ウォンマガ夏フェス2016

お題:イヤリング | 絵:電柱セミー | 文:佐々木海月

緑の夏、出会う


古妖草子

   今宵お聞かせいたしますのは、前の前の、そのまた前の帝の頃のお話でございます。
 都が、まだ海のそばにあった頃のお話でございます。

 ところであなた様は、人魚というものをご覧になったことはございますでしょうか。半分は人、半分は魚の、海に棲む物の怪です。美しい髪と瞳を持ち、雨の晩には澄んだ声で歌うのだとか。残念ながらわたくしは見たことがございませんが、海のそばの町では、ときおり人に化けた人魚がふらりと紛れ込んで、歩き回ることもあるそうです。それどころか、ずっと南の方では、人魚が人と言葉を交わし、笑い合い、海の魚と、陸の野菜とを交換して、うまくやっているのだとも言われております。

 さて。
 その夜、空に月はなく、都は闇に包まれ、遠く潮騒が聞こえておりました。
 このような夜は、人ではない者、善き者も悪しき者もこぞって海から上がり、ひたひたと都を歩き回ると言われております。そこかしこから聞こえてくる低い呻き声が、きっとそれなのでしょう。
 そのような中を、共も連れず、ひとり歩く若者がありました。
 さる高貴な方のご子息で、酒宴の帰りでございました。この御方は、普段そう遊び呆けることはないのですが、この晩は色々なわけがあって、遅くまで引き留められてしまったのです。

 若者が足を止めたのは、屋敷までの道を半ばまで来たところでした。
「誰だ……!?」
 と。
 闇の中に、唐突に、女の慌てた声が響いたのです。
 若者は、周囲の様子をうかがいました。このような時刻、このような場所で、誰かに出くわすなど考えてもいなかったのです。とっさに護身用の刀を抜いてはみたものの、相手が何者とも分からず、しかも武術の心得などないもので、どうしたものかと戸惑うばかりでございました。

 そのときちょうど雲が切れ、月が姿を現しました。

 降り注ぐ蒼白い光のもと、相手の姿が浮かび上がりました。旅装の女が、ふわりと風のように優雅に振り向いたのです。夏草に似た緑色の着物に、長い黒髪。その黒髪の間から、水滴を連ねたような美しい耳飾りが見えました。なるほど、これが人魚というものかと、若者はごく当たり前のように考えました。耳飾りの透明な雫は、月明かりの中で僅かに赤みを帯び、この世のものではないような色彩の残像を描いていたのでした。  そうした美しさに見とれ、若者はすっかり立ち尽くし、女の手元には気付いていないようでした。そこには細い刀が握られており、――その切っ先からは、まだ赤い血が滴っていたのです。


     +++


 ところで、この頃の帝は、まだ幼い御方でございました。それゆえ、貴族たちがまつりごとをお助けするのがならいでございましたが、しかし彼らの多くは、それまで続いた平穏な世に慣れ、まつりごとなど興味はなく、己の富さえも、際限なくどこからか与えられるものと思っているようでした。当然、世は乱れ、都の街並みは荒れ果て、夏草が生い茂り、貧しい人々で往来は溢れ返りました。そして、人ならざるものたちが我が物顔で歩き回るようになり、特に夜ともなれば、百鬼夜行のような有様となるのでした。
 しかし貴族たちはそんな世の中に興味はなく、飢えと貧しさに喘ぐ庶民たちの姿には見て見ぬ振りをして、酒宴に明け暮れているのでした。

 さて、そのような中、貴族たちの心を捉えていたのは、不老不死という言葉でございました。このような荒れ果てた都で、不老不死など手にしてどうするのかと思わなくもないのですが、彼らの目には世の中の惨状など見えてはいないのです。彼らはただ、楽しい酒宴が、美しい日々が続けばよいと願っていたに過ぎません。
 そうした中で、人魚という、半人半魚の妖怪を食べるとよいという噂が流れ、広まりました。たちまち、得体の知れない肉の干物や鱗や髪の毛が、人魚のものと称しては高い値で売られるようになりました。適当な獣の干物に香りを付け、大きな魚の鱗に色を付け、綺麗な髪の女からそれを買って油で艶を付けたのでありましょう。庶民の知恵でございます。何しろ人魚は聡明で、そう簡単に捕らえられるものではございませんでした。


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 初めの場面に戻りましょう。

 先に申し上げましたように、この頃の都の夜は、鬼どもが我が物で歩く危険なものでした。世間知らずの貴族の青年が、ひとり歩けるような場所ではございません。
 加えて近頃は、こんな噂もありました。
 どうも人魚の亡霊が、大路に出るようだ、と。
 殺されて売られた人魚が、血の涙を流して、夜出歩く貴族たちを殺して回っているのだと言うのです。
 それは若者の耳にも入っていましたが、どこか他人事のようで、その晩も特に気にかけることなく、暗い道を、自分の屋敷の方へと歩いていたのでした。
 そうして、その女と出会ったのです。
「誰だ、と、問うておる」
 斬りかからんばかりの険しい顔で、女は若者を睨み付けました。
「そなたは」
 若者は驚いたのでしょう、問いに答えるどころか、どうにも場違いな問いを返しました。
「……人魚か?」
「…………はあ!?」
 なるほど、これが例の人魚か、と。
 若者は、その美しい女をじっと見つめているのでした。月明かりは、あらゆるものを夢うつつに見せるものです。
「馬鹿げたことを」
 女は呆れたように言いました。そして、笠を被り直すと、くるりと身を翻し、去ってゆこうとしました。
「待ってくれ、美しい人」
 若者は、思わず後を追いました。
「そなたは、人魚なのだろう」
「あたしゃ、見たままの人間だよ。それとも何か、あんたのような貴族様には、あたしら庶民は人間にすら見えないってのかい」
 ふりかえる拍子に耳飾りが揺れ、惑わすように月の明かりを照り返しました。
「だいたい、何なんだい。鬼だ、人魚だ、物の怪だって。いい大人が童子のように」
「なあ、その耳飾りは、人魚の涙か?」
「話、聞いてた……?」
 若者を振り切ろうと足早に歩きますが、そこは小柄な女の足です。若者は気にせずについて行きます。
「何だっていいさ。綺麗だなあ。貴女によく似合っている」
「参ったねえ……だいたい、あんた、さっきあたしが斬り殺したのは、お仲間じゃないのかい」
「ああ……そういえば、すまない、貴女に気を取られて、よく見ていなくて」
「なんか、調子狂うなあ。明日は我が身、なんて、考えないのかい」
 若者はそこまで言われてようやく、目の前にいる女の正体を理解しました。
「誰かに頼まれて、殺しているのか」
「そう、貴族様からの頼まれ事となれば、いい金になるんでね」
 女は、笑みを浮かべながら、そう言いました。
「鬼なんざ皆、人の心が見せる幻さ。醜い欲や、猜疑心や、嫉妬が、毎夜毎夜、鬼だの物の怪だのに姿を変えて、あんたたちを襲っていたんだよ。人魚だか亡霊だか何だか知らないがね、結局、人を殺すのは、人の悪い心なのさ」
 その美しい殺し屋は、急ぎ都を出ようとしていました。
「人に見られちゃ、この商売もおしまいだからね。……それで、ねえ、あんたはどこまでついてくるつもりだい」
「金ならあるぞ」
「そういう話じゃないんだけどねえ」
 結局、若者は強引に女についてゆき、そのままふたりは都を離れ、旅に出てしまったのでございます。

 それきり、人魚の亡霊とやらが人を殺して回ることはなくなり、何年かして次の帝の世になりますと、いそいそと都は内陸に移されました。鬼どもも姿を消し、やがて今に続く穏やかな世が訪れたのでございます。

 ふたりがその後どこへ向かったのかは、ここでは語りますまい。
 それはまた、別のお話でございます。

<了>