ウォンマガ夏フェス2016

お題:カチューシャ | 絵:キョウ | 文:かざえ

ようこそ、偽りのサーカスへ


偽りの道化師

  きっと私は、逃げたいと思っていた。
 暗い闇の中に足元からずぶずぶと呑み込まれて、この世界から消えてしまいたいと思っていた。
 気が付くと、深い森の中にいた。
 記憶がない。
「ああ、この子も、心を食われてしまったのかしら」
 どこからか声が聞こえた。高らかな女性の声。
 何の話だろう。
「いらっしゃい、私のサーカスに招待してあげる。あなたが、どこかに失くした心を取り戻すまで、私たちのテントで過ごすといいわ」
 漆黒の闇に閉ざされた森の中。夜露に濡れて、一歩歩くたびに夜露に濡れた草や木の葉が肌を撫でる。そのたびに、まるで魔物に肌を舐められているような感触がする。
 ここはどこ。
 覚束ない心地で、手を伸ばすと。
 私の手をしっかりと握りしめる手があった。
 いつからそこに居たのか定かではない。急に目の前に現れたとしか言いようがない。
 夜闇の中に不意に咲いたように現れた、一人の女性。
 明かりの無い森の中だというのに、その場だけ月明かりに照らされたように、彼女の姿だけははっきりとこの目に見えていた。
 白い真珠のような肌と、均整の取れた彫刻めいた美貌、その肌の白さを一層際立たせている、深紅の唇。
 笑みの形にかたどられ、長い睫毛を瞬かせる双眸。
 彼女のその姿はあまりにも美しく、妖魔めいていた。
 それでも私が彼女に手を引かれることを拒まなかったのは、彼女が私へ向けた笑みも、紅い唇から零れてくる声音も、とても優しげだったからだ。
「お客が現れたのなら、サーカスの開幕ね」
 しっとりと夜露に濡れた空気の中に、ふわりと花の香りが漂ってきた。
 どこか懐かしい心地になる香りだった。



「また、迷子を拾ってきちゃったんだねクレア」
 テントの中で過ごしていると、男の人が話す声が聞こえた。
「今日の演目は。ナイフでもボックスでも、ブランコも全部準備しておくよ」
「イリュージョンよ。まだ真っ暗で何も見えないの。今のままじゃあの子は帰り道を見つけられないわ。自分の姿さえ見失って迷っていたのに」
一緒に話しているのは団長のようだ。
 行く当てもなく森の中でさまよっていた私を見つけて、ここへ連れてきてくれた人。
 彼女はクレアと名乗って、このサーカスの団長をしているのだと私に教えてくれた。
「あなたはきっと、とても深い悲しみを抱えているのね」
 自分の名前もどこから来たのかも何も思い出せない。そんな私へ、クレアは優しく言葉をかけてくれた。
 彼女が話すたびに、髪に付けたアクセサリーが揺れて、その煌めきに目を引かれる。
 紅い木の実のような宝石飾りと、繊細な模様を描く黒いレースをあしらったカチューシャだ。クレアの、形のよい瓜実顔を縁取って、あたかもそこにあるのが当然のようにしっくりと収まっている。
「これが、気になる?」
 私の眼差しに気づいて、クレアが微笑みかけた。
「あまり見つめすぎちゃだめよ。心を吸い取られてしまうわよ」
 どことなく、作り物めいた哀しげな笑みに見えた。
「さぁ。サーカスを開幕させましょう。あなたが、失くした心を取り戻せるように」
 テントに包まれた内側では、ゆっくりと時間が過ぎていく。
 夜の帳が降りた後、サーカスは開幕する。
 このサーカスは、偽りのサーカスなのだとクレアが言っていた。
 何が「偽り」なのか、私にはまだわからない。
 そして、私の記憶はまだ戻らない。



 サーカスが幕を開ける。
「さぁさぁ。ご覧あれ!」
 天幕の内側の空気を穿つような、高らかな声が響く。
 あのとき団長と会話していた男の人の声と似ていた。
 舞台の上で数人のピエロが踊っている。
 ピエロはコピーしたようにそっくりで、人間には見えない。作り物の人形が、見えない糸を手繰られて踊らされているように見える。
 一枚の絵画の中に閉じ込められてしまった錯覚を覚える。
 目を逸らせない。
「あれあれ、お嬢さん大丈夫? 僕たちのパフォーマンスに魅せられて、正気を失っちゃった?」
「ああそれは大変だね。現実への出口を探すための非現実だというのに、その中に閉じ込められちゃったら何の意味もない」
 茫然と舞台を眺めている私に向かって、小さなピエロが二人、傍に寄ってきて話しかけている。
 赤と青の縦縞模様の衣装を着たピエロは、顔の右は笑い顔、左は泣き顔のメイクを塗られている。また、もう一人はそっくりそのまま左右逆で対称になっていた。
 鏡写しのような二人は、くすくすと笑いながら、甲高い声で話し続けていた。
「さて、名前を失くしたお嬢さん。お嬢さんのために、今日は特別な演目をご用意したよ」
「とっておきの曲芸だよ。この世に存在しない幻を見ている気分になれるよ」
「ほらほら、そこの二人、演目にはちゃんと順番があるの。先走って進めないで」
 凛とした声が、舞台の高台の上から聞こえてきた。
 艶やかなステージ衣装に身を包んだクレアの姿がそこにあった。
 目に焼き付くような鮮明な縦縞模様と、裾がギザギザの奇抜な衣装。大胆に肌を露出した胸元には、零れんばかりの豊かな膨らみがあった。
 深紅の唇に笑みの形を浮かべれば、悪魔が作った美術品のような妖艶な美しさだ。
「貴方の哀しみの記憶がどうか癒されますように」
 女団長は、艶やかな赤い唇で囁いて、麗しく微笑んだ。
 舞台の上では、ピエロたちが踊り続けている。
「ところで、迷子のお嬢さん」
「なぜあなたが森で迷子になってしまったのか、なぜこの場所に僕たちのサーカスが存在するのか、その物語をお話してあげましょう」
 ぴょこん、と。子リスのような小動物めいた動きで飛び跳ねながら、先ほど私に話しかけてきたピエロ二人が躍り出てくる。
「音の無い森の中にはね、人の心を食べちゃう魔物が棲んでるんだって」
「きっと聞いたことがあるでしょう。夜に、一人で森に入ってはいけないよって。迷って出られなくなってしまうから」
「魔物は、深い悲しみを抱えた人間の心が大好きで、その人間の魂が空っぽになるまで喰い尽くしてしまうんだよ」
 二人のピエロが交互に口を開いて、大げさな身振り手振りを添えて、台詞を繋げていく。
 サーカスというよりもお芝居を見ている気分だった。
 舞台の上では、広い空間を活かした空中曲芸が繰り広げられていた。
「心を食われた人間は、自分が誰かも思い出せずに、顔の無い影みたいになって森の中から永遠に出られずに彷徨うしかない」
「でもね、魔物は好奇心が強くて」
「尚且つとても寂しがり屋だから」
「こうして賑やかなステージを繰り広げていたら」
「偽りの姿でふらりと覗きに現れる」
「まだ腹の中で消化しきれてない、奪ったばかりの姿を借りてね」
「さぁさぁ。お次は、華麗なナイフ投げだよ!」
 私の背後に立つ人の気配がした。
「お嬢さん、私の曲芸は非常にスリリングなので、真正面から見ていると心臓に悪い。この仮面をお貸ししましょう。これを着けて顔を隠してから眺めていてくれませんか」
 私が座る客席の側から現れたのは、燕尾服に身を包んだ長身の男性。すらりとした体躯に黒の衣装がぴったりと合っている。そして大きなシルクハットを被っていた。
 だけど衣装よりも目を引くのは、顔を覆っている仮面だ。白と黒の二色で作られた仮面で表情の全てを覆っている。
「的になってもらうのは、今宵のゲストだよ。見ていてくれたまえ」
 舞台の上に、ナイフ投げの台が運ばれてくる。
 あっと思わず声を上げそうになる。台の真ん中には、体にぴったりとした紅いドレスを着た少女。両手と胴体は平たい台に縛められていて、これからナイフ投げの的になるのだと一目瞭然だった。
 白い腕を無防備に晒している姿は、まるでマネキンのように見える。
 だけど、あの台の上につなぎ止められているのは、紛れもなく私自身の姿だった。
 生気の無いガラス玉のような眼は、瞬きをせず虚ろに見開かれている。今さっきまで華やかな曲芸の舞台を見ていたというのに、これから公開処刑が始まるのを傍観しているような気分になって、背筋が寒くなる。
 私は燕尾服の男性から手渡された仮面を、じっと掌で抑えていた。
 顔を隠していろとあの人は言った。どういう意味なのかはわからなかったけど、きっと何か良くないものがあるのだ。不可解な背筋の寒さが、私にそう告げているような気がした。
 ストン。解き放たれた銀の刃が台の上に突き刺さる音。
 違う。あの台の上にいるのは私じゃない。でも、自分の体に今にも鋭いナイフが飛んできそうな心地がして、体が震えそうになって必死で息を殺していた。
 怖い。逃げたい。
 堪えきれずにぎゅっと目を閉じると、真っ暗な森の中の光景が脳裏に浮かんできた。
 逃げたい? そうだ。私は逃げてきたんだ。この場所にきては行けないことは知っていたはずなのに。
 何も思い出せなかった自分自身の記憶が、空を裂くナイフの音とともによみがえってきた。
 なんで私はあんな場所をさまよっていたの。逃げたかったのは、一体、何から。

 次に、舞台の上に鮮烈な赤い華が咲き乱れる。
 炎が閃いていた。
「楽しんでいただけてるかしら。お次は炎のイリュージョンよ。ご覧あれ」
クレアが、両腕にしなやかな鞭を携えて、舞台の上で衣装を翻す。続けて、花弁が散るように赤い炎が次々に咲いてゆく。
 その炎の中から、四足で駆ける獣の姿が躍り出た。
 狼? いや違う、ライオンだ。
 ライオンの火の輪くぐりだ。
 華やかな紅い花のような炎が、異界への入り口のような炎の輪を躍らせる。
 紅蓮の腕を広げる炎の輪をを見つめていると、身がすくむ。目を奪われて呼吸ができなくなりそう。
「目を逸らしちゃだめよ。自分の恐怖と向き合うことができたなら。あなたは、きっと見失ったものを取り戻すことができるはず」
 クレアの声が聞こえた。
 ああ、あのライオンはきっと私だ。
 と、不思議とそんなことを思った。
「捕まえたわよ、手なずけられない猛獣を。こいつをうまく檻に入れてあげなきゃいけないの。そのためのサーカスだからね」
 閃く炎を見つめていると、頭の中にちらちらと、幻のような光景が浮かんでくる。

 ふわりと、甘い花の香りがする。
 どこかでかいだ覚えがある匂いだ。
 思い出せない。これは何だっけ。

 知らない女の子が泣いている。
 小柄で、何枚もレースを重ねた綺麗なドレスを着ている、お人形みたいな女の子だ。
 健康そうな丸い頬にほんのりと朱がさして、その頬には幾筋も涙が伝って流れている。
 零れ落ちそうなほどに大きな二つの瞳は、泣き腫らして赤くなっていた。

『どうしてお別れしなくてはならないの』
『ごめんね……』
『こんなに、こんなに愛してるのに、あなたもそうでしょう、お願い嘘は言わないで。私に、本当のことを教えて……』

 私は夢を見ているみたいだ。
 心だけが抜けだして、どこか別の世界の光景を見ている。
 確か、暗い森の中で迷子になって、夜更けにさ迷い歩いていたことまで覚えている。
 それからどうしたんだっけ。

『ごめんね』

 泣いている少女と向き合っている男性は、ただ、申し訳なさそうに小さく微笑んで、謝罪の言葉のみを繰り返す。
 指先に、少女の細く柔らかな髪の先を救い上げ、涙に濡れた頬に触れる。
 そして、彼女の前髪を優しく払って額に小さな口づけを落とした。
 流れる涙は、ずっと、止まらない。
 彼女の、ガラスが砕けるような深い悲しみが伝わってくる。

 まって。
 どこにも行かないで。

 足元が崩れて崖の下に転落するような、そんな大きな絶望感。

 いやだ。こんな夢。胸が苦しくなる。
 私が今見ている夢の、泣いている少女は誰なんだろう。

 涙が止まらなくなる。
 とても、哀しい物語……。

 いつのまにか、私の仮面は溶けて崩れていた。
 ああそうだ。炎の中に見た幻影の、あの泣いている女の子が私だ、私自身だ。
「迷子のお嬢さん、何か、思い出せたかしら」
 炎の花が咲く舞台の上で、再び、ピエロたちがジャグリングを繰り広げる曲芸が始まる。
 ぴょこんと、宙がえりを披露しながら中央に現れたのは、またあの二人組のピエロ。
「さあさあ、迷子のお嬢さん」
「ここでまた、もう少し物語の続きをお話して聞かせましょう」
 おどけた身振り手振りを添えながら、可愛らしい動きで小さなピエロたちが踊っている。
 楽し気に踊っているのに、なんだか胸が苦しくなる。
 ピエロの踊りは楽しそうに見えるけど、あの子たちは心の中が空っぽなんだと気付いてしまったからだ。
「音の無い森の魔物は見つかったかい」
「心を食われてしまったらどうなるの」
「空っぽの道化になるしかないんだよ。自分の顔も、姿形も、心も何も持たないんだもの」
「僕たちはこうして、自分で自分の顔にピエロの顔でも描いておかなければ、泣くことも笑うこともできないんだ」
「名前の無いただの道化だものねぇ」
「ねぇお嬢さん」
「ねぇお嬢さん」
 交互に口を開いて台詞を紡ぐ、ピエロたちの言葉は、詩のようで、リズムを持って響いていた。
「あなたは、自分の名前は思い出せたのかな」
「だったら帰らなきゃねえ。虚しい道化になってくるくる踊ってる場合じゃないよ」
「自分の道を取り戻せたなら、ちゃんと抜け出して前に進まないと」
「泣きたくなって、笑顔の仮面を張り付けたって、それでもそれが自分自身ならね」
 台詞を紡ぐ二人のピエロの他にも、何人も同じようなピエロたちが踊っている。宙がえりを繰り返したり、テントの高いところで綱渡りをしたり、空中ブランコを飛んでいる。
 軽やかな動きがとても綺麗だった。
 ピエロの一人が、舞台上の高台の上で仮面を取った。
 派手な道化の仮面の下から現れた顔は、これもまた同じく道化の顔。
だけど、鮮やかなメイクで彩っているのは団長クレアその人だった。今みずからステージにたって、身を翻して踊っている。
 白塗りの顔と、作り物の笑顔を描かれた道化の顔。
「やっぱりあなたは、少し私と似ているみたい。私も昔、恋人を亡くしてこの森をさまよっていたの。私を助けてくれた人がいたから、心を失わずに済んだのだけど」
 そう言ったクレアの表情は、少し寂し気に笑っていた。どんなに派手な道化の化粧を施しても、隠すことができない素顔の表情が少しだけ滲んでいるような気がした。
「今夜のショーはここまで。あまり見つめすぎちゃだめよ。心が吸い取られて、離れられなくなるわ。自分を取り戻すことができたなら、もうそれ以上の幻想は必要ないの。いらっしゃい。テントの外まで連れていってあげる。そこから先の道へは、自分でしっかり歩いてたどり着いてね」
 クレアが私微笑みかけて手を伸ばし、私の手を取った。
 ふわりと、甘い香りがした。今ここにあるはずのない、記憶の中にしかない香りだったはずなのに、不思議な気分。
「夜が明けたら、このテントは消えてしまうからね、それまでにたどりついてね、約束よ」
 言われるままに、クレアが導いた方へ歩いて、外に向かって今度は一人で歩く。

「また、迷子を拾ってきちゃったんだね。クレア」
背後から誰かが話している声が聞こえた。何度か聞いた、男性の声。確かこれはナイフ投げの人かしら。
「ええそうよ。あなたが昔、私を拾ってここへ連れてきたようにね」
 聞こえてくる声はもうすでにおぼろげで、確かではない。

 テントの外はまだ暗闇。何も見えない。
 だけど、今度は一人で歩いても怖くはないと思った。