ウォンマガ夏フェス2016

お題:イヤリング | 絵:SEI | 文:霜軌亜爛

彼と彼女の月下の踊り


陸と海の交わる場所

   昨晩のことは夢だったのだろう。
 ドクはそう思いながらも頭を振った。ずれてしまった眼鏡を直し、また虚空へ思いを馳せる。
 煌びやかなオレンジのランプ、その中で繰り広げられるひとつの幻想奇譚。
 ドワーフの集落にその者達が現れたのは二日前のことだった。移動サーカスだとビラが配られ、華やかに着飾った可愛らしい少女達にドワーフ達は夢中になった。しかし彼らが本当に魅了されたのはサーカスに赴いたあとだった。その技術、演出、演者の本気、その全てがドワーフ達の眼を奪った。そしてドクも…………
 惚けた溜め息が漏れる。
(綺麗だったな……)
 翻る衣装に輝く金の刺繍、そして彼女の笑顔。
 空想上の彼女はドクに向かって手を振り、思わず現実世界で振り返してしまった。それを見ていた同僚の一人が思わず噴き出す。
「ドクぅ、あの踊り子ちゃんに惚れちゃったか?」
 笑いながら肩を組まれ、ドクは幻想から解き放たれた。慌てて首を横に振るとさらに笑いを誘った。
「お前分かりやすいよな。ちなみに俺はどちらかと言えばセイレーンよりエルフの方がタイプだった」
「お前のタイプなんて誰もきいてねェよ。あ、これ、新しい仕事ね。よろしくー」
 そう言って上司は、背の高いいかにもグラマラスだったエルフをタイプだと言ったすけべ同僚を引っ張っていった。
 ドクの元には一枚の紙のみが残る。そこには新しく作る細工の設計資料が載っていた。眼鏡をかけ直し、その図面を指先でなぞる。ドクは指先も腕もドワーフ特有の太いモノであったが、力仕事よりかは、こういった細かい作業の方を得意としていた。
「……って明日!?」
 納期のところを見て震える。多分、別な奴が出来るだろうとタカを括って着手していたのだろう。
(ごめんなさい……)
 頭を抱えながら、胸中で呟く。もう一度あの幻想の中へ……彼が惚れた『セイレーン』に会いに行こうと考えていたがその計画は見事に崩れ落ちた。
 溜め息を吐きながら、必要な部品を引き出しから取り出す。とにかくやるしかないとドクはセイレーンの声援を妄想しながら手を動かし始めた。



「疲れた……」
 細工を一日で、とは慣れているドクでも疲れるものである。仕事を回してきた奴が恨めしい。彼が出来たか、またはさっさと仕事を回せばセイレーンの舞をもう一度見られたのだ。
 移動サーカスは一定の期間しかいない。それも去ってしまえば次はいつ来るのか、といったところだ。一生戻ってこないと考えていた方が気持ちは穏やかだろう。だからこそドクはもう一度だけでも彼女の姿を脳裏に焼き付けたかった。
 初めて女性に目を奪われた。
 楽器の演奏はなかった。始まりは彼女の透き通った歌声。それとともに彼女、セイレーンは舞台上に現れた。歌声を響かせながら一人舞踊る。
 セイレーンは歌声を使って男を魅了して食べてしまう、とまで言われていたが、本当に食われるのとは思ってもみなかった。それほどまでにドクの心は彼女に囚われていた。
 だからこそ、その音にも気づけたのかもしれない。
「ん?」
 細くとも芯のある歌声が風に乗ってドクの鼓膜を震わせる。こんな綺麗な歌声はあの時以外聞いたことがない。
 足が自然と石造りの階段に掛かる。疲れているはずなのに一気に駆け上がると、空中庭園にその者はいた。縁に腰掛け、脚を空中でぶらつかせて歌っている。
 その姿は美しくとも、儚かった。
 歌声が淡々と空中庭園に響いている。
 ドクはそっと彼女の顔を覗こうとして身を動かす。と、転がった小石を蹴ってしまった。乾いた音が彼女の歌声を遮って響く。
 セイレーンが反射のようにドクの方を向いた。その瞳は見開かれ、いつも扱う鉱石の輝きを湛えていた。
「あ、と……えっと」
 しどろもどろになり、ドクは足元に目線を落とした。見つめられると彼女の神聖さが突き刺さり、自分は近づいては行けない存在なのだと痛感する。しかし憧れの人から離れがたい気持ちもあった。セイレーンと一対一で会うことなどもう二度とないだろう。
 両手を握りしめる。
 下心が全くないといったら嘘になるが、それよりも気になったことがあった。言葉が唇からするりとこぼれる。
「大丈夫ですか?」
「え?」
「あ……えっと、その、泣いているように見えて」
 縁に座る彼女はとても儚げで、哀愁も相まって夜景に溶けていってしまいそうだった。
 セイレーンは街並みへと目線を移す。色とりどりのカンテラの光がその瞳に映り込んだ。
「大丈夫、泣いてないわ」
「ですよね……」
「私が泣くなんてほとんどありえないもの」
「えっ?」
「私は運がいいのよ。だからあまり自分を不幸だと嘆いたことがないの。泣くとしたら」
 セイレーンの指がしなやかに動き、真っ直ぐ夜景を指差す。
「こんなに綺麗な風景に感動した時かしら」
「綺麗……?」
 ドクは思わず首を傾げてしまう。確かにカンテラの灯りは綺麗かもしれないが、セイレーンの方が美しい。
 人と風景、醜美を比較できないもの同士を天秤に掛けるのもおかしいかもしれないが、夜景が見慣れてしまったドクにとっては美しいのはセイレーンだと断言できた。しかし同時に彼女のその美しい心に共感できない自分を憐れんだ。
「綺麗、なんですね」
「うん。陸の世界はどれも綺麗。本当、海の世界から出てきてよかった」
 セイレーンはそう言いながら自身の脚を指先で撫でる。タイツを履いていたが、よくよく見ればその脚は歩くための形をしていても、その表面に鱗を有しているようだった。
 彼女の脚をまじまじと見つめてしまった事実に、ドクは思わず自身の頬を叩く。その乾いた音にセイレーンは肩をびくつかせた。
「わ、あ、あの思わず……」
 貴方の姿に見惚れて、鼻先を伸ばしてしまい……
 そこまでは言えない。変態のレッテルはさすがに避けたい。彼女にこの時間を忘れられたとしても、それでも悪いものにはしたくなった。
 セイレーンはおろおろとドクの頬を見つめていたが、彼が苦笑を浮かべるとつられたのか微かに吹き出した。口に手の甲を添えて肩を震わせる姿も可愛い。
「貴方はやっぱり優しそうな人」
「そう……ですか?」
 好きな人と一緒にいられて有頂天になっているだけの男ですよ。
 それでもセイレーンに好かれていると分かると素直に喜べた。今だったら空中庭園からの風景も一段と輝いて見えるだろう。
 夜景を望むと、少しばかり光が優しいものに見えた。いつもの風景とは違う煌めきが辺りを包んでいる。きっと彼女が見ているのはこういう世界なのだろう。
「優しいのはセイレーンさんの方だと思いますよ」
「セルビアでいいわ」
「え?」
「セルビア、私の名前。そう呼んで欲しいな」
 嗚呼、今日が人生で一番の幸福な日だ。
 舌に彼女の名を乗せる。こんな時に謙遜しては勿体ない。幸福はありがたく頂こう。
「セルビアさん」
「うん。やっぱりそっちの方がいい」
 彼女の眼が細められ、頬は暗闇でも赤くなっていることが分かる。その笑顔にドクの顔は破綻した。
「おれ、こんなに幸せでいいんでしょうか……」
「いいに決まっているでしょ? 人は生まれた瞬間から幸せを享受するために産声を上げたんだから。まぁ、これは人の受け売りなんだけどね」
「素敵な人ですね」
 その言葉を掛けた人も、素直に受け止めたセルビアも。
「うん。私は自分のことを運がいいだけと思っていたけど、この言葉を聞いたらこの為に運がいいんだって思ったわ。泡になったり、月に帰ったりした姫はいたけど……そこまでに幸せもあったはずよ」
「それじゃあ、セルビアさんも最期は不幸になってしまいますよ?」
 泡になったり月に帰ったりした姫の話なら子供の時に聞いたことがある。それはいわゆるバットエンドだ。
「幸福過ぎるからたまに怖くなるわ。泡になった姫も王子様を求めて脚を手に入れたから……親近感が湧くのね。私は陸そのものを求めたんだけど」
「絶対セルビアさんは大丈夫ですって!」
 思わず大きな声が出てしまった。
「あ、ごめんなさい……」
「いいのよ。ありがとう」
 彼女は一瞬目を剥いたが、朗らかに笑ってくれた。
 ドクは息を整える。泣かないと言った彼女が一瞬泣いたように見えたのだ。たまに覗かせる不安は想像以上に苦しいのだろう。
 何も知らない陸の地で一人。
 彼女は幸福を振りまく。
(セルビアさんには最後まで幸せであってほしい)
 振りまいた分返ってくるように。自分が貰った分が何倍にもなってセルビアへ届くように。
 セルビアが小さくくしゃみを漏らす。夜も更けてきて冷えたのだろう。
 男たるものここで上着の一枚でも肩に掛けてやれればかっこよかったのだろうが、あいにくドクは掛けてやるほどの布を持ってはいなかった。
「もっと見ていたかったけど、今日はお終いね」
「そうですね」
 とても悲しい言葉だ。ずっと居られることなんて絶対にない。
「……またセルビアさんの踊り観に行きます!」
「来てくれていたの!?」
「もちろんです! とてもよかったです!」
 そして貴女に惚れました。
 セルビアはカンテラの光に照らされて七色に輝く口角をあげた。
「それなら体調管理に気を付けないとね。せっかく来てくれたのに風邪でお休みです、なんて不幸ですもの。幸せが何よりも一番よね」
(本当に貴女は素敵な人です)



 セルビアの見ている世界は優しく美しい。その素晴らしさを自身の瞳でも映せないかとドクは外に出た。日の光が降り注ぎ、絶好の散歩日和だ。
(今日はゆっくりと街を見て周って、それから……)
 チケットは仕事の合間に入手済みだ。移動サーカスが来た頃はフリーで入れたのだが、いつの間にか街全体を魅了し、チケットを発行しないといけない事態になっていた。大変なことになってしまったとドクは思ったが、移動サーカスにとってはよくあることで、チケットを貰う際、こんなに観てもらえて幸せだ、と笑顔を向けられた。
 光が目を焼いて、ドクは目に手で傘をつくる。仰いだ植木の木漏れ日の緑が目についた。ぼんやりと立ち尽くし、その緑を凝視する。
 こんなに美しかったのだろうか。
 セルビアの美観に感化され、いつも見ている風景のように感じられなかった。
 白い鳥が木漏れ日から抜け出して羽ばたいていく。陸の世界を知りたがり海から上がったセルビアのように、その黒い瞳は広大な世界を知っているのだろうか。
 子供達の笑い声、はためく洗濯物、鉱山から這い出てきた男達。これらも全てセルビアにとっては輝いて見えている。
 身体がふわふわ浮いているような感覚。まるで現実でない場所を歩いているようだと思っていると、幻想世界を売る造形物が目の端に見えた。昼間の公演は終わったところなのか、出演者もスタッフも出払っていた。
 二つの同じ頭が首を傾げるほかに。
「あれー」
「あれー」
『壊れてるー』
 白地を基調として、それぞれが淡い桃色と水色で模様を付けた衣装を身に纏っている。
 ドクは思わず足を止める。眼鏡をかけ直して幼い双子の見上げる先を凝視すると、ステージの背景となっているボードが一部取れかけていた。
「早く直さないとー」
「夜の公演に間に合わないー」
『どうする? 誰がやる?』
「おれ……やりますか……?」
 双子が鏡合わせのような動きで振り返る。
 立ち入り禁止であっただろうが、ドクは足を踏み入れていた。双子の声色は演技掛かっていて淡泊だったが、困っているニュアンスは混ざっていた。
「ドワーフは手先が器用ー」
「ドワーフは力持ちー」
「お願いしちゃう?」
「お願いしちゃおう」
『道具持ってくるから待っててね』
 わー、と大きく開いた袖をはためかせて双子は楽屋裏に駆けていく。数分も経たないうちにがちゃがちゃと音を立てて、これでもかと言わんばかりの工具を持ってきた。
 本当に任されるとは思わなかった、とドクは頬を掻く。
(セルビアさん喜んでくれればいいな)
 脳裏に浮かぶのは彼女の笑顔。
 先日の幸せのお返しも兼ねて。
 力は自信なかったが、ボートは案外軽く苦労するものでもなかった。ソワレまで時間はそれなりにあったがもたもたやっていいほどではなく、取れかけたところを補強して、ついでに装飾品も直しておく。それだけで時間は過ぎていき、気がつけば夕日が差し始めていた。
 もう少し装飾品を凝ろうかと職人魂が疼いたが、それは出来ないと腰を上げた。楽屋裏のざわめきが聞こえ、もうすぐリハーサルだろうと、借りた工具を一纏めにしていると修復を頼んだ双子がステージ端から顔を覗かせた。
「凄いね」
「立派だね」
『綺麗に直ったね』
「この程度であれば……」
『ご謙遜』
「僕達じゃ出来ないよ」
「ここの人達もここまでできなーい」
 双子はきゃっきゃと無邪気にドクに近づいてくる。
 そして……ぶち撒かす大きな音が響いた。
「あ、ごめんなさーい」
「お片付け、お片付け」
 一纏めにした工具に足を掛けてしまった双子は慌ててそれを回収し出した。ドクも一緒になって拾い上げる。
 と、足に何かがぶつかった。
 首を傾げながらそれを指先で摘まむ。見たこともない白い球体がいくつも転がっていた。作業中も後片付けの時も見当たらなかったがどこに紛れていたのだろうか。
『真珠だね』
「しんじゅ?」
「知らないの?」
「知らないみたいだね」
「それはね、海の宝石だよ」
「ここじゃ取れないね」
「海に行けばあるね」
「運が良ければあるかもね」
『私は運がいいの』
 突然セルビアの言葉が蘇る。
 海の宝石、彼女に似合いそうだ。
「その顔は欲しそうだね」
「ここじゃ手に入らないからね」
『いいよ。あげる』
 ドクは予想外の言葉に飛びあがった。彼の脳内ではこの真珠がどうなるか構想が膨らんでいた。しかし…………
「いいのかい?」
 これがどこからか出てきたか全くわからない。サーカス団の誰かの私物かもしれないのだ。
 双子は鏡合わせのように首を傾げる。
「あげるよ」
「誰のか分からないからね」
「僕達は知っているからね」
「うん、分かっているからね」
「誰かの私物であれば」
「速攻でそいつに届けてる」
「でも知らないから」
「誰のモノでもないでしょう」
『直してくれたお礼、受け取って』
 まだ床に転がったままの真珠をかき集めてドクに差し出す。
 ドクは震える指先でそれを受け取る。まるで自分に届くかのように仕向けられたその事柄に少しばかり怖さもあった。
 でも、それでも、手元に来たのは嬉しくもあった。
「そのままの形じゃなくなるけどいいかい?」
「どうぞ」
「どうぞ」
『好きにしていいよ』



 チケットを持って入った公演は、まさかのセルビアがお休みの回だった。連日連夜やっていて踊り歌うのは確かに疲れる。
 もう一度あの舞を目に焼き付けたかったドクだったが、公演終了後すぐに意識はポケットの中にある真珠に向いた。慌てて駆け出し、転がるように自室に戻る。
 小さな机に、ひしめき合う工具たち。それらと共に置かれた紙とペンを引っ掴む。真珠を取り出し、しげしげと眺めて、脳内にあるイメージを紙面に描き出す。
『三日後にここを旅立つの』
 同僚のお気に入りのエルフがそう高らかと宣言して、ドワーフの悲痛な叫びを誘った。
 残り三日。
(それまでに作り上げる)



 あの日以来ここには来ていなかったが、足は自然と階段を踏みしめていた。明日には彼女がいなくなってしまう。夜は深くなり、ソワレも終わりを告げて街はとても静かだった。
 空中庭園に歌声は響いていない。
 それでも、縁に彼女は座っていた。
「こ、こんばんは」
 声を絞り出してセルビアに話しかける。右手は無意識にポケットを握っていた。
「また会いましたね」
「隣、いいですか?」
「どうぞ」
 優雅な動きで彼女は自分の横を指した。前と同じようにそこにもたれかかる。
「数日前に来てくれたのにごめんなさい」
「えっ!?」
「それから、舞台直してくれてありがとう」
 あの場にはいなかったはずだが全てを知っていた。誰かに聞いたのか? と疑問が浮かぶが、あの双子が脳裏をよぎって納得した。幼い顔立ちながらどこか長寿さも感じさせる不思議な子達。何となく彼らには隠し事が出来ない気がする。あの瞳は全てを見透かす。だから真珠もあっさりと渡したのだ。
 唾を呑み込んで、ドクは新しい姿を得た真珠をポケットから取り出した。
 海のモノであるのなら、海の者が身に着けるのが一番美しい。
「これ、良ければもらってください」
 イヤリングとなった真珠は、月光を受けて仄かに赤みを帯びていた。今の自分の心境と似ている気がする。
「こんなに素敵な物を……私に?」
「セルビアさんに似合うように、作りました」
 手先が器用でよかった。
 セルビアはじっとイヤリングを見つめ、そして一呼吸置いてその細い指先で摘まんで受け取る。夜景に晒し、目を細めた。
 自惚れてもいいのだろうか。
 セルビアの横顔はうっとりとしていて、惚けているようにも見えた。
「付けましょうか?」
「うーん……じゃあ、はい」
 彼女は片方だけをドクに戻す。自身の掌に残ったイヤリングを難なく右耳に付けた。
「半分こ、ね」
「半分?」
「こんなに素敵なの私だけじゃ勿体ないわ」
「え!? おれには似合わないと思いますが!?」
 セルビアのために作ったのだ。自分には到底似合わないと首を振ったが、彼女は両手を合わせてとろけるような笑みを浮かべた。その可愛らしい表情に思わず見惚れてしまう。
 この時をチャンスと思ったのか、セルビアは動きを止めたドクの顔を自分に引き寄せて彼の左耳にイヤリングを付けた。
「やっぱり半分こがいいわ」
 セルビアの瞳にドクの顔が映り込む。赤みを帯びて輝くイヤリングとそれに不似合いなふにゃりと歪んだ顔。嬉しさで緩んでいるとも、似合わなさに泣いているようにもとれるその表情は次の瞬間一転した。
「私と踊って下さらない?」
 指をとられてセルビアは縁からこちらへと舞い降りてくる。やっと地上に降り立ったかのようにドクの目の前でくるりと回った。
 そして両の手を握る。
「お礼。それに私の踊り見られなかったでしょう?」
「でも……おれ……踊り方なんて知らない……」
「大丈夫、任せて」
 彼女の薄い唇が開いて、その隙間から澄んだ歌声が空中庭園に響き渡る。セルビアがステップを踏むと、ぎこちないながらもドクの足も動いていた。
 月光のスポットライトを浴びながら、二人だけの舞台が出来上がる。観客は月と――――
 ドクの口から素っ頓狂な声が上がった。目の端を半透明な魚が泳いでいく。
 セルビアは微笑みながらその魚に頬を寄せた。そして身を翻し足先を上げる。
 急な動きにドクは狼狽えたが、セルビアは彼の腕をひいて自身を支えるようなポーズをとらせる。彼女は口角を上げて、そして天を仰いだ。ドクもつられてその目線を追う。
 眼鏡越しに瞳を見開く。ここは、どこだろうか…………
 月光に薄いヴェールが掛かっている。それは波うちながら広がり、やがて空全体を包み込んだ。その中を光り輝く無数の魚が悠々と泳いでいる。
「海と陸が重なった」
 泡が浮かんでは弾ける。
(これが彼女のいた世界)
 街灯は輪郭をぼやかして光を放っていた。
 海というものをドクは知らない。それでもセルビアが『海』というのならこれが海なのだ。
「奇跡」
「本当に奇跡みたいな光景ですね」
 二つの世界の狭間で陸の民と海の民が静かに舞い踊る。気がつけばドクは彼女の腰を支えて持ち上げることまでしていた。セルビアは頭上で笑い声をこぼしている。それに反応してイヤリングも揺れて輝く。
「私、絶対に忘れないわ」
「おれも、です」



 移動サーカス団旅立ちの日は空がとても高かった。
 朝の陽ざしを受けながらドクは伸びをする。昨晩のことは夢のような気がしたが、イヤリングがひとつしか残っていない事実が現実だったことを伝える。
 結局、好きだとは伝えていない。多分悟られているだろうが、彼女には広い世界があり、人々に幸せを振りまくのが性に合っているだろう。
(独占なんてできない)
「気持ちいい」
「朝ですね」
 と、少しばかり感傷に浸っていると、家の陰から双子が顔を覗かせた。顔はにやにやと笑っている。
「おはようございます。今日が移動日ですよね」
「そうそう」
「そうなの」
『だから君を勧誘しに来たよ』
「勧誘?」
 首を傾げる。双子はスキップをしてドクの周りを回った。
「君の腕に惚れたのさ」
「君は広い世界を見て見たくないかい?」
『移動サーカス団に入らないかい?』
 双子は周るのをぴたりと止め、決めポーズとばかりに両腕を広げた。
 ドクはただ目を見開くばかりだった。脳が処理しきれていない。
 自分には曲芸の才はない。なら、何をすればいい?
『裏方さ』
「大道具と」
「小道具係り」
『ぜひ君にやってほしい』
 双子はやはりドクの内心が分かるのか、すらすらと彼の持つ疑問に答えていく。
 ドクは喉を鳴らした。脳は考えることを放置して、一人の微笑みを映している。
 外の世界とはどういったものだろうか。いつか本物の海を見られるのだろうか。
 セルビアが言うのなら、世界は美しく素晴らしい。
「君の上司さんには相談済み」
「僕らの知り合い? みたいなものだからね」
「ここに来たのはそういった経緯から」
「素敵な大道具小道具係りが欲しかったの」
「君が舞台を直してくれたから」
「その出来が良かったから」
『大決定』
「ま、待って、まだやるとは……」
『世界を見に行こうよ』
 双子の声に混じってセルビアの声が聞こえた気がした。彼女が手招いている。
 気持ちは……既に決まっていた。



 イヤリングが揺れている。セルビアは今日もお気に入りのそれを付けて舞い踊る。その陰には同じイヤリングを付けた彼の姿。
 その彼に手を振って、セルビアは今日も幸せを振りまく。