ウォンマガ夏フェス2015

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Theme:たちばなの墓標

Author:加崎このはさんTwitterID

 我が家の庭木が花を咲かせた。鉢で買い、今年の春に庭へと植え付けた橘の木だ。白い花々は香り芳しく、可憐で清楚な五枚の花弁を広げている。庭に立ちその姿を眺めているうちに、当初の目的を思い出した。忘れてはいけない。今この家には、自分以外に誰もいない。今日この日を逃したら、いつになることやら。
 手にしたものをそっと横たえ、傍らに置いていた軍手をはめ、その隣のシャベルを両手で持つ。木の高さはまだ目線の下、その根元を掘っていく。直径二十センチ深さ三十センチ程の穴ができた頃、一息ついてシャベルを置いた。額の汗を右腕で拭う。庭木の向こうの青空をちらりと見た。晴天。
 膝を折りしゃがむ。地面に横たえられたそれを、壊れてしまわぬようにゆっくりと、先程までと同じように両手に抱く。そっと、大事に。立ち上がる。
 確かに土を踏みしめて、一歩二歩進む。橘の木の根元に空けた穴の前に立ち、数秒間その空洞を見つめていた。再び、しゃがむ。音はなかった。
 両手の中のものに視線を合わせる。古くなり変色した白い紙。そこに包まれた、枝葉。十五センチ程の茶色の細い枝が八本と、こちらはまだ緑が残る葉が数枚。目の前に植えられた木と同じ、橘のものだ。崩れてしまってはいけないと、細心の注意を払いながら穴の中へと移す。一欠片も、残さぬように。
 葉の一枚と、ぱらぱらと散る部分達を最後に寝かせる。
 やっとこの時が来た。目を閉じれば、彼女の姿が今でも昨日の事のように思い浮かべられる。覚めるような香りも、あの日のことも。
「一緒に行こう」
 発した声が甦る。駆け落ち、という言葉が頭をよぎり、苦笑した。小さく首を振る。駆け落ちだなんて、そんなものじゃない。
 遠いところまで来たものだ。あれからもう、十、何年――

    *・*・*

 母校の高校は、地元では歴史と伝統のある、由緒正しい学校だった。創立は百年以上前に遡る。規律を重んじ文武両道。特別書き立てるところはない、普通の高校だ。それでも一つ変わったところがあるとすれば、敷地内にある橘の木だった。校章に橘の花があしらわれており、その橘の木が植えられている。ただそれだけの事だが、彼女を知らない者は、在校生では誰一人いなかっただろう。
 橘の白い花は、清らかさを表す。古来より永遠の象徴と言われる常緑の葉。柑橘の香りは、高校生らしいさわやかさ。「橘」だけにもこれだけの意味が込められているのだと、入学式で説明された。記憶が確かであれば、生徒手帳にも記載されていたはずだ。
 学校内にたった一本植えられた橘の木。校花でもあるそれは、何故か目立たない場所にひっそりとあった。けれど、誰もが彼女を知っていた。生徒も教職員も、誰もが彼女を呼んでいた。
 「リッカちゃん」または「リッカさん」。それが「彼女」の愛称だった。

 彼女と最初に出会ったのは、高校一年の六月。学校の敷地内をあてもなく一人で散策している昼休みのことだった。制服は黒の学ランから半袖シャツに替わって暫く経った頃、梅雨の合間の晴れ空が広がっていた。
 いや、もしかしたら、頭の隅で意識していたかも知れない。入学式で、生徒会長が言った言葉を。
「皆さん、リッカちゃんを知っていますか?」
 型通りの挨拶を終えた後の最初の言葉が、それだった。
「トイレの花子さんのようなものではありませんよ。怖い話では全然ないので、安心してください。リッカちゃんというのは、この学校に植えられている、橘の木のことです」
 いい年して学校の木に名前なんて付けるのかと、その時は思った。しかし一方で、最後の一言が心のどこかに引っ掛かりもした。
「もしよかったら、この学校のどこかにいる彼女を、探してみてください」
 もしよかったら、暇だったら。確かに何もすることはなかった。じっとするのも気分ではなかった。だからなんとなく、彼女を探したのかも知れない。
 彼女がいつから「リッカ」と呼ばれているかはわからない。生徒会長はそう言っていたし、自分も勿論知らない。ただ、その呼び名の由来は言い伝えられてきているようだった。なんでも、「橘」から立つ花の「立花」になり、これを音読みして「リッカ」ということらしい。一体誰が付けたのか。由来はさしたるものではないが、音の響きは悪くない。親しみやすい名前でもあるのではないだろうか。
 そのようなことを考えながら、校舎からも人の気配からも離れて緑の中を無言で歩いた。すると突然、爽やかな花の香りが鼻腔をくすぐった。誘われるようにそちらへと向かう。
 視界が開けた一角に、彼女はいた。深い緑色の葉を一杯に広げ、白く小さな花を纏った姿は、その存在だけで周囲の空気を清澄なものにしているようだった。
 きれいだった。美しかった。可愛らしかった。
「これが、リッカさん」
 思わず敬称が口から流れた。直後、「これが」などと言っては失礼であることに気付き、言い直す。
「あなたが」二メートルは超えるであろう背丈を見上げる。「リッカさん」
 予鈴のチャイムが休み時間の終わりを告げるまで、彼女に見惚れていた。
 それからは、時間があれば彼女の下へ向かった。日常を報告するでもなく、元気かどうかと話し掛けるでもなく、ただ近くへ行って見つめて、時々その根元に腰を下ろして、何もせずに過ごすだけ。
 別にクラスで孤立していたわけではない。クラスにも部活にも仲の良い連中はいたし、遊びに行き部活動で汗を流し、それなりに充実した、楽しい生活だった。孤独だから彼女に惹かれたのでは、断じてない。ひとえに彼女が素晴らしかったからだ。
 夏休み中にも、部活の練習の為に登校する。その時にも、休憩時間に会いに行った。仲間からは「ちょっと変わった奴」だと思われていたようだ。別に構わない。一人でいる時間も確保したいタイプの人間であるし、そのうちの幾らかは彼女のそばで過ごす為に使いたかった。言いたければ、どうとでも言えばいい。
 夏が終わり、二学期になった。秋の入り口を感じ始めたある日の全校集会で、衝撃の一言が告げられた。
 来年度、新入生募集停止。現一年生の卒業をもって、閉校する。

 壇上から響いた「閉校」の言葉にその場は騒然となったものの、だからと言って昨日までの学校生活が変わるわけでもない。「最後の卒業生」も、自分達の後輩はいないのだと宣告されたとはいえ、実感がないまま一年生を終えた。
 冬を越え、春が訪れ進級の季節。始業式を済ませた新しい教室で、年間行事予定表が配られた。四月から順に目で追って、思考と、教室の空気に疑問が浮かぶ。そして数秒後、違和感が、ああ、と解けた。抑えた虚しさが漏れる。
 「入学式」の文字が、なかった。
 新入生がいないのだから当然なのだが、暗い現実を突き付けられたようだった。言葉で理解し情報を認識していながらも、どこか現実味がなく、冗談か悪い夢のように思っていた。きっと多くの同級生が、似たようなことを思っていたのだろう。
 一週間が過ぎても、一学年分空けられた下駄箱は埋まることはなかった。緊張感と賑やかさがあるはずの教室の並びには、誰もいない。やがてそれらの教室には、入り口に鍵がかけられた。人が少ない校舎。二つの学年しかいない全校集会。「リッカちゃんを知っていますか?」と問う相手も、いないのだ。「閉校」の事実が、じわりじわりと足元を侵食してくるようだった。
 私は変わらず、彼女のところへ行き続けた。自分以外の人間の姿を見たことは、三年間でただの一度もなかった。閉校を知って、彼女は何を思うのだろう。昔は九百人以上いたという生徒も、今や二学年二百人。年々人が減っていく学校を、どんな気持ちで見るのだろう。寂しい、のだろうか。
「さみしい?」
 私は問うた。彼女は答えない。初夏に咲く、花の香りが漂うだけ。

 三年生になると、いよいよ虚しさを隠せなくなった。二学年分の空っぽの下駄箱、半数以上の空き教室。四階建てのこんなに広い校舎に、全校生徒はたったの百人強。全てが最後の一年間だった。何もかも、この一年で終わる。
 それでもか、だからこそか、その最後の一年間はいっそ盛大に楽しんだ。体育祭も、文化祭も、弾け飛ぶように開催された。楽しかった。しかし楽しめば楽しむ程、静かな影は色濃く浮かぶ。文化祭の午後、一人ひっそりと彼女の下へ足を運び、何を思う?と心中で尋ねた。目頭が熱くなった。
 もう、もう終わってしまうのだ。彼女はどうなるのだろう。ふと思った。「リッカさん」と呼ばれる前からきっと、ずっとここを見てきたのに。
 このまま死ぬのだろうか。そう考えるだけで胸が苦しく、たまらなくなった。
 文化祭が終わり、一年間の最後の季節、冬がやってくると、別れの挨拶が聞こえ始めた。学校という存在に。校舎に。百年を超える歴史と伝統に。思い出に。そして、リッカちゃんに。受験勉強の合間に、皆が「ありがとう」と「さようなら」を口にした。
 私は彼女の前で、憤りを封じ込める。
 ありがとう、さようなら。可哀想だと言いながら、彼女にかける言葉が「バイバイ」だけだと?
 皆彼女を哀れむだけで、どうでもいいというのか。彼女は無条件に、この学校と、ここにいる者全てを、ずっと何十年も愛してきたのに。たった三年間しかいない生徒達を、ずっとずっと。誇り高く、シンボルとして、リッカと名前まで付けて、最後は放って捨てるのか。
 俺は――
 俺は絶対、そんなことしない。

 三月。閑散とした、大人の姿が目立つ卒業式を終えた数日後。書類を提出しに登校した最後の日に、人生で一度きりのことと決意を秘めて彼女の下へ。純白の花は咲いておらず鮮やかな黄色の実もないが、凛とした常緑の葉は変わらずに美しかった。
 鞄から、枝切り鋏を取り出す。細く繊細な枝に手を添える。シャキ、と刃物の音がした。
 何度かそれを繰り返す。一房、二房、彼女の美しい髪を切って残しておくように。
 橘は、いくつか気を付けるべき害虫がいる。三年間一度もそれらしいものを見掛けなかったのは、用務員か業者かが、彼女に悪い虫が付かないよう、注意を払っていたからだろう。感謝した。
 一房、二房。ここに彼女の魂が宿る。
 枝を八本、根元からこれも丁寧に切り取った葉を数枚。用意していた白い紙にそれらをそっと包んだ。
 閉校後、校舎は取り壊され、更地にされると話を聞いた。それはつまり、彼女は別の場所へ連れて行かれるか、最悪切り倒されて、殺されるということ。
「リッカさん」
 包んだ枝葉を抱きしめて、正面を見つめた。
「一緒に行こう」
 あなたを助けてあげるから。誰よりあなたを愛しているから。
 絶対に、死なせはしない。

    *・*・*

 閉じていた目を開き、穴の中に横たわる彼女を見つめる。
 あれからずっと一緒にいる。一人密かに彼女を守り続けてきた。大学を出て、就職し、金を貯め、家を買い、庭を作り、苗木を買って、育てて、花を咲かせた。結婚をした。家族ができた。子供も生まれた。長かったようで、あっという間のようだ。
 口元に微笑みを浮かべ、軍手をはめた両手で優しく土を被せる。彼女はここに眠る。そうしてこの、新しく植えた小さな橘の養分になり、そして彼女の魂はこの木に宿る。
 彼女は、リッカさんは、死なない消えない助かったここにいる。こんなに幸せなことはない。
 完全に穴を埋めて、両手を二度はたく。立ち上がり軍手は横に放り投げる。照れくさくなり、手を後ろに組んだ。真っ直ぐに彼女を見る。
「あなたを愛しています。いつまでもずっと」
 さわ、と風に木が揺れた。
「死ぬまで。これからも」
 涙が滲んだ。幸せか、切なさか、視界がぼやける。
「俺が死んだら、その時に、一緒にあの世に行きましょう」
 死ぬまで。いつになるかはわからない。けれどこう仮定しよう。
 忘却猶予、五十年。その間は、片時もあなたのことを忘れません。
 ずっと、一緒に。

 リッカさん。

***

はーびーさんのイラスト

Illustrator:はーびーさんTwitterID

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