宿語りのシーガル

【ザ・ラック・イーターズ・コイン】

硬貨

Author:湖丸あひるさんTwitterID

「はいはいはいはい!あたし!あたしにもやらせてくださいな!」
場違いだ。
誰かが呟いた。
椅子の上にぴょこん、と立ち上がり、片手をぶんぶん振り回しているのは、なんだかごてごてふわふわした小柄な少女であった。

綺麗に巻かれた髪は、光沢のある色とりどりの細い布で飾り立てられ、ふんわりレースの広がったドレスは、いささか裾が短すぎる。そこから、ちらりちらりと覗く少女の太股が、白く眩しく目に毒だ。
シミひとつ、汚れひとつない少女の服装は、旅人と言うには異常に小綺麗で、色気と可憐さを強調した装飾は、令嬢というにはいささか俗っぽい。
少女は、誰も何も言わないのを肯定ととったのか、椅子の上に立ったまま、勝手に名乗り出した。

「あたしはマジカルシンガーソングライター、ヴァイオレット!気軽に、ヴィオラちゃんとか、ビビちゃんとか、女神様とか呼んでくれて構いませんよ。」
「マジカル、なんだって?」
返答がお気に召さなかったのか、少女は眉を跳ね上げて、椅子の上で直立したまま、むやみに胸を張った。
「早い話が吟遊詩人ですよう。土地土地の伝承とか風景を歌にしながら、全国ツアーを……旅をしてる、ってわけ。そしたらなかなか面白そうなことやってるじゃありませんか。あたしにも一曲歌わせてくださいな!」

あのなあお嬢ちゃん、誰かがそう言いかけて、すぐに口を噤んだ。
メロディ自体は、珍しくもない、巷に溢れる一節だ。昼間に子供が歌っているのを耳にしたばかりの者もいる。
しかし、少女の朱い唇から滑り出た音色は、この賑やかな酒場の中に一瞬、しん、と静寂を広げた。

天上の調べ。海の旅人を魅惑する人魚の声音。御伽噺の姫君の聖歌。それぞれが様々な歌声を想起するほどに、少女の声は耳に心地よく脳を蕩かせる。
「どう?聴く気になりまして?」
手近な青年に笑いかけ、ぐるりを見回す少女。
異論を唱えるものはひとりもいなかった。
「それじゃあ、みなさまの長い夜を少しだけお借りして。」
ぱちん、と少女が指を鳴らすと、酒場の壁という壁がまるで、劇場の暗幕のように
「このヴァイオレット・ラウルスによるマジカル・ミュージカル、開幕と相成ります。」
落ちた。

しゃらしゃらしゃらり。しゃらしゃらしゃらり。
ご覧ください、皆々さま。このオペラハウスに、金と銀とのコインが降り積もってゆきます。
あらやだ。そんな風にポケットに詰め込んでも意味はありませんよおにいさん。だってこれは、幻なのですから。床に落ちれば、皆さまの手に触れれば、こうしてこのように消えてしまいます。
ええ?そうですよおねえさん。ここは、元のあの酒場。こうして赤いカーペットに宝石で飾り立てられたオペラハウスに見えるのも、歌が見せる幻でしかありません。
でも、きれいでしょう?とくにあの豪奢なシャンデリア!一体、どんな硝子職人が作り上げたものか。
はいはいどうぞ、お食事もお酒も続けながらお聞きくださいな。
一枚のコインにまつわる、あるひとつのおはなしを。

このオペラハウスに降り積もる大量のコインの中、ひとりの立派な身なりの男が、若い娘の姿をした何者かを睨みつけていました。
男は言いました。コインを投げて、表を出す。僕が勝ったら……。

じゃーん!
えっ?あら、驚きました?そりゃあシンバルくらい鳴らしますよ。言ったでしょう、ミュージカルだって。
どこまで歌いましたっけ。ああ、そうそう。最初からでしたね。

さて。
ある日あるところで、ひとりの男が大樹の下で途方に暮れていました。
この男、生まれてこの方運がない。このときも、盗賊に襲われて、全財産、身包みを剥がされておりました。
二、三日の間は、命だけでも残してもらえたことを神に感謝していました。が、無一文では先がない。なんとかしばらく気力だけで耐えていたものの、とうとう空腹で目を回し、ひっくり返ります。
ぼんやりとした視界に映るのは、青々と茂る枝葉のみ。
ああ、せめてこの木が果樹だったらなあ。

皆々さまもご承知の通り、大陸に広く分布するあの広葉樹は、花も実も付けぬことで有名ですね。

男の呟きも虚しく、樹は風に葉を揺らすばかり。
その時です。男の視界に、ふっと影が差したのは。
しゃりしゃりしゃり。
咀嚼音です。
すらりと伸びた脚の持ち主は、ひとりの美しい娘。
男は慌てて飛び起き、誰何の声を発しようとしたが、総身には力が入らず声も掠れて言葉にならない。

いつからいたのか。男の傍らで娘は紅い果実を食んでいました。
瑞々しく甘い香りが男の鼻を擽る。たまらず、ごくりと喉を鳴らす。
男の視線に気づいた様子で娘は手にした果実と同じくらい紅い唇を三日月型に歪めました。
「欲しいの?」
男は頷きます。かくりかくり。
「うーん。タダじゃあちょっとね。」
娘は小首を傾げました。
「なにをくれる?」
飢えと渇きで果実が欲しくてたまらない。ですが、男はご覧の通りの素寒貧。
「差し出せるものがなにもない?それなら」
娘の声音は甘ったるい。
「あなたの人生をあたしに頂戴。」
命か。僕の命を取ろうというのか。
「いいえ、そんなつまらないものなんかじゃないわ。あたしが欲しいのは、これから先のあなたの運命。それを頂戴。」
どうする。命は奪わないという。だが僕の人生が欲しいというのはどういう意味だ。
ああ渇く。
「どうする?」
娘は立ち去る素振り。

ま、待ってくれ。わかった。あんたが欲しいものをやる。
どうせ、このままでも喪う命。ならば、一か八か勝負に出てしまえ。
男は首肯で了承しました。
にィ、と娘の笑みが深くなりました。
「契約成立ね。それじゃあ、差し上げるわ。」
娘は、見事に熟れた果実を男に差し出しました。一口齧る度に、活力が漲るようです。
娘は男が果実を平らげるのを愉快そうに見つめていました。
「それから、これもあげるわ。」
一枚のコインでした。
表はちょうど男がいるのと同じ種類の広葉樹、裏は何かを祈る美女のレリーフ。金貨でも銀貨でも銅貨でもない、光の反射によって様々に色の変わる不思議な金属の硬貨です。
これは?
「これは、幸運喰らいのコイン。あなたに幸運を齎すわ。あなたの運命の代金といったところかしら。」
僕の人生は硬貨たったの1枚分か。そりゃいいや。

男が自嘲気味に笑って、手のひらの上のコインから視線を戻しました。
娘は、忽然と姿を消していました。
空腹のあまり、僕は幻を見ていたのだろうか。それとも、悪戯好きなピクシーにひっかけられたのか。
しかし男の手の中には、しっかりとコインが握られています。
このあとどうするべきか。男は思案しました。

男の目の前には、三つの道が伸びています。
後ろの道。男が歩いて来た道です。この道を辿ることは除外します。この先には何もないばかりか、下手をすると、また盗賊に出くわしてしまうからです。
右の道。内陸へ続く道です。
左の道。海へ続く道です。
硬貨をじっと見つめました。それから徐に空へと放りました。
裏なら右の道、表なら左の道。
戻ってきた硬貨を受け止めて、そっと手を開くと、硬貨の上の面は若い女のレリーフでした。
右か。
男は、内陸の国を目指しました。

辿り着いた国には、大きな劇場がありました。様々な装飾の施された劇場は、まるで宮殿のよう。
男がぽかんと見惚れていると、男の後ろで1台の馬車が止まりました。
「君、今日の演目を見るのかい?」
馬車から声をかけたのは、男と同じ年頃の青年でした。
いいえ旦那様、僕はこの国に来たばかり。それに、こんな高価なチケット、とてもとても手に入りません。

そう言って男が振り向くと、青年は男の顔を見て、ひどく驚いた様子でした。
「コニー?」
コニー?どなたのことです。
「君は、コーネリアスではないのか。いや、すまない。君によく似た知り合いを知っていてね。」
はあ、そんなに似ていますか。
「驚くほど瓜二つだ。ああ君、これから何か予定はあるのか?」
アテはありませんが、これから仕事を探すところです。
「当てなら私にある。急ぎでなければ、私に少々時間を割いてはくれないか。」
構いません。
男が承諾すると、青年は馬車から降りて劇場へと向かいました。
旦那様旦那様、このような身なりで、果たして入れてもらえるでしょうか。
「ああ、そうか。うっかりしていた。」
青年が御者へと声をかけると、男は馬車の中へ積み込まれました。
「私は先に中で待っているから、準備ができたらお連れしなさい。」
「畏まりました。」

訳も分からずなすがままにされていると、男は大きな屋敷で侍女に出迎えられ、身を清められ、髪を整えられ、清潔で男がこれまで身に付けたことがないほど高級そうな衣服を着せられて、再び馬車へと戻されました。
馬車はまた劇場に戻り、男は止められることなく中へと導かれます。
「やあ。こちらだ。見違えたな。そうしてみると、コニーそのものだ。」
舞台に近い専用のボックス席。青年は、相当の資産家か高い地位の貴族なのでしょう。
「急にすまないね。君に似た親友のコーネリアスがこの舞台を見ることを楽しみにしていたのだ。今日の主演の女優にコニーは恋をしていてね。」
ですが、運の悪いことに、ある日青年の親友は不治の病を得てしまったそうです。死の間際、青年に親友は言いました。
どうか私の代わりに彼女を支援してくれないか。彼女には才能がある。いずれ、素晴らしい女優になるだろう。だが、後ろ盾なくしては、彼女が舞台に上がることは難しい。
「そして私は親友の最期の望みを叶えるため、劇場に幾ばくかの寄付をし、彼女の舞台に上がるのを後押しした。そして今日がちょうど彼女の初主演であり、コニーの命日だ。そんな日に君が現れた。コニーが死の国から帰ってきたのかと思ったよ。」
そう言うと、青年は男に頭を下げました。
「どうか、彼の代わりにこの舞台を見守ってくれないか。」
わかりました。僕で良ければ。
男は頷きました。

これまで観劇などしたことのない男に舞台の良し悪しはわかりませんが、女優の演技は素晴らしいものだと感じました。
天使の歌声と嫋やかで艶やかな姿、繊細な演技。女優が指先を動かすだけでも、舞台がぱっと明るくなるようでした。
女優は、見るものすべてを魅了します。それは、男も例外ではありませんでした。

男は一瞬で恋に落ちました。

「私の我が儘に付き合ってくれてありがとう。」
お安い御用です。
「そういえば、行く当てがないと言っていたね。君さえ良ければ、働き口を紹介できるが、どうだろう。」
それは願ったり適ったり。男は青年に感謝しました。
男の運の矢印は、やっと上を向いてきたようでした。
男は元来真面目な性格。よく働き、仕事もすぐに覚える男を、紹介された商人もすぐに気に入ってくれました。

男は、商人の元で稼いだ金を元に、独立を決めました。
また、男にもともと商才があったのか、たまたま運が良かったのか、男の助言で始めた事業がすべて当たり、障害となるものは、男が何もしないうちから消えてゆくのです。
男は莫大な富を手に入れました。

男は大事な決断をするときに、あのコインを投げました。コインの表裏に後押しされた結果は、いつも男に良い結果を齎らしました。
あの樹の下で不運を嘆いていた頃が嘘のように、男は幸運に恵まれました。
あのときの娘の言葉は真実だったのです。

「やあ。仕事はどうだい?」
旦那様のおかげで、とても楽しく過ごしています。
「また今度、大きな事業をやるそうだね。」
ええ、実はあの金鉱の持ち主が先日亡くなって、買い主を探しているそうなのです。伝説だけで、金が出たという話は聞きませんが、僕の直感は「買え」と言っているのです。
「君の商売に関する直感はよく当たると聞いているよ。ところで、今日君を訪ねたのは、君に頼みがあってなのだが。」
なんでしょう。卿には大変なご恩があります。僕にできることでしたら。
「君に公爵夫人を見舞って欲しいのだ。」
公爵夫人を?
「ああ。以前、君が私の親友だった男に似ているという話をしたね。」
ええ。そのおかげで、あなた様の目に留めて頂けたのですから。
「実は、公爵夫人というのはその男の母君なのだ。コニー、いや、息子のコーネリアスを亡くしてからというもの、彼女はひどく衰弱してしまい、枕も上がらぬ状態なのだが。君の話を誰かがしたのだろう。他人でもいい、息子の顔をした君にぜひ会いたいと、私に話が回ってきたのさ。」
しかし。
「私も実のところ、君に聞かせるべきがとても迷った。だが、公爵夫人のおいたわしい姿を見ていると、どうしても私の判断でお断りすることができなくてね。」
今日はまだ仕事が残っていますので、お返事は夜でも良いでしょうか。
「もちろんだ。すまないね。」
男はひとりになると、こっそりコインを投げました。
コインは、行けと言っている。
男は、公爵夫人を訪ねることにしました。

病み窶れても、公爵夫人は気高く美しい女性でした。
男の顔を見るなり、公爵夫人の目が潤みます。
「ごめんなさいね。あなたがあんまりにも息子に似ていたものだから。」
僕は、そんなに似ているでしょうか。
「ええ、その声も、仕草もあの子が帰ってきてくれたかのよう。」
公爵夫人は、夫に続いて息子まで早くに亡くし、すっかりと生きる希望を失っていたのです。
「しばらく、思い出語りに付き合ってくださる?」
奥様のお気持ちが少しでも晴れるのであれば。
男がそういうと、公爵夫人は微笑みました。
「優しいひとね。」
それからしばらく、男は仕事を終えると、公爵夫人を訪ねました。
そのうちに、公爵夫人が語る思い出も、まるで自分が経験したかのように、男の脳にありありと映し出されるようになりました。

一度も会ったことのないコーネリアスの父親の顔すら、目に浮かぶようです。
「ときどき、こんな馬鹿なことを思うの。声もなにもかも、すべて息子にそっくりなあなたは、いたずらっこのあの子が、他人のふりをしているだけなんじゃないか、って。」
男のおかげで、公爵夫人の顔は少し明るさを取り戻したかのようでしたが、病状は、悪化の一途をたどるばかり。

公爵夫人はある日、男の手を握り、こんなことを言いました。
「もし、あなたさえ嫌でなかったら」
なんでしょう、奥様。
「しばらくの間、わたくしの息子のふりをしてくださらない?」
自分はもう長くないことを感じている、少しの間で良いから、自分を母と呼び、あなたのことを息子の名で呼ばせて欲しい。それが、公爵夫人の願いでした。
そのように気弱なことをおっしゃらないでください。
男は公爵夫人のか細い手を握り返しました。
呼び名など、お好きにお呼びになれば良いでしょう。僕は、あなたが元気になって『また、かつてのように庭の薔薇園の中で歌うあなたの歌が聞きたいんだ、母様。』
「ああ、コーネリアス。わたくしの可愛いコニー!」
その夜、男は公爵夫人が眠りにつくまでずっとそばにおりました。

男は、公爵夫人の息子の名で呼ばれるようになりました。男も、公爵夫人を母と呼ぶようにしました。天涯孤独の男にとっても、初めて母ができたようでしたから、それほど嫌な気持ちにはなりませんでした。また、男はコーネリアスの部屋を与えられました。
不思議なことに、コーネリアスの持ち物のあらゆるものも、前から自分の持ち物のような気がしてきましたし、知らぬはずの上流階級でのマナーも言葉遣いも、前から知っているかのように自然に振る舞えるのでした。
男は、いつしか公爵夫人の息子の名で呼ばれることにも違和感がなくなり、自分が生まれた時から公爵夫人の息子であったのではないかと錯覚すらするほどでした。

コインはとうとう、男を公爵夫人の養子にしました。
公爵夫人の養子となり、名実ともに公爵夫人の息子となった男は、老いた母から家督を譲られたおかげで、富だけではなく、権力さえも手中に収めました。

「やあ、コーネリアス。」
君か。
男は、もう青年を旦那様とは呼びませんでした。
「聞いたぞ。あの鉱山からとうとう金が出たそうだな。また君の財産が増えるというわけだ。出会ったときのあの姿が嘘のようだ。」

いつか男が買った金鉱山からは、莫大な黄金が発見されました。ただ、痛ましいことに、それがわかったのは、最初に見つけた若い鉱夫がそこで亡くなっていたからなのでした。

男の望んだもの、全てが手に入りました。
コインは、そうなるように男を導きますから。
富と権力を手に入れた男が欲するのは、あとはただひとつの愛なのでした。

男が女優を訪ねて楽屋の扉をノックしようとしたとき、中から声が聞こえました。
「ゾーエ。答えは急がない。だが、この舞台の後に聞かせて欲しい。」
「エリオット様。ああエリオット様。わたしとエリオット様は、あまりに身分が違いすぎます。わたしが主役を演じられたのもエリオット様のおかげ。わたしもエリオット様をお慕いしていますが、きっと世間が許さないでしょう。」
青年と、女優の声でした。
男は全てを悟りました。恋を喪失したことも。
それでも男の心臓では、恋心の灯火が消えることなくめらめらと燻り続けました。
「ゾーエ、この千秋楽を終えたら、私と一緒に行かないか。誰も私達を知らない場所へ。ふたりでそこで暮らそう。」
「エリオット様、わたしのために何もかも捨てると仰るの。いけませんエリオット様。わたしのためにそのようなこと、どうか考えを改めて。エリオット様には、どなたか深窓の姫君こそが相応しい。」
「ゾーエ、君は嫌だと言ってくれないね。いっそ私を拒絶してくれ。そうすれば私は君から永遠に去ることができるだろう。」
「いいえ!エリオット様。エリオット様のその黒曜の瞳も、この愛おしい唇も、すべてわたしが独り占めできたらどんなに良いでしょう。でも、エリオット様は」
そこで、声は途絶えました。
男は千秋楽を見る気になれず、馬車を屋敷に急がせました。

男はコインを投げました。
友人として、彼らを見守るべきなのか。友人として、彼らを止めるべきなのか。
コインは、残酷にも『見守れ』と示しました。

男は、心からの祝福はできないまでも、ゾーエとエリオットを見守ることにしました。コインの結果はいつも正しいのですから。

エリオットとゾーエは、その後間もなく旅立ちましたが、それも長い時間ではありませんでした。
なぜなら、エリオットとゾーエの乗った馬車は旅の途中、嵐に巻き込まれ、崖から真っ逆さま。
たまたま川の下流に流れ着いた、二度と舞台に立てなくなった、踊れなくなったゾーエだけが見つかりました。

ゾーエは、まるで腕の良い人形職人の造った陶器人形のようになりました。
それでも男は根気よくゾーエに声をかけ続け、ゾーエの世話をし続けました。
僕を受け入れなくてもいい。エリオットを思い続けたままでいい。どうか、僕が君を想うことだけ、許してくれないか。
そうするうちに、男の真心が伝わったのか、少しずつですがゾーエは男に心を開くようになってきました。

どんな形であっても、男はゾーエをも手に入れたのです。
ゾーエは、男を受け入れました。
ゾーエは再び舞台に立つことを望みました。しかし、かつてのように立てない自分を他人には見せられないとも言いました。
だから男は、ゾーエのために劇場そのものを買い取りました。観客は、男一人だけの劇場で、ゾーエは歌いました。愛しいひとを想う哀しい歌を。舞台の観客に向けた美しい笑顔も、誰もが魅了される歌声も、今や男のものでした。

それなのに。
あらゆるものを手に入れたのに、男の心はいつもどこか虚しいのです。

子供達が歌っていた歌のおかげで、理由はすぐにわかりました。

公爵様は幸運喰らい
ひとの幸運喰らい尽くして
富と権力手に入れた
気をつけろ気をつけろ
公爵様に邪魔者と
思われたならすぐ逃げろ
でなけりゃコインを投げられて
お前の幸運喰べられる

違う!僕は人の不幸なんて望んでない!
ただ、コインが示した選択を選んだだけだ!
僕は他人の幸運を奪おうなんて思っていない!

男はひとり劇場で、叫びました。
けれど、心の片隅では、男は自覚していました。コインが齎した男の幸運は、誰かの不運の代わりに転がり込んできたものだと。
真っ暗な劇場内に、男の叫びが反響しました。

「あら。あなたはあなたが欲しいもの、全部手に入れたのに浮かない顔ねえ。」
あのときの娘でした。いつ、どこから現れたのか。
そんなことは男には、もう気になりません。
娘はとても愉快そうに笑っていました。
「あなたの人生、とても面白かったわ。買い取ってよかった。」
返してくれないか。
「あなたの人生を?」
このコインで手にした全てを君に返すから、僕に僕の人生を返してくれ。

そう言った途端、劇場に金と銀とが降りだしました。
「せっかくの『コーネリアス』を手放すつもり?いやあよ。それじゃあつまらないもの。それに、こんなに手に入れた富をあなたは手放すの?」
手放すさ。ただ返されるだけではつまらないというのなら、賭けをしよう。
「賭け?」
ルールは簡単だ。君がコインを投げて、僕が表か裏か当てる。
僕が勝ったら、君があのとき奪った僕の人生を返してもらおう。君が勝ったら、僕の身も魂も、好きにするがいい。
娘はにまりと笑いました。
「良いでしょう。面白そうだもの。」
男は、娘にコインを差し出しました。
さあ。投げるがいい。
娘はコインを上に向かって弾きました。
「さあ、表に賭ける?裏に賭ける?」
男は深呼吸して、決めました。
表だ。
コインはくるくる回転しながら落下してきます。
娘の口の端が、三日月型に吊りあがりました。
娘になにか禍々しい魔力が集まっている、その時です。
劇場に、美しい聖歌が紡がれます。
聖歌は、娘に集まる魔力をかき散らしました。
娘は驚愕し、回転するコインから一瞬目を離しました。

ゾーエ!
はっとするほど美しいゾーエが、客席の後ろからゆっくりと聖歌を歌いながらこちらへ歩いてきました。
ゾーエ、君、歩けるようになったのか。
舞台の上に、コインが落下します。
「余計なことを!」
娘は、悔しそうに、苦しそうに顔を歪めました。
「いやだ!せっかく手に入れたあたしのおもちゃ、手放したくない!」
コインの面は、大樹の側が上です。
「いやだ!」
しゃらしゃらと、劇場に金と銀の硬貨が降り注ぎます。硬貨は渦を巻き、娘の口へと吸い込まれてゆきます。
これまで男がコインによってもたらされた全ての富が、娘に帰ってゆくのです。

勝った!勝ったぞ!僕は僕を取り戻したんだ!
男から、重ねた年齢も、積み上げた財産も、築いた人脈も、あらゆる全てが遠ざかってゆくのが手に取るようにわかります。
それでも男は歓喜に震えました。

娘の姿の悪魔の絶叫と、ゾーエの聖歌だけが木霊します。
ゾーエの横に、そっと誰かが寄り添うのが見えました。ゾーエが男の知らぬ表情で、穏やかにその誰かに微笑みかけるのが見えました。
それでも、男はとても満ち足りていました。

そして。

気が付くと、男は、あの広葉樹の下で、立ち尽くしていました。
手の中には、一枚のコインが握られています。
男はしばらくの間、ぼんやりとコインを見つめていましたが、俄かにコインを握りしめた腕を振りかぶると、思い切り投げ放ちました。
それから、海へ続く道へゆらゆらと歩き出しました。

コインがどちらを上にしていたかも、その後の男の消息も、伝わってはおりません。

ただ、伝わるのは、諦めずに金を掘り続けていたひとりの若者が黄金の塊を見つけて大金持ちになったこと、大きなオペラハウスで演じていた女優が貴族の青年と結婚し、みんなに祝福されながら、いつまでも幸せに暮らしたということだけです。

歌と音楽が止むと同時に、酒場の音が戻ってきた。酒場の壁は酒場の壁で、オペラハウスの幕ではない。
金や銀は降り積もっていないし、酒場の中に大樹が生えていることもない。
歌っていた少女はというと、忽然と姿を消し、少女のいた場所にはコインが一枚だけ残されていた、ということも全然なく。
少女はぐるり一周にぺこりぺこりと会釈して、何か手書きでかかれたチラシを自分の周りに押し付けてから、すとんと着席した。
それから片手をふりふり。
「おねーさん!ラムをちょーだいな!とびっきりのやつ!」
しかし少女のリクエストに反して、テーブルにはなみなみと注がれたホットミルクが、でん、と置かれる。
「ちょっと!コドモあつかいしないでくださいな!ビビさんは齢三千を超える立派な成人ですよ!」
「蜂蜜と生姜がたっぷりで喉に良いんだよシンガーさん。まったく。こんなときなんだから、もっと景気の良い歌を歌っておくれ。」
少女はぷう、と頬を膨らませたが、
「こんなときこそ、ピンチのときに転がってきたうまい話にすぐ飛びついたらいけませんてキョークンが必要だと思うんですー。」
ミルクにちびちび口をつけて、へにょりと相好を崩した。
少女の配ったチラシには、丸っこい文字でこう書かれている。
「ヴァイオレット・ラウルスのファントム・ミュージカル・ショウがご入用なら、いつでもご連絡くださいな。どんな歌でも歌いましょう。ただし、報酬と気分次第です!」

<了>

読んだ!