レベルが高かった。どんなに練習しても学内コンクールでは入賞できず、入賞できないことが続けば練習をする気力さえ湧かなくなる悪循環に陥ってしまった。つまりはスランプだ。
 そんな状態で受けた大学推薦の留学試験など、うまくいくはずもなく。あと二回学内審査があるけれど、すっかり私の心は折れてしまっていた。そんな折に祖母の家の売却話を聞き、懐かしい場所に来れば、少しは気分転換になるかとやってきたのだ。
 もちろん、生前の祖母と折り合いが悪かった母には内緒で。もし母に知られたら何を言われるかわからない。心に余裕がない今、さらに煩わしい気分を味わいたくなかったのだ。
 一度沸き上がった憂鬱な気分はなかなか晴れそうになかった。
「せっかく、久しぶりにいい気分だったのに……」
 携帯を恨めしく眺めて、私はそれをポケットに押し込んだ。それとぶつかってカチリ、と音を立てるものがある。
 それは、祖母が私にくれると言った、あのペンダントだった。掃除をしながらふと思い立って開いた引き出しの中、記憶のままに残っていたそれ。
 手のひらに乗せて光にかざしてみる。複雑なブリリアントカットが施された石は曇りなく光を反射させている。
「きれい……」
 今の私はこの石の名前を知っている。ジルコニア。母の言ったとおり、イミテーションダイヤとも呼ばれる宝石だ。
 キラキラと手のひらで輝く石を見ているうちに、子どもの頃のように着けてみたくなった。首に回して、金具をパチリ。胸元にわずかにひやりとした感触を覚える。
 ふと、耳に届く音があった。時に高く、時に低く。甘く悲しい音は私には馴染みのピアノの旋律。
 誰が弾いているんだろう。音色に誘われるように、私は階段を上がり始めた。

 音色が導いた先は、大きな古い洋館だった。お屋敷を囲んだ高い塀のその向こうからピアノの音が聴こえてくる。
「こんな立派なおうちがあったんだ」
 もともと洋館の多い町だが、これほど立派なお屋敷はそうないだろう。物珍しさもあって塀の廻りを歩いていると、お屋敷の裏手に木戸を見つけた。
 お行儀が悪いとは思いつつも、好奇心が押さえられなかった。この塀の向こうにはどんな風景が広がっているのかしら。どんな人がピアノを弾いているのかわかるかしら。私の肩ほどの高さの木戸からひょいと覗き込んで見ると、お屋敷にふさわしい見事な庭の奥には開け放たれたサンルーム。その扉の先にグランドピアノに向かう人影があった。
 メロディはもうクライマックスに差し掛かっている。技術的にはそれほど巧みではないが、心を惹きつけてやまない深い音色に、気づけば私は木戸をくぐり、庭先に入り込んでしまっていた。緑に溢れた庭でピアノの音色の背後に横たわるのは、水底のような静寂。なぜだか胸を締めつけられるほどの懐かしさを感じた。
 最後の一音の余韻が消えたところで、奏者が私を認めて驚いたように瞬く。
「きみは、だれ?」
 二十代後半だろうか。優しげな面立ちの青年だ。白いシャツと灰色のスラックスのシンプルな服装が線の細い姿に似合っていた。
 誰何の言葉に咎める気配はなかったけれど、私は慌てて頭を下げる。
「す、すみません! ピアノの音色が聴こえて……私もピアノをやっているので、つい……」
 我ながらひどい言い訳だと思ったけれど、その人はやんわりと微笑んだ。
「ありがとう。きみもピアノをやってるんだ。ねえ、良かったら弾いてみてくれないかい?」
 子どものように無邪気な笑顔。ためらう私をさらに笑顔が促して、あれよあれよと私は鍵盤の前に座ってしまっていた。彼が隣から覗き込む。仕方がない。私は意を決した。
 目を閉じて、息を吐く。
 指を乗せて、鍵盤の感触を確かめて。
 足をペダルに乗せて、姿勢を正す。
 準備は、それだけ。
 私の指が奏で始めたのは、ドビュッシーの小品。学内コンクールのために練習をしている曲だ。指が鍵盤の上で踊る。鍵盤が音を刻み、溢れる音が私を包み込んだ。
 最後の一音を弾いて、ほう、と息を吐く。こんなに巧く弾けたのはいつ以来だろう。心地よかった。余韻に目を閉じかけて、隣からの拍手にはっと瞬いた。
「すごい! まるで本物のピアニストじゃないか!」
 惜しみない拍手がくすぐったかった。しばらく私に拍手を贈ったあと、
「あ、ぼくは浦野博といいます」
「大沢詩織です」
 今さらながらに頭を下げ合う。それがおかしかったのか、浦野さんは小さく吹き出した。
「大沢さんは、このあたりの子? あんまり見かけないけど」
 笑い含みに問いながら浦野さんはキーカバーを鍵盤にかけて、丁寧に蓋を閉じた。艶やかに黒光りする蓋が、私を映す。
「少し下に祖母の家があるんです。子どもの頃にはよく来てたんですけど、最近は全然……」
「そう。僕はしばらく前に来たんだ。ここは兄の家でね。僕はその居候」
「お仕事かなにかで?」
「ううん、療養」
 にっこり笑うその顔に、病魔の影は見えなかった。戸惑う私に浦野さんは「胸をちょっとね」と胸元を指先でトントンと叩きながら、困ったように首を傾けた。
「ああ、気にしないで。それほど悪くはないし。ここで日がな一日ピアノを弾いて、人を待ってるだけだから気楽なものだよ」
「人を?」
「うん」
 浦野さんはピアノの前から立ち上がり、庭に面したテラスへと向かう。浦野さんは庭に咲き乱れる夏の花々を見つめた。彼の正面に咲くのは芙蓉で、その横顔に、祖母の横顔がダブって見えた。祖母も生前、よくこうして芙蓉を見つめていたのだ。
 木々の葉が風に揺れる。葉擦れの音に紛れるような小さな声で浦野さんが呟いた。「……てる」
 独り言なのだろう。私の耳に届く前に、言葉は夏の大気に溶けて消えた。ただ声音に滲んだ寂しさの名残だけが、テラスに残って私の爪先に落ちる。
 振り返った浦野さんは、変わらない笑顔だった。
「そろそろ、帰ったほうがいい。もう夜になるよ」
 暮れなずんだ空にはいつしか、淡く瞬く星影がある。幕を下ろすように夏の空はグラデーションを描き、その色を深めていく。
 私は改めて非礼を詫びて木戸をくぐる。その背中に声がかかる。
「もしよかったら、明日もピアノを聴かせてほしい」
 私を見送る浦野さんの表情は、忍び寄る夜の気配に濃度を増した木立の影に紛れて窺い知れなかった。

***

 浦野さんのおうちにお邪魔して、彼ととりとめのない話をしたりピアノを弾いたり教えたり。穏やかなその時間がとても心地よくて、祖母の家での滞在期間は一日、また一日と延び、気づけば、いつの間にか一週間が過ぎようとしていた。
 静かな夕暮れ時。私は今日も浦野さんのおうちに行こうと階段を上がっていた。そこに着信が入る。母からだ。水を差された気分になったが仕方がない。しぶしぶ電話に出ると、不機嫌そのものの母の声が流れてきた。
『詩織、あなたいつ帰ってくるの?』
 お母さんにだって都合があるのよ、と耳にイライラした声。私は生返事をしながら歩いていく。浦野さんのおうちまであと少し。
『最初に言ってた予定から、もう何日過ぎたと思ってるの?』
 そんなこと、わかってる。ああ、木戸が見えてきた。
『わかってる、わかってるってね、いいかげんにしなさい。留学の話だってしなきゃいけないでしょ』
 そうね。頷きながら木戸を開いて。ほら、浦野さんが立ってる。私は笑って木戸をまたぐ。靴の下には湿った土の感触。
『聞いてるの? しお、』
 プツン、と母の声が途切れた。あれ、と電話を見つめるけれど、やっぱり電話は沈黙したままで。不思議に思ったけれど、
「いらっしゃい、大沢さん」
 浦野さんの優しい笑顔にそんなことはどうでもよくなってしまった。

「大沢さん、そのペンダントは?」
 いつものように、ピアノを弾いていると、浦野さんが胸元で揺れるペンダントを指差した。祖母の家でこれを再び見つけて以来、私は毎日これを着けるようになった。なぜだか、そうしなければいけない気がするのだ。
「これ、祖母の形見なんです」
「おばあさんの……」
 浦野さんの指先が思案深げに彼の唇をなぞるのを見ていた。なにかを考えるときにこうして唇に触れるのが、彼の癖らしい。その仕草が艶かしくてなんとなく黙って見ているうちに、私の視線に気づいた浦野さんと目が合ってドギマギしてしまう。
「僕も昔、似たものを持っていてね」
「男の人が持ってるなんて、珍しいですね」
「そうだね」
ふふっと笑いながら、浦野さんの指が白鍵をひとつ押した。隣り合って座る私と浦野さんの隙間に、高く長く伸びた音が滑り込んでくる。「……あげたんだ」
「え?」
 浦野さんの横顔。伏せた目は鍵盤に落とされていたが、彼の心はどこか遠くにあるように思えた。心臓がひとつ跳ねた。
 誰に、と訊きたい。早く訊かないと、取り返しがつかなくなる……! 得体の知れない焦燥感が沸き上がってきた。
「だ、だれ、」
「好きだった女性に」
 訊ねる言葉と答える言葉は同時で。私はどこかで予想していた答えに目を閉じる。瞬間、潤んだ瞳に気づかれないように。
「すごく喜んでくれてね。また会う約束をしたんだけど、約束の日に彼女は来なくて……」
 浦野さんは長い溜め息をついた。
「大沢さんに、よく似てたんだ」
 なんて残酷な言葉だろう。言葉は過去形なのに、それに内包された気持ちはまだ生きていることがはっきりわかってしまう。
 浦野さんが待っていたのは、その人なのだ。ここ数日が楽しくて、浦野さんが毎日サンルームで待ってくれているのは私なのだと錯覚していた。私は、その人の代わりなんだ。
 そんな自分が恥ずかしくて悲しくて、少し浦野さんが恨めしくて、私はモゴモゴ言いながら立ち上がった。浦野さんはそんな私にまったく気づいてないかのように、うなだれている。足早にサンルームから庭に出た。いつもは耳に優しい、風が葉を揺らす音が、不協和音のように心を荒らした。

 その夜、夢を見た。
 夢の中で、私はどこかの庭に立っていた。どこか? いや、私はよく知っている。ここは祖母の家の庭だ。見上げた空には月が白く浮かんで、庭を蒼白い光が照らしている。視線の先には咲き乱れる芙蓉の花。その根元に蹲った背中があった。若い、私と同い年くらいの女の子だ。
 彼女は顔を覆い、さめざめと泣いている。深い慟哭に私の胸も痛んだ。なにがあったの。そんなに泣かないで。そう声をかけそうになったとき。
 彼女が泣き濡れた顔を上げた。
 そこに、私がいた。いや、私にそっくりな誰か、だ。滂陀の涙を流しながら彼女はゆらりと立ち上がった。幽鬼のように力ない足取りで彼女は去っていく。やがて、闇に溶けるように細い背中が消えると、それまで真っ暗だった窓辺に灯りがともった。
 覗き込んでみると、そこにいたのは若かりし頃の祖母だ。いつか見せてもらった写真を覚えている。
 祖母は泣きながら、布団に横たわった誰かに取りすがっている。それは、先ほど闇に消えた彼女だ。
ーー木綿子! 目を開けて、木綿子!
 次の瞬間、ふたりの姿は掻き消え、かわって祖母ひとりが文机に向かい、なにかを読んでいる。ノートのようだ。祖母は長く嘆息し、顔を覆った。震える背中が胸に痛くて、思わず私は手を伸ばし……。

 そこで目が覚めた。
 夏の短い夜が明けようという時刻。薄明るい光がカーテンの隙間から忍び込んでくる。私は布団から起き上がり、夢に見た部屋へと向かう。夢の内容は私の心に深く刻まれていた。
 かつての祖母の寝室。ここが夢でみた部屋だ。襖を開くと正面に文机が置かれている。夢のとおり、なにも違いはなかった。文机には小さな引き出しがみっつ。ひとつずつ開けてみる。ひとつ目、空っぽ。ふたつ目も。なぜか祈るような気持ちで開けたみっつ目は……。
「……空っぽ、か……」
 あたりまえだ。あれはただの夢なのだから。なにを真に受けているのだろう。
 自嘲しながら引き出しを戻そうとして、気づいた。外から見た引き出しの深さとくらべて底が浅い。まさか、と思いつつ、底板の縁を指でなぞる。動く。ぐっと押さえると、反対側が浮き上がる。底板を取り払った二重底に、古びたノートが一冊隠されていた。
 どうやら日記のようだ。墨のたおやかな筆致は秘めた心の現れだろうか。古びた紙は指に脆くて、私はおそるおそるノートをめくった。

***

 浦野さんはいつものように、そこにいた。
「浦野さん」
 声をかけると彼が振り向いて。「やあ、大沢さん」変わらぬ優しい声に涙があふれそうになった。彼は、本当に長い間、待っていたのだ。
「浦野さん、これ」
 言いながら広げた手のひらには、ペンダント。首を傾ける浦野さんに、
「これは、浦野さんが木綿子さんに渡したものです」
「……え?」
 沈黙が落ちる。そう、沈黙、だ。風が葉を揺らす音以外、なにも音がない庭。蝉の声や、遠く風に乗って届くはずの車の音、町の喧騒、それらはまったく聴こえない。
 盛夏に、命の気配が感じられない庭。
 私は静かに立ち尽くす浦野さんを見つめる。恐怖はなかった。浦野さんが困った顔をしているから。短い間に時おり目にした表情だ。細い眉が下がって、なんだかしおしおしてて。私は微笑む。彼を安心させるためか、自分を鼓舞するためか。涙がひと粒、頬を伝った。
「木綿子さんは、私の祖母の妹です。七十年前に亡くなったそうです」
 浦野さんが目を見開く。私は彼に歩み寄り、ペンダントを手渡す。彼の、男性にしては細い指がそれを握りしめるのを見守った。
「亡くなった……? 木綿子さんが……」
 茫然とした声。頷く私が、浦野さんの瞳に映っている。
「浦野さんが亡くなったあとに……」
 びくり、と浦野さんの肩が跳ね上がった。彼の目がなにかを探すように空をさ迷い、やがてその色が深まる。なにもかもを思い出したのだろう。
「ずっと、待ってたんですね」
「ーー愛してたんだ」
「……知ってます」
 木綿子さんの日記に記されていた。彼を愛し、愛された幸せな日々も、彼を喪った哀しみの日々も、すべて。
 浦野さんはペンダントに視線を落とす。
「あの日、木綿子さんは来なくて。待ってる間に発作が起きたんだ。いつもより苦しくて、倒れて……」
 次に気がついたときには、こうしてピアノの前に座っていた、と浦野さんが語る。この場所が約束の場所だから。ふたりが幸せだった頃の記憶がつまっているから。だから、浦野さんはここを離れられなかった。なんて切なくて、悲しくて……いとおしいのだろう。
「今日が、約束の日、ですよ」
 そう。私がこの地に来たのには、おそらく、もうひとつの意味があったのだろう。遠い夏の日、果たせなかった約束のためという。
 そう言うと同時に、木戸が鳴った。土を踏む足音が聴こえる。浦野さんが目を見張り、一歩踏み出した。
「木綿子さん……?」
 呟く彼の前には、淡い藤色の着物を纏った女性がいた。彼女は歓喜に顔を輝かせて、浦野さんの胸にすがった。彼も細い背中を抱きしめて……。

 私は荒れ果てた庭にひとり、佇んでいた。そこにはもう、洋館もピアノも笑顔の彼の姿もなかった。大きな木から蝉の声が降り注ぐだけ。
 約束をようやく果たせて、ふたりは安らげただろうか。きっと、大丈夫。だって、幸せそうに笑ってたから。
「さよなら、浦野さん」
 歩き出そうとして、深い草の間に光るものを見つけた。あのペンダントだ。拾って眺めるうちに、石に水滴が落ちた。ころんころんと涙を弾いて輝く宝石がとてもいとおしくて、私は、微笑んだ。 

***

 姉さまの嫁ぎ先へ遊びにきた春のこと。私はひとりで散歩に出かけた。着物の裾をさばきながら階段を上がる。父さまに知られたら、はしたないと叱られたでしょうね。
 階段を全て上がった先は、貿易業で財をなしたお屋敷ばかり。立派な洋館が珍しくて歩いているうちに、一際大きなお屋敷を見つけた。
 彼と出逢ったのはそこだった。
 美しい庭とピアノの音色、彼の優しい笑顔。そのどれもに私はたちまち夢中になってしまった。
 毎週末、バスに乗って彼に逢いに行った。ピアノを聴かせてもらったり、お喋りをしたり。それだけで幸せだった。
 それなのに、神様はなんて残酷なんだろう。彼を胸の病で私から奪っていった。また逢おうと約束していたのに、お屋敷に行っても彼はいない。ああ、あの日、私が夏風邪など引かなければ。彼は私を待って、待ちくたびれてしまったのかもしれない。

 彼がいなくなって、もう一年が過ぎた。今日もお屋敷に行った。
 いつものように、ぼんやり庭を見つめていたら、彼のお兄さまが声をかけて下さった。ともに彼を偲んでもらえると思ったのもつかの間、お兄さまは仰った。お仕事の都合で外国へ行かれると。お屋敷は処分してしまうから、もう来ないようにと。
 彼との思い出の場所まで奪われるなんて。私の哀しみも絶望も後悔も、癒せるものなどもう、なにもない。
 かくなれば、私も彼のところへ行くしかない。彼と空の上で幸せになりたい。きっと、彼も待ってくれている。
 彼の愛した芙蓉の下で、その香りをまとって旅立とう。そうすれば、きっと彼はすぐに私を見つけてくれるはずだから……。

 準備ができた。
 彼が褒めてくれた着物を着て、今日私は旅立ちます。私がいなくなっても哀しまないで下さい。私は幸せです。彼と永遠に一緒になれるのだから。
 姉さま、私と彼がこの世で愛し合った証に、彼に貰ったペンダントを置いていきます。植えた芙蓉ともども、大切にして下さいましね。どうぞ、お元気で……。さようなら。

***

秋野みやさんのイラスト

Illustrator:秋野みやさんTwitterID

見たよ!
»Return«