ウォンマガ夏フェス2016

お題:イヤリング | 絵:くるめ | 文:笠鷺リョーノ

月影


光月

 
 美しい人だった。
 祭壇は音のない海の底の礁のように静かで、彼女はただ無心に踊っていた。
 天を支配する灼熱の不死鳥が大地の裏側で眠りにつき、神殿の地は地平線の彼方まで無数の星々に囲まれている。
 月は無い。地はかの女神に見放され、慈悲を失った。人は飢え、飢えがため怒り、怒りがため地を均した。
 名も知らぬ、故も知らぬ、盲いた精霊(ヘムス)の娘が踊る姿を、セトは「慈悲を乞う巫女のようだ」などとのたまった。
 馬鹿馬鹿しい。
 精霊ならば女神の指先ではないか。女神ならば我等を許すものか。
 彼女は我々にこそ怒るべきであり、ならばあの舞踏は、地に縛られた己が身を掬い上げ給えと乞うているのだ。
 そうあるべきだ。罪深きものを罰し給え。罪無きものを許し給え。
 慈悲のまなざしをどうか、我が身に手向け給え。


 神殿の大地は影だ。影で出来ている。
 不透明の水晶柱で生まれた大地は向かうものをほとんど只の凹凸と見分けのつかない谷間で捕らえ、無慈悲な杭の牙でとどめを刺す。
 星を読む人々は、不死鳥が蒼天よりあまねくものを焼く白昼のうち、大地に起立する水晶柱の生み出す影に寄り添い、かの鳥の鋭いまなざしから身を護る。憐れにも大地に喰われた旅人を弔い、月が再び瞳を開く日を想って祈る。そういう人々だった。彼らでなければ、不意に人を滑らせ呑みこむ大地を歩むことなど到底叶いやしない。星読みだけがこの地を歩むに足る叡智を得、住まうに足る慈悲を受けた。
 星を読む子供だった。セトも、ラナも。セトは目が聡かった。星を読み間違えることはほとんどない。ラナは知らない名前の星がなかった。しかし目は曇っていて、よく転んだ。しかし、そうして彼の不器用が水晶柱の隙に喰われなければ、セトですらも彼女を見つけることはできなかっただろう。
 彼女は柱に囲まれた丘の一角に佇んでいた。金の髪が、いちめんに敷き詰められた真珠の上に流れ、ラナは見たことすらない「海」の姿をそこに見た。彼の頭の中には空想と呼ばれる余計な瞳が開いていて、これには不思議と曇りがなかった。海の深く、珊瑚と真珠で彩られた礁に座す、精霊(ヘムス)の娘は縫い付けられたように瞳を閉じ、セトが声をかけても耳の先を動かすばかりで答えなかった。彼女が少し振り向くと、長耳と冠に繋がれた真珠が揺れた。星が空に瞬くように。あるいは、水底で泡がもがくように。
 彼女は昼に眠り、夜に舞った。
 不死鳥のまなざしの下では浅黒く沈む彼女の肌は、夜闇の中では仄淡く輝いた。弓手が弧を描き、馬手が天を指すのと同じくして、繋がれた鎖が鳴る。差し出された足の下で踏みしめられた真珠が鳴く。それ以外には風の音さえない静寂。独壇の舞台の下、少年二人は重たいしじまの中に塗り込められた。
「なぜ踊る?」
 ラナが尋ねた。ヘムスは答えなかった。静かに首を横に振った。耳元で鎖に繋がれた真珠が跳ねた。
「空を見ないのですか?」
 セトが言った。ヘムスは首を傾げた。ラナは舌打ちをした。
「なんちゅうことを聞くんだ。月の居ない空を精霊(ヘムス)が見上げるものか。さぞ悲壮だろう」
「月なんて。君の目は老人たちと同じだ。濁っている。そんなものが本当にあると思っているのか?」
 ラナは押し黙った。誰も月を見たことがないのだ。神話の中でさえも。
 誰も祈りやしない。もはやほんとうに、罪を贖うべくして空を見上げるものなど居ないのだ。
 二人は、星明かりを受け黄金に輝く座に膝をつく娘のほうを見た。
 彼女が踊り続ける理由を誰も知らない。あるいはその存在さえもを。水晶に包まれたこの不毛の地がなぜ、神殿の大地と呼ばれたのか誰も知り得ないのと同じように。ヘムスがなぜこの場所で、柱に囲まれ、瞼の裏から天蓋を仰ぎ、繋がれた指先を差し向けるのか、その意味すらも。
 ただ美しかった。黄金を纏い、夜空に煌めく白を散らすその姿が――
「あるさ」
 それでも尚、ラナはそう答えた。ヘムスが目の前に居たから? 否、彼はずっと昔から、月が天にあることを疑った試しがなかった。何かが、例えば余りにも果てのない天蓋(カネパタル)の広さが、巡る無数の星々の時たまに隠れる奇妙な影が、あるいは太古より暦に刻まれた紋印の指し示すものが、ラナに不可思議な確信を与えていた。
「月は隠れている。神話の通り」
 聞いたセトは肩をすくめた。ヘムスは輝く座の内へ、静かに身体を横たえた。炎の鳥が目を覚まし、夜が明けると、彼女は眠りにつくのだ。


 カネパタル。天に被さる幕を意味する、かの船団につけられた銘。
 呪われた地より出でし星繋ぎの賢者、王都にて誉れて使者に任命、海洋へと乗り出す。
 求めるは証左。大地、海原、そして彼方の空が秘めたる真相。その在り処。
 神話の種明かしは禁忌だ。それは王冠から神秘を引き摺り降ろす行為に他ならない。
 故に彼らは海へ出た。王命にて、常世へ繋ぐ死出の旅へと。黄泉への使者となり、生者の身で彼岸へと向かうのだと。
 その目は曇っていた。神話に殉じるには余りにも愚かだった。頭の中に開いた瞳ばかりが爛々と獣の如く研ぎ澄まされ、思考を抑えることの叶わない者ども。かの船団へ乗り込んだ者どもの何人が冥府を信じただろう。死の恐怖と探究への昂揚を天秤に掛けただろう。
 そうして、おおかたの期待を裏切り、船は帰ってきた。白刃の如く煌めく、数多の叡智を乗せて。
 彼らの剣は、深きより得難きを掘り起し、行く手遮る石塊を砕き去る、鶴嘴を模している。


 神殿の地は都と化していた。
 不陽が故に人の集い、不毛が故に貴ばれ、不肖が故に栄えし水晶の都。
 賢者は記憶の限りに、彼女の元へ向かった。彼女にこそ伝えるべきだと考えた。そう考えることを止めることは出来なかった。
 水晶の囲う柱を抜けることは叶わなかった。剣を手に取り、崩し崩しに斬り込んだ。
 深夜だった。けれど精霊は眠っていた。金色の舞台に身を委ねて。長い髪を流して。
 かつて足元を埋めていた白珠はほとんど失われており、横たわる彼女の腕の片隅に僅か、冠に繋がれ数粒、そして耳飾。
 金に輝く鎖に繋がれた姿は、記憶の中の姿とちっとも変らなかった。
 賢者は呻いた。彼女は、繋がれているじゃあないか。かつては程とも感じなかった、鈴の音とさえ感じた鎖は見るからに、その身を半透明な鉱石の牢獄に縛り付けていた。豪奢な舞台さえ慰めに与えられた独房を思わせる。気が付かなかった、あるいは知らぬようにしていたのだろうか。
 彼はほとんど咄嗟に剣を抜き、座に踏み込んでいた。
 不意にヘムスは身体を起こした。
 そして、剣を片手に茫然と佇む賢者を見上げた。
「――――」
 息を呑んだ。彼女が瞳を開いたからだ。
 双眸から溢れだしたのは光。身を縛る黄金さえ霞むほどの輝き。眩いばかりのそれが、賢者の曇った眼を射抜いた。
 月光の如く。
「あんたは……」
 誰がその瞳を。盲などと思ったか。
 彼女は涙を流した。大粒の涙が、溢れ出した。ラナは思わず手を伸べた。指の隙間を、見たこともない月明かりの色を映した真珠が零れ落ちていく。瞬間、彼の見えざる開いた目は、この広間を埋めていた粒の正体を悟った。ラナは彼女が泣くところを見たことがなかった。此処に、この場所に、セトと二人で立ち尽くしていた頃は。
「なぜ泣く」
 ヘムスは首を横に振った。髪も鎖も、瞳の輝きに比べれば磨かれざる真鍮に等しい。けれど、耳元で揺れる珠の仄かな白だけは変わらない。おそらく永劫に。
 賢者は喉元に迫った言葉を飲み込んだ。そして剣を振りかざした。風が鳴った。
 鎖は一刀に斬り伏せられ、砕けて落ちた。
 月光は瞬いた。涙は止まらなかった。何度も首を振った。ラナの手から剣が滑り落ちた。
 身体を繋いでいた鎖の欠片を払うように、ヘムスは静かに立ち上がる。彼女は踊った。なぜ踊るのか、それを誰も知らない。もはや鳴る鎖もなかった。その瞳が手の先に向けば腕輪が抜け、胸元を見下ろせば衣装が解け、天を仰げば冠が解けた。
 星屑のように珠が舞い散るのを、ラナは跪いてただ見守ることしかできなかった。彼女は地平線を指差した。空は白んでいた。不死鳥が目覚める。彼のまなざしが今朝もまた大地を焼く。
 明けの光に包まれて、ヘムスの姿は、最後の鎖を解くように薄れ、かき消えていく。
 彼女は微笑んだ。伸べられた指先が触れることはなかった。
 夜が明ける。




 ええ。それで、おしまい。
 けれど、そう、もう一度だけ踊りましょう。
 少年たちのために。




 常世から持ち帰られた刃によって神話は崩れ去り、地より権威は失われた。
 叡智がために国賊の名を着せられたカネパタルは、珠と晶の恵みを失った神殿の大地に残された。
 彼らは戦うことを止めなかった。指図のままに虚構がため堕落するより、真実に殉ずることを選んだ。正に愚かしく。
「馬鹿馬鹿しい」
 鎧を着込んだ騎士は言った。それはかつて友の口癖だった。今や賊以外の何者でもない。そして、彼は武勇の剣で以て、賢者を刈り取りに来たのだ。
 危険な水晶柱に覆われた神殿の大地を囲んで、幾百の騎兵が軒を連ねている。それをさらに遠巻く弓兵たちが狙うのはただ一つ残った谷間。
 騎士の呼びかけに答え、賢者は姿を表した。片手に剣。稜線に燃え盛る夕日。もうじき灼熱の不死鳥が大地の裏で眠りに付き、夜が訪れる。
「あの盲信の成れの果てがこれか」
「盲信だと?」
 ラナは唸った。
「盲いてなどいない。精霊(ヘムス)は瞳を開いた。俺は間違っていなかった」
「例えそうだとしても、もう駄目だ。赦しは得られなかった。ここで終わりだ」 セトは目を伏せた。背後で弓兵が矢をつがえる。
「何が終わりだ」 剣を下段に構え、ラナは獣のように吼えた。 「天に果てなどない!」
 槍を構えた騎兵が応えて駆け出した。日が沈み、大地が影に包まれる中、ラナの姿は大群に呑み込まれ――
 ――月が目を覚ました。
 夕焼けの尾が大地を手放した瞬間、はっと覚醒するように、天が光に満たされた。
 真っ白な月光が、神殿の大地を照らし出す。降り注ぐ光に乱反射して、無秩序にも思えた水晶柱のあちこちから、意思を得たように光柱が立ち上がる。いくつもの光の塊が、かつて水晶柱が旅人を呑んだように、騎兵を貫き、盲のようにした。その様はまさに、光に立ち上がる神殿であった。
 セトは茫然とそれを見た。余りにも壮絶なそれを。
 そして、背に月を背負い、混し惑う騎兵を避け、真っ直ぐこちらへ向かってくるラナの姿を。
 誰もが瞳を焼かれた。もはやその眼差しを遮るものは何もなかった。月の逆光で影のようになったラナ、彼自身と、その目の前に立つセト以外には。
 光が地に溢れ、なにもかもが神殿の白に包まれる。
 セトが剣を構える。疾走するラナの影が迸る。
 剣戟が響いた。



 神聖歴以前、初めて世に叡智の名を知らしめたカネパタルの賢者が遺した月光譚は、寓話として知られる。
 誰が信じるというのだろう。月のない夜空など。
 しかし、神殿の大地と呼ばれた秘跡に残された、真珠めいて輝く宝粒の出自は、未だ明かされないままである。