ウォンマガ夏フェス2016

お題:簪 | 絵:湖丸あひる | 文:初子

黄昏はいつもの場所で


夜色の夢はもう見ない

   ここは夜の境界線だ。
 深い深い森の入り口。獣や魔物や悪い魔法使いが住むと言われる森。

 彼の家へ向かって、真っ暗い森のなかを駆け抜ける。スカートのすそが邪魔で、まるで少年のようだった幼い頃と同じように、裾をたくし上げた。母にも使用人たちにも、こんな姿は見せられない。きっとはしたないと怒られてしまうだろう。けれども、このときを逃せばもう二度と彼には会えないのだと、私はどこかで確信めいたものを抱いていた。立ちふさがる木の枝が体に小さな傷を作っていくことも構わず、ひたすらに、めちゃくちゃに走った。
 彼の家は、深い森を抜けた高台にあって、そこにはたくさんの美しい草花があった。どの季節にも。
 私が森に入ると、彼は気づいたら隣を歩いていて、私は一人ぼっちで彼の家まで辿りついたことはなかったけれど、彼の家にはいつだって行けるような気がしていた。
 その日、私は妙に生々しい夢を見た。森の"悪い魔法使い"とワルツを踊る夢。私は彼と初めて出会った日に着ていたのと同じ、彼の瞳と同じ赤いワンピースを身につけていた。
 多分、森を抜けた先の丘だ。そばに彼の家があった。
 私たちは二人を撫でていく風に合わせて、ゆったりとステップを踏んでいた。背中に添えられている手は不安そうに震えているのに、顔だけは随分と余裕ぶっているのがひどく彼らしかった。
 穏やかで優しくて愛しい風景。なのに私の心は少しずつ温度を下げて、悲しみの膜で覆われていくような感じがしていた。
「もう立派なレディだな」
 彼が言った。静謐な瞳はしっかりと私を見据えている。
「レディに俺からの、最期の贈り物だ」
 最期の。
 耳元で鈴の音が響いた。私はすぐにその音の方へ視線を滑らそうとしたけれど、彼がそれを控えめに制した。何かを尋ねようとする私に、やけに大人びたよそゆきの仕草で人差し指を唇に当てて見せる。
 彼の指先が壊れものにでも触れるみたいに、私の髪の毛をすくいあげた。無造作に下ろしていた髪を器用にまとめあげると、最後に何かを差し入れて、彼の瞳が私の方へ戻ってくる。
 その真っ赤な瞳に映る私の姿は、もう立派な大人の女性に違いなかった。

 まだほんの小さな子どもだったある日、私はただ一人きりでその森の入り口に佇んでいた。多分、兄とケンカしたのだと思う。
 その頃、私は二つ上の兄とよくケンカをしていた。男である兄は跡取りとして大事に大事に育てられていた。一方、女である私は、兄ほどの期待も制約も受けることはなく、ある意味の自由を享受していて、それがお互いに幼い歪な感情を抱かせていた。
 私はその頃兄と同じ男の子になりたくて、昼の時間をほとんど少年のように過ごしていた。使用人たちはそんな私に手を焼きながらも、どこか一歩引いて見守っているところがあった。兄はそんなわたしをよく「女の癖に」と鼻で笑った。
「お前は女なのだから、あの森に入ることなどできないだろう。かよわい女なのだから」
 その日のケンカもそれなりに派手なものだった。そのとき兄が口にしたその言葉への反抗のしるしに、ここまで足を運んだのだ。
 どくどくと心臓はいつもの倍は早く脈打ち、額には汗が滲んでいた。
 ぎゅっと自分の着ているワンピースを握りしめた。赤い布地がくしゃりと縮こまると、手のひらの向こうは夜の色になった。震える踵を暗い地面に踏み出す。湿った風が足首を撫でて、ああ、夜に捕まってしまった、と思った。
「何だお前、迷子か?」
 そんな時に、降ってきた声。見上げると、金髪の男が立っている。白いシャツに蝶ネクタイ。濃紺のジャケットと同じ深い色のスラックス。彼はあまりにもきちんとした格好をしていて、街中で見れば単なる紳士だったけれど、あまりにも場違いで逆に恐ろしさが込み上げた。
 叫び声を上げてしまったと思ったのに、出たのはひゅっと酸素が足りないみたいに勢いよく空気を吸い込む音だけだった。けれども視界は薄い膜を張っていき、ぼろぼろと涙が零れた。頬を伝う熱くてしょっぱい雫だけが、私を現実に繋ぎ止めてくれているような気がしていた。
「あ、おい、泣くなよ。……大丈夫か?どっか痛いのか?」
 私が弾かれるように泣き出したのを見ると、彼は慌ててしゃがみこんで私に目を合わせた。ぼやけた視界の向こう側で、きりりとした眉が困ったように下げられていた。暗がりでよく見えなかった彼の瞳は、私のワンピースと同じ真っ赤な色をしていた。まるでうさぎみたいに心細そうに見えて、私はしゃくり上げながらも、少しずつ少しずつ、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。
 私の涙の最後の一粒が引っ込むのまで、辛抱強く待った後、彼はゆっくり頬を綻ばせて尋ねた。
「お前、名前は?」
「レディに、名前を聞くときは、自分から、名乗らなきゃ、いけないの、よ」
 ひくひくと鼻をすすりながらそう言えば、彼はははっと愉快そうな息を吐いた。
「これは失礼したな、小さなレディ。俺の名前はルートだ。名前を教えてもらえるか?」
「……ローゼよ」
「そうか、ローゼ。良い名前だな」
 ルートさんはそう言って、伸ばした指先で私の目尻に溜まった涙を拭った。彼の指先が私の耳もとを通ったとき、小さな鈴の音が聞こえて、私は思わず彼の指先を目で追った。ゆっくりと目の前に戻ってくると、彼の手のなかにはきらりと光る赤い宝石があった。
 目を丸くして驚きを表す。彼がその宝石をあんぐり開けた私の口に放り込んだ。口のなかに広がる甘いはちみつ味。キャンディ。
「あなたは手品師なの?」
「さあな。……悪い魔法使いかもしれねーぞ」
 ルートさんは私の濡れた頬を自分の手のひらで拭いながら、にっと笑った。
 この記憶が今もちっとも色あせないのは、彼がその時私に魔法をかけたから。きっとそうに違いない。

「お前、友だちいねーのか?」
 その日から、私はあの森に足繁く通うようになった。なぜだか彼は、私が森を訪れるとどこからともなく現れた。最初は無下に追い返されていたが、何度も通ううちに彼の方が折れて、森の奥の彼の小さな家で過ごさせてもらえるようになった。
 私はどうしてだかとにかくルートさんに会わなければ、とよくわからない使命感に燃えていて、彼の家に招き入れてもらえるようになった頃には、兄とケンカすることもずいぶんと少なくなっていた。
 兄は自由に屋敷を出ることも許されず、毎日何かの勉強や習い事をこなす義務を課されていて、そんな兄に時々嫌味を言われたとしても、私は寛容な気持ちでそれを受け止めることができるようになったからだ。
「ルートさんに言われたくありませんー」
 彼と出会った頃、私は短めのワンピースの下に、メイドにこっそり作らせたショートパンツを履いていた。屋敷を出て野山を駆け回るときには、ワンピースのふわふわした裾をショートパンツにすっかりしまい込んだ。けれども今はもう、そんなことはしない。
「お、俺はいるし。お前以外にも友だちくらい」
 ふふんと鼻で笑う憎たらしい顔に、今日焼いてきたクッキーの包みを投げつけた。彼の座っているソファの上にぼとりと落ちた衝撃で、たぶん元々不格好だったクッキーはぼろぼろになってしまっただろう。狙り通りだ。
「そんなんじゃ、友だちどころか嫁の貰い手もねーぞ」
 ルートさんは赤くなった鼻の頭を撫でながら、ぶつぶつと口のなかで悪態をついているようだった。けれども落ちた包みを丁寧に拾い上げると、私にソファを促し、甲斐甲斐しくコーヒーを淹れるために席を立つ。
 彼の家はいつもコーヒーの香ばしくて少し甘酸っぱいかおりが漂っていて、私はそれがとても好きだった。まるで手放しで歓迎されているような気分になる。
 彼がコーヒーと一緒に持ってきたお皿にクッキーをあけると、ごろごろと石みたいな塊が放り出された。彼はくくっとわずかに肩を震わせたが、私がぎろりと睨みつける前に、一番おおきな石を口に含んだ。ざくざくと咀嚼する音が続いて、「まあ、味は悪くねえよ」と微妙なフォローが続いた。
 私は微かに目もとを細めて彼を見やったが、彼は少しも気にしていないみたいに、にっと笑ってまたもう一つ石を口に含んだ。その顔は皺ひとつなくて、出会った頃と少しも変わらない。ほんの少しも変わらなかった。

「悪い魔法使いは年を取らないの?」
 そう尋ねたとき、彼は妙に大人びたよそゆきの表情を顔に乗せていた。もう私と彼との間には見た目の境界線はほとんどなかった。
「さあな」
「またそうやってはぐらかす」
「知ってどうする」
 ルートさんの瞳が、あの日のように頼りなげに光った。コーヒーカップのなかの夜色の液体が小さく揺れている。
「どうもしない。……どうもしないよ」
 私はわざと子どもの笑顔を作った。それから夜色の液体を喉に流し込んだ。苦くて深くてかすかに甘い。ゆっくりと私の体のなかを流れる、彼の淹れてくれた大事な温かい夜を。
 同じときは刻めないことに気づいても、私から彼の手を放すことなどもう考えられなかった。

 けれども、周りはそれを許さない。
 縁談話は何度もあって、私はそのたびに拒絶の意を示した。けれども時を経るごとに次第にそれも難しくなっていき、会わざるをえなくなると、今度は向こうから断ってもらえるように仕向けた。長く伸ばした女の命である髪の毛を無造作に切ったときには、さすがの両親も大激怒で、しばらく外へ出してもらえなくなった。
 それでも、私は彼以外の隣にいる自分をもう想像できなかった。幼く淡い初恋でも、私のなかではもはや大きく育ちすぎてしまっていたのだ。他のひとの手などいらない。彼以外何もほしくなかった。
 欝々と窓から外を眺める日々を送っていると、そのとき初めて彼が会いに来てくれた。
 窓辺で頬づえをつく私に、「行儀が悪いな」と空からいつもの声が降ってきた。久々に会ったショートカットの私に、ルートさんは目を丸くして大笑いした。彼は困ったり怒ったりすることもなく、ルビーの瞳で私を見て、ローゼ、とやわらかい声で私の名前を呼んだ。私の名前をあんな風に呼ぶ彼も初めてだったかもしれない。
 多分初めてで、それから最後だった。

 走り抜けた先の丘の上、彼の家はすでに消えてしまっていた。
 代わりに、彼の家の横に立っていた大きな木の傍に、見たこともない花が咲いていた。くすんだ黄色の茎。鮮やかなみずみずしい緑の葉っぱ。眩しいほどに赤い花びらの真ん中にきらりと光るものが見えた。
 しゃらりと鈴の音が聞こえた気がした。彼の優しい魔法の音だ。
 夢のなかで彼が私にくれた艶々と光る赤い宝石のついた髪飾りだった。
「ずっと守ってやりたかった」
 瞼を閉じると、夢のなかで真っ赤な瞳を潤ませながら言った彼の言葉がよみがえった。何度もリフレインする。
 幼い初恋。拙い恋心。
 それでも私には彼が全てだった。耳を澄ませなくても、ずっと、彼が私の名前を呼ぶ声が鼓膜に焼き付いたみたいに離れない。
 まるで呪いみたいだ。