ウォンマガ夏フェス2016

お題:簪 | 絵:ヤナギ | 文:吉川蒼

はじめまして、主殿?


追想

  「お初にお目にかかります、主殿。我はこの簪にございます。主殿の清きお心に触れて、このように姿を現した次第でございます」
 深く下げていた頭をゆっくりと上げると、愛らしい少女がまんまるな大きな目をさらにこぼれそうなくらいに見開いて固まっていた。
 今回は野で風に揺れる花のような、爽やかな黄色い光を感じて目を覚ました。そうして出会ったのがこのかわいらしい“主殿”であった。
 年の頃は五、六といったところか。鮮やかな赤の地に薬玉の柄の、一目で良いものだとわかる着物を着ている。
 彼女は手にとった簪から突然現れたこの簪の化身を興味深そうに眺めていた。
「えっと、はじめまして。あなた、このかんざしなの?」
「はい、そうです」
 胸を張って答えると、「わあ、すごい」と声を上げた。
「ねえねえ、おなまえは?」
「ありません。これまで、簪、ほおずき、もののけなどと好きに呼ばれておりました」
「そうなの?」
 うなずく簪の化身の様子を見て、彼女は首を傾げた。そのまま目を閉じてうんうんと唸りはじめる。
 簪の化身は呆気にとられつつも、その時間を利用してあたりを見回した。
 開け放たれた室内にはほんのりと熱を含んだ風が通っている。
 外を見るとちょうど庭に面しているらしく、すっとした立ち姿の青紫色の花が咲いていた。
 深く息を吸い込むと、畳の匂いに混じって日に焼けた土の匂いがする。
 耳をすませると、多くの人の声やばたばたと走り回る音が聞こえる。
 男も女も、老いも若いも、さまざまだった。
 眠っている間にどれほどの時が経ったのかはわからないが、人の世はそう大きく変わっているわけではなさそうだ。
 心のどこかで張りつめていたものが少し緩んだ気がした。
 遠いところに思いを馳せていた簪の化身は、突如聞こえた「そうだ」という明るい声に一気に意識を引き戻される。
 慌てて姿勢を正し、正面に向き直った。
「あなたのなまえは『すず』にしましょ」
 少女がにっこりと笑う。
 すず。
 その響きに胸が高鳴った。
「主殿のお心のままに」
 そうして再び深く頭を垂れる“すず”に、“主殿”は眉をしかめて口を尖らせた。
「むずかしいいいかたをしないで。よくわからないわ」
 そして、何かを思い付いたように後ろを振り返る。
「きすけー、きすけー」
 体全体から絞り出すような大声で屋敷の奥へ向かって呼ばわった。
「はい、なんでしょう。おりん様」
 奥から現れたのは主よりいくらか年上と思われる男児であった。
 どこか困ったように笑みを浮かべるその顔には、気の弱そうな感じが漂っていた。
 のんびりとした所作で近付いてくると、屈んでおりんと目線を合わせた。
 おりんは彼の目の前にずいとすずを差し出す。
「みて、あたらしいおともだち。すずっていうの。でもむずかしいことばをつかうから、きすけもいっしょにきいてちょうだい」
「すずと名をいただきました。元はこの簪にございます。よろしくお願い申し上げます、友人殿」
 そして口を開けたまま動きを止めた“友人殿”は、そのまま真後ろに倒れてしまった。


「おかしかったわよね、あの時。喜助ったら鈴を見てひっくり返っちゃうんだもの」
 縁側に腰かけて、膝の上に鈴をのせたおりんがけらけらと笑う。
 どこからか風に乗って桜の花びらがひとつふたつと舞い降りてくる。
「それはおりん様、普通手のひらにのった人間を見たら誰だって驚くでしょう」
 近くで帳簿を記入している喜助が苦いものを噛んだような顔で答える。
「そうです、友人殿。恥ずべきことではありません。我を見た者は大抵ああなるのです。主殿が特殊なのですよ」
 鈴はおりんの膝から飛び降りると、喜助に向かって大真面目に言う。
 その様子を見ておりんはさらに笑い、喜助はため息をついた。
「鈴、ありがとう」
「鈴、あなたはとっても優しいのね」
 そんなふたりの様子に、鈴は首を傾げる。おりんが愛おしそうに頭を撫でた。
 そこへ一番古い女中であるおトメがやってきた。
「おりん様、松一郎様がいらっしゃいました」
「すぐ行くわ」
 おりんは明らかに不機嫌な声で返事をすると、思いっきり伸びをした。
「あーあ、『お勤め』の時間だわ。鈴、行きましょう」
 おりんが簪を指し示すと、鈴はひとつうなずき簪へと戻っていった。
 おりんはそれを慎重な手つきで髪に挿した。 
「そんな言い方はよくありませんよ。大事な許嫁でしょう?」
 諭すような喜助の言葉に、おりんは頬を膨らませた。
「よく知らない相手とお話するのは結構大変なのよ。松一郎様ったら全然目も合わせてくれないし」
 おりんは、よいしょ、と立ち上がる。そして文机に向かって座っている喜助の真隣に立つと顔を見ないままその肩にそっと手を置いた。
「すぐに戻ってくるわ。待っていてね、喜助」
「ええ……帳簿はまだしばらくかかりそうですから」
 置いた手をぽんと弾ませると、おりんは静かに離れていった。
 鈴は簪の中から残された彼がおりんの触れたところに手を置いているのを見ていた。
 そうして、短い桜の季節が過ぎていった。


 しとしとと雨が降り続くようになった頃、暇を持て余していたおりんは鈴と喜助を相手におしゃべりをしていた。
 大事な着物を着崩さないように姿勢を正して座り、庭のほうを眺めている。
「今日は松一郎さまが来る日なのに。こんな雨では大変ね」
「そうですね。今日は特にひどいです」
 鈴は縁側に近付いて外を見ながら相槌を打った。
 おりんは何かを思い出したように口を開く。
「あの方ね、この前大福を持っていらっしゃったの。それで、『お好きなのですか』って言ったら無言で差し出すの。『くださるのですか』って聞いたらうなずくの」
 もう全然お話ししてくださらないんだから、と不満げに言う。
 喜助は筆をさらさらとすべらせながら苦笑いをし、曖昧に返事をしている。
「今日はどうなることやら」
 おりんはそう言いながらため息をついている。
「その分、主殿が楽しそうにお話しされているからいいではないですか。無口な許嫁殿も救われておりましょう」
 その鈴の言葉に喜助の筆が止まった。
「楽しそう?」
 おりんが驚いたように鈴に問うた。
「ええ」
 鈴の返事におりんは愕然とした表情になる。口に手を当てて、何かを考えているようだった。
「わたし、は」
 何かを言いかけておりんは口を噤み、喜助のほうを振り返った。
 同じように喜助も無言でおりんを見ていた。
 ふたりの視線が交わる。
「家のため、ですよ。おりん様」
 喜助が静寂を破るように言った。微笑みを浮かべてはいるが、その声にはどこか冷たい感じがあった。
「そう、ね」
 そしてお互いに視線を逸らす。鈴の位置からはふたりがどんな顔をしているのかは見えなかった。
 それなのに、なんだか胸の奥がざわざわとして嫌な感じがした。


「じゃあ、行ってくるわね。鈴」
 暑くなって額に汗が浮かぶようになっても、おりんは相変わらず溌溂として過ごしていた。
 鈴を相手に他愛のない話をして、一緒に菓子を食べて、多くの時間を共に過ごす。
 しかし時々、こうして逃げるように去っていく。
 鈴は最近になってとみに増えた行李の上に寝転んで、天井の木目を数えていた。
 遠くからおりんとその母親の楽しそうな声が聞こえてくる。何を言っているかはわからないが、おりんの透き通るような声は聞いていて心地が良い。
 鈴は目を閉じて耳をすませた。
 そのうちに別の方向から鈴に近付く足音があった。
 影を感じて目を開けると喜助の姿があった。
「ついにおまえも連れて行かれなくなったか」
 差し出された手のひらの上に鈴は飛びのった。
「我が見られてはまずい用事があるのでしょう」
「そうだな」
「我の存在をご存知なのは主殿と友人殿だけでございますから」
「そうだな」
 でも、と喜助は続ける。
「簪に戻っていればいいだけではないか」
 苦しい言い訳はばっさりと切り捨てられた。
 鈴も自覚があっただけにそれ以上は何も言えない。
 おりんは相変わらずだ。鈴を友人と呼び、楽しそうに笑いながら語りかけてくれる。
 喜助に対しても変わらない。
 ただ、自分の許嫁に関する話をしなくなっただけだ。
 ふたりの間に重たい空気が流れる。
「おりん様は、あの方と幸せになるんだろうな」
「友人殿……」
 表情の無い喜助が遠くを見つめている。
 鈴は何と声をかけるべきなのか見当もつかなかった。
「悪い、鈴。今は何も言わないでくれ」
 そうして喜助は鈴を降ろすと、どこかへ行ってしまった。
 鈴は再び行李の上にひとり残された。
 蝉の鳴き声だけが響いていた。


 秋の気配が漂うようになった頃、おりんは嫁いでいった。
 鈴を屋敷に残したまま。


 喜助はかつておりんがそうしていたように鈴を膝の上にのせて、縁側から庭を眺めていた。
 そうして横たわる鈴の頭を指先で撫でている。
 鈴はもう動くことも目を開けることさえもできなかった。これだけ主と離れてしまっては、人の姿をとることは難しい。
 冷たい風の中で草木が揺れる音がする。乾いた葉がからからと転がっていく音がする。
 あの明るい声を探しても、どこにも見つからない。
 涙がひとつこぼれ落ちた。
「裏切りではないのにな」
 絞り出すような喜助の声が聞こえる。
「おまえも置いていかれて、かわいそうに」
 喜助の言葉をさらうように強い風が吹き抜ける。
 それがおさまった時、ぽたりと手に冷たいものが触れるのを感じた。次々に降ってくる。
 鈴に触れていた指が離れていった。
 代わりに喜助のくぐもった声が聞こえる。
 それはしばらく続いていた。
「わたしは、おまえに『恋人殿』って呼ばれてみたかった」
 意識を手放す前に最後に耳に入ってきた言葉。
 その響きが鈴の記憶に焼き付いた。


 そうして再び深い闇の中に潜っていった。
 もうどこにも行きたくない。
 涙に溺れて息ができなくなってしまえばいい。
 苦しみに押しつぶされて消えてしまえばいい。
 鈴は長いこと、自分を呪ってたゆたっていた。
 それなのに、ひときわ強く輝く温かい光を感じて、思わず手を伸ばしてしまった。


「あらあら、かわいらしいお嬢さんだこと」
 瞼を上げた鈴の目の前にいたのは、銀の髪に青い瞳をもつ女性だった。
 柔らかな微笑みを浮かべる彼女の顔にはいくつもの深い皺が刻まれており、その声には彼女に降り積もった時間を思わせるような温かい響きが宿っていた。
「お初にお目にかかります……主殿。我は簪にございます。主殿のお心に触れてこうして目を覚ました次第でございます」
「まあ、はじめまして。エルゼよ、よろしくね」
 随分と難しい話し方をするのね、というエルゼの言葉に苦い記憶がよみがえる。いつかおりんに言われたことと同じだった。
「我の名は、」
 鈴、というおりんの声が鮮やかに響いた。
 途端に視界が歪み始める。
 鈴の瞳から大粒の涙がこぼれ、彼女が立っている白いテーブルの上で弾けた。
 その雫が薄いレースのカーテン越しに射し込む光を浴びて輝く。
「どうしたの? 何か辛いことがあったのかしら?」
 エルゼの優しい声に、心の奥で凝り固まったものが溶けだしていった。
「よければ話してちょうだい」
 エルゼは椅子に深く座り直す。
 それをぼんやりと眺めていた鈴は促されるままに口を開き、これまでのことを語りはじめた。
 心が生まれてから、出会ってきた主たち。
 その中でも一番大事な人。
 一生懸命に考えて名を与えてくれたひとつ前の主。
 春も、夏も、秋も、冬も、いつも一緒だった。
 ある時から歯車が少しずつ噛み合わなくなっていくように崩れていった当たり前の日常。
 そうして去っていった主。
 泣いていた友人。
 途切れ途切れに紡がれる鈴の言葉をエルゼは黙って聞いていた。
 窓の外はいつの間にか夕焼けと夜の闇を混ぜた色に染まっていた。気の早い星が顔を出している。
「あなたが主たちと過ごしてきた時間は、あなたを幸せにしないのね」
 自身の足元を見つめている鈴に、ため息交じりのエルゼの言葉が降ってきた。
「ちがうっ!」
 鈴は顔を上げて即座に否定した。
 穏やかな瞳が鈴を見つめている。その顔は否定されることをわかっていたようだった。
 鈴はふと気付く。
 考えるよりも先に否定をしていた。それこそが真実だった。
「あなたの中にあるのは悲しみだけじゃないわ」
 エルゼの言葉に、おりんの笑う顔が、声が、浮かんでくる。
 忘れていたわけでは無いのに、随分と遠くにあったように感じた。
「残念なことにね、わたしたちは見ているものしか見られないの」
「みているものしかみられない……」
 繰り返す鈴に、エルゼは微笑む。
「だから、『見たい』と思ってごらんなさい。あなたの前の主が本当はどうだったのか、その友人がどうだったのか、自分がどうだったのか、最初から最後まで自分の感情のフィルターを外して」
 鈴は難しいことを言われていると思った。どうしていいかわからなかった。
 混乱で、止まっていた涙がまた溢れてくる。
 しかし自分の中の何かが変わっていくような気がした。おりんの笑う声がずっと響き続けている。
「わたしはあなたの涙はぬぐえないわ、小さなお嬢さん。こんなよく目も見えていないおばあさんのがさがさの手ではきっと傷つけてしまうから」
 でもね、と続けた。
「わたしはあなたと話をすることはできるし、きっと一緒に笑うことはできると思うの。だからあなたと一緒にしてもいいかしら?」
 鈴は返事をする代わりにこくりとうなずいた。


 随分と変わっている。
 鈴は目覚めてからのしばらくの間を、家の中をぐるぐると見て回って過ごしていた。
 一人暮らしだから好きにしていてくれていいのよ、と言われたのもあるが、なんとなくエルゼと顔を合わせづらかった。
 とりあえず彼女の言葉を消化するための時間がほしかった。
――見ているものしか見えない。
 簡単な言い回しなのに、理解するのはひどく難しい。考えれば考えるほどに頭の中が茹って煙が出そうになる。
 そうなった時は目の前のものをぺたぺたと触って、そちらに意識を集中させるようにした。
 触ってみると、色も形も素材も何もかもが前の時と違っていることに気付く。
 特に鈴が驚いたのは透明の板が多くあることだった。それはいたるところに使われていた。
 そして今、鈴の目を引いたものも木の枠にはめこまれたその板の向こうに収まっている。
 黄ばんでところどころ破れている紙にどこかの町の風景が描かれている。
 鈴が知っている場所とどこか似ているような気がした。
「ああ、それね。彼が描いた絵なの」
 ポットとカップを持って現れたエルゼが、棚の上に立って壁の絵を見つめていた鈴に声をかける。
「彼?」
「若い時分に出会った日本の男性よ。わたしの祖国にお勉強をしに来ていたの」
 秘密を打ち明けるように笑った。
「美しいでしょう。その景色を見るためにわたしはひとりでこんな遠くまで来てしまったのよ」
 エルゼは鈴の後ろに立って、その壁にかけられた絵を眺めた。懐かしむように目を細めている。
「彼に教えてもらってから随分と時間は経ってしまったけれど、ちゃんと見に行ったのよ。一度全部焼けてしまったからかなり様子は変わってしまっていたけれど」
 そこで一旦言葉を切った。
 エルゼには珍しく躊躇しているように見えた。
「美しかったわ。そう思えた自分がひどいと思えるくらいにね」
「どういう、ことでしょうか」
 普段と違い、影が差したようなエルゼの様子に鈴は緊張した。
「一度すべてを失って、でもそこから立ち上がった人々のその強さに心を動かされたの。彼の愛した町とも違うのに。ここで彼も失われているかもしれないのに」
 鈴には彼女の言っている意味がわからなかった。しかし、エルゼが自分を責めていることだけはわかった。
「ひどい女だと思うでしょう。一度自分のすべてを捧げて愛した人がいたのに、結局は別の人と幸せになった。そして、失われた彼の町の上に新たに生まれた場所を見て、素敵だと思った。怒りや悲しみを覚えるのではなくて」
 痛みをこらえるように微笑むエルゼに、鈴は首を横に振った。
 違う、そうじゃないと叫びたかった。
 その彼がこの人を責めるとは思わなかった。
 このエルゼが選んだ人がそんな人だと思わない。
 こんなにも想われて幸せでないはずがない。
 鈴はうまく出てこない言葉のかわりにエルゼに飛びつき、抱きしめるようにその頬に触れた。
「ありがとう、鈴。あなたはとっても優しいのね。わたしのために泣いてくれて」
 鈴はふるふると首を振った。
「あなたは他人のことを思いやれる素敵な人よ。目の前の人も、過ぎた時間も大切に思ってくれる。きっと前の主もそんなあなたが大好きだったに違いないわ」
 鈴の中で何かが崩れ、何かが芽吹く音が聞こえるようだった。
 ようやくエルゼの言っていた意味がわかるような気がした。
「わたしもあなたが大好きよ。これからも一緒にいてくれるかしら」
「もちろんです、主殿。ありがとうございます」
 ありがとうございます、と繰り返す鈴の背にエルゼはそっと触れた。


 そうして鈴は彼女の時間が尽きるまで傍らに有り続けた。
 少しずつ光を失っていく彼女に寄り添い、語り、共に笑った。
――ありがとう、わたしの小さなおともだち。
 最期にそう言って彼女は旅立っていった。
 その温かい響きを胸に、鈴は再び眠りについた。


 時が巡る。
 光も、音も、何も無い世界の中で、思考だけが闇に溶けて漂っている。
 半ばまどろむような状態で、鈴はふたりの主を思い浮かべた。
 繰り返すうちに、どうしても後悔で息苦しくなることがある。
 そんな時はふたりと共に過ごし、笑っていた自分を『見る』ようにした。
 そうすると、溢れんばかりの楽しい思い出が次々とよみがえってきて、鈴の心を幸せで満たしてくれるのだった。
 ありがとう。
 そう思うたびに希望が生まれていく。
 そしてある時、次の光を掴んだ。


 久方ぶりの外の空気、目の前の驚きに満ちた顔。
 お決まりの挨拶をしようと口を開いたところで、鈴はふとあることを思い付き、微笑んだ。
「はじめまして、主殿?」