ウォンマガ夏フェス2016

お題:簪 | 絵:神儺 | 文:骨平正樹

あわいの花守


あすの懐剣

 
 その者は、姫君のように美しい姿をしておりました。さらりと滑らかな長い髪、麗しいまなこ、誰もが目を惹かれるであろう端整なお顔。身に纏う高貴な衣裳、品のある仕草、そして、姫君と色違いの檜扇。よもや「姫君の血縁者」ではないかと詮索してしまいたくなるほど、その者と姫君は瓜二つの美貌、容姿を持ち合わせておりました。
 もちろん姫君と異なる点も多々あります。まず、髪の色。姫君のお美しい光沢のある黒い髪とは正反対の、しかし同じくらい美しく長い真っ白な髪でした。綺麗な睫毛も、目の色もすべて白。そして、その白い目の中心には、月を落としたかのような金色が煌々と宿っておりました。暗がりを歩けば、その髪や睫毛、月の周りを彩る白が仄かに光を放ちます。
 そう、その者は人で無し。人の身を模したもっと別の、我々の想像力をはるかに越える異形の生き物でした。この世の生き物ではありません。かといって、あの世の生き物かと聞かれたら首を傾げてしまうことでしょう。なぜならその者は、この世とあの世の狭間、生と死の揺らぎに棲みついた「あわい」の生物だったからです。
 その者の四方八方、ぐぅるりと見渡す限り、多くの睡蓮を揺らめかせる水面が広がっておりました。水中から白い光を放つ箇所が点々とありましたが、後は真っ暗。何も見えません。その者は衣服を水面に浸しながら、光の中や暗がりの中を緩やかに歩きます。
 暗闇にある睡蓮は蕾のままですが、穏やかで優しい光のともる水面では、花弁を目一杯開いた睡蓮が愛らしく咲き乱れている光景を見ることができるでしょう。ただ、中には寿命を終えて枯れている睡蓮もあります。その者が華奢な指先でそれらに触れられると、ぽたん、と水滴が一雫落ちる音を響かせて水の中に溶けてしまいます。そしてまたいつか、いつの間にか、別のどこかの水面に、新しい睡蓮の蕾が生まれるのです。その者は「あわい」に咲く睡蓮の観察と、枯れた睡蓮に触れることを日課としておりました。

 「お陸、お陸や」ある日のこと、その者は同じ空間で過ごす小さき者の名を呼びました。「今日はどこに居るのです、お陸」

「ひぃ様、ここですよ」

 ふと足元より快活な声が聞こえ、その者が視線を落とすと、水面の一箇所に不自然な漣が立っておりました。ぱちゃん。魚が水上に跳ね上がるような音と共に、そこから小麦色の肌の小さき者が顔を出します。まぁ、お陸。その者は衣裳の裾を摘んで優雅に膝を折ると、檜扇を持っていない片手を水に入れ、小さき者を掬い上げました。

「むやみやたらに水鏡に潜ってはいけないと、いつも言っているではありませんか」
「ですが、上界の空気は気持ちが良い」
「お陸」
「以後、気を付けます」
「お前は返事だけは立派ですね」

 その者が「あわい」に生まれた時、傍には誰も居りませんでした。小さき者が生まれた時は、その者が傍に居りました。その者が小さき者に、お陸、と名を授けると、では私はあなたをひぃ様と呼びましょう、と小さき者は言いました。どうしてひぃ様と呼ぶのですか。その者が尋ねれば、

「あなたのその見目、その雰囲気、上界に居る「おひぃ様」そのもの。だから私はあなたをひぃ様と呼ぶことにしたのです」

 こうして二人は互いに互いの名付け親になり、この「あわい」を共に過ごすようになりました。

「お陸。今日はひとつ、お前に任せたい事があります」
「はい、何でしょうか」
「睡蓮に祝福を与えてきてください」

 その言葉を聞いた瞬間、利発な顔つきながら幼さも残したお陸の表情がパァッと明るくなりました。ひぃ様はお陸が喜ぶ顔を見るのが好きでしたので、檜扇の陰でくすりと嬉しそうに笑います。

「良いですか。これはかの天界の珍獣、地界の重鎮、精霊の里の詠みの巫女、彷徨う特異点、死者の国の王、上界の柱の千羽龍――どなたにも気付かれてはなりません。時が来るまで、わたしとお陸だけの秘密です」

 はい、とお陸は元気良く返事しました。この前口上を聞くのは三度目になります。ひぃ様の祝福を見るが好きなお陸でしたが、まさか三度目にして自分がその役目を任されるとは露にも思っていなかったことでしょう。
 興奮冷めやらぬ様子のお陸を水上に降ろし、ひぃ様は檜扇を水面と平行に掲げます。すると扇面の上に大小様々な白色光がぽつり、ぽつりと生まれ始めました。どんどんと数を増やしていく光の粒は、隣り合った光と混ざり合い、やがて一つの大きな光の塊になります。ひぃ様が白に映える黒紅の唇からふぅと灯火を消すように息を吹くと、光は散り散りになり、あるいは蒲公英の綿毛のように、あるいは蛍の光のようにふわりふわりと空間を漂って、水面に落ちる前に消えてしまいました。
 光の塊が散った扇面上には、キラキラと淡く発光しながら浮かぶ一つの簪が残されておりました。落ち着いた色合いの飾り紐と共に、いくつもの小さな円形状の飾り、鬼灯を象った大きな飾りが清らかな音を立てて揺れ、お陸はほぅと感嘆の息をつきます。

「女の子ですか」
「驚きましたか」
「最初も、その次も男の子でしたから」
「着飾ってあげたくなる可愛らしさですよ。さぁ、お持ちなさい」

 ひぃ様が檜扇を水面近くまで下げ、お陸の前に差し出します。受け取った簪は丁度お陸の背丈と同じくらいの大きさでした。以前水鏡の中で見た、上界の道具である「提灯」を持っているような気分です。鬼灯の表面に施された小粋な柄が内側から放たれる光に照らされ、水面や睡蓮だけでなく、お陸の顔、ひぃ様の檜扇まで幻想的に彩るさまも気に入りました。ひぃ様が付けても綺麗だ、とも密かに思います。

「いつものように水鏡の声を聞いて行けば、目的の睡蓮に辿り着けるでしょう。お前はわたしより、上界の空気と同調するのが上手ですからね」
「判りました。ですが、なぜ今回は私にお任せしてくださるのですか。ひぃ様からの祝福は、ひぃ様自らすべきだと思います」

 このお陸の問いかけに対し、二度も勝手をしたので鼻の利く賢者が目を光らせているのですよ、とひぃ様は檜扇の裏で悪戯っぽく笑いました。

「お前は小さき者だから目立たないでしょう」

 華奢な指の腹で灰白色の頭を撫でられ、お陸は照れくさそうに簪を抱きしめます。

「お任せください。このお陸、必ずやひぃ様の祝福をお渡ししてきます」
「ふふ、気楽にお行きなさい。わたしは何も心配していませんよ」

 その言葉に背中を押されるように、お陸は水の上をぱちゃぱちゃと歩き始めました。少し進んでから足を止めて振り返ると、真っ白に存在するひぃ様の姿が点々と灯る光を纏いながら、暗闇の世界にぽつんと浮かんでおります。それを見たお陸は、急に緊張がこみ上げてきました。一度深呼吸し、それから元の方向に向き直って、瞼を下ろします。
 始めは瞼の裏の暗闇しか見えません。しかしお陸が呼吸を整え、意識を集中させると、次第にその暗闇に寒色の光が広がり始めました。水鏡の中に潜った時の感覚に似ており、お陸の表情も自然と和らぎます。段々と緊張が和らいでいくのを実感しながら、お陸はもう一度深呼吸をして、簪の先端をそっと水面に浸しました。その瞬間、足下の水が――上界の空気が足の裏から流れ込み、全身に浸透していく錯覚を覚えました。こうなってしまえば、もうお陸に怖いものはありません。瞼を下ろしたまま、お陸は再び歩き出します。
 ぱちゅん、ぴしゃん。お陸の裸足が水面に触れるたび、派手に水飛沫が跳ね上がりました。一つ一つは小さな飛沫ですが、それらは鬼灯の光を浴びて真珠のように輝くため、足元の睡蓮と相成って美しい光景に作り上げます。しかしお陸にそれは見えておりません。お陸は瞼の裏に浮かんできた、一人の赤ん坊に意識を傾けておりました。
 その子は、産まれたばかりの身一つで学び舎の前に放置された孤児でした。名前は育て親となった教師から授かり、生徒達からは「アスヒ」という愛称で可愛がられることになります。しかしアスヒは六歳の時、特殊な生まれであることが判明して地界の魔導師に引き取られました。九歳の時にはその魔導師が殺され、アスヒは教わった術を頼りに一年間必死に逃げ回ります。いよいよ駄目かという局面に陥った時、今度は天界の平民達が彼女を助けてくれました。
 お陸の瞼の裏に浮かぶ光景は、これからアスヒという少女が歩む人生の軌跡です。十歳、十一歳、十二歳。アスヒが経験していく日々をお陸は断続的に、大雑把に眺め続けます。十五歳。天界の剣術大会で準優勝を果たしますが、その時出会った少女にこう言われました。あなたが――。
 次の瞬間、お陸は何かが動く気配を感じ、思わず目を開けてしまいました。瞼の裏の映像は一瞬で消え、どこまでも続く暗闇と水面、たくさんの睡蓮が並ぶ見慣れた光景が戻ってきます。お陸は呼吸を潜め、眼光を鋭くして気配の正体を探りました。ここには自分とひぃ様以外、生き物が居るなどあり得ないからです。――どなたにも気付かれてはなりません。ひぃ様の言葉が頭の中に反響し、お陸の胸の辺りがドクッドクッと大きな音を立てます。

 ちり、ちり。

 近くから聞こえた微かな鈴の音に反応して、お陸は素早く片手を突き出しました。ばしゃり、ばしゃばしゃ。お陸に掴まれたそれは激しい水飛沫を上げて暴れます。「音を立ててはいけないよ。今は目立っちゃ駄目なんだ」簪を肩に乗せ、両手でそれの動きを必死に制限しようとするお陸の口調は生真面目なものでしたが、先程とは打って変わり楽しげな表情を浮かべておりました。
 それは、両端に房をつけた一本の赤い紐でした。生き物のようにクネクネとうねっておりますが、生き物ではありません。お陸はその房紐が何であるのかを知っております。ひぃ様の力が込められた不思議な紐です。束ねて長さを調整し、片手に持つと房紐も観念したとばかりにおとなしくなって、ふわっふわっと両房を空中に漂わせました。ちり、ちり。紐の中間付近にぶら下がる鈴が優しく身体を揺らしております。それを見つめながらお陸は嬉しそうに言いました。

「二本目。私の勝ちだ」

 ひぃ様は生き物を造り出すことはできませんが、無機物を作り自由に動かすことができました。お陸、こんな遊びは如何です。ずっと前、ひぃ様はそう言って悪戯っぽく笑いながら、この房紐を作りました。
 日頃より突拍子もないことを思いついてはお陸を呼び出すひぃ様。此度の祝福についてもそうです。ひぃ様の言う睡蓮への祝福は、ひぃ様の日課の流れに沿うものではありません。すべてはひぃ様の気まぐれ、閃き、青天の霹靂。ひぃ様の行動一つ一つの根拠があるのか、ないのか。突き詰めていけばとても良い暇つぶしになりそうでしたが、お陸はひぃ様の突拍子もない思いつきが好きでしたので、深く尋ねることはしませんでした。むしろ呼び出されるたび、今度は何だろう、次はどんな思いつきを披露してくれるのだろうと、胸を躍らせていたくらいです。
 ひぃ様が華奢な両掌を拝むように合わせると、そこから金色の光が溢れます。光が収まった頃合にひぃ様が両掌を離すと、三本の赤い房紐が浮かんでおりました。「今からこの三本の紐を放します。先に二本、見つけた方の勝ちです」「それは面白そうですね」お陸はこの時もすぐにひぃ様の思いつきに飛び乗りました。「ですが、ひぃ様」ぐぅるりと周りを見渡して、お陸は言います。

「ここはとても広く、あまり明かりがありません。すぐに見つかるとは思いませんが」
「すぐに見つける必要はないのですよ、お陸」

 懐から取り出した檜扇で口元を隠し、ひぃ様は笑いました。

「これはわたしとお前の運の勝負です」

 お陸が睡蓮の傍に留まっていた房紐を最初に見つけたのが、それからずっと後のこと。二本目の房紐は、一度目の祝福を行った直後にひぃ様が見つけておりました。互いの運を懸けた、本当に長い勝負の結末は今この瞬間に決したのです。お陸が宙に浮かぶ房の片方に触れると、紐は揺らめいて、ちり、ちり、と鈴の音を響かせました。

「お前をひぃ様に自慢しよう。でも、すべきことをしてからだよ。それまで大人しくしてくれるかい」

 房紐はまるで意思の通じる生き物のように、お陸の言葉に従いました。良し良し。お陸はそう呟きながら紐の表面を撫でてあげます。一度目、二度目の祝福を行った時や、水鏡の中を泳いだ時に、そうして犬や猫を愛でる光景を見たことがあったからです。しかし三度目の――アスヒの人生録では、なかなか見る機会に恵まれませんでした。どうやらアスヒは動物が苦手のようなのです。アスヒが動物を避けるから、動物を愛でる光景がなかなか出てこないのだなとお陸は思いました。
 さて。お陸は再び気持ちを落ち着けるように深呼吸してから、瞼を下ろします。ぱちゅん、ぴしゃん。水飛沫と鬼灯の光が生み出す幻想的な光景に、ちり、ちり、と優しい鈴の音が加わりました。ぱちゅん、ぴしゃん。ちり、ちり。お陸は目を瞑ったまま歩き続けます。
 やがて水中の光に照らされたとある一ヶ所に辿り着き、お陸は足を止めました。白い光に包まれて花咲かせる多くの睡蓮の中に、一つだけ、蕾のままの睡蓮があります。お陸はそっと瞼を上げ、その蕾の睡蓮を見つめました。――この子はとても困難な道を歩んでいく。ひぃ様は、きっと、そんな彼女を可哀想に思ったんだ。お陸はそう考えました。

 アスヒは二十歳に至る直前に亡くなります。その人生は決して幸せなものではなく、失うものの方が多い、悲しみと苦しみの積み重ねによって作られておりました。最期こそ笑顔を浮かべておりましたが、お陸は自分の胸にもやもやとした感情が生まれていることに気付きました。確かに前二回の祝福の時や、水鏡の中でもそれを感じたことはあります。ですが、今回のもやもやは特別に大きかったのです。お陸はひぃ様のことを「お優しい」と思っております。だから気まぐれをおこすのも無理はないと、信じて疑いませんでした。

「これから上界に咲くあなたに、ひぃ様の祝福を与えましょう」

 お陸は簪の先端を蕾の中心に向けて垂直に掲げ、その手を離しました。すると簪は支えを失っても倒れることなく、それどころか、するすると睡蓮の中に沈んでいくではありませんか。ゆっくり、ゆっくりと、音もなく蕾の睡蓮に飲み込まれていく簪に、房紐も鈴を鳴らしながら物珍しげに両端を傾けます。幻想的な風景を作り出していた鬼灯の明かりが、睡蓮の白き花弁をかわたれどき色に染め上げました。
 お陸は小さく、安心したように息をはきます。ひぃ様の祝福を、無事、アスヒに届けることができたからです。今後あの簪がアスヒの人生にどのような影響を与えるか、どのような改革をもたらすかは、お陸にもひぃ様にも判りません。水鏡が新たなる可能性の未来を映すことはなく、行く末を確認するには睡蓮が花開き、枯れるまでの一部始終を見守る必要がありました。
 一度目、二度目の祝福の際にも、同じ方法で彼らの人生の軌跡を辿りました。あの時は主導権がひぃ様にあり、お陸はもう少しだけ客観的に祝福を見守ることができましたが、今回はお陸一人きり。祝福を終えても消えない胸のもやもやに思わず眉が下がります。その頬に、房紐の片端が擦り寄ってきました。どことなく犬が飼い主を慰める仕草にも似ており、やわやわと触れてくる毛先がこそばゆくて、ふふ、とお陸は笑い声をあげます。

「そうだ。良いことを思いついた」

 次の瞬間、お陸の表情は一変。掴んでいた房紐を蕾の睡蓮の前にずいっと差し出し、明るい調子で、些か興奮気味にこう言いました。

「これは私からの祝福です。あなたに幸運があらんことを」

 房紐は、まるで事前にそうしろと指示されていたかのように、何の躊躇いもなく蕾の中央へ片端を傾けます。そこからするり、するすると――簪と同じように睡蓮の中に入っていきました。お陸の手の上を滑り、反対側の房が蕾に沈んでいくのを最後まで見送ると、今度こそお陸は晴れやかな表情を浮かべました。運任せの勝負に使われた道具、それも簪同様ひぃ様の力が込められているのですから、確実に良運を引き寄せてくれるだろうと考えたのです。
 それに、ひぃ様との勝負がついに終わってしまうということにも、お陸は多少の寂しさを感じておりました。もちろん、先に最後の一本を見つけた喜び、勝利の感動は大きなものでしたが、その結末をもう少しだけ先延ばしにしてもいいのではないかとも思ったのです。――そんな心の余裕が生まれてしまうほど、お陸はすっかり、アスヒに感情移入してしまっていたのでした。
 ふふ。お陸はもう一度小さく笑うと、身を翻して水鏡の中に飛び込みました。突拍子もないことを思いついた時のひぃ様はいつもこんな気分なのだろうか。なんて心地の良い感覚。ひぃ様に言われたわけでもなく、自らの判断でアスヒに「祝福」を送った高揚にお陸は酔いしれます。目を瞑れば瞼の裏に寒色の光が溢れ、上界で暮らす人々の、生き物のさまざまな人生録が映像となってひっきりなしに流れ込んできました。お陸は、そのがやがやとした、喧しい光景に身を委ねるのが大好きでした。


 お陸はまだ知りません。
 自分のその行いが、のちにアスヒの人生だけでなく、上界、地界、天界、存在し得るすべての世界の命運を握ることになろうとは。この時ばかりはひぃ様ですら、予測できなかったことでしょう。

 ですが、それはまた別のお話。お陸は今日も明日も、ずっと先の未来でも、アスヒの幸せを簪と房紐に願い続けるのでした。