ウォンマガ夏フェス2016

お題:簪 | 絵:AKINONA | 文:井守 良

鬼灯の鍵、自由への扉


雨があがれば

   小さく狭い押入れは、幼い私にとっての秘密基地だった。今思えば、家の中にあるのだから秘密でもなんでもない、ただ物がひとつも置かれていなかっただけの押入れだ。
 けれど幼い私は、閉め切った押入れの奥は、どこか知らない景色へつながっているのだと信じてやまなかった。
 あれはまだ私が小学生だった頃の、梅雨の時期の話だ。



 雨のにおいが私は好きだ。それは幼い頃も、今でも変わらない。雨が乾いた地面や黒いアスファルトを濡らしていく時のにおいが、決していいにおいではないはずなのに、妙に惹かれてしまう。
 あの日も私は、雨のにおいを探していた。
すん、と鼻を鳴らす。
雨のにおいは、なぜか家の中に濃く漂っているようだった。特別な鼻をしている訳ではないのだが、こと雨のにおいに関しては、私の鼻はたいへんよく利く。においをたどって歩いていけば、押入れにたどり着く。私の秘密基地だ。
中へ這入る。薄暗く、空気はずいぶん湿っぽい。
――「つゆ」のせいだろうか。
と、教わったばかりの言葉を思い出す。
戸を閉めてしまえば、いよいよ秘密基地の中は真っ暗になった。いつも通りに真っ暗になるのだと、そう思っていた。
ぱたんと戸を閉めても、なぜか秘密基地の中はぼんやり明るい。どこからの光かと見回せば、遠くのほうで、光が揺れているのが見えた。
這って近づき、気がつく。蝋燭だ。蝋燭の光がゆらゆら揺れて、秘密基地を照らしていたのだ。
さらに近づこうとしたところで、ふと気がつく。この押し入れは、こんなにも広かっただろうか。遠くに蝋燭があるのが見えるほどに、大きな押し入れだったろうか。
もしかすると、私は別の世界に来てしまったのではないか。そう思うと、今まで別の景色がある光景を夢見ていた気持ちがしゅるしゅる萎んだ。
――帰れなくなるかもしれない。
不安がふくらみ始め、しかし好奇心には勝てずにさらに奥へ向かう。蝋燭の灯りが遠のき、別の蝋燭の灯りに近づいて、また遠のく。それを数度繰り返して、広い場所に出る。ようやく立てる程度に高さのある場所に出る。床一面にほおずきの撒かれた、ほの暗く、四角い部屋だった。
部屋の奥に、何か大きなものがいるのに気がつく。
 大きな生き物のようだった。いつか家族と見た、クジャクのように鮮やかな翼。頭には角が生えていて、体は、金色をしている以外は人間とそっくりだ。足は物語の挿絵にあった竜に似ている。翼の隙間からは鎖が見えていて、どうやら繋がれているらしい。
 ――宝石みたい。
と、しばらく見とれた。まだ幼かったとはいえ、こんなに綺麗なものは他にはないのではないかと、そう考えていた。
 遠くで誰かの声が聞こえて、はっとする。ここは押入れの奥なのだから、ひょっとして私を探しに家族が、大人が入ってくるかもしれない。どんなに綺麗な生き物でも、知らない生き物が家の押入れの奥にいたと知れば、きっと気味悪がるだろう。もしかすると、追い出されてしまうかもしれない。宝物を隠すような気持ちだった。
 ――またね。
そう言い置いて、私は暗いほうを目指して戻った。急いで押入れから出れば、雨のにおいはすっかり消え、窓の外は真っ青に晴れ渡っていた。



 あれから度々、私は押入れの奥を訪れる。そのうちに、雨の日にだけ押入れの奥へ行くことができるのだと、幼い私でも気がついた。あの生き物は一度たりとも動くことはなかったが、金の肌は冷たく見えて、その実温いのだと知った。大切そうに、光る鬼灯の枝を咥えていることに気がついた。鎖以外には枷もつけられていて、鍵穴はあっても鍵はないこと、翼には何本もの矢が深く刺さっていることもわかった。
鎖や枷や矢は、無理矢理に外そうとして、万が一痛がって暴れたらと考えるとどうにも怖くて、すぐに止めてしまった。
 濃い雨のにおいがした今日も、押入れの奥を訪れる。あれから一度も、枷や矢には触れていない。
 ――かわいそう。
 こんなところに閉じ込められて、枷や鎖で繋がれて。矢は、捕まえる時にでも放ったのだろうか。何も言わず、少しも動かない生き物に、時折私は話しかけた。
 ――おひさまの下なら、きらきらして、もっときれいなのに。
 翼や鱗は、太陽の下だったならより輝くことだろう。金の肌は、あたりいちめんを光で照らすことだろう。この生き物が外へでたらどんなに綺麗だろうかと考えては、生き物に伝えていた。もちろん、返事どころか頷きひとつ返ってはこない。
 そのうち想像も尽きて、膝を抱えて座り込む。薄暗さに慣れた目は、生き物が繋がれている部屋がどのようなものなのかをよく映した。
 壁も床も石でできているが、不思議と寒くはない。格子のはまった窓の外には、大雨に打たれて揺れる、草の根元が見えている。まるで地下牢だ。
――これじゃあ、ほんとうに捕まってるみたい。
と、つま先で鬼灯を転がしながら呟く。床じゅうの鬼灯を眺めているうちに、瞼が重くなっていった。



 げこ、げこ、と蛙の声で目が覚める。目覚めたばかりでまだ重い頭をゆるゆる振った。ざあざあと降っていた雨は、まどろんでいたうちに上がっていたらしい。雨のにおいも、今はほんの僅かに漂うばかりだ。
 ――あの生き物は?
 はっと気がつく。温い金の肌や、鮮やかな翼が隣から姿を消していた。それこそ羽の一枚、鱗の一欠片もなく、煙のように。鎖や錠は鍵がかかったまま、矢は的を失って床に落ちていた。窓には格子がはまったままで、あの生き物は格子の間を抜けられるほど小さくない。
 私には、あの生き物がどうしていなくなったのか、全くわからなかった。ただ、大事にしていた宝物を、知らないうちにどこかにやってしまったと思うと、残念なような悔しいような気がしてならなかった。
 意味もなく一通り部屋の中を巡って、隠れる場所もないというのに生き物の影を探す。蹴散らされた鬼灯が、床じゅうをぽんぽんと跳ねていく。隅々まで探し回って、きっともう帰ってこないのだと思った。あの生き物も、矢で射られたまま繋がれていた部屋に、戻ってこようとはしないだろう。
 かしゃん、と足になにかがぶつかった。拾い上げてみるとそれは鬼灯の枝だった。ただ、ほかの鬼灯とは違って枝は金色で、鬼灯はガラスのように固く、透けている。あの生き物がくわえていた枝だったのを思い出す。大切そうにしていたのだ、もしかしたら、取りに戻るかもしれないと、私は大事に枝を抱えた。
 また誰か、家族の声がして、私は慌てて押入れを目指した。
 雨はやはり上がっていて、雲の間からは、少し暑いくらいの日差しが差し込んでいた。



 それからまもなく梅雨が開けて、それからというもの、私は押入れの奥に入れなくなった。金の鬼灯の枝は、持ち帰って間もなく、なんの変わりもない、ただの鬼灯の枝になってしまった。
なぜあの生き物が消えてしまったのか、ほんとうのことは今でもわからない。ただ、あの年の梅雨明けに見た虹が宝石のように綺麗だったから、私は、あの美しい生き物は虹だったのではないかと、そう思っている。