ウォンマガ夏フェス2016

お題:ペンダント | 絵:うえちゃ | 文:七瀬 亜依香

幸せになりたかった少年


そして青年は思い出す

   何かに押されるようにして目を覚ますと、青年は汽車の中にいた。
 向かい合うように配置された、二人掛けの座席。車輪が規則正しく力強く進むが故の振動。車体の揺れに合わせて揺れるランプ。そして、今ひときわ高く鳴らされた蒸気音。
 窓の外は塗り潰されたかのような漆黒。服越しでも伝わってくるなめし革の上等な滑らかさが心地よい。青年は知らず居住まいを正していた。
『もうすぐ雲を抜けるわ』
 聞いた瞬間、甘いと感じた。視線を巡らし、その可愛らしい声の主を探す。
『視線を下げて。私たちがよく見えるように』
 言われるまま視線を下ろした青年の、向かい合う座席にちょこんと腰かけていたのは小さな小さな女の子たちだった。それぞれが色を持ち、目に華やかだ。
「……お前たちだけか? この列車にいるのは」
 喉を震わして、声を出す。たったそれだけのことなのに、随分と使ってない機械のように錆びついてかすれた響きになってしまった。
 くすくす、女の子たちは顔を見合わせて笑う。
『確かにここにはあなただけ』
『見えるのはあなただけ』
『でも壁一枚向こうにはいるわ』
『あなた以外にもいるの』
『用が無ければ見えないの』
 まるで最初から答えを用意していたかに聞こえる。示し合わせたかのように淀みなく、それぞれにさえずる女の子たちのなんと姦しいことよ。
「……つまり、他にいるってことなのか?」
『見ようとすれば』
『目を開けば』
『でもきっと見えないわ』
『あなたは切符が違うもの』
『目的が違えば見えないの』
 女の子たちの言葉はまるでなぞなぞだ。質問の意図をくみ取っているのかいないのか、青年の尽きぬ疑問は水掛け論でむしろ溢れそうだ。
 ふと、車内が青白い光に包まれる。何気なく窓の外に向けた青年の瞳は、そのまま大きく見開かれた。
『雲を抜けたのよ』
『星が降るのよ』
『でも大丈夫だわ』
『あなたには当たらないもの』
『近いけどとっても遠いもの』
 景色は上下に分かれていた。先ほど列車の中を包んでいたものより明らかに澄んだ闇の天蓋、そこへ無数に穿たれた穴は揺らめき輝く星々だ。水平線で区切られて列車の真下を覆うのは蠢く闇に踊る眩い人工灯で、その一つ一つに誰かの生活があることが絵空事のように思えてしまうほどの圧倒的な量だった。
 身を乗り出さんばかりに夜更けの街に見とれていた青年は、胸が詰まるような衝動に襟元へ手を伸ばす。そして涼やかな硬さに触れて、自分が小さなコルク瓶を首から下げていたことに気付いた。
 鈍く光を走らせる滑らかな硝子で出来た瓶の中には何も無く、ほんの少し色のついた何かの欠片が名残のように音を立てる。一体これはなんだろうと、青年は新たな疑問に首を傾げた。
 いや、これに限ったことではない。そうして青年は愕然とした。
 そもそも自分は、どうしてここにいるのだろう。どこへ向かおうとしているのだろう。自身があるべき前提として持っていて当然の答えを、青年はなにひとつ思い出せないのだ。
 ちり、と何かが脳を焼いた。
『そろそろいいかしら』
 呼びかけられて呆然と青年は振り返る。向かいの座席に立つ小さな小さな女の子たちが、砂糖菓子のような声で語り始める。
『月の姫様の住まう宮へ着く前に、記憶を戻してあげる』
『月の姫様は何よりも当事者が語る物語が好きなのよ』
『でもここは透明な人しか来れないの』
『あなたは今は何もないの』
『私たちがあなたたるものを預かっていたの』
 そして女の子たちのうちの二人が前に進み出る。スカートの裾をつまみ、揃って優雅に膝を折った。一歩前へ出された足が爪先立ちになり、鏡合わせに右と左でシルエットを作りくるくると踊り出す。

*******

 金平糖を一粒口に含んだ。がりりと噛み締める。
「結局今回も空振りだったな」
 喉を通って行った甘さを確認して、青年は隣りの少女へ話しかけた。
 見た目の歳は青年とそう変わらない。波打つ青みがかった黒髪は豊かに少女の整った顔を包み、中央で光る二つの瞳は深い藍色。夜明け前に一際濃さを増す闇の色によく似ていた。
 手にしていたスケッチブックに黒のマーカーを走らせ、少女はくるりと青年に文章を見せる。
『いいの。だいじょうぶ』
「いいっつったって、なあ……。お前だって困るだろ、早く見つからないと」
 青年の懸念に少女は、先ほどの文章をトントンと叩き笑顔を浮かべて返答とした。だからこそ青年のため息は止まらない。
「だからなあ、期限とか大丈夫なのか? 陸に上がってるのだってずっとじゃねえんだろ」
 淡い笑顔の答えが返ってくるのには、しばらくの時が必要だった。
『だいじょうぶ。こいをしたにんぎょは、けっちゃくがつくまでいられる』

 恋をした人魚姫が想いを告げられず、海の藻屑と消え果てた時代は遥か昔。今の時代の人魚は願えば誰でも陸に上がることを許されている。一日一回は水に体を浸すことを条件に、仮初の足を貰い期間限定の留学気分で、若い人魚が街を歩いていることも珍しくないそうだ。
 そうして陸の者に恋をした人魚は、心からの愛を捧げ受け取ることによって陸で一生を過ごすことが叶うという。
 実際のところ、その道を選んだ人魚はごくわずかだ。儚く散った恋の思い出を抱えて海に戻る人魚がほとんどだと聞いた。
「でもお前はまだそれどころじゃねえだろ。なんせ、相手がどこの誰かもわからねえんだし」
『こまったね』
「お前、他人事じゃねえんだぞ」
 にこにこと少女は笑う。今置かれている状況からして、その笑顔はあまりにも呑気そのものだ。
 少女も陸の者に恋をした人魚だ。けれどその相手を探し始めてそろそろ一週間、たった一度すれ違っただけだと語るその人をどう見つければいいのだろう。そろそろ青年の策も尽きていた。
『でもだいじょうぶ』
「……あ?」
『いつかはみつかる』
「……そんなのんびりでいいのか、お前」
『いいの』
 けれど少女の表情に焦りは見当たらない。青年が呆れ果てて半目で見つめようが、可愛らしい笑顔は崩れない。陸の文化に目を輝かせ、二本の脚で楽しそうに歩く少女からすればこの無期限状態は願ったり叶ったりかもしれない。そう納得してしまう自分が、青年はなんとなく嫌だった。
 けれど、心の底でそんなぬるま湯の時間に安心しているのも事実だ。困っていた少女に手を差し伸べたのは、善意だけからではないことを自覚しているから、尚更。
 金平糖を一粒口に含んだ。がりりと噛み締める。
「まあ、ほら、うん、あれだ。お前みたいな底抜けののんびり屋に付き合えるのは俺くらいしかいないだろうしな。乗りかかった舟だ最後まで付き合ってやる」
 青年はそっぽを向いて、自らに言い聞かせるように言葉を紡いだ。その背中を見つめて藍色の瞳にちらりと影を落とした少女には気づかないままに、青年は少女の隣りで助けることを選んだ。
『ありがとう』
 少しの間を置いて再び視線を戻した青年へ、少女は青年に初めて教えてもらった言葉を掲げたのだった。

******

 いつの間にか青年は立ち尽くしていた。瞼の裏に懐かしい笑顔が浮かび上がったからだ。
「どうして」
 どうして、忘れていられたのだろう。今だってこんなに鮮明に思い出せるあの表情を、あの瞳を、たかだか記憶を奪われた程度ですっかり忘却していた自分に、なんともいえない腹立たしさがこみあげてくる。
『それがあなたの記憶』
『あなたが一等大事にしていた記憶』
『でも忘れてても仕方ない』
『私たちが持っていたんだもの』
『あなたが透明になるように持ってたもの』
 小さな小さな女の子たちは、口々に囀る。笑い声が混じるその声が青年の癇に障る。
「お前ら、人を馬鹿にしてるのか」
 暗い怒気をたぎらせた眼差しに、女の子たちの嬌声も流石にぴたりと止んだ。
『馬鹿に、してる?』
『馬鹿に、していない』
『でもそう思うのも仕方ない』
『だって記憶が無いもの』
『私たちと出会った記憶が無いもの』
「……どういうことだ?」
 青年の顔に怪訝な色が浮かぶ。その途端、女の子たちの口調にまたくすくすと笑い声が混じり始める。
 ちり、と何かが脳を焼いた。一瞬見えた影はすぐに霧散してしまった。
『見せてあげる』
『思い出させてあげる』
『でも馬鹿にはしてない』
『私たちは楽しいの』
『月の宮の姫様も楽しいの』
 先ほどとは違う二人が前に進み出て、スカートの裾をつまんで優雅に膝を折った。窓から吹き付ける風が青年の髪を払い、そのリズムで二人は踊り出す。

******

『おめでとうございます。あなたは選ばれました』
 それは夜明け前の薄青に部屋が染まる時間のことだった。突然告げられた唐突な祝辞に、青年の理解が追いつくのに時間がかかったのも無理はない。
「……は?」
 ポンっと陽気な空砲が鳴って、パチパチと絶え間ない拍手。色紙の紙吹雪とテープを頭から被った青年は、もう一度言葉にならない声で呆けた。
「……は、え、は?」
 ベッドの傍らのテーブルにはいつの間にか小さな小さな影が五つ。瞬きを繰り返す間にそれはくるくると踊り出した。
『あなたは選ばれました』
『貴き月の宮の姫様に選ばれました』
『でも安心して』
『姫様の代わりに私たちが来たから大丈夫』
『目は潰れないから大丈夫』
 次々と飛び出す声は小鳥の囀りより、飴玉が転がる音に似ている。甘くどこか現実離れした高い音域。
「……選ばれたって、何に?」
 ようやく頭に引っかかったままだったテープを取り除きながら青年は呟く。自分の置かれた状況について一刻も早く説明が欲しかった。でなければ喜ぶことも拒絶することもできない。
『あなたが選ばれたのは語り部』
『物語を紡いで姫様に聞かせるお役目』
『でも大丈夫。難しいことじゃない』
『紡ぐのは見知らぬ童話ではないの』
『あなたの人生を物語として語るの』
 影は踊る。陽気に楽し気に、くすくすと途切れない笑い声を音楽にしてそのステップは止むことを知らないようだ。
「俺の、人生?」
『そう』
 挙げた疑問に答えは出た。けれどそれで全てを理解しきれるはずもない。青年の唇に次第に自嘲じみた笑みが浮かんでいく。それは見知らぬ姫様とやらに向けた嘲笑も含んだ、卑屈なものだった。
「ずいぶん物好きなこった。こんな奴の人生を聞いて何が楽しいんだか」
 不意に胸からせりあがる空気の塊が青年の喉を焼いた。つっかえながら首の管を埋め、宿主を咳き込ませながら外へ飛び出してくる。激しい応酬に、息も吸えない。
 青年はいつもこうだった。一定時間喉を使うと途端に咳き込み、それ以上の会話が出来なくなってしまう。生まれつき呼吸器官が弱く、運動もままならない。生まれてこのかた学校へ行った期間より病院のベッドで過ごした時間の方が圧倒的に多い。比べるべくもない。
 年相応の華やぎなど一切無縁のこの生活に、月の宮のお姫様はどうして語って聞かせるほどの価値を見出したのだろうか。それは疑問というより陰鬱なせせら笑いだった。
『月の宮の姫様は語り部に特別な贈り物をされます』
 咳の合間に声が落とされた。ひゅうひゅうと細く鳴る息苦しい胸を掻き抱きながら、青年は顔を上げる。
『語り部はとても名誉なこと』
『それに見合った報酬はあって当然』
『でもなんでも良いわけではないのです』
『語り部の人生がより良きものになるもの』
『物語がもっと面白くなるもの』
 いつしか影の踊りは止み、白みだした空は東の空を橙色で滲ませる。
『あなたには、これがよろしいのではないのかと月の宮の姫様は仰せです』
 ことり、と置かれたのは小さなコルク瓶。口の凹みには鎖が巻かれ、ペンダントのようになっている。白く微睡む朝を迎えたばかりの部屋に差し込む光が、瓶の表面を走っていく。
 瓶の中には色とりどりの星のような砂糖菓子が詰められている。青年はその名前を知っていた。
「金平糖?」
『それはあなたを蝕む病を抑える薬です』
 青年の目が見開かれた。
『一粒食べれば少しの間、病気を忘れられる』
『普通の人と同じように走れるようになる』
『でも食べるのを忘れたらさあ大変』
『咳と血が息を阻む体に逆戻り』
『歩くことすら厄介な体に元通り』
 青白い影たちの言葉は右から左へすり抜ける。青年の瞳はただ小瓶を捉えたまま離れない。
 特効薬は無いと聞かされた。有効な治療法は存在しないと言われた。医者でさえ衰弱を緩やかにするしかない病気だと否応なく思い知らされていた。これを天恵と呼ばずしてなんと言うのだろう。
 けれど最後の疑念が青年の手を躊躇わせていた。
「……なんで、俺に?」
 その答えはあまりにも呆気なかった。
『あなたの先に、面白そうな運命があったから』

 金平糖を一粒口に含んだ。がりりと噛み締める。そうしてこの日、青年は運命を手に取った。


*******

『あなたは金平糖を口に含んだ』
『そうして私たちの運命は交差した』
『でも永遠に重なっているわけじゃない』
『あなたは語り部、私たちは御使い』
『あなたを月の宮の姫様のもとへ連れていくのが仕事』
 小さな小さな女の子たちは、いつの間にか腰を下ろしていた。我に返った青年もつられて座する。
 しばらく互いの間に静寂が訪れる。列車が線路を通過する音と振動が満ちていく。
「……なら、俺は死んだのか?」
 青年がぽつりと呟いた。手には空っぽになったコルク瓶が握りしめられている。
「そう、だよな。薬は空っぽ、空は飛んでる。おまけに月の宮って、天国のことだろ? どう考えても俺はもう生きてる人間じゃねえよな」
 窓の外に目を向ける。闇は徐々にその色を薄めて、藍色は空気を含んでどんどん淡くなっていく。夜の終わりはもうすぐだ。
「なんだよ、それならそうと先に言ってくれたらいいのに」
 天を仰ぎ、その勢いのまま膝に立てた手で顔を覆う。鎖が揺れて微かな音を立てた。
 薬を与えられ、したことといえば呑気な人魚のあてのない恋人探し。あまりにも結果の乏しい結末に笑いが止まらない。何が語り部だろう、何が面白い運命なのだろう。結局なにひとつ実ることのない人生だったのではないか。
ちり、と何かが脳を焼いた。
「(なんだ、さっきから)」
 青年は訝しむ。さっきから記憶が戻るたびに、こうして鈍い痛みが青年を襲う。そして何かが見えるような、聞こえるような。その得体の知れないものの正体はわからない。わからないという事実が青年をより落ち着かなくさせた。
「(なんでだ、なんで俺はこんなに動揺してるんだ?)」
 青年の内なる声はどこにも届かない。

 小さな小さな女の子のうち最後の一人が、おずおずとスカートの裾を摘まんで一礼をする。
『この記憶で、月の宮の姫様へ伝える物語は完成します。どうぞ目を開けてご覧になって』
 そして女の子は踊り出す。それはまるで相手のいないワルツのようだった。

******

 瞼の裏で光が明滅する。こういうのを走馬燈と呼ぶのだろうか。
 青年の服や腕や足、ありとあらゆるものが絡め取られ身動きすらままならない。塩水が網膜を刺激して開け続けることができない。それでも沈んでいく体の底にはおどろおどろしい暗黒が手ぐすね引いて自分を待っているのが見えた。
 そうだ、自分は確か病院を抜け出したのだ。港町にあり風光明媚な地が自慢だと聞いたことのあるその場所にあって、青年にとって海は窓から見るよりよほど遠い存在だった。呼吸器の弱い体では泳ぐことは当然のことながら、潮風も必要以上当たらないほうがいいといつも奥まった場所の隔離病棟から微かに聞こえる潮騒で存在を確かめていただけだった。
 そんな自分がよりにもよってなぜこうして溺れかける羽目になっているのか。
 そうだ、思い出した。
「(やけくそだった)」
 医者から、現在の医療では施しようがないと告げられた。治る見込みのない病気に高額の治療費を出し続けるのか、親の言い争う声を聞いた。そうして気づけばここへ走ってきていた。
 どうせ治らないのなら、一度くらい海で泳いだって。
 けれど生まれてこのかた、激しい運動はおろか体育の時間すらまともにやり通せたことのない虚弱な体は、水の浮かび方すら知らなかった。我ながらなんて情けない。
 ごぼり、と空気の塊が口から溢れ出た。それが最後の命綱だったことは青年にも明白で、意識は闇へ沈み出した。
「(ああ、俺死ぬのか)」
 いっそ情けなくて笑いだしそうだ。

 こぽり、酸素が注ぎ込まれる音。力強く水中を滑る振動。そして水面の圧迫を超えた先の、空気の恩恵。
 本能的に体は空気を欲して、そのあまりの勢いに青年は思いっきり咳き込んだ。
「***?」
 柔らかな声がして、青年はなんとか身を起こす。どこもかしこも砂にまみれた自分の姿に、呆然と見下ろした。
 なぜだろう、自分は生きている。
「なんで……」
「********」
 また声がして、青年はすぐさま顔を上げる。波間に煌めいたのは、深い藍色。そして波打つ青みがかった豊かな黒髪。
 だけどそれだけだった。影を残して、おそらく命の恩人たる存在は消え去ってしまった。


 そうして今、青年はあの時と同じ色を見つけた。
「――っ! ――っ!」
 声にならない声で自分を呼び続けている。薄れゆく意識の中で、少女のどこにも怪我がないことに心の底から安堵した。
 それはほんの一瞬のことだった。横断歩道を渡る二人に突っ込んできた大型トラックを見て、気づけば青年は少女を押し飛ばしていた。少女は弾かれるように歩道へ向かい、その残像を認めた瞬間青年の体は宙高く舞い上がった。
 少女の声が聞こえる。人魚の言葉だろうそれは、人間にはわからない。わからなくてよかったと思う。下手に意味が分かってしまっていたら、きっとまともに目を見ることが出来なかっただろうから。
「(返せて、良かった)」
 あの時、助けてもらった命を返すことが出来て良かった。

******

 ちり、と何かが脳を焼く。今度は一瞬ではなかった。じりじりと熱が広がり脳の表面を泡立てていくようだ。
 何か、何か忘れている。自分は何かを思い出さなくてはならない。それが出てこないことがこんなにももどかしい。
『あなたは金平糖を使い、人魚を手助けした』
『けれど人魚を助けて、逆に命を縮めた』
『でも月の宮の姫様はお見捨てにならなかった』
『少し期限は早かったけどこうして迎えに来たの』
『あなたと人魚の話を月の宮の姫様は楽しみにしているの』
 熱は次第に瞼や鼓膜まで達し、青年の体をせっつく。見えているか、聞こえているかと。
 次第に白んできた空に、窓の外はあけぼのの光で包まれる。やがて昇る太陽が放った最初の矢が、青年の元まで届いたとき、青年の記憶は弾けた。

******

 金平糖を一粒口に含んだ。がりりと噛み締める。
「『まるで宝石のようなお菓子』なあ……」
 喫茶店を兼ねたお菓子屋で、青年はディスプレイの説明文を読んでひとりごちる。横ではきらきらした瞳で人魚の少女が色とりどりのお菓子に目移りし通しだ。
「そういえば、人魚の涙って確か宝石になるんだろ?」
 それは何気ない思い出しの言葉で、ふと浮かんだだけのこと。しかし少女の反応は顕著だった。ぴたりと動きを止め、何故か耳まで朱に染めて口を何度も開閉しだす。
「金魚みてえ」
 茶化すと、叩かれた。
 やや間を置いて、少女がスケッチブックに書いた文章は、ところどころ震えていつもより読みにくかった。
『にんぎょのなみだはしんじゅになるの。けれどほんとうにすきなあいてのためにながしたなみだは、いやしのくすりになる。それをながせるのはいっしょうにいちどだけ。ほんとうにすきなあいてだけ』
 こちらを見上げる瞳がいつもより潤んでいたように見えたのは気のせいだったのだろうか。深みを増した藍色に添えられた透明に、見とれたことを悟られないように青年はすぐさまあらぬ方向へ視線をやったのだった。

******

 コルク瓶が光り出す。朝の光に打ち抜かれた硝子の中で、それはやがて一つの玉の形と成った。
 憂いを帯びる白濁色に七色の虹が踊る。それはそれは美しい真珠だった。
『人魚の涙』
『癒しの真珠』
『飲めば命を与える』
『とても貴重なもの』
『まさかそんな』
 小さな小さな女の子たちが信じられないと口々に騒ぎ出す。青年もまた呆然とその美しい輝きに見惚れていた。
 誰が流したものかなんて、そんなのとうに解っている。
 青年はコルクを開けようとして、ふと手を止めた。そして小さな小さな女の子たちに向き直る。
「……俺がこれを飲んだら、お前たち怒られるのか?」
 小さな小さな女の子たちは、最初ぱちくりと大きな目を瞬いてお互いに顔を見合わせて、それでも次第にころころと笑い出した。
『大丈夫』
『月の宮の姫様は優しい』
『それにこんな運命見たことがない』
『それなら私たちがお知らせする』
『それで大丈夫』
 そして、小さな小さな女の子たちはぱっと背中を向け、青年が瞬きをした時にはもうどこにもいなくなっていた。



 青年は真珠を掲げて、そうして口に含んだ。舌の上ですうっと溶けて、青年はそっと目を閉じた。



 Fin.