ウォンマガ夏フェス2016

お題:ペンダント | 絵:領家るる | 文:たまきこう

深海の欠片


マーガリンとうみ

   青い海を見ていた。眩くきらめく水面と、潮の香り。世界はこんなに美しいのだと、あなたが私に教えてくれた。
「このペンダントをあげよう。世界でいっとう美しい石。うみと同じ青い石」
 私は忘れることはないだろう。この海を、この夢を。
 あなたは笑う。そして、その面影は海へと溶けた。


「ラヴェンナ、前を」
 素っ気なく紡がれた言葉は鋭く耳朶を突き抜ける。よそ見をしていた自覚のあるわたしはさりげなく視線を前に向けた。目の前では女王陛下が眠りにつくために、寝台へとゆっくりと歩みを進める。白いドレスの裾が床へと流れ、歩を進めるたびに赤い絨毯の上を引きずられていく。陛下はこれから10年ほどの眠りにつく。顔を隠すように垂れたヴェールのせいで、表情を伺うことはできなかった。元より、眠気のために無表情かもしれなかったが。
 からん、と侍女が小さな鐘を鳴らす。その合図とともにさっと首を垂らす。陛下は寝台へと入り、横たわる。さらさらと衣擦れの音が耳を掠めた。しゅっと天蓋で寝台が覆い隠されると、周りに居た人々もようやく安心して息を吐いた。なんでもない、この陛下の眠りが始まる一瞬が一番緊張感に包まれる時だった。陛下が目覚める10年後までわたしたちはこの国を守る役目がある。もう少しすれば、寝台を包み込むように繭が作られる。そうすれば、陛下の本当の安眠が始まる。眠りを妨げぬように静かに部屋を後にする貴族たちの後に続きながら、わたしは布の向こうにぼんやりと見える影を見つめた。
 全ては御心のままに。


 こぽこぽと空気が漏れる。それは泡となり、上へ上へと浮き上がる。私は青い世界の中に漂っていた。懐かしい笑顔を見た気がした。待って、と呼びかける声も届かない。ふわりと浮かび上がる光が私を誘う。
 そこで、いつも目が醒める。胸の中に空いた穴だけがその存在を知らしめるようだった。


「ラヴェンナ」
 夢の中で誰かに呼ばれた気がした。しかし、すぐにそれは現実の声と重なる。
 ラヴェンナ、とその人は優しい声音でわたしを呼んでいた。聞き覚えのあるその声の主に気がつき、わたしは飛び起きる。その人の持つ、洋燈の仄かな明かりが辺りを照らしていた。
「へい」
 最後まで言い切る前に静かに、と口が塞がれる。そこに立っていたのは眠っているはずの女王陛下本人だった。わたしはその長くて白い手を掴むと声を抑えて尋ねる。
「何をしてらっしゃるんです」
 陛下は、眠りについた時と異なる侍女の格好をしていた。王宮内の文書室に隣接する作業室のソファでうたた寝をしていたわたしはゆっくり身体を起こした。陛下は、長い御髪を編みこんだものをくるくると後ろに丸めてまとめている。
「眠る前にやりたいことがあって」
 少女のように朗らかな笑顔で言い切るその口調は有無を言わせない。わたしは渋々お手伝いすることを約束したのだった。
 あらゆる種族を受け入れてきた、この国の王となる一族は純粋な長寿族の血のみを代々受け継いでいた。目覚めと眠りとを繰り返し、王は国を治めている。星女神から祝福を受けた王のみにおよそ10年ごとに訪れる眠りは抗えず、自らが作り出す繭の中で守られながら眠りにつく。1年で巡る四季とは異なる星の冬の訪れ。
 陛下の御髪で隠している耳の先が尖っていることこそが、長寿族の血を引く証だった。しかし、眠りについたはずの彼女はこうしてわたしの部屋を訪れている。
「どうやって起きていられるのです?」
 ソファを譲り渡し、木炭のストーブで沸かしたお湯で淹れた紅茶のカップを渡す。本来、仕事とその間の最低限の生活ができることに重点の置かれたこの部屋ではそれが精一杯のもてなしだった。それが分かっているのかいないのか、陛下は嬉しそうに受け取ると、冷ますように息を吹きかける。
「眠くなる前に眠くなったと告げて、眠る準備をしたの。そして、寝台からこっそり抜け出してここまで」
 わたしは頭を抱えた。陛下に対しても、何よりこのことに協力したものたちに対しても、言いたいことはたくさんある。
「それで、何をなさりたいのです?」
 普段飲んでいるものよりも質の劣る茶葉で淹れた紅茶を美味しそうに含んでいた陛下は、その問いかけに浮かない表情になる。カップを腿のあたりに落とし、視線はその中身を覗いているようだった。
「うみを、見に行きたくて」
「うみ、ですか?」
 山に囲まれ、結界を張り、なにものも寄せ付けぬように出て行かぬように作られた国。その国の女王陛下為るひとが、うみを見たいと言う。彼女は冗談でもなんでもなく、本当にうみを見に行くつもりのようだった。
「一度だけ、子どもの頃に一度だけ、見たことがあるの。あの時のことを忘れられない」
 本気であることも、言わない理由が他にもあるのだろうことは想像できた。しかし、そうだと言っても頷くことは簡単にはできない。わたし自身、女王陛下の単なる友人ではなくこの国の機構の一部であり、国を守り治めるための役割がある。
「しかし、うみとなると」
 濁した言葉の行く末を悟っているように彼女は頷いた。
「分かってるわ。今と昔は事情が違う。だから、あなたに話しているの」
 その言葉を聞いて、なぜ先に思い至らなかったのかと自らを責めたくなった。陛下とて無意味にこの話をしているわけではない。わたしの祖父の領地がこの国の一番端にあり、境界を護っていて、その土地に住むものの特権として外国トツクニへの出入りがある程度許されていることが無ければ、陛下もわたしの元へは訪れなかったはずだ。長寿族の血をひくもののみが開くことのでき、あらゆる場所へと移動できるというその扉をわたしも見たことはなかったけれど。
 わたしの表情が変わっていくのを眺めながら陛下はふわりと笑い、そして小さくごめんなさいと謝った。謝ることなんて一つもない。わたしは首を振って応えた。
「うみは、そんなに素敵なものでしたか?」
 見渡す限り水で溢れているというその場所は陛下にとってそれほどまでに心奪われるものだったのだろうか。
「言葉では言い尽くせないほどに」
 短い返答とそれを返した陛下の表情がすべてを物語っていて、わたしは小さく息を吞んだ。それほどまでに陛下を魅了するものをわたしは知らなかった。思わず足元に膝をつき、お供いたしますと頭で考えるより先に身体が動いてしまっていた。元よりわたしには陛下にご恩があって、陛下の願いをおいそれと断ることはできなかったのだけれど。
「あなたなら、そう言ってくれると信じていました」
 それまでとは異なる女王陛下の顔になったその方は神々しく微笑み、その返答を受け入れたのだった。

 以前は今よりも出入りの規制が緩かったとしても、長寿族の貴族の出の母と外国トツクニ出身の父が出会ったのは本当にただの偶然だった。星女神のお導きとも言える。そして、わたしが生まれた。長寿族と人間の血を受け継いだわたしは、この国では軽んじられてきた。
 わたしにとって幸運だったことは有力貴族である祖父に預けられて育ったことと、女王陛下と体格が似ていたことだった。祖父の元で地方政治の在り方を勉強していたわたしは、社交界デビューを果たし、女王陛下の女官ではなく、官吏としての道を歩んでいた。
「お名前はなんて?」
 初めて女王陛下と謁見を果たしたときのことは、緊張のあまり朧げながらしか思い出すことができないが、鮮明に覚えていることが少しだけある。
「ラヴェンナと申します」
 代わりに応えた祖父が、腰の辺りをそっと押し前へと押し出す。わたしはふらつきそうになりながら、陛下にお辞儀をする。顔を上げると興味深そうに此方を見つめる陛下の眼差しが飛び込んできた。そのときにはその視線の意味が分からなかったが、数日後に呼び出されたわたしはその意味を知ることになる。
「私の身代わりとなって欲しいのです」
 聞き返そうとして口を閉じた。確かに、髪の色も僅かにわたしの方が濃いとは言え似ているし、身長もほぼ同じで後ろから見たら殆ど変わらない。そして、わたしには長寿族の血を引く証である尖った耳の特徴が表れていた。他の長寿族よりも幾分か先が丸くなってはいるものの、髪で隠してしまえば隠し通せる。
「マルセンがあなたなら大丈夫だと言っていましたし、私も大丈夫だと判断しました」
 祖父の名が出たことですべてが祖父の掌の上であることを知り、ため息を吐きそうになるのを抑える。言いたいことは後ほど本人に伝えれば良いのだから。それよりも、どのような形であれ陛下のお側で働くことができるのはわたしにとっては何よりの幸せで、大変光栄なことだった。
「できることでしたら、喜んで働かせていただきます」
 女王の影となるものたちは他にも何人かいて、わたしたちは侍女であり官吏であり、そして女王だった。わたしは時折社交界に顔を出しながら、祖父の持つ都の屋敷で静かに暮らし、そして王宮内の文書室の片隅で仕事をして、呼ばれるその時を待っている。陛下はよく侍女マーガリンとして様々なことをしていたし、わたしたちはその度に女王陛下の代わりを勤めていた。
「マルセンは元気かしら」
 向かいに座るマーガリンの声に、わたしは意識を内から外へと向ける。わたしは、女王陛下の眠りを機に祖父の領地で休暇を過ごすことになっていた。その休暇にマーガリンも同行する。彼女は侍女の一人から袖口と裾に花柄の刺繍の入ったサンドレスを借り、身に纏っていた。白に近い金色の髪と深緑のドレスの色合いが目に映えた。
「数ヶ月前の手紙には恙無く、と書かれておりました」
 不意に白い指先がわたしの前に差し出される。意味が分からず怪訝そうな表情を浮かべているであろうわたしに、彼女は拗ねたように告げる。
「私はマーガリン。あなたの友人なの。もう少し軽い口調で話してくれなくては」
 善処します、と答え黙り込む。
「ラヴェンナは真面目だから、難しいかもしれないね」
 それまで、わたしたちの会話を聞いていたリシャルが笑っていた。女王の従兄弟であり、わたしの祖父の兄弟である彼は、わたしと見た目は変わらない。わたしは目を瞑り小さく息を吐くと、ゆっくりと目を開けて微笑む。
「いいえ、おじさま。何をおっしゃるの。わたしとマーガリンは女学校時代の親友よ。ねえ、そうでしょう?」
 いたずらを思いついた子供のように微笑むと、マーガリンも笑い返す。
「ええ、その通り。二人で授業を抜け出したこともあったわね。懐かしい」
 小さく笑い声を漏らすと、ついていけないと言うように肩を竦めたリシャルはふいと外へと視線を向けた。つられたように視線を移すと、もう祖父の住む城が間近に迫っていた。その城の佇まいがわたしは小さな頃から苦手だった。拒絶されているようにも、閉じ込められているようにも思える。
「相変わらず何者も寄せ付けないな、この城は」
 独り言のようにこぼれ落ちたおじさまの言葉に、心の中で頷き返す。
 城の中へと入ると馬の足並みがゆっくりになる。わたしはこのくらいの歩調が一番好きだった。窓から、石造りの一部が見える。音も喧騒も吸い込んでいきそうだった。
 石畳の凹凸に合わせて揺れる馬車の中でわたしはぼんやりとこれからのことを思う。陛下を無事にうみへと連れて行くことができるのかは全て祖父にかかっている。わたしはどちらにさだめが転がっていくのか想像することができなかった。
 鞭のしなる音が耳に届く。馬車がゆっくりと止まると、外から扉が開けられる。まずリシャルが降り立つと、すっと手を差し伸べマーガリンを降ろした。その後からわたしが続く。白い手袋越しにおじさまの手に触れる。わたしが少しよろけたところで、動じることのない力強さを感じた。
「おじょうさま、リシャルさま、お帰りなさいませ」
 声のした方に視線を向けると、城の入り口でクロウがお辞儀をしていた。執事の制服が黒く浮かんでいるようだった。彼が顔を上げると両耳の少し上に生えた角が黒い髪の合間に見える。少しねじれたその角に触れるのが幼少のわたしは大好きだった。
「ただいま、クロウ」
 彼は返事をしたわたしではなく、おじさまとわたしの間に佇むマーガリンの方を見つめていた。そして、マルセンさまがお待ちですと告げたのだった。

 おじいさまは、一見するとわたしと大して年齢が変わらないのではないかと思える外見をしている。しかし、相対してみるとやはり重ねてきた年月の差を感じるし、長寿族と人間の血が混ざるわたしとの差を感じさせる。
「お帰りなさい、ラヴェンナ、リシャル。そして、ようこそいらっしゃいました、陛下」
 おじいさまの書斎に招かれたわたしたちは初めこそ友人のマーガリンだと通そうとしたものの、おじいさまの目を見て諦めたのだった。ずっと変わらない余計な肉付きのないすらりと高い身長で、わたしたちのことを見透かすような瞳で見下ろしていた。腰ほどまである色素の薄い長い髪と、先の尖った耳。美しく優しいおじいさまのことが好きで、そして苦手だった。
「いつから気がついていて?」
 おじいさまが指し示したソファに腰掛けながらマーガリンが尋ねる。
「マーガリンという、友人と訪ねると手紙を読んだ時から」
 あら、とマーガリンは不服そうに頬を膨らませる。手紙を書かなければ良かった、とわたしは眉根を寄せた。
「思い過ごしであれば良いと思っていましたが、リシャルも同行すると言いますし間違いないかと思いました」
 隣に向かいに座るおじいさまと、その隣に座るリシャルのことをマーガリンは交互に眺める。楽しそうに笑うおじさまのその笑顔の意味を悟った気がした。
「それで、眠りについたはずの陛下がどのようなご用件でこちらまで?」
 友人のマーガリンだった彼女が侍女でも陛下でもなく、ただの少女のようにソファに腰を下ろしていた。
「うみを、見に行きたいのです」
 その言葉におじいさまが顔を強張らせるのが分かる。
「うみを見に行くことの意味をご存知ですね?」
 分かっているわ、と深く頷き陛下は項垂れる。
「近頃、夢を見ます。青い海の中で沈んでいく夢を。その青さの中でただ私は沈んでいくだけ。でも、ふと声が聞こえる時があって、唐突に引き上げられる。夢はいつもここで終わるけれど、私はその先が知りたい」
 目を閉じ、黙したまま聞いていたおじいさまが目を開ける。
「私はあなたを外へは送れません。それはこの国のために」
 瞳の中にその拒絶の色を見たわたしはそっと視線を下ろした。おじいさまの意見を変えることはできない。
「そうだと、思っていました。今は侍女でも、本来は自由に歩き回ることすらままならないですもの」
 諦めたようにこぼすマーガリンが顔を上げた。視線の先は窓の外、青く広がる空。
「好きなだけ、ここにいてくださって構いません。その間は歓待しましょう」
 ありがとう、と彼女は寂しそうに微笑む。その表情さえもうつくしいとわたしは思う。
 その日からしばらくの間、わたしたちはおじいさまの城でゆっくりとした日々を過ごした。王宮と異なり、ここでの時間はひどくゆっくり流れる。彼女はうみに行きたいと言い出すこともなく、ただ日々を過ごしていた。
 わたしはその日もマーガリンとふたり、紅茶を飲みながら本を読んでいた。わたしはミルクをたっぷり入れた紅茶が好きだった。
「なぜ、後からミルクを入れるの?」
 不意にマーガリンが尋ねた。わたしはその真意を捉え兼ねて、小首を傾げる。
「ミルクは先に入れるべきだわ。その方が美味しいのに」
 わたしはなんと答えるべきか逡巡したのち、そうですねと返した。反論するような気持ちにはなれなかった。それよりも、尋ねてみたいことがある。それがしこりのように大きくなっていく。
「本当にうみを見に行かなくても良いのですか?」
 ここへ来た理由を忘れたように笑う彼女が、毎夜うなされていることをわたしは知っていた。
「聞きたそうな顔をしてるのには気がついていたわ。そうね、きっとやり残したことがあるくらいの方がいいのかもしれないわ」
 白い首の詰まったドレスの上から胸に手を当てる。首元がレースになっているそのドレスから鎖が下がっているのが見える。眠るわたしを起こした時とは違う穏やかな表情をしていた。そろそろ、本当に彼女の眠りの時期が訪れる。
「うみに行きたいのなら、行けばいい。あなたなら、それができるのでしょう」
 開け放していた扉から顔を覗かせたのは、よく見慣れた懐かしい顔。
「おかあさま」
 わたしが歳を重ねるたびに、おかあさまに似ていく。姉妹のようだと言われていたわたしたちはもう、わたしの方が姉だと思われてもおかしくないくらいになっていた。国中を飛び回っている彼女と顔をあわせる機会は少なかったけれど、それでもわたしだけ置いていかれる寂しさにこの城に戻らなくなってから久しい。それだけの時間がわたしたちの間には流れていた。
「扉は開けられても、扉には近づけません」
 外へと通ずる扉には厳重な守りが固められていて、簡単に近づくことはできなかった。
「扉まで案内しましょう。陛下にそのつもりがあるのなら」
 おかあさま、と高い声で呼びかけそうになるのを抑え、わたしはマーガリンを見つめた。彼女は何かにぐっと耐えるような表情を浮かべ、そして再び胸元に手を当てるとお願いしますと頷いたのだった。
「星女神の加護を」
 幸運を祈る時に使われるその慣用句が聞きなれない言葉にように響く。おかあさまは、そうだと思ったと少女のように笑う。
「もう、そろそろですものね。お父さまはそういうことに疎いけれど」
 マーガリンはその言葉に耐えきれなくなったように涙を流す。その涙はまあるい透明な真珠のように輝いて白い頬を伝っていく。いっとう美しいもの。わたしは動くこともできず、その様子を見つめていた。
「すべて、分かってるんですね」
 感情のない声が落ちる。
「わたしは、この子の母親だもの」
 にんげんに恋をしたの、とおかあさまが付け加える。わたしははっとして2人を見つめた。おかあさまは部屋の中に音も立てずに入り、空いていた椅子に腰掛ける。そして何も言えずにいる陛下とわたしを見つめて微笑んだ。
「わたしたちとひとの間の時間の流れは違うからどうしても寄り添いあうのが難しい。それでもわたしは、あの人を好きになったからこそ、最後を見送ったわ」
 父の最後をわたしは知らない。おじいさまが許してくれなかったから、その日は城からでることすらできなかった。血相を変えて飛び出した母と引き止めようとする祖父の姿を今でも覚えている。十になるかならないかの頃だった。
 俯いてその話を聞くマーガリンの様子を見て、彼女もどこかで恋をしていたことを知る。今までそのような話を聞かないのが不思議なくらいに、彼女は1人だった。
「今ならお父さまが居ないから、扉に近づけます。参りましょう」
 差し出された手をマーガリンはぼんやりと見つめ、そしてその手を取った。立ち上がった彼女は前を向く人の表情をしていた。

 扉は城の中の地下にある。
「お待ちしてました」
 地下へと降りる階段の一番下でリシャルが壁に背中を預けて立っていた。扉を守っていた兵士たちを追い払ったのだろうと想像がついたし、彼にはそれができた。どうやらおかあさまは予め全ての用意を整えていたらしく、それはとても彼女らしかった。
「どうぞ、こちらへ」
 おじさまはマーガリンの手を取り部屋の前へと立たせる。時折、胸に手を当てる彼女の姿は誰でもない一人の女性のように見えた。
「開けましょう」
 リシャルは胸ポケットから親指と人差し指で鍵を引っ張り出す。白銀色に光るそれはとても繊細な細工が施されていて、鍵にレースでできた羽が付いているようだった。一度だけまじまじと見たことのあるその鍵の美しさは他には類の見ないものだと思えた。おじさまはその鍵を同じ色をした鍵穴へと差し込み、くるりと半回転させる。カチリと、何かが外れる音がした。おじさまは再び丁寧にその鍵を抜くとポケットへと仕舞う。そして、ゆっくりとその扉を開いた。その扉の向こうに、行き先を塞ぐように石造りの扉が構えていた。
「これが、外国トツクニへと続く?」
 そうだとおじさまが頷くと、マーガリンは急ぐこともなく背筋を伸ばし優雅に近づいていく。その扉は、長い間開かれていないようにどっしりと構えていた。この城の一部として存在している。
 彼女は初めからその扉が開くことを知っているかのように進み、そして鍵穴も取手もないその扉を静かに押した。力が少しも入ってないほどの軽さで。扉自らが行く道を示すように音もなく開かれていく。それと同時にマーガリンの胸元から、青い光が溢れる。その光はまるで彼女から飛び出すように浮かび上がると、誘うように扉の向こうの光へと溶け込んでいこうとする。
 その光についていこうとする彼女を私たちは追った。するりと扉を抜けた先には光が溢れている。地下の暗闇に慣れたわたしの目には、それが眩しすぎて目を細めてしまう。光に溶ける彼女の細い背中。白いドレスの裾が風にそよぐ。さくりと、砂の中を歩く感触がした。
 目が慣れると、大きな水溜りが目の前に広がっていた。見渡す限りの水と、あおさ。
「うみ?」
 振り返った彼女が小さく頷き、また前を見る。これが、マーガリンがここまで来た理由。きらきらと太陽の光が水面に反射して光り、眩しい。空とうみの境が分からなくなりそうなほど、どこまでも広がっていく美しいあおの世界。不意に、涙がこぼれそうになるのを抑える。かえりたい、と思った。どこに行こうとしているのかも分からないまま、ただ帰りたいと。
「この、うみの青さが好きなわたしに、彼がこれをくれました」
 マーガリンは首から下げていた鎖を持ち上げる。ドレスの中に隠れたその先にあるものが引っ張り出された。そこには、青く輝く石が光を放っていた。透き通ったうみの色。先ほどの光はこの石から飛び出たものだとすぐに分かる。
「その人は私に広い世界と、たくさんの知識をくれました。初めてうみを見たのも、その人に案内してもらって。そして石が教えてくれました。その人はもう、違う場所へと旅立ったと」
 ふわりと光が浮かび上がる。その光はくるりくるりとマーガリンの周りを飛び回り、そして一度彼女の中を通り過ぎたかと思うとうみの方へと飛んでいく。マーガリンは驚いたように目を丸くしていたが、待ってと光に手を伸ばす。しかし、光はその手をすり抜ける。うみに溶けていく前に微笑む男の人を見た気がした。
 リシャルはさりげなくハンケチをマーガリンへと渡し、素知らぬ顔をしてうみを眺めていた。わたしも青く輝くその光景を忘れないように眺めていた。傾き始めた太陽と独特の香りのする風が吹いていく。


 眠りそうだと言い出した彼女を抱えて、わたしとリシャルが急いで都へと戻ったのが二日前。それから、影が使う秘密の通路から彼女の寝室に忍び込んだのが昨日のことだった。寝室の中では、身代わりになっていた影である侍女が、持ち込んだ本を読みながら寝台に寝そべっていた。
「思っていたより、眠くなるのが遅くて驚きました」
 殆ど眠っている陛下に声をかけた影に、ごめんなさいと弱々しく話しかける。彼女はわたしに目配せすると、わたしが用意していたドレスに手早く着替えさせた。その手際の良さに同じことを何度もしているのではないかと思わずにはいられなかった。
動けなくなった陛下を二人がかりで寝台に寝かせる。眠りについた陛下を守るように繭の生成がはじまる。わたしたちは無事に眠りについたことを見届け、それぞれの本来の職務へと戻ったのだった。
 人間の血が流れる自分自身を好きになれなかったわたしに、マーガリンはうみに捨てる心積りだったのだと言って、青い石のペンダントをくれた。その意味を、わたしはもう知っている。