ウォンマガ夏フェス2015

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Theme:あの日の彩雲を掴んで、僕らは自由と別たれる

Author:きみのマリさんTwitterID

 地元を離れる電車の窓から、虹色の雲を見たことがある。





 腹、へったな。
 黙々と、目の前のキャンバスへ筆を叩きつけながら、ある瞬間にふっと自覚する。
 うん、俺、今確実に腹へってる。
 空きっ腹に油の匂いがこたえる。空腹なんてものを理解できるのだから、集中力なんてものはとっくに切れている。今何時だろう、という俺の思考と同時に、首を絞められたニワトリのような、とにかくヒドイ声で腹の虫が鳴いた。
 筆を放る。立ち上がって、改めてキャンバスと向かい合うと、ごく自然にため息が出た。
 ダメだ、と思う。汚れた手で頭を抱える。焦燥感や倦怠感や空腹感がグチャグチャになって、いっそ濁った色の涙が出そう。
 カオスだ。いいやもうカラカラだ。枯渇している。俺はとうとう油絵の具で汚れに汚れたビニールシートの上に倒れた。
 もういやだ~~描けない描けない描けない描けない~~おかあさ~~ん。
「成海!」
 そうしてのたうちまわっていたら、俺の体の上に影が落ちてきた。顔を覆っていた両手を少しずらして、上を見上げると、同じ油絵学科の橘が俺を見下ろしていた。
 橘は、今日も室内なのに変な柄のニット帽をかぶり、子猿みたいに愉快そうな顔をしている。
「成海、おまえそれ何の儀式だ?」
「……雨乞い……?」
「明日飲み会な。来るだろ?もちろん来るだろ?」 
「いい~……行かね~……」
 橘は俺の友人にしては稀なタイプの男で、こんなふうにしょっちゅう俺を賑やかな場所へ誘いにやってくる。そして人の話をあんまり聞かない。俺が飲み会とか苦手だって話、橘と知り合ってわりと最初のほうに言ったような気がするのだけど。
 橘が不満そうな声をあげるが、聞き流す。行きたくないもんは行きたくない。今は、特に行きたくない。
「俺なんか社会のクズだし……」
「なんだよ、またスランプ?……つーかおまえくっさ!風呂入ってないだろ!帰って風呂入れ!」
「うそ、そんなに臭い?」
「勘弁しろよ、そんなんじゃ明日友だちの俺までドン引きされるだろ!」
「だから行かないって!」
 思わず叫ぶと、橘が急に真面目な顔つきになって俺を見据える。
 うわ、胡散臭ぇ、などと思っていると、橘の手が俺の肩を妙にやさしくぽんぽんと叩いた。
「成海、スランプのおまえに必要なのは明日への活力、つまり気晴らし。酒と女。あと風呂な」
「いやいやいやそれはない……風呂はともかく……」
 ジャージの内側が汗でじっとりとしている。途端に、たしかに臭いかも、と不安になる。
 俺はようやく重たい体を起こした。窓の外は薄暗い。礫のような星が一つ見えた。
 のろのろと画材を片付け始める俺に、橘が去り際に声を荒げた。
「明日来いよ!?ぜったいに来いよ!?」
「……え、ダチョウ?」


 腹の虫がおさまらないので、帰る前にパン屋へ足を運んだ。
 大学内のパン屋は夜七時までなので、閉店ギリギリだ。売り場はすっかり寂しくなっていた。目当てのツナサンドも、すでに棚から消えていた。またしてもため息が出る。
 このパン屋のツナサンドは、高校の購買で売られていたツナサンドの味と似ている。食べると、なんだか懐かしい気持ちになるのだった。俺なんか、地味だし、ヒエラルキーの最下層にいたような男子生徒だったし、たいした思い出もないのに。
 ただ、あの頃は、もっと自由に絵を描けていた気がする。当時二階にあった美術室への階段を、いつも誰よりも早く駆け上がって、キャンバスに向かっていた。
 ツナサンドの代わりに仕方なく手にとった、余り物のつぶあんぱんを見つめながら、所詮俺なんて奴は、と思う。
 俺なんて所詮、美大に入ったら周りの才能に圧倒されて潰れるタイプの非凡で量産型の人間だし……。
「つぶあんぱん一つ、百二十円です」
 あんぱんをレジカウンターに置くと、透きとおった声が聞こえた。
 俺の濁った体の内側を、淡い水色に染めてくれるような。
 「パン屋の南ちゃん」といえば、この美大のパン屋で働いている素敵な女の子のことだ。エプロンの胸元に付けられている名札に「南」とあるので、苗字なのだろうけど、勝手にそう呼んでしまっている。趣味がそれほど合わない橘とも、南ちゃんの話題ではちょっとばかし盛り上がったりする。
 南ちゃんは、肌が白く、線が細い。いつも伏し目がちにテキパキと作業をこなす彼女の笑ったところを、俺は見たことがない。
 まだ若そうに見えるけれど、女子の経験値のない俺からしてみれば女子の年齢なんか全然見当がつかない。学生なのか、フリーターなのか、それともパート?
 南ちゃんのことは何も知らないに等しいけれど、彼女はいつも冷たく澄んだ水のような存在でそこにいる。
 レジに南ちゃんがいると、俺はうれしい。そして、この上なく緊張してしまうのだった。
「……あれ?」
 この日も例外なく体を硬くしつつ財布から百二十円を探っていると、ふとカウンターの上のパンが増えていることに気がついた。
 いつのまにかあんぱんの袋の隣に置かれていたのは、紛れもなく二百十円のツナサンド。
「サービス」
 突然現れたツナサンドと、レジに立つ南ちゃんを交互に見つつ狼狽えていたら、表情筋をピクリとも動かさずに、南ちゃんが一言そう言った。
「お兄さん、いつもツナサンド買っていかれるでしょう」
 えっ?もしかして、俺に言ってる?
「あ、あ、はい、買っていかれます……」
「サービスです」
 呆然としている俺をよそに、南ちゃんは今日もテキパキと、二つのパンを紙袋に入れてまとめてくれた。
 俺は差し出された紙袋を手に、パン屋を出た。毎度ありがとうございました、と洗われるような声を背中越しにかけられた。
 外はすっかり夜だった。初夏の生あたたかい風。礫のような星が一つ、瞬いていた。
 ……あっ。
 そういや俺、風呂入ってなかったんだった。
「……く、臭かったかな……」
 三度目のため息が出た。





 夜に風呂に入って、体を二回洗い、頭は三回洗った。翌朝もシャワーを浴びた。心身共にサッパリした俺は今、繁華街の座敷居酒屋にいた。
「成海ぃ!おまえが来てくれて俺は嬉しい!今日は飲めよ!スランプなんか忘れろ!」
 すでに酔っているようなテンションの橘が、俺のグラスにガツンとジョッキをぶつける。そして誘っておきながら、すぐに賑やかなグループのほうへ去っていった。嵐のようだ。
 今日は大学は休みだ。それでなくても絵を描く気力がなかった。絵を描くことを抜いてしまうと、俺は清々しいくらいに何も趣味がない。部屋で一人腐っているよりかは、橘に言われた通り、たしかに気晴らしぐらいにはなるかもしれないと思ったのだ。
 しかし、慣れない。橘は、「みんなうちの美大生だから!」と言っていたけれど、ほとんどがろくに話したこともない顔ぶれで、なんだか心もとない。やっぱり、こういう雰囲気は苦手だ。こんなふうに若者たちが笑い合いながら集まっていると、空間はたちまち生き生きとして、鮮烈な色になるから、なんだか俺一人だけが無彩色みたいに感じる。
 流れで最初に頼んだビールを、慣れない空気に肩をすぼめながら口につける俺。
「隣、いいですか?」
 凛とした響きの声にはひどく聞き覚えがあった。顔を上げた俺は、グラスを持ったまま完全に固まってしまう。
 いつも素敵なショートヘアの上に巻いている三角巾も、エプロンも、名札もない。だけど俺の隣に腰を下ろした彼女は、紛れもなく「パン屋の南ちゃん」だったのだ。
「今晩は。ツナサンドのお兄さん」
「な、な、なん……あっ、ここんばんは」
 なんで、南ちゃんがここに?
 そんな俺の心の声がそれほど表情にむき出しになっていたらしく、南ちゃんが自ら丁寧に説明をしてくれた。
「わたしは学生ではないんだけど、あそこの帽子の……橘くん?に誘われて。気楽な飲み会なので是非!って言うから、お言葉に甘えてお邪魔しました」
「あ、そうなんですか……って、ええっ?橘に?」
 そうなんですかと言っておきながら、まったくわけがわからない。
 半ば助けを求めるように、離れた場所にいる橘に視線を送ったら、うまいこと通じたらしい。橘はこちらを振り返ると、なにやら口をパクパクと動かした。
 が、ん、ば、れ、よ?
 ……無理だって!というか、「頑張れ」って何を!?
 俺も口をパクパクさせつつ、首を横にぶんぶん振る動作まで付け加えたが、橘のやつはそれらを笑顔で親指を立てるという動作であっさりスルーしてくれた。白目をむきそうになる。
 しかしまあ、橘のフットワークの軽さは、ほんとうに尊敬する。俺にはないものだと、心底思う。
 橘の身軽さは、まさに彼の描く絵そのものだ。油絵独特とでもいうような、重ねに重ねた色。それでも今にも踊り出しそうな身軽さがあって、見ていて楽しくなる。そんな絵を、橘は描くのだ。
 俺には、到底描けないものを。
「スランプなんですか?」
 南ちゃんの声ではっとする。
 グラスビールに口をつける南ちゃんが、俺の隣にいる。夢じゃない。
 そうだった。俺は気晴らしに来ているのだった。ところで今、彼女は何て言った?
「えっ?な、なんで知ってるんですか?」
「橘くんから聞いたので」
 ええー、あいつなんで南ちゃんに俺のこと話してんの?
 すると、空になっていた俺のグラスに、南ちゃんが瓶ビールを勢いよくドボドボと注いだ。
「飲みましょう」
「エッ?」
「大丈夫です、わたしけっこう強いから。今夜は付き合います」
「いや、あ、あの~……俺はあんまり酒強くは……」
 どうしよう、予期せぬ展開だ。
 水色の声。表情筋を動かさずに、手もとはテキパキと動く。俺の隣にいるのは、たしかに「パン屋の南ちゃん」だ。
 そうなんだけど、そうなのか?あれ?
 もう何がなんだかわからなくなる。
「はい、乾杯」
「あ、はい、乾杯……」
 二つのグラスがぶつかる。
 パン屋のカウンター越しよりも、すぐ隣にいる彼女が遠く感じるのは何故か。
 ああ、橘ごめん、と心の中で謝罪する。俺、ぜったい頑張れない。





 誰がこんな展開を予想しただろう?
 南ちゃんが寝ている。俺のベッドで。
 その姿をまともに見られずに、かといって、無責任に部屋から出ることもできない。そんな俺は、俺の部屋の俺のベッドで、酔ってすっかり爆睡している彼女から背を向けて、所在なく床に体育座りになって、犬のように傍らにいる。
 どうしてこうなったのか?
 最初の座敷居酒屋のあと、二次会へ行く面々を尻目に、何故か俺は南ちゃんと二人で飲み直すことになった(そのとき橘が笑顔で親指を立てている姿を確認した)。そして、結果的に酔いつぶれて、すっかり歩けなくなってしまった彼女から住んでいる場所を聞き出すこともできず、なんとかかんとかアパートの俺の部屋まで運んだのだ。ちなみにホテルみたいな場所に入るという発想はそのときなかった。
 あったとしても、俺には無理だ、きっと。
 膝に顔を埋めて、うずくまる。
 もう、いろいろといっぱいいっぱいだった。頭が。胸のあたりが。
 このまま眠ってしまいたい。だけど、そうしたら、すべて夢になってしまいそうで……。
 
 ほぼ南ちゃんに連行されるかたちで、べつの居酒屋に移動し、そこで俺は彼女の話を聞いた。
 南ちゃんは酒の力か、それとも俺が知らなかっただけで普段からそうなのか、とにかく饒舌だった。俺は、とりあえず頼んだウーロンハイに口をつけるのもそのうち忘れて、彼女の話を聞いていた。
 南ちゃんは、もともと都内の会社に勤めていたこと。そこでの人間関係があまりよくなくて、ストレスで体を壊してしまったこと。今は実家暮らしであること。美大のパン屋は、母親も勤めていて、求人を探していたところ、母親の勧めもあって働くようになったこと。実家に、今年十三才になるシロミという名前の白い犬がいること。シロミが、俺に少し似ているらしいこと。
 南ちゃんは、汐の里と書いて、汐里という名前だということ。

 深夜の明かりで眠る彼女の呼吸が、まるで潮騒のように聞こえる。少し首をひねって見た汐里さんは、横顔だった。
 俺は眠ってしまう前の彼女の声を、思い出す。
「仕事も辞めて地元に帰ってきて、自由になったはずなのに、なんだか少しもそんな気がしなくてね。実家にいても気持ちが塞ぎがちだった。そんなとき、気晴らしにって、母と美大の文化祭に行ったの。そこでわたし、夕暮れの海の絵を見た。……うまく言えないんだけど、見ていたらなんだか、すごく涙が出たの。自分でもびっくりするくらい、自然に涙が出たの。それでね、わたし、ああまだ大丈夫だって思ったの」
 成海くん、と、そのとき汐里さんははじめて俺の名前を口にした。
 それなのに、まるで彼女はずっと俺のことを知っていたような響きに聞こえて、俺は、とうとう何も言えなくなった。
「よく絵の具まみれでパン屋に来てくれるあなたのことを、ある日帽子の橘くんが『成海』って呼んでいたからびっくりした。ずっとわたしは、あの絵の作者の『成海潤』くんに、ありがとうって言いたかったから」
 成海くん、あの絵を描いてくれて、ありがとう。
 汐里さんはやわらかい表情でそう言うと、安心したように長い息を吐いて、そしてそのまま目を閉じた。





「失敗しました」
 かすかな電車の走る音が聞こえる。始発が動き出している。
 早朝、駅までの道すがら、表情筋を動かさずに彼女が言った。
 俺の隣を歩く彼女の声も、表情も、もうすっかり「パン屋の南ちゃん」だった。夢から覚めたような気持ちになる。
 でも、俺は結局一睡もしてないから、夢じゃない。……はず。
「わたし、橘くんから、『俺の友だちの成海くんがスランプだから、元気づけてやってください!』って言われてたのに、まさか酔いつぶれて爆睡して成海くんの部屋にお邪魔してしまうなんて……ほんとうにごめんなさい」
「あはは……」
 ここにはいない橘の、笑顔で親指を立てている姿が脳裏に浮かんだ。
 苦笑しながら、空がだんだんと明るくなってゆく。
 俺はふと、進学のために地元を離れる日に乗った、朝早い電車での風景を思い出した。
「彩雲って、知ってますか?」
 雨の気配は見当たらない白む空を見上げながら、俺は話す。
「幸福のしるしって言われてる、虹色の雲。僕、一度だけ見たことがあるんです」
 地元を離れる電車の中で、窓から、虹色の雲を見た。
 乗客の少ない車両で、静かに息を呑んだのを覚えている。でもあとで調べたら、実際にはそうめずらしくもない現象らしい。晴れた日に、空を見上げてみれば目にできるかもしれない程度の。
 そして今になって思う。俺、ずっとこんなふうに明るい空を見ていなかった気がする。ずっと、明るい場所を見ようともしないで、キャンバスだけに向かっていたような気がする。
 たとえば高校時代、あの頃は、べつに「何か」になるために描いていたんじゃなかった。
 ただ、描いていた。
 「描きたい」から。
 汐里さんが美大の文化祭で見たという、夕暮れの海の絵。あれは、俺が地元を離れて美大に入ってから、はじめて自分の意思で描いて、完成させた絵だった。
 汐里さんは言った。自由になったはずなのに、少しもそんな気がしない、と。そんな言葉に、俺は既視感を覚えたのだ。
 少し前の俺は、美大に行けば今の自分よりもっと自由に描けるのだと疑っていなかった。それなのに、現実の俺はちっとも変わらない。それどころかちっとも自由に描けなくなっていく。
 俺は、自分の力に、周りの力に、焦って、こわくて、ただただ真正面しか見られなくなっていたのかも。
「……汐里さん!」
 視界の先に、駅が見えてきた。
 たどり着いてしまう前に、言わなければ。
「あの、俺の、……あっ、ぼ、僕の、僕の絵を見てくれて、ありがとうございました。それと……元気、もらいました。ほんとうにありがとうございました」
 もっと言いたいことがあるような気がする。ほんとうに言いたいこととは違うような気がする。だけどもう、これが今の俺の限界。
 ややあって、汐里さんは言った。
「わたしね、子どもの頃、パン屋さんになりたかったの」
「……エッ?」
 汐里さんが小さく、ふふ、と笑う。
「ツナサンドは、わたしが作ってるの。いつも買ってくれてありがとう」
 そうしてそのまま、彼女は改札を抜けていった。朝の光に吸い込まれるように。
 水色の声が、俺の中でいつまでも残った。

 あの頃の自由とは別たれてしまったのかもしれない。思い描いていたものとは違うかもしれない。それでも。
 絵を描こう。部屋に帰ったら、すぐに。
 俺は、汐里さんの横顔を描きたい。風景以外をはじめて描きたいと思った。そこにたしかに生きている彼女を、俺は描きたい。
 まぶしい。視界いっぱいに明るい空が見えている。あの虹色はどこにも見えない。
 それでも、白く白く、自由に似た色だ。

***

ヨウさんのイラスト

Illustrator:ヨウさんTwitterID

見たよ!
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