宿語りのシーガル

【夜を守る者】

歯牙

Author:風城国子智さんTwitterID

 闇だけが広がる空と、無音の大地が、冷たい風を運んでくる。その風の中に感じた、胸が悪くなるほどの生臭さに、ブランは思わず咳込んだ。
 その咳の音も、ブランの身動きが立てた僅かな足音も、すぐに闇の中へと消えていく。寒い。夜明けが近い所為か、ますます冷え込んでいる。震えを覚え、ブランはまとっていたマントをきつく、その細い身に巻き付けた。
 震えながら、それでも、闇に目を凝らす。今のところ、特に異常は見られない。ブランが立っている、崩れかけた城壁の歩廊の向こうにある荒野にも、城壁が守る、荒れ果てた街にも、動くものは見当たらない。吹き上げる風だけが、ブランの体温を容赦無く奪っていく。ただ、それだけ。寒さと心細さを同時に覚え、ブランは松明と警鐘が置かれた自分の守備場所を離れ、風を避けることができる、休憩場所でもある『東の塔』へと移動した。
 風の無い場所でマントをしっかりと身体に巻き直してから、夜の警備に戻る。荒野の反対側、街の更に向こうに、闇とは違う色をした柔らかい丘の陰を認め、ブランはゆっくりと息を吐いた。
 大陸中央部に位置する、丘と呼ぶには険しい山々で囲まれた、魔物が闊歩するだだっ広い平原。その南東部に位置する丘の『切れ目』から、人々は広大な平原へとその居住範囲を広げた。その黎明の日々に、人々は平原開拓の足掛かりとして、また平原を闊歩する魔物を平原の外へ出さぬ砦として、丘の切れ目を隠すようにこの『始まりの都』を建設した。
 『始まりの都』から平原の奥深くへと旅立った人々の手によって、平原は、穀物がたわわに実り、羊や牛が草を食む豊かな食糧地帯へと変貌を遂げた。だが、それも今は昔。時が経つにつれ、豊かであるはずの青と茶の平原は、地の底からじわじわと湧き出てきた『白い土』に覆われてしまった。白く染まった大地では草一本育たず、人々は生きる術を失った。そして同時に、一時期は形を潜めていた、夜の闇と人々の血を糧とする魔物達が再び平原を跋扈し始める。現れた凶暴な魔物に追われるように、人々は平原を見捨てた。現在、平原に残っている人々は、ほんの僅か。その僅かな人々も、跋扈する魔物から、不毛となった平原から逃れるために次々と、この都に逃げ込み、そして古い街道を辿り、丘の向こうへと去りつつ、ある。
 ブラン自身も、白い土と暗い闇に追われるまま、生まれ育った小さな村を見捨てた一人。だが、この都に辿り着くまでに、ともに村を脱出した人々は一人、また一人と、夜の闇に消え、また白い土が発する瘴気に斃れていった。子供のブランをこの都まで連れてきてくれた、生き残ったたった一人の大人であるブランの祖母も、長年の無理が祟ったのか、この都の入り口で息を引き取った。ひとりぼっちになってしまったブランを、引き取ってくれたのは。
「寒いか?」
 気遣わしげな声に、はっと顔を上げる。いつの間に現れたのか、『始まりの都』の夜警隊『夜を守る者』の隊長、カイが、ブランに笑顔を向けていた。カイの後ろには、副隊長のウルが、巨大な身体を持て余し気味にして立っている。都の城壁に設えられた歩廊を一周し、異常の有無を確認する任務から戻ってきた二人の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。
「だ、大丈夫です」
 その額に、一礼する。カイの胸元で揺れる、灰色を帯びた牙が、ブランの瞳を鋭く射た。ウルの胸元にも、カイと同じ、大きな獣のものであろう牙に飾り紐を付けた首飾りが揺れている。
 『始まりの都』が建設されてまもなく。都を守る騎士の一人が、荒野に倒れていた一頭の獣を助けた。どう見ても平原を跋扈する魔物にしか見えない大きさの、しかし他の魔物とは異なる白色の姿を持っていたその大狼に似た獣は、命を救ってくれたお礼にと、恩人である騎士と、この平原に人が住む限り白き獣がこの都を守るという『盟約』を交わし、騎士とその部下達に都を守る『力』を与えた。その騎士が率いていた部隊の末裔が、『始まりの都』の夜警隊『夜を守る者』。カイやウル、夜警隊の正隊員が身に付けている、様々な色の飾り紐で飾られた牙は、白く優しい獣との盟約の証。
 保護者を亡くして途方に暮れていたブランを拾い育て、夜警隊の見習い隊員にしてくれたのは、カイの母でもあった前の隊長。彼女の恩に報いるためにも、早く正式な隊員になりたい。それが、ブランの今の希望。
「立っているだけでは、やはり寒いな」
 夜警隊の詰所がある東の塔から出てきた、カイ達と入れ替わりに見回りに出る三人の正隊員を見送ったカイが、ブランを見て口の端を上げる。
「少し身体を動かそうか、ブラン」
 そう言いながら、カイは近くの小壁体に立て掛けられていた槍の一つを、ブランの方へと軽く投げた。
「もうそろそろ、正隊員に任命できると良いのだが」
 ブランが槍を受け取る前に、カイがすらりと腰の剣を抜く。教わった通りに、ブランは歩廊の石床に足を構えた。と。
「こんな小童、隊長の手を煩わせるほどでもない」
 不意に、ブランとカイの間にウルが割って入る。
「俺が相手をしてやろう」
 剣を構えたウルの、大柄な身体から発せられる迫力に、寒さとは違う震えを感じる。何処を攻撃したらよいのか、全く見当もつかない。だが。小柄なブランと同じくらいの体格しかないカイは、大柄なウルも、カイより大柄な他の三人の隊員も、剣一つで下していた。この前の模擬試合で見た、カイの剣技を脳裏に思い起こしながら、ブランは石床を蹴り、振り下ろされたウルの大剣をぎりぎりで躱し、身を捻ったままウルの首筋に槍を叩き込んだ。
「なっ」
 ウルの狼狽の声が、暗い空間に響く。首筋への攻撃はさすがに避けたが、それでも、ウルの頬には一筋の血の跡があった。
「そこまでだ」
 ブランを睨むウルの前に、カイの影が舞う。
「最近訓練サボってるのか、ウル」
「なわけないだろっ!」
 ウルに向かって軽口を叩いてから、カイはおもむろにブランの方へと向き直った。
「強くなったな、ブラン」
 カイの小さな手が、ブランの絡まった髪の毛をわしわしと撫でる。隊長に、褒められた。頬が熱くなり、ブランはカイを見上げてにこりと笑った。
 その時。
 暗闇だけだった空が、大きく動く。
「魔鴉!」
 ブランが叫ぶより前に、カイの剣が、城壁の上に姿を見せた黒い大鴉を無造作な動きで叩き切った。
「鐘を鳴らせっ!」
 その言葉を残し、歩廊の石床を蹴ったカイが夜空へと飛び上がる。もう一体の大鴉をも一撃で叩き切ったカイは、その大きな翼とともに落ち、ふわりと地面へと着地した。
「魔狼もかっ!」
 カイが着地した、都へ入る大門前の荒れ地を睨み、ウルが叫ぶ。確かに、闇に覆われた大地を更に暗く覆い尽くすかのように、大きな影が複数蠢いているのが、矢狭間からでもはっきりと見える。地上へ向かうウルの急いた足音を聞きながら、ブランは右手の槍を空に羽ばたく大鴉の方に投げ、そして見回りに行った他の三人の隊員を呼び戻す為に力一杯鐘を鳴らした。
 と。
「カイっ!」
 取り乱したウルの叫び声に、小壁体の狭間から身を乗り出す。そのブランの瞳に映ったのは、ウルよりも大きい、闇色をした狼三匹に横と背後から肩と腕を噛まれ、地面に横様に倒れ伏すカイ。
「隊長!」
 思わず、叫ぶ。
 鐘の音が聞こえていないのか、夜警隊に所属する三人の正隊員達の戻る姿は見えない。第一、今の夜警隊の隊員は、見習いであるブランを含めて六人しかいない。どう、すれば。起きあがろうとしたカイを庇うウルの横をすり抜けた狼の影にカイの身体が消えるのを、ブランは呆然と見詰める他、なかった。
 と、その時。剣を捨てたウルが、胸に揺れる牙を掴む。次の瞬間、ウルが立っていた場所には、白い毛を風に揺らす、狼に似た巨大な獣が佇んでいた。
「なっ」
 戸惑いの声を上げるブランの目の前で、ウルが変じた白い獣が次々と闇色の大狼を食らう。たちまちにして、闇色の魔物の姿はブランの前から消えた。そして。薄明が、白い土で覆われた不毛の荒野を淡く照らす。光の眩しさに目を瞬かせたブランが次に目にしたのは、荒野に転がる一対の巨大な牙と、その牙を見詰めて咽ぶ、血の朱に染まったカイの姿。

 その日の、夕方。
 水の入った桶を持って、東の塔の最上階にある夜警隊の隊長室に入ったブランは、部屋の殆どを占める古びた机に手を置いて器用に紐を編む隊長カイの姿にほっと息を吐いた。魔狼に噛まれた怪我は大丈夫そうだ。カイの両腕に巻かれた、まだ血の滲む包帯を、ブランはただ静かに、見詰めた。
「どうした、ブラン?」
 そのブランを咎めるように、カイが顔を上げる。おそらく眠れていないのだろう、カイの瞳の周りに滲む青黒さに、ブランはそっとカイから視線を逸らした。
 そしてそのまま、隊長室を見回す。部屋の壁の一面には、カイが身に付けているのと同じ、牙に飾り紐を巻いて作った首飾りが並んでいた。その数は、二十七。白く優しい獣から、都を守る『力』とともに渡された牙は確か、三十二、ある、はず。身寄りのないブランを拾い育ててくれた、カイの母でもあった前の隊長が教えてくれた、『夜を守る者』と盟約を交わした優しき獣の話を思い出しながら、ブランは指を折った。一つは、目の前の、ブランからは横顔しか見えなくなった隊長カイが身に付けている。三つは、今も城壁の歩廊で任務に就く準備をしている三人の隊員がその首に掛けている。まだ見習いであるブランの首には、首飾りは掛かっていない。そして、残る一つは。夜の闇を切り裂き、朝の光に消えた白き獣の姿を思い出し、ブランは溢れる涙を汚れた袖で拭いた。
 ウルが遺したものは、一対の牙のみ。その牙の片方を、カイは都の中の墓地に埋めた。そしてもう片方は。カイの手元を見やり、ブランはもう一度、袖で目を拭った。僅かに黄みを帯びた白い牙が、飾り紐を編むカイの手の横に転がっている。おそらく、カイは、今編んでいる飾り紐をウルの牙に結んでから、この壁に飾るつもりなのだろう。
 盟約により、一夜だけ、都を守る為に獣へと変じた後、朝日に溶けて消えてしまう『夜を守る者』が遺す一対の牙。その片方を葬り、そしてもう片方は、次の『夜を守る者』へと引き継ぐ。それが、隊長の職務の一つ。だが、牙を引き継ぐことができる者は、今はいない。これからも現れないだろう。
 かつて、この都が全盛を誇っていた頃、白き獣から贈られた牙を身に付けることができたのは、『夜を守る者』の中でも文武に長けた、三十二に分かれた部隊の隊長だけだった。そのことをブランに教えてくれたのも、前の隊長だった。ブランがそこまで思考を巡らせるより早く、カイは手の中の、かつてはウルであったものの牙に飾り紐を取り付けた首飾りを、ブランの方に突きつけた。
「やる」
「隊、長?」
 その牙を受け取って良いのか、迷う。ブランに顔を背けたままのカイを、ブランは訝しげに見詰めた。
「まだ頼りないが、人手が足りない。おまえを正式な隊員として認めてやる」
 そのブランの耳に、いつになくぶっきらぼうなカイの声が響く。そして。
「ここに飾っておくより、おまえが身に付けていた方が、あいつも喜ぶ」
 次に響いた、沈んだ声に、ブランはただ、頷いた。
 おもむろに、カイの手からウルの牙を受け取る。カイが飾り紐に取り付けた、どこかウルに似た大ぶりの房飾りを撫でながら、ブランは涙をようやく、堪えた。

 いつもと同じ、何も見えない闇に、目を凝らす。
 昼に雨が降った所為か、今日の風には、生臭さが無い。凍るような夜の空気を吸い込みながら、ブランはほっと息を吐いた。暗い夜も、もうすぐ終わる。
 ブランが正式に夜警隊『夜を守る者』の隊員となってから三年余り。その間に、夜警隊の隊員はブランと隊長のカイ、たった二人にまで減っていた。他の隊員達は、様々な理由により、惜しまれながら丘の向こうに去っていった。平原に残っていた人々も全て、動ける者は丘の向こうへと行ってしまった。平原にはもう、人の姿は無い。この都に残る僅かな人々も、明日の朝、ここを去る。ブランと、カイも。
 寂しさは、確かに、胸の中にある。そっと、汚れた袖で顔を拭う。しかしながら。もう、平原にも、都にも、誰もいない。守る者がいなくなってしまったのだから、夜警隊も、解散するのが、当然。
「夜明けが、近いな」
 気を緩めたブランの耳に、明るい声が響く。
「少し寝ておいた方がいい」
 ブランの斜め後ろに立った、『夜を守る者』の隊長であるカイはそう言って、ブランと同じように、都の外に広がる暗闇を見詰め、そして反対側、都の中で一夜を明かす引揚隊の焚き火の炎を見やった。
「今日はかなり歩く。あの者達は、夕方には『丘』に辿り着きたいと言っていた」
「しかし、ここを守る仕事を放っておくわけには」
 ブランの当たり前の逡巡に、カイが微笑む。
「私が、見ておく」
 そう言って、カイは焚き火の横に置かれた荷馬車を指差し、にやりと笑った。
「出発後に、黙ってあそこに潜り込んで眠ればいい」
「そう、ですか」
 平原に広がる闇を再び見詰め始めたカイを、そっと見やる。眠いのは、事実。ここはカイの言葉に甘えた方が良いだろう。カイなら、一人で都を守ることは朝飯前。ウルが獣に変じてからこれまで、都を襲ってきた無数の魔物達を、カイは自身の剣一つで殲滅し続けていた。胸に揺れる牙に手を伸ばしたことは、ブランの知る限り一度も、無い。夜警隊の隊員がブランとカイ、たった二人になってしまってからずっと、カイは殆ど一人で、人の姿のまま、このぼろぼろの都を守っている。眠気覚ましに歩廊を巡るつもりなのか、ブランから離れたカイの背が視界から見えなくなると同時に、ブランは城壁から降りる為に東の塔へと向かった。
 と。ブランの視界端を、重い影が過ぎる。振り向いたブランの瞳に映ったのは、今にも城壁を、都全体を飲み込む勢いの、東の塔より高い闇の壁。止めなくては。自身の職務を思い出し、剣を抜く。しかし、剣一つでこの重苦しい闇を止めることができるのか? いや、止めなければならない。それが、『始まりの街』の夜警隊『夜を守る者』の、責務。それを、果たすためには。
 胸で揺れる、大振りの牙を、左手でそっと掴む。だが次の瞬間、強い衝撃とともに、掴んでいたはずの牙は歩廊の石床に転がった。そして。
「隊長!」
 ブランと黒い影の間に立ち塞がった、小柄な影に、声を上げる。ブランの左手を叩いた、カイの右腕の震えに気付くより早く、カイの姿は白い大狼の姿に変じた。
 獣の彷徨が、夜を震わせる。飛び上がり、身を捩った白い獣が闇の壁をずたずたに切り裂く様を、ブランはただ呆然と、見詰めていた。
 カイが変じた、白い獣は、都に襲いかかる闇をいとも簡単に駆逐する。幾許も経つことなく、夜より暗い闇の壁は都の周りから消えた。そして。薄明が、白い大地の上に降り立った白い獣の姿を輝かせる。次の瞬間、大地を薄赤く染めた陽の光が、獣の姿を淡く溶かした。
「隊長!」
 叫ぶブランの視界に映ったのは、大地に転がる一対の牙。かつてはカイであったその牙に、ブランの視界はたちまちにして、霞んだ。

 都を去る前に、もう一度、東の塔に登る。
 代々の夜警隊隊長が使っていた部屋の壁に飾られていた、歯牙に飾り紐を取り付けた首飾りは全て、跡形も無く消え去っていた。その事実を確かめ、息を吐く。ブランが身に付けていた歯牙も、既に消えて無くなっている。カイが遺した、一対の牙も、今ブランの手の中にあるのは、その片方だけ。涙を止める為に、ブランは固く目を閉じた。……全てが、終わったのだ。都は消え去り、優しき獣との盟約は果たされた。ただ、それだけ。
 古びた大机の上に、カイが遺した牙を置く。この城壁や塔が跡形も無く崩れ去り、白い土と黒い闇に全てが飲み込まれたとしても、高所にあるこの部屋なら、風と雨がいつか、土と闇からこの牙を取り戻してくれるだろう。この牙を見つけた誰かが、かつてこの地に暮らしていた人々のことを、微かでも想ってくれるならば、それで、……良い。僅かな灰色に染まった白い牙をそっと撫でてから、ブランは静かに、踵を返した。

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