宿語りのシーガル

【Como la Flor】

刃物

Author:彩芭つづりさんTwitterID

 ――昔々あるところに、花を刈ることを仕事にしているひとりの若者がおりました。
 ある日その男は、街から遠く離れた森の奥深くにある静かな湖畔へと、そのあたりにしか咲かないと言われるめずらしく美しい花を探しに行きました。
 普段なら誰も寄りつかないような、静けさに満ちた深森の湖畔。そこで男は長い時間をかけ、体力を使い、そしてやっと一本だけ、花を見つけることができました。
 男は懐から鏡のように光る刃を取り出し、花の根もとにあてがいます。そして、その刃を引こうと指先に力を込めた、そのときでした――


「摘んでしまうの?」
 ふいに背後から声が聞こえた。
 土を踏む足音も聞こえず、突然掛けられた言葉に慌てて立ち上がり振り返る。
 その瞬間、おれは言葉を失った。
 そこには、白いフリルのワンピースを身にまとった、目をみはるほどの美しさを持つひとりの少女が立っていた。
「その綺麗なお花を、摘んでしまうの?」
 そよ風にさらりと揺れる、白に近い金の細髪を小さな耳にかけながら、少女はひどく不安げな眼差しをこちらに向けている。その瞳は澄んだ海の色を映す紺碧で、まるで涙に濡れるように潤んでいた。
「……かわいそう。摘んだら死んでしまうのに」
 ぽつりと呟かれた声に、はっとする。
 いけない。目を奪われていた。
 ぼうっとしていた頭を軽く振る。それから刃を持つ手を少女から隠すように背中に回した。
「ああ、いや……摘む、というか……まあ、そう、なんだが」
 言い淀んでから頬を掻き、
「だいじょうぶ、この花は死なないよ」
 はっきりとそう口にした。
 しかし、少女の顔からは悲しみの色が消えない。それもそうだ。懸命に咲く野花を刈り取ろうとしている見知らぬ男にそんなことを言われても、すぐに納得できるはずがない。
 不安げな顔をする少女を見て、ひとつ息を吐く。それから背中に隠していた刃を胸の前に持ってくる。そして指先で撫でるような仕草でそっと刃に触れた。
「信じられないと思うが……この刃で刈ると、不思議なことにその花は枯れることなくずっと生き続けるんだ」
 そんなおれの言葉に少女は、
「……ずっと」
 と、口の中で小さな声を転がす。おれはゆっくりとうなずいた。
「そう、ずっと。だから死ぬことはないよ、けっして」
 刃を持つ手を動かすと、鏡のようなそれに太陽の光が反射して、森の木々がきらきらと白くきらめく。
 少女は猫のような丸い瞳を何度かまたたかせてから、はっとしたように目をみはった。それから興味と不信がないまぜになったような顔つきで、こちらをまじまじとうかがう。
「ねえ、あなた、もしかして……花刈りさん、なのかしら」
 熱を感じるほどに射貫いてくる青い瞳にとらわれる。ただ見つめられているだけなのに、体中を透明な鎖が巻きつくように身動きができなくなる。
 花刈り、と少女は言った。世界にたったひとつだけしかない特別な刃を使い、花に永遠の命をもたらす職業を、世間ではそう呼び尊んでいることをおれは知っている。
 一度、ゆっくりとまぶたを閉じる。再び目を開くと、少女の視線を痛いくらいに浴びながら、
「ああ、そうだ」
 と深くうなずいてみせた。
 その瞬間、少女は今までの疑心などどこかへ吹き飛んだかのようにぱっと表情を変え、頬を紅潮させ興奮に満ちた顔つきで「まあっ!」と驚きの声をあげた。
「すごい、すごいわ、私、花刈りさんに逢ったのは生まれて初めてよ! 幼いころからずっと逢いたいと願って過ごしていたの。ああ、私、夢が叶ったのね。とてもうれしいわ!」
「そうか。それは光栄だな」
 呟くと、少女はおれの左手を両の手で取り、ぎゅうと力強く握り締めてきた。じんわりと温かな熱がてのひらから伝わってくる。突然のことに驚き目を丸くさせたが、少女があまりにうれしそうな顔をするものだから、おれはただされるがままになるしかなかった。
 長い握手を終え、おれはゆるゆると息をつく。それから足もとの花に再び目をやった。深みのある青色の花弁は、まるで少女の瞳のようだと思う。
 花刈りは、その名のとおり花を刈ることが仕事だ。きょうこの森に入ったのも、この花を刈るためだった。
 その場にしゃがみ込み、刃を花の茎に押し当てる。同じように隣にしゃがんだ少女が、また不安げな瞳をおれに向けてきた。
「ねえ、花を摘んでしまって、本当に枯れないの?」
「摘むのではなく刈るんだ。枯れないよ」
「絶対に?」
「絶対に」
 断言し、ちらと横目で少女を見る。青の瞳が微かに揺れている。
 おれは目を細めた。
「そんなに信じられないか」
 聞いても返事はない。おれは視線を花へと戻すと、刃の柄を握る指先に力を込めた。
「それなら見ていろ。一瞬だから見逃すなよ」
 花茎を撫でるように刃を引く。花が刈り取られたその瞬間、花弁がふわりと光を放った。月明かりを思わせるような、柔らかく淡い色の光だった。
「見たか。今、花びらが光っただろう。それが永遠の命を吹き込まれたサインだ」
 そう説明すると、少女は赤みの帯びたくちびるを薄く開き、
「永遠の、命……」
 と、ぽつりと呟いた。その瞳は、おれの手の中にある刈ったばかりの花を一心に見つめている。
「それでもまだ信じられないというのなら、この花を持って帰るといい。あすも、あさっても、その先も、ずっと枯れることはないよ」
 そう言い花を差し出すと、少女は驚いた表情でおれを見た。
「このお花を、私に?」
「ああ、そうだ」
「とてもうれしいけれど……でも、いいのかしら」
「うん?」
「だってこのお花、あなたが持って帰るはずだったでしょう。必要なものだったのではないの? めずらしいお花だということは、私もよく知っているわ」
 なんだ、そんなこと。
 おれはくちびるの端をほんの少し上げ、花を見つめながら小さな笑みを作った。
「エストレイジア」
「え?」
「その花の名だ。そう呼ばれている」
 そしておれは、少女の細い指先にそっと花を握らせた。
「受け取ってもらってかまわない。だいじょうぶ、きっと他を見つけるさ」
夜空を映す水鏡(エストレイジア)』――それがこの花の名だ。
 満点の星空によく似た紺碧の花冠をつけるこの花は、この湖畔周辺にしか咲かず希少ゆえに高価な品として街で売られている。花を見つけ刈ることを仕事にしているおれのような人間でさえ、手に入れるのはとてつもなく難しい。そのうえ花自身の繁殖能力も極めて低いため、人間の手で増やすことは今のところ不可能だ。どこかで自然に咲くのをひたすら待つしか方法はない。
 エストレイジアは貴重だ。美しいから誰もが欲しがる。だから、本来ならば高値で取り引きされるようなそんな花を、銅貨一枚も受け取らずに名前も知らない初対面の娘にあげただなんて誰かにでも知られたら、大変なことになるに違いなかった。
 だが不思議なことに、おれは、この少女には譲ってもいいと思った。いや、この少女が持っているべきだと思ったのだ。美しい花は、美しい人に持っていてほしかった。
「ありがとう、花刈りさん」
 エストレイジアを受け取った少女は、まるで花のようにふわりと笑う。普段はあまり笑うことのないおれも、つられてほほえんでしまうほどだった。
「じゃあ、おれは花を探すから」
「ええ、さようなら」
 少女は手を振ると、ワンピースのフリルを揺らし静かにおれに背を向ける。おれは、その後ろ姿をじっと見つめていた。白いスカートから伸びた細い脚が、一、二、三と歩を重ねる。そして四歩目を踏み出そうとした、そのとき。
「あのっ」
「あのっ」
 同時だった。
 スカートの裾をひるがえし振り返った少女と、間抜けにその背中に腕を伸ばしたおれのふたつの声が重なり、互いの視線が交差する。
 その状態のまま、数秒の時間が流れた。おれは目を丸くしたあとに、慌ててその手を引っ込めて、視線をそらして頬を掻く。
「あ、ええと……」
「ふふ、声が揃ってしまったわね」
 くすくすと少女が口に手を当て笑う。その仕草さえ、まるで花が風に揺れているように可憐に見えた。
 間抜けな姿を見られ恥ずかしくなり、おれは目を合わせないまま照れ隠しに小さく咳払いをする。
「きみから先に」
「いいえ、いいの」
 先に話すよう促すと、少女は金の髪を揺らしゆるりとかぶりを振った。
「だって私たち、きっと同じことを言おうとしていたのだと思うわ」
 くちびるに美しいほどの笑みを浮かべ、そう言う少女。おれは少しの間を置いたのち、「そうだな」とはっきりうなずいた。それに対し、少女はまた小さく笑う。
「それじゃあ、今度こそ」
「ええ」
 そしておれたちは、もう一度声を揃わせた。
「――また明日」


 ◇   ◆   ◇


 次の日、おれはまたあの森の湖畔へと足を運んだ。
 そこにはすでに少女の姿があって、小さな石の上に腰を降ろし、本を読んでいた。
 少女はおれに気がつくと、本をぱたりと閉じ髪を耳にかけながら柔らかくほほえむ。
「こんにちは、優しい花刈りさん」
 優しい、と言われるとなんだか気恥ずかしい。花を譲っただけでそんなふうに言われるとは思わなかった。
 おれは少女に向かい軽く手を上げた。挨拶を返そうと口を開く。
「よお。……ええと」
「フロル」
 なんと呼べばいいかと問う間もなく、少女はすぐに自分の名前を口にした。
 フロル、とその名を呟くと、少女はにこりと笑う。
「そう。フロル。私ったら、あなたに逢えて気分が高揚していて、昨日のうちに自己紹介するのをすっかり忘れてしまっていたわね」
 ごめんなさい、とフロルが謝る。ああ、いや、と言葉を詰まらせると、フロルはずいとこちらに近づき、至近距離でおれの顔を見上げてきた。
「あなたのお名前は? 花刈りさん」
 目をまたたく。近い。あまりの近さに思わず体を仰け反らせる。
 期待するように青い瞳がきらきらと輝く。そんなふうに見つめられると緊張する。おれは喉の渇きを覚え、こくりと唾を飲み込んだ。
「アルベルトだ」
「アルベルト。素敵な名だわ。あなたにぴったりね」
 手を合わせ優しくほほえむその姿は、やはり花のようだと思う。フロルは野に咲く一輪の可憐な花だ。
 フロルが一歩後ろへ下がる。どうやら名前を聞き出せたことに満足したらしかった。適度な距離感に安堵し、気づかれないよう細く息を吐く。
「さて」
 呟いて、花刈りの刃を手に持ったおれは、改めて湖畔の周りに咲くエストレイジアを探し始めた。
 この湖畔はかなり大きい。普通に探すのでさえ時間がかかるというのに、加えて森の中はあっという間に日が落ちる。太陽が昇っているあいだじゅう花を探す作業に専念していても、一本も刈れないことなんてざらだ。さあ、きょうは何本見つけられるだろうか。
 地面とにらめっこをしている合間に、ちらとフロルに目をやる。花を探すおれの後ろを、フロルが鼻歌を歌いながらついてくるのだ。
 どうやらフロルは、おれに会うためだけにこの湖畔にやって来たらしい。話を聞けば、家はこのすぐ近くにあるという。指差す方向に目を凝らせば、少し離れたところに赤い屋根の家があるのが確かに見えた。この森には今までに何度も足を運んでいるが、人が住んでいることは知らなかった。とはいえ、住んでいるのはきっとフロルだけだろう。このあたりで人が暮らすには、あまりに不便すぎるし、あまりに静かすぎる。いちばん最初にこの森を訪れたとき、おれは、生まれて初めて静寂を鬱陶しいと感じた。それくらい静かな森なのだ。
 おれの背中を追いかけるフロルが、ふいに口を開く。
「アルベルト。ねえ、アルベルト」
「なんだ」
「私、わかったの。あの“永遠に咲く花”のうわさは本当だったのね」
 幼子のように声を弾ませるフロルの言葉と、スキップするように歩く軽やかな足音とを聞きながら歩を進める。そうしていると、視線の先に小さな花が咲いているのを見つけた。目当てであるエストレイジアではないが、これはこれでとてもかわいらしい。
 ふと足を止めた。後ろの足音も止まる。おれが立ち止まればフロルも立ち止まり、屈めば同じように屈むのだ。まるで小鴨だ、と思った。なんだかほうってはおけない気持ちになる。
「あのお花、今もとっても元気なの。きらきらと光を放っているようだわ」
「そうか」
「あなたに出逢うまで、私は永遠を信じられなかった。……けれど、もう信じられる。嘘ではないってはっきりと思えるの」
「それはよかった」
「あなたのその手が、花に永遠をもたらすのね」
 屈託ない明るい声でフロルが言う。おれは、それには返事をしなかった。そう思ってくれていることはうれしかったが、少し気恥ずかしかったのだ。「そうだ、この手が花の命を永遠にするのだ」とはっきりうなずけるほど、おれはまだ自分に自信を持てていない。
 昨日と同じように、小さな花の茎に鏡の刃を押し当て、刈る。ぽうっとほのかな明かりを一瞬だけ灯した花を、おれはフロルに差し出した。もちろんフロルは「これをくれるの?」とでも言わんばかりの顔つきで目を丸くし、こちらを見つめてくる。おれはなにも言わずに花をさらに差し出した。フロルはおれの意を汲み取り、うれしそうに顔を綻ばせると、花を受け取り頬をふわりと赤く染める。その笑顔を見て、おれも微かに笑みを浮かべた。
 立ち上がり、再びエストレイジアを探すために歩き出した。
 すぐにフロルが、
「ねえ、アルベルト」
 と、またおれを呼ぶ。
「きょうも、昨日のあの青いお花を探しているの?」
「ああ、そうだ」
「それなら、私も手伝うわ」
 肩越しに振り返り、フロルに目をやった。先ほど刈ったばかりの小さな花を手にし、じっとおれを見据えてくる。
「だめ、かしら」
「……だめではないが」
「邪魔はしないわ、お願い。ついていきたいの」
 おれは、本当にいいのか、と思った。花を探すために地面をじっと見つめ続けるだけの地味な作業だ。手伝わせてしまうのはひどく申し訳なく思う。
 しかし、フロルの瞳は真剣だった。ついていきたいと、心から思ってくれているのだとわかる。
 おれは体ごと振り返り、フロルの前に立った。それから彼女が手にしている花をそっと取り、それを髪に挿して飾ってやる。金の細髪によく映える、赤く美しい花だ。
「ああ、そうだな。それなら花探しを手伝ってくれ。きみみたいな美しい人がいると、きっと花も喜ぶよ」
「まあ」
 フロルは大きく丸い目をみはると、照れくさそうにはにかんだ笑みを見せた。

 フロルが一緒に探してくれたおかげで、二本のエストレイジアを手に入れることができた。欲しかった数には及ばないが、二本も刈れれば上出来だ。別の種類の花もたくさん刈り、バスケットから溢れんばかりの色とりどりの花が顔を見せる。
 フロルはバスケットの中を覗き込み、不思議そうに首をかしげた。
「こんなにいっぱいのお花を、なにに使うの? アルベルトはそんなにお花が好きなのかしら」
「そうだな。綺麗だとは思うが、今回花を必要としているのは、おれではないよ」
 その言葉にさらに首を傾けるフロルを見て、おれはくすりと小さく笑う。
「あす、隣町の若夫婦が教会で結婚式を挙げるんだ。花のたくさんある晴れやかな式にしたいと依頼が来た。だからこれだけの花を刈ったんだ」
「結婚式? まあ、素敵!」
 ぱっと顔を明るくさせ、フロルが手を合わせる。乙女の手本になりそうな仕草と表情だった。
 しかし次の瞬間には、そのかわいらしい顔に明るい色はなくなっていた。代わりに今は、悲しげに伏せる潤んだ瞳がある。
「うらやましいわ」
 ぽつりと呟かれた言葉を、おれは聞き逃さなかった。
 なぜそんなに悲しげなのだろう。もしや、最近、失恋でもしたのだろうか。年ごろのフロルならじゅうぶん考えられる。
 恋が儚くも散ったとき、胸を締めつけられるような痛みに呼吸が苦しくなるものだと、話には聞いていた。おれは経験したことがないからわからないが、もしかしたらフロルは今、そういった状態なのかもしれない。だが、なにもそんなに悲しむことなどはないだろうと思う。それだけの美貌を持っているのだから、相手など星の数ほどいるはずだ。自ら行かなくても、相手のほうからいくらでも寄って来るだろうに。それで悩むのは贅沢というものだ。
「フロルは今、何歳だ」
 聞くとすぐに答えが返ってきた。
「十七よ」
「そうか。それならあっという間だろう」
 このあたりの娘は、ほとんどが十八のときに嫁いでいく。ひとりの大人の女性として認められるからだ。あす結婚するふたりも例外ではなく、新婦のほうは十八だと聞いている。
「フロルだってきっとすぐにそうなる」
「ええ、そうね、きっと」
 まるで自分に言い聞かせるようにうなずく。そして目を伏せたまま、フロルはもう一度だけ「……きっと」と、か弱い声で呟いた。口もとには薄い笑みが浮かんでいたが、それが心からのものではないことくらい、おれにもわかった。
 訝しく思ったおれはフロルの前に立ち、まっすぐに海を映す紺碧の双眸を見据えた。
「フロル」
 そして静かに名前を呼び。
「なにか悩みを抱えているのか」
 フロルの瞳が大きく見開き、夜に打つさざなみのように音もなく揺らぐ。目をそらすことができないよう、その細い肩をぐっと掴んだ。
 悩みがあるなら言ってほしい。なにもできないかもしれないが、できることだってあるかもしれない。出逢ったばかりの娘に『頼ってほしい』と思うのはおかしなことかもしれない。おれらしくないということもじゅうぶんわかっている。だが、こんなふうに胸の内に悲しみを隠す少女をほうってはおけなかった。おれは、フロルの力になりたかった。
 目をそらさずに、ただじっとフロルを見据える。虹彩に映るおれ自身が、自分でも驚くほど懸命な表情をしていたことに気づく。
 少しの間のあとで、フロルは「……もう」と、まるで息を吐き出すような弱々しい小声で囁くように言った。
「……そんな真剣な瞳で言うなんて、ずるいわ、アルベルト」
「フロル」
「ずるいわよ、本当に。……助けてもらいたくなってしまうじゃない」
 眉尻を下げ、今にも泣き出しそうな顔で笑うフロルに、おれは胸を強く締めつけられた。
 だが、いちばんつらく苦しいのはフロルだ。手を差し伸べることができるのなら、おれはいくらでもそうしよう。
「教えてくれるか」
 できるだけ優しく問えば、フロルはこくりとうなずく。そして、
「私ね、」
 と呟くと、一拍置いてこう言った。
「私、とても重い病をわずらっているの」
 病。フロルがはっきりと口にした言葉を、なにも言わずに受け止める。おれはくちびるを噛みしめて、フロルは手を微かに震わせていた。湖畔に一枚の葉が落ちて水面を揺らす。
「十八まで生きられるか、わからないのよ」
 どこまでも静かで、思いを押し殺すような声だった。
 こんなに元気なのに、嘘みたいでしょう。そう言いながらフロルは無理に笑顔を作る。
「今こうして笑っているけれど、明日生きているかもわからない」
「……なんの、病なんだ」
「わからない。お医者さまにも治せない病なの。諦めるしかないって言われたわ」
 そんな無責任な医者がいるのか。話を聞いているだけで胸の奥から憤りを感じた。しかし、おれにもどうすることもできない。病を治す医者が手の施しようがないと言っているのに、花を刈ることを仕事にしているおれに、一体なにができるというのだろう。
 無力だ、と思った。
 花に永遠の命を与えられたとしても、この少女にやってやれることはなにもない。
「……うらやましい」
 ぼそりと聞こえた声に、え、と声を漏らす。
「あなたの手で刈ってもらえる花がうらやましい」
 おれに肩を掴まれたまま、フロルは視線を地面に落として呟いた。まつげを揺らし、赤いくちびるを噛み締める。
 少しして、フロルはゆっくりと顔を上げた。互いの視線が交差し、ぶつかる。
「ねえ、アルベルト。その花刈りの刃で刈った花は、永遠の命になるのでしょう」
「あ、ああ……」
「心臓を刈ったら、どうなるの」
 呼吸が止まる。目をみはる。
 網膜に焼きつくフロルの真剣な表情に、彼女の肩を掴む手の力が緩んだ。
 予想はできた。そういうことを聞かれるのではないかと薄々感じていた。この刃で刈った花は永遠の命になる。……それならば、心臓は。
 おれは息をのんですぐ、ゆるゆるとかぶりを振った。
「わからない。やったことがない」
「だったら、やってみましょうよ」
「どういうことだ」
「刈って」
 ああ、と思った。聞きたくない言葉だった。
「私の心臓を刈って、アルベルト」
 ずいとおれに近づいて、だめ押しのように同じ言葉を発するフロル。おれは首をはっきり横に振った。
「できないよ」
「お願い」
「できない。フロル」
 もう一度、彼女の細い肩を掴む指先に力を込めた。
「おれは、きみを傷つけたくない」
 フロルの瞳が大きく揺れる。穏やかな青海がまっすぐにおれを見つめ、それから間もなくして、じわりと透明な涙が白い頬を伝って落ちていく。
「……怖い」
 気がつけば、フロルの体はかたかたと細かに震えていた。肩を掴む手に震えが伝わる。
「怖いの。本当は、とても怖い。明日この世界に私がいないと考えただけで体の震えが止まらないの」
 堰を切ったように、フロルの目からは涙が溢れ出していた。
「未来に失望しているはずなのに、もうとっくに諦めたはずなのに、私、それでもまだ明日を生きたいと思っているの。花を見れば美しいと思うし、ケーキを食べればおいしいと思うわ。家族のことだって愛してる。私はまだ生きているのよ。それなのに、どうして私は明日を生きられないの。どうして、どうして」
 わっと声を上げて泣くフロルの体を強く引き寄せた。涙で濡れた熱い頬を、おれの胸に押し当てる。心音を聞かせるように、しっかりと抱き寄せた。
「……アルベルト……?」
「フロル」
 優しく、名を呼んで。
「だいじょうぶさ、フロル」
 胸の中の想いをすべて伝えるように、ゆっくりと言葉を紡いでいく。そう、きっと、だいじょうぶ。
「おれの中で、フロルは永遠に咲く花だ」
 永遠はあるのだと、フロルはそう言ってくれた。
 おれの手が永遠をもたらすのだとほほえんでくれた。
 それならば、おれはその期待に応えたい。永遠の命は、花だけではないのだと証明したい。
「おれがきみを守るよ、必ず」
 フロルがおれの胸の中で顎を引くように小さくうなずく。
 金の髪に挿した赤い花が呼応し、ほのかに光を放った気がした。


 ◇   ◆   ◇


 暗い森の中を、一心不乱に走っていた。
 硬貨も羽織るものさえも持たず、足をもつれさせながら、ただひたすらに懸命に走っていた。
 道が悪い。灯りがない。照らすのは月明かりのみで、木々に阻まれた暗闇に視界が霞む。
 それでもおれは走らなければならない。
 目指すはあの湖畔。その近くにぽつりと佇む赤い屋根の小さな木の家。
 そこにはきっと、おれを待っている人がいる。
「フロル!」
 名を叫び、扉に体当たりをするように押し開ける。
 ベッドに横たわったひとりの少女はおれを見て、力のない瞳でせいいっぱいの笑みを浮かべた。
「アルベルト」
 か細い声がおれを呼ぶ。扉を閉めることさえも忘れ、床を強く蹴りフロルのもとへと駆け寄った。
 いつも以上に真白い肌に触れる。温かい。フロルは生きている。ちゃんとここにいる。
「ああ、アルベルト」
「いい、フロル、喋らなくてもいい」
「だいじょうぶ、アルベルト。ねえ、窓辺に置いてある花瓶を見て」
 フロルが左手で窓辺を指す。彼女から一瞬でも目を離してしまうことが怖かった。しかし、もう一度「見て」と言われたので、おれは顔を上げて弱々しい視線の先にある花瓶に目をやった。
 そこには、エストレイジアが凛と咲いていた。おれとフロルが出逢ったのはもう数ヶ月も前のことなのに、その花は朽ちることなく、力強く自身の持つ青を輝かせていた。
「出逢ったときにくれたお花、まだあんなに綺麗に咲いているわ」
「そうだな。言っただろう、永遠の命だと」
「ええ、そう、永遠の命」
 花に目をやって、フロルが薄いくちびるを開く。
「私、あなたに刈ってもらえる花たちがうらやましかった。ずっと一緒にいられる幸せを、必ず明日を迎えられる幸せを、きっと誰よりもうらやみ妬んでいたの」
「今でもそう思うか」
「いいえ」
 静かにフロルが首を横に振る。
「アルベルト。あなたと出会うまでは、永遠なんて嘘だとばかり思っていたわ。だけど私、わかったの。永遠に咲く花も、永遠に咲く命もあるのだって」
 瞳の青海が穏やかにさざなみを揺らす。
 薄桃色のくちびるが優しげな弧を描く。
 細く長い指先が、涙に濡れたおれの頬をそっと撫でた。だいじょうぶ、と囁いてフロルはほほえむ。
「愛しているわ、アルベルト」
「おれも愛しているよ。永遠に」
 うれしい、ありがとう。フロルが掠れた小声で言う。
 白いまぶたがそっと閉じる。細い息がゆっくりと吐き切られる。おれの頬を撫でていた温かなてのひらが、花の終わりを告げるように、ぽとりと音をたてシーツの上に落ちた。左手の薬指にはめられた、まだ新しい指輪がきらりと光った。
 深い、深い、呼吸をする。フロルと同じように、まぶたを閉じる。そうすれば、つう、と頬に涙が伝い、落ちていくのがわかった。
 だいじょうぶ。変わらない。変わることなど、なにもない。フロルはここに生きている。おれの中で永久に生き続ける。だから、恐れることはない。
 眠るフロルの額にキスをする。名を呼び、ほほえみ、声をかける。
 ああ、愛しいおれのフロル。永遠に愛しているよ。


 ――こうして男は、美しい妻の亡骸を、たくさんの花を敷き詰めた硝子の棺の中に入れ、来る日も来る日も一日中、片時も離れることなくずっとそばについていました。
 普段は誰もが足を踏み入れることのない、深森の最奥の静かな湖畔。やがて季節が一周するころ、森を開拓するため木の伐採にやって来た木こりが見つけたのは、硝子の棺の中に眠る、光を放つ生命力の溢れる美しい花々に囲まれた白いウェディングドレスを身に纏った骸骨と、その棺の隣に寄り添うように横たわっていたもうひとつの骸骨でした。
 木こりはたいそう驚いて、おそるおそる近くに寄りよく見てみると、横たわる骸骨の胸もとには、まるで使い物にならないひどく錆びれた刃のようなものが、ひとつぽとりと落ちていましたとさ――

読んだ!