ウォンマガ夏フェス2016

お題:カチューシャ | 絵:桐島和人 | 文:久遠

灯火


祈りの焔

  屠龍の民は古い民だ。
 民の歴史を綴る文献はほとんど残っていないが、はじまりは龍の誕生と時を同じくするというのだから、代々民の血に受け継がれる歴史は古く永い。屠龍の民は古くから、文字通り「龍殺し」と呼ばれた。いつ、誰がそう呼び始めたのか、そんなことは何ひとつ分かっておらず、同様に重要ではない。
 彼らにとって命と等しく重要なことは、龍を殺すこと。
 古から血と憎悪に穢れた、呪われた民だった。

 そこは戦場だった。否、戦場というには生温い。そこは、朱い焔の燃え上がる、地獄だった。
 大地に倒れ伏した大勢の人間の姿。ある者は片腕を失い、又ある者は首から上がない。地面に広がる濃く黒い滲みは、かつて彼らの身体を巡っていたであろう血だ。呻き声や悲鳴、事切れそうな呼吸の音が、其処彼処から聞こえて来る。鼻腔を満たすのは噎せ返りそうな血の匂い。その子供は、玻璃のような眼差しで、数刻前に起きた全てを見ていた。
「かあさま」
 子供を抱き締める母親の胸から広がる血が、じわりじわりと広がって、腕の中に強く抱き込んだ海松色の髪を赤黒く汚してゆく。子供は母親を見つめて、なぜ、と吐息で呟いた。事切れる刹那の母親の微笑みと言葉が、記憶に強く焼きついて離れなかった。
 慟哭のような絶叫の後、鳴り響いた轟音と震動が大地を激しく揺さ振った。数拍遅れて、遠くで勝利を知らせる太鼓の音が鳴り響いた。張り詰めた獣の皮を叩く音楽に、生き残った人々の歓喜と熱狂が混ざる。子供は抱かれた腕の中で、少しずつ冷たくなってゆく母親の身体に縋りついた。とうに消え去った呼吸を閉じ込めるように、強く。

  *

 鳴り響いた鋭く澄んだ高い音に、リアマははっと我に返った。無意識のうちに刃で弾いた鋼のような胴体から玻璃のような欠片が数枚剥がれ落ちてゆく。よく見ればそれは美しくも岩のように硬質な鱗だった。鱗は人間の男の掌程に大きい。咄嗟に刃を滑らせて軌道を逸らした両の腕が痺れている。それ程迄に、刃を交える一撃一撃が固く、重い。
 こんな戦の最中に白昼夢を見るとは、と、リアマは自身に嘲笑を向けた。それにしても、随分と古い夢だった。
「リアマ!」
 刃を振るうように鋭く名を呼ばれる前に、リアマは痺れた両腕に力を込めて刃を薙ぎ払った。掌に重い手応えを感じる。地の底を這うような絶叫と、鮮血の飛沫が周囲に飛び散った。
 怒りと憎悪に満ちた眼差しでこちらを睨む黄金の瞳をひたと見据えて、リアマは滑らかに刃を構えた。対峙する龍が咆哮を上げて襲いかかって来る。リアマは静かに呼吸を合わせ、寸でのところで身体を撥条のように跳ね上げ、その胴体を蹴り上げて上空に躍り出た。振り翳した刃が鈍く光る。躊躇うことなく刃を振り下ろすと、硬質な鱗を砕いて刃が突き刺さり、肉を裂き骨を断つ確かな手応えがあった。龍の動きが咄嗟に鈍った瞬間を見逃さず、幾人もの民が瞬く間に駆けつけ、各々の刃を鱗で覆われた鋼の身体に突き立てた。絶叫が周囲に轟き、大地を揺さ振る。
「彼の血は、肉は、魂は、屠る我らと共に在る。眠れ。魂の永遠は此処に」
 青年というには高く、少年というには低い声音が朗々と響き渡る。歌うように儀礼句を紡ぎ、握る刃に力を込め、肉と骨ごとその絶叫を断ち切った。視界に朱が散る。頭と胴が切り離され、重い音を立てて龍の首が地面に転がった。
 張り詰めた空気を掻き消すように、太鼓の音が鳴り渡った。人々が拳と剣を掲げて勝利を讃え喜ぶ中、今程声を発したリアマは、露を払うように刃を振るって鞘に収めた。小柄な身体を美しい装束で包み、幾重にも重ねた布で頭部と顔を覆っている。身体の線は細く、しかし華奢というわけではなく、鍛え上げた肉体のしなやかさがあった。ふと、背後から荒々しい足音が近づいて来た。
「何やってんだリアマ。腑抜けてんなよ。死ぬぞ」
 鋭く声を投げかけたのは、大柄な体躯の青年だった。腰には大振りの刀を二刀携えている。リアマと細部の異なる戦装束で身を包み、逞しい首に珊瑚が連なる首飾りを提げている。幾重にも重ねた布の上からでも、その隆々とした身体つきが見て取れた。顔を隠すように頭部に布を幾重にも巻きつけているリアマとは違い、青年は装飾の施された頭布を額に巻きつけているだけで、浅黒く精悍な顔立ちが露わになっている。大柄な青年が隣に並ぶと、小柄なリアマは更に小さく頼りなく見えた。
「スウイ」
 静かに名を呼ぶと、スウイと呼ばれた青年は眉を顰め、気怠げな仕草で小突くようにリアマの背中を押す。
「オラ、行くぞ」
 スウイに追い立てられるように、未だ勝利の歓喜と熱狂に酔う戦場を後にする。リアマはスウイを見つめ、次いで背後を見つめて小首を傾げた。
「皆は?」
「放っておけ。どうせ朝まで酒盛りだろうよ。それより、ランセン様の処に行くぞ」
 歩くスウイの歩幅は粗く広い。歩みを速めてそれに追いつきながらリアマは頷いた。
 屠龍の民は、常に生死の最中に身を置いているせいか、皆総じて気性が荒い。一方で、豪快で祭り好きという陽気な一面も持つ。今夜は夜通し龍の首をさらして酒に踊りと歌い騒ぐのだろう。不意に、目が合った瞬間の憎悪に染まる黄金の瞳を思い出し、リアマは頭部を覆う布に隠すように眼差しに憂いを滲ませた。顔を伏せていたため、隣に並ぶスウイはもちろん、周囲の誰もそれに気付くことはなかった。

  *

「ただいま戻りました」
 豪奢な館の一際立派な一室の扉の前で、リアマは静かに告げる。背後にはスウイが立ち、先程の荒々しさが嘘のように静かに控えている。明かりを落とした廊下に燭台の火が揺れている。
「入れ」
 低く、重い声音が響いた。その声音に促されるままに、リアマは薄暗い室内に足を踏み入れた。その背後に影のようにスウイが寄り添う。踏み入った室内は廊下より更に薄暗く、洋灯が頼りなげに周囲を照らしている。その洋灯の近くに大きな暖炉があり、その炎を背にして、男が椅子に腰かけていた。
 男の両の目には一閃のような傷が横に伸び、その目は固く閉じられている。男の顔の右半分には、引き攣れたような醜い跡があった。何かの痕跡を無理矢理消し去ったような、火傷にも見える醜い跡。顔の造形自体は精悍といって差し支えないが、右半分を覆う醜い傷跡がその印象を打ち消していた。
 男は暗闇でも分かるような上質な布の装束を身に着けていた。飾りはほとんどなく素っ気無い造りだが、帯や裾に何気なく施された刺繍が美しい。装束に覆い隠した身体は、戦場を退いてなお、戦場にあるべき鍛え抜かれた身体をしていた。
 リアマの父であり、屠龍の民の元族長であり、優れた先導者であり戦士であった男。名を、ランセン。
 ランセンは盲いていたが、閉じた瞼の下の鋭い眼光が二人を射抜くようだった。無意識に背を伸ばしたリアマに倣うように、スウイも息を潜めて姿勢を正した。
「報告を」
「龍の首を討ちとりました」
「喜ばしいことだ」
 光を失ったランセンの代わりに、問われるままに、リアマは事細かに戦の様子を説明してゆく。ランセンは無言でそれに耳を傾け、掌でゆったりと手招いた。リアマは静かにランセンに歩み寄り、顔を覆う布をほどいた。布の下から海松色の髪が滑り落ちる。
 幾重にも巻かれた布の下から露わになったのは、美しい少女のかんばせだった。
 陶器のように滑らかな肌に、すっと通る鼻梁、長く縁取られた睫。結われた髪は艶やかな海松色。静かに凪いだ瞳の、燃える蒼。少女から女へと変わりゆく不安定な魅力を併せ持つ容貌。
 しかし、何より印象深いのは、顔の右半分を覆う禍々しい刺青だった。呪物のようなそれは、屠龍の民の族長に代々受け継がれるものだった。
 ランセンは古い傷が幾つも刻まれた節榑立った指先で、労わるようにその刺青を撫でた。
「スウイ」
「……は」
「目が見えない私に、今見えるものを教えてくれ」
「……最近は、益々叔母君に似て」
「そうか」
 それまで空気のようにその場に佇んでいたスウイが、ランセンに問われて言葉を発した。リアマの母親はスウイの叔母だ。本来であれば元族長の妻をそのように呼ぶことは許されないが、生前、妻であるヨンアはスウイをたいそう可愛がり、本人がそう呼ぶことを望んだので、スウイは叔母が亡くなった今でも彼女のことをそう呼んでいる。
 刺青は、ランセンは父から、そして父も又先代から、絶えることなく受け継いできた民の誇りと隠し切れない激情を秘めた証だ。ランセンの顔にも、かつて同じ証が刻まれていた。両の目の視力を失って早々に前線を退き、リアマに族長の座を譲り渡す際に、証も共に受け継がれた。族長の証は受け継がれるもので、唯一でなければならない。リアマの顔の右半分にその禍々しい刺青が刻まれると同時に、ランセンの顔には引き攣れた醜い傷跡が刻まれた。
 この醜い傷跡は、屠龍の民の全てを背負い導いた勲章だ。誇ることはあれど、嘆くことなど決してない。ランセンの世継ぎは女だったが、歴代に女の族長がなかったわけではない。皆一様に証を受け継いで、族長の座を退くと同時に醜い傷跡を顔に刻んだ。しかし、いつか証を受け継ぐであろうそのかんばせは、醜い傷跡を刻むには美しすぎた。
 ランセンは世継ぎが女であることを隠し、男として鍛え育てた。リアマと名付けられた我が子は、男としての生を受け入れ、男として立ち振る舞い、激しい戦場の最中に身を置いた。ランセンを剣の師とするその腕前は凄まじく、剣術で民の中でリアマの右に出る者はいなかった。性格は冷徹で、けれど内に激情を秘めている。年月を重ね、リアマはまさに屠龍の民に相応しい族長となるべく成長した。
 リアマという名は、海を越えた遠い地で炎の意を持つ。その名は、屠龍の民の血に流れる燃え盛る激情を表している。
「屠龍の血は、肉は、魂は、燃え盛る炎。全ては龍を屠るために。誇り高き我が一族に栄光を」
 儀礼句を口にして、ランセンはリアマの頬から指を離した。リアマは長い睫で伏せていた目を開き、薄い唇を開いて答えた。
「我が全ては、屠龍の民のために」
 リアマの全ては屠龍の民のために。血も肉も魂も、己が全てを民に捧げる。この身が滅ぶのは、屠龍の民が滅ぶ時。民のために生き、民のために死にゆく身には、血の一滴すらも残らない。
 それが、屠龍の民の族長として生を受けたリアマの全てだった。

  *

 ランセンの私室を後にして、二人は長い廊下を歩いた。元族長の私室から遠ざかるにつれて、灯される燭台の数が多く、明るくなってゆく。ランセンの盲いた視界には光は必要なく、そのため彼の周辺はいつも仄暗い闇が立ち籠めていた。
 ランセンが両の目の視力を失ったのは、リアマが初めて戦場に立った日だった。
 龍の爪に抉られて両の目を失っても、ランセンはまさに屠龍の民であった。振るう太刀は羅刹、上げる咆哮は獣。その身に流れる激情の血をもって、荒れ狂う龍の首を討ち取った。
 あの戦で、リアマの母親はリアマを庇って死んだ。母親であるヨンアは剣こそ取らなかったものの、屠龍の民らしい女性だった。内に秘める激しい激情をもってランセンを愛し、リアマを愛した。ヨンアが死んでから、ランセンは早々に前線を退いた。視力を失ってもなおその威厳と剣の腕は衰えず、しかし元族長となった彼に以前のような覇気はなかった。ヨンアを失って、ランセンの内に燃え盛る屠龍の炎はゆるやかに衰えていった。
「何考えてんだ、リアマ」
 物思いに耽っていると、スウイに声をかけられた。気づけば既に自室の前に辿り着いていた。リアマが今使っている部屋は、代々屠龍の民の族長が使ってきた部屋だ。父のランセンもかつては此処で暮らしていた。扉を開けて中に入ると、予想よりも簡素な雰囲気の部屋だった。しかし、床に敷かれた絨毯には精緻な刺繍が施されており、寝具には美しい絹の織物が掛かっており、其処彼処に置かれた家具が良く見れば豪奢な造りであったりと、部屋の中に置かれた全ての価値が高いことは想像に難くなかった。
 部屋の扉を閉めて、リアマは装束を脱いだ。美しい白い装束は返り血を浴びて朱に染まっていた。布で隠すためにきつく結い上げていた髪もほどき、頭布を巻いてゆるく結い直した。普段から着ている動きやすい装束に着替えて、リアマは息を尽いた。
 リアマの身体は筋肉のしなやかな美しさがあったが、女らしい凹凸はなく、肉付きの悪い少年のようだった。男として育てられたリアマの心は既に民の命運を背負うそれだった。年を重ねるごとに多少なりとも変わってゆく身体だけが、リアマの心に追いついてこない。
 リアマが着替えている最中、スウイは当然のようにそこにいた。リアマの母親はスウイの叔母であり、リアマとスウイの血は近い。スウイがリアマに向ける感情は近しい者に向けるそれであり、リアマも又、屠龍の民に捧ぐ感情と同じものを己が民であるスウイに向けていた。
「なぁ、スウイ」
「なんだ」
「私達はこのまま、龍と殺し合ってゆくのだろうか」
 リアマが零した囁きに、スウイは怪訝そうに眉を上げた。高い山々の連なる山脈に近いこの集落は、夜になると一段と冷え込む。雪こそ降っていないものの、寒冷の冬はすぐそこだ。壁に寄りかかって、スウイは低く呟いた。
「それが屠龍の民だろうが」
 暖炉の温かな炎に照らされて、首に提げた珊瑚の飾りが赤く光る。この珊瑚の首飾りは、亡き母がスウイに初めて贈ったものだ。スウイの母親は明るく剛胆な性格で、女ながらに剣を持ち、勇ましく戦場を駆け抜ける女傑だった。彼女はリアマとスウイがまだ幼い頃に戦場で命を落とした。戦場での死は、屠龍の民にとって何より栄誉ある死だった。
 屠龍の民と龍は、長い歴史の中で絶えることなく憎しみ殺し合ってきた。赦し合うには、互いに多くの血を流し過ぎた。族長としてそれを他より深く知るリアマは、何を考えているか分からない表情で「そうだったな」と小さく頷いた。
「少し出る」
「どこへ」
「アララルの山脈へ」
「アララルへ?」
 鸚鵡返しに繰り返す声音に訝しげな色を混ぜて、スウイが問い詰めるようにリアマを見据える。アララルには古くから魔物が棲むとされる。屠龍の民にとって魔物とは龍に他ならず、従って、集落に近いとはいえ迂闊に足を踏み入れてはならない場所だった。
 陽が昇る前の空と同じ色をした瞳は、その屈強な身体つきに反して意外なほど優しい色味をしている。リアマはそれを見つめ返して、心配するなと肩を竦めた。
「お前は過保護だ」
「それが俺の役割だからな」
「お目付け役も大変だな」
「そう思うなら大人しくしていろ」
「生きている内に善処しよう」
 言いながらリアマは速やかに身支度を整えて踵を返した。背後から呆れたようなスウイの声が追いかける。
「他の奴らが酔い潰れて帰って来る前には戻れよ」
 龍を討伐した祝賀の酒盛りは夜通し行われることだろう。水のように酒を飲み浮かれ騒いだ戦士達が戻って来るのは夜もとうに更けて陽が昇る前あたりだ。彼らが集落に帰って来て、族長であるリアマがいないことに気づいたら、酔いも吹き飛んで大騒ぎするだろう。
「留守を頼む」
 スウイはそれ以上何も言わず、追い払うように掌を振った。

  *

 山脈へと続く岩の山道は険しかったが、元々屠龍の民は山の奥深い場所に集落を作って生活しているため、幼い頃から足場の悪い土地で暮らす民にとってこの程度は苦にもならない。数刻程休まず歩き続け、集落はもう随分と遠い場所にある。山脈の夜の冷え込みは冬と大差なく、吐く息は白く手足の感覚が薄れてゆく。鍛え上げた軽やかな身のこなしで岩ばかり転がる山道を登ってゆくと、やがて切り立った崖の上に辿り着いた。遠く連なる峰々は、その天辺が雲に隠れてぼんやりと白く霞んでいる。随分と標高が高いのか、崖の下は断崖になっており、吸い込まれてしまいそうな真っ黒な闇がどこまでも広がっていた。
 ふいに、澄んだ空気がさざめいた。空気の震えは水面の波紋のように瞬く間に広がり、形容し難い畏れにも似た感情が心に満ちる。遠く、地の底から凄まじい勢いで近づいて来る気配がある。リアマは瞬きすることなく覗き込んだ眼前の闇を見つめた。
 暗闇の底に現れたのは、光る二対の黄金。それを認識した次の瞬間には、滑らかな鱗に覆われた長い胴体が眼前に姿を現していた。荘厳さを纏う巨大な姿に、リアマの身体は無意識に足を引く。それを意識してぐっと堪えて、リアマはその場に留まり、人々に龍と呼ばれるそれと対峙した。
 現れた龍はリアマが今まで見たどの龍より巨大で、抗い難い荘厳な気配を纏っていた。閉ざされた口の下に潜む牙は、容易くリアマの命を奪うだろう。龍は深い黄金の瞳でリアマを見つめた。風に乗ってリアマの匂いを吸い込んだ瞬間、黄金の眼差しが苛烈さに色を変えた。抑え難い激情が黄金の瞳の中で荒れ狂う。リアマは目を伏せ、懺悔をするように深く頭を垂れた。
「私はまた、貴方の同胞を殺めました」
 静かな声音は風に乗って龍に届いた。風に混ざるのは龍の体内を巡るものと同じ、濃い血の匂い。張り詰めた空気の中、リアマと龍は互いに動かなかった。
 先に動いたのは龍だった。巨大な頭がゆっくりと動き、リアマの目の前に龍の顔が下りてきた。リアマは顔を上げて、燃える蒼い眼差しで龍の黄金の瞳を見つめた。龍は人の言葉を話すことはない。しかし、瞳は口よりも雄弁に内に秘められた感情を語る。その眼差しは人の愚かさを責め詰るようでもあり、不思議と凪いだ穏やかさを湛えてもいた。
 リアマは装束の懐から髪飾りを取り出した。繊細に編まれた月の光を通す黒い布地に、白い珠の精緻な細工、飾りとしてつけられた鬼灯の実が淡く光を灯している。リアマが手に持つそれは、母親であるヨンアの形見だった。
 ヨンアは屠龍の民として生まれ、けれど生涯その手に龍を殺す武器を手に持つことはなかった。ヨンアは幼いリアマに繰り返し言い聞かせた。龍は何より賢く美しい神聖な獣であり、人々は龍を尊び、共に歩み寄り生きてゆくべきであると。幼いリアマは母親の言葉を信じ、同時に屠龍の民の全てを背負う覚悟を決めた。屠龍の民の族長として皆を守り、前線に立って龍を討伐し、その手を血で穢した。それでも心のどこかで、亡き母の想いである龍との共存を願った。
 目の前の龍と出会ったのは、リアマが族長になった夜だった。父親から族長の証を受け継いだ顔右半分が酷い熱を持ち、意識は朦朧として、右側の感覚が麻痺したように鈍っていた。小さな身体の中に荒れ狂う激情を抱えて、リアマは新月の夜に集落を抜け出した。一人きりで集落の外に出るのは初めてだった。険しい山道を何度も転びながら歩き続けた。擦り剥いた手足には血が滲んでいた。それでも、背後から迫ってくる何か大きな運命のようなものに怯えて、リアマは歩き続けた。
 辿り着いたのは、峰々の聳え立つ山脈を見渡すことのできる崖の上だった。リアマが崖の端で足を踏み出すと、連日の雨で脆くなっていた地面の一部が崩れ落ちた。連なる岩が砕け転がり落ち、小さなリアマの身体は容易く断崖に放り出された。真っ黒な闇に吸い込まれながら、リアマは亡き母と、これから己の全てを捧げるはずだった愛すべき民を想った。
 意識を取り戻した時、リアマは頬に何かやわらかなもの感じた。両の手で触ったそれは絹のように滑らかで心地よかった。ゆるやかに風が後ろに流れていた。薄く目を開けると、眼前の遥か下に雲に連なる峰々が見えた。聳え立つそれらを見下ろしているこの場所は、いったいどこだろう。目を覚ましたリアマを、深い黄金の眼差しが見つめていた。
 リアマは戦の傷が刻まれた指先で、龍の立派な角に髪飾りをつけた。龍は出会ったあの日と変わらぬ凪いだ静かな眼差しでそれを見つめていた。リアマは龍と向かい合ったまま、静かに言葉を紡いだ。
「私達が同じ生を歩むことはないだろう。それでもいつか、私達の子供達が憎しみに殺し合うことなく、寄り添い合うことができたら。屠るためではなく、共に生きるために」
 リアマの全ては屠龍の民のものだ。腕も足も目も髪も血の一滴さえも、全ては愛すべき民のために在る。リアマは民と共に生き、民と共に死ぬ。それでも、族長としてではなく、リアマ自身としての感情が、確かに此処に在った。
「これは私と貴方が友人であった証だ」
 宿る炎は希望の灯火。決して消えることなく受け継がれてゆく、人と龍の未来を照らす光。
 リアマは男として生きることを嘆いたことはない。愛する民を守るためには、器は強い方がいい。美しい母親の髪飾りも、リアマには必要のないものだ。龍の角で輝く鬼灯の灯火は、そこに在ることが当然であるように相応しく映った。
 リアマはこれからも屠龍の民の族長として、誇り高く、戦場の最中に立ちその刃を振るうだろう。これからも両の手を血で穢して、呪いの民の名を背負って。それでもいつかと、強く祈る。
「約束しよう。人と龍が憎み殺し合うことのない未来を。その灯火となることを」
 リアマの指先が龍から離れてゆく。
 龍が身を翻すと、突風が巻き起こった。髪飾りに希望の光を灯した美しい龍が、天高く舞い上がってゆく。夜の空に消えてゆくその荘厳な姿を、リアマは燃える蒼の眼差しで見つめていた。
 胸の内に秘めた激しい激情と、人と龍の祈りの灯火を抱いて、屠龍の民の族長は祈りを込めて刃を握る。
 民のために、美しく神聖な獣のために、まだ見ぬ暁の光を、想う。