月下煌輝譚-Outroduction-

 今宵は空に月が無い。雲の裏に身を隠しどこに在るか分からない月の代わりに、空の隙間で星々が控えめに瞬いている。
 邸は夜に沈んでいた。使用人さえも既に休んでいる時間だろう。静まった一室で、娘はふいと指先を反らした。
 希代の美人と評されるその若い娘は艶やかな黒檀のごとき、あるいは物言わぬ満月のごとき気を纏っていた。今はそれを過剰に賞賛する男たちの姿はない。部屋にいるのは娘ひとりだ。
 室内に明かりの類はなかったが、娘の姿を十分に捉えられるほどに目映く、影を色濃くしていた。
 広がる衣裳の裾を辿れば、その光源が盆に供されている。

 一つは、耳飾り(イヤリング)。揺れる硝子の落とす色は身につける者の本心を明かしているように見える。
 一つは、(かんざし)。精霊の内包さえ感じさせる熱を帯びた実は、時に道しるべになる。
 一つは、襟留め(ブローチ)。小鳥の臨む青い珠はやはり手の届かない宝玉だったのだろう。
 一つは、胸飾り(ペンダント)。鎖とあどけない金平糖の対照は見る者次第で不穏も安寧も映し出す。
 一つは、髪飾り(カチューシャ)。ひとりの髪を彩るには惜しまれるほど豪奢な装飾品。

 それらは、まだ見ぬ娘に恋い焦がれ、一瞬でも気を惹こうと奮起した男たちから贈られた装飾品だった。「素敵な贈り物」──かつて娘はそう口にした。贈り主である男たちを集めて、ふと思いついた催しを披露した場でのことであった。「素敵」。その思いは決して偽りではない。たしかに五つの品は美麗であったし、世に類まれなく、さぞ高価であろうと思われた。けれど「素敵」は「素敵」以上を体現し得ず。娘にとっては意味のない贈り物の山の一角、指先の遊ぶまま、何となく目に珍しいものを拾い上げたという程度であったのだ。
 けれど。満月の晩にもたらされた絵と物語は、思いがけず娘の心を動かした。男たちは決して普段、京で創作を専門としている訳ではない。娘の気を惹くことがきっかけで、その実は享楽が全てであった。生業を傍らに広げられた想像は娘の想像以上に多様で、知らない世界を垣間見せてくれた。聞くところによれば創作とその享受は贈り主であるところの男たちだけでなく、彼らに仕える者たち、やがて市井にまで及んだという。
 つくりごとは、寄せられた思いは、今や装飾品に光を纏わせていた。五つ合わせれば暗闇にあって存在感を発する娘よりも遙かに目映い。それでも威圧感はなく、触れてみれば光の粒を霧散させながら手元を照らす。やわらかく暖かい光だと娘は思う。

「楽しうございました」

 最後の作品を味わった、満月の晩。
 同様に満足げな男たちの前で娘は微かに口元を綻ばせた。それはたしかに本心からの言葉だった。
「かつて、わたくしによく似た娘がおりました。人心を試そうと、話に聞くばかりの宝を要求して多くのひとを危険に晒しました」
 例えば、蓬莱の玉の枝。火鼠の皮衣。龍の首の玉。
 それは空想の中にのみ存在し、だからこそ宝だと評されるようなもの。
 きっと彼女も退屈だったのだ。退屈で、それに甘んじる気はなくて、結婚の回避も両立し得るような要求をした。
 ……それでもやり方を間違えた。
 娘は思いを口には出さず、代わりに手元の書物をするりと撫ぜる。中身は読み返す必要もないほどに把握してしまっている。
 五つの装飾品と、それを囲む絵と物語。満ち足りた様子の娘を見て、
「では、」
 男のひとりが身を乗り出した。
「では、もっとも姫の気に入ったつくりごとを生み出した者と、結婚してくださいますか」
 娘は熱を帯びた科白(せりふ)に一度瞬いたあと、ゆるやかに頭を振る。
「作品はどれも楽しめました。優劣をつけられるものではありません」
 やわらかな拒絶。男たちはそれぞれ目の奥や唇に悔しさを滲ませながらも衝撃や激昂を露わにはしなかった。娘同様に今回の催しそのものを楽しんでしまった自覚があるからだろうか。
 男たちは名残惜しそうにしながらも、強情に食い下がることはなく帰っていったのだった。
 さて、求婚譚らしからぬ求婚譚は、ここで終いである。やがて此度の集まりをきっかけに、装飾品をお題として自由に想像を巡らせる遊びが、貴族ゆくゆくは市井の者にも親しまれるようになっていく。

   * * *

 かたり、と。障子の木枠が音を立てた。
「……入っても?」
「駄目と言ったところであなたは入ってくるのでしょう」
 木戸の隙間から楽しげな声音が滑り込んでくる。娘はため息を吐く調子で返した。
「失礼な。姫君に駄目と言われたのならおとなしく帰るさ」
 言いつつ顔を覗かせたのは、黄櫨に身を包んだ男──帝であった。
「貴女のお祭りが終わったと聞いたから、久々に訪ねてみたんだよ」
 帝は微笑みながら細身の体を折り、断りなく娘の前に腰を下ろす。もっとも京で至上の存在を前にして容易に苦言を呈することのできる者などいない。この男はそれを自覚している。
 娘はさりげなく衣裳の袖を口元へ持ってきた。
「こんな夜更けに、わたくしに何の御用です?」
 帝の周囲に供の気配はなかった。おおかた車ごと邸の外に置いてきたのだろう。これまでの数回の訪問でも、帝は供の者を連れてこなかった。戻りの遅い主を慮ってやきもきとする従者の姿が目に浮かぶ。
 うん、と帝は頷いた。食えない笑顔のまま袂から取り出されたのは小箱だった。
「これを返そうと思ってね」
 白い指が、娘に向けて木箱を開く。
 中に収まっていたのは一つの装飾品だった。珠の数粒が揺れる指輪と、金の鎖の腕輪を月環が繋いでいる。
「あらあら、それは」
 久しく見る、わたくしの大切な装飾品ではありませんか。娘はころころと笑う。が、袖の上に覗く目は幾分冷めた色をしていた。
「貴方があまりにも物語に夢中だから」
 帝は茶化すように首をすくめた。
「私もこれも忘れられてしまったかと思ったよ」
 娘は相づちを打たず、ふ、と開かれた障子の向こう側へ視線を遣った。縁側の木目が微かに艶めいている。雲が少し晴れ、月が姿を見せたようだった。
 立ち上がり、障子の木枠を手すりに縁側へ出る。そうして帝の視線を受け止めるようにしてゆるやかに振り返った。皿のごとく薄い三日月が娘の背景を飾る。
 帝も小箱を持って娘を追った。向き合った状態で、娘が口を開いた。
「つけてくださる?」
 手が出される。細く伸ばされた指が月光に映え、白く輪郭を縁取る。
「……それは、好きな指に?」
 帝が目を細めれば、まさか、と娘は薄く笑んだ。帝もさして傷ついた様子もなく、娘に示されるまま右手の中指に指輪を、手首に腕輪を通す。もともとは娘のものである装飾品は、返却されるというより捧げられるかのような丁寧さで持ち主のもとへ戻る。




 掬うように金具を留めれば、手の甲で月が輝いた。
 反して、娘自身の輝きは、拭われるようになりを潜めていく。娘が噂されるほどの美貌の人物であることに変わりはない。ただ、光を放つような、人間ならざる雰囲気だけが削ぎ落とされたかのようである。
 娘はこれまでになくやわらかい、慈しみに満ちた表情で、右手の装飾品を撫ぜた。
「あなたはわたくしの気を惹こうとしてこれを持ち去りましたが……これはわたくしの親から贈られたものです。今一緒に暮らす二人ではなくて、わたくしを産み落とした両親。顔も思い出せないけれど、わたくしの未来を想って、わたくしの幸福を願って、つくってくれたもの。その愛情を今なら、理解できます。……それでも」
 それでも。
「月に戻るのはやはり、惜しいですね」
 三日月に背を向けたまま、娘は囁くようにそう言った。

   * * *

 何度か昼夜が巡り、娘はある日訥々と、育ての親に自身の素性を明かした。
 自分が人間ではないこと、月の国の生まれであること、次の新月の晩に月びとが自分を迎えに来ること。
 俄には信じがたい話に翁はひどく驚いて、嫗とともに慌てふためいた。おろおろと取り乱す二人を娘は制した。手の甲の月環に触れる。
「わたくしは月には行きません」
 帰りません、ではなく、行きません。里心と決意を感じさせる言葉に翁はつかの間安堵したが、それも長くは保たなかった。彼方からやって来る者から愛しき子を守りきれるとは到底思えず。しかし諦観を表すばかりでは娘の身だけでなく心さえも離れていってしまう結果に繋がる気がした。
 老夫妻は帝に言伝てを飛ばした。帝は既に事情を把握しており、邸に兵を遣わしてはどうかと提案したが、
「兵も武器も要りません。月びとの前には一切無力なのですから」
 娘自身からすげなく断られてしまった。
 他にもあれやこれやと代案が出されたが、結局周囲の人間にはなす術もないまま、新月の晩が訪れた。
 空は荒れることなく、澄んだ様子で今宵も天上に収まっている。ただ娘と邸の人々、やってきた帝だけが張りつめた表情を見せていた。周囲は娘を邸の奥の奥へと匿おうとしたが、当の本人はかたくなに否定した。寧ろ空をよく仰げる、縁側でじっと月を見つめていた。
 誰しもが落ち着かないうちに宵も過ぎ、子の刻を回った。
 取り決めのごとく正確に、その瞬間に邸の周囲一帯が明るくなる。それは真昼を凌駕する目映さで、誰しもに異常事態を把握させるものだった。
 毅然と空を見据える娘、狼狽える夫婦と使用人たち、眉を顰める帝をめがけて、音もなく、するすると雲に乗った一団が近づいてきた。皆一様にひどく美しい容貌と衣装を持ち、そしてそれ以外に筆舌を要しない風情を呈していた。
 一団の先頭が上から声を放った。
 その声を聞くだけで、人々の全身から反抗の力が抜けていくのが分かった。握っていた拳が自然と解けていく。たしかに武具など用意するだけ無駄であっただろう。
 月びとが言う。
「さあ姫、迎えに上がりました。好奇の強い貴女でも、さすがに満足したでしょう」
 抑揚のない言葉とともに、傍らの月びとが一歩前に出る。その腕には箱が預けられていた。
 娘はあの箱の中身を知っている。纏えば人間の心の一切を失ってしまう衣である。知りたい、楽しい、愛しい。そういった感情を洗いざらい濯いでしまうものだ。恐ろしい、一度身につけてしまえばその恐ろしいという感情さえも奪い取られる品。間違っても羽織るわけにはいかない。
 娘はすうと息を吸い、
「……罪を犯したと一度追放しておきながら、都合よく取り戻そうとするだなんて、おかしな話ではありませんか」
 眉を上げた。娘だけが気力を奪う月の魔力に飲み込まれずにいた。
「あなた方はわたくしを取り戻したいのではなくて、わたくしを利用してこの国の、この国に住まう人々の知を得たいだけでしょう」
 かつて、娘によく似た姫君がいた。罪を犯したために月の国から追放されて、それはそれは美しく成長した頃に連れ戻された。何度も繰り返し読み込んだ書物。光る竹から始まる姫君の物語。彼女の二の舞になる気はない。
 娘は、傍らに置いていた盆を手に取った。円の上には五つの品が並べられていた。
 耳飾り(イヤリング)(かんざし)襟留め(ブローチ)胸飾り(ペンダント)髪飾り(カチューシャ)
「ならば代わりに、わたくしたちが戯れた装飾品をお持ちなさい。丁重に作られ、大事に描かれ、大切に記された五つの品です。あなた方が満足するに足る力を有しているはず」
 盆がふわりと宙に浮き、月びとの高さまで持ち上げられる。五つの装飾品は、月びとによって齎された明るさとは異質のやわらかい光を放っていた。月びとの細い指が装飾品を見聞する。それに構わず娘は続けた。
「それでも私を連れ戻すというのなら、また罪とやらを犯して追放されてみせましょう。わたくしはまだ満足しておりませんから」
 月びとは間を置いて下界を見据えた。その指は装飾品の鑑定を終えたようだった。
「…………、姫よ、其処は追放にふさわしき汚れた地。なぜそこまで執着するのです」
 皆目見当がつかないという声音で疑問が呈される。娘は瞬きをした。次の返答までの間は一拍もなかった。迷うまでもないといった調子で、
「こちらの方が楽しいではありませんか」
 娘は一きわ強く笑って見せた。
 その様に、理解の範疇を超える、と感じたのか。月びとは自陣を振り返った後、雲をたなびかせて去っていった。盆と装飾品をきっちりと回収していくことは忘れずに、である。現れた際とは対照的にひどくおとなしく去っていく月びと達の後ろ姿を見つめながら、娘は帝に話しかけた。
「月の輝きを愛でることは、月を見上げる側にしかできない。月には物語がないのです。……仕方のないこととは言え、物語の詰まったあれらを月びとにやってしまったのは勿体ないことでしたね」
 帝は放心状態から醒めて、ようやく娘の横に並び立つ。五つの装飾品をもって月びとが去ったという事実と娘の言葉を咀嚼する。
 夜は急速に穏やかさを取り戻し始めていた。異国の一団がすっかり見えなくなると、控えめな風が首元をするりと掠めていく。止められていた時が正常に機能し始めたかのようだった。老夫婦と使用人はまだ実感を得られていないようでへたり込んでいる。
「あの品に代わりはきかないが、また新しく催せば良い。機会はいくらでもあるのだから。次は私も参加してみようか」
「御上がつくりごとを?」
 口元を解すための帝の思いつきに、娘は微かに驚きが滲んだ声をあげた。
「ならば手始めに、こちらをもとにつくられるのはいかがでしょう。長らく手元にお持ちだったのですから」
 娘は右手の甲をかざし月を模した装飾品を見せつけた。遠い国の親から贈られたという守りの品である。大切な私物を長く取り上げていたことに対する明らかな皮肉に帝は謝罪の言葉しか絞り出せなかった。
 許しの代わりに、帝の手のひらが掬い上げられた。娘が帝の手を持ち上げる。はっと顔を上げれば、娘が少女めいた瞬きでこちらを見ていた。
 では。
「あなたのつくりごとが輝く様を──満月の夜に、ぜひお見せくださいませ」
 月環をそっと煌めかせて、娘はいかにも人間らしい穏やかさで笑んだ。