宿語りのシーガル

【宿語りのシーガル】

outro

Author:梶つかささんTwitterID

 ランプの灯は昼を待たずして吹き消された。それも当然のこと、雲間から差した日は一面の雪景色に反射して、窓越しにでも目を焼くほどに眩い。夜通し降り続けた雪もとうに止み、港町は常の活気を取り戻しつつあった。
 宿を出た者たちの旅先は知れない。一夜の出来事も、みな夢であったかのようだった。船出の報せが届けられた朝方に――より早い者などはゆうべのうちに――彼らはそれぞれに宿を、そしてこの小さな島を出ていったのだ。
 あとに残されたのは、嵐の跡と称するにふさわしい有様の広間のみ。袖をまくり上げた娘たちが右へ左へと行き交うようすを、“嵐”を巻き起こした当の男は、やはり杯を片手に眺めているのであった。
「あんまりな幕引きね」
 男の傍らには娘が佇んでいる。掃除にいそしむ娘たちと比べればひときわ若く、膨らませた頬には一部の幼ささえもちらつかせる娘だ。彼女はブラシを杖代わりにし、独白じみた男の語りに耳を傾けていた。
「ならあなた、自分がその土地とやらの生まれだったとでも言うつもり。さんざん人に物語を作らせておきながら、ほんとうのところはぜんぶ自分のなかにあったって」
「そこまでは言っていないさ」酒の杯を傾けきって、男はひとつ息をつく。「ただ、俺の育て親にあたる隊商の長が、俺をその地で拾ったと語っただけだ。縞模様の衣に巻かれて、透明の羽根飾りを頭に差した赤ん坊……かれの首はどこのものとも知れぬ獣の牙と魚の鱗に彩られ、寝姿はまるで草原という大きな棺に横たわっているかのようだった、とね」
「その手に握りしめていた硬貨が、ちょうど隊商に渡す路銀になったとでも?」
「ご名答。どうやらお姉さんには占師の才がおありと見える」
「できすぎた話だわ」
 娘が唇の端を引き下げる。男はからからと笑い声を上げた。
「なんのことはない、俺は俺の棄てられた場所のことが知りたかったというわけさ。故郷であるかもしれないその場所のことをね。足しげくかの地を訪れては、過去を探る手掛かりがないかと血眼になって地面を睨みつけていた」
 度数の高い安酒が、男の舌をよく回す。彼が懐から引き出したものは、中ほどから折り取られたと見える刃物の刀身だ。左手の指輪が陽光を照り返す一方で、刃はただ、赤黒い錆を外気に晒している。
「見つけられたのはこれぐらいだ。以来俺は各地を転々と渡り歩き、故郷に関する話を集めて回っている、というわけで――」
 声を遮るようにして、どさり、屋根の雪が落ちる。娘が首を振った。
「……下手な作り話。あなた自身には語り部の才がないようね」
 続いて滴った雨垂れは、窓に弾かれて鈍い音を立てた。ほおとこぼしたきり口をつぐんだ男に、「憶えているわよ」と娘は唇を尖らせる。
「去年のかもめ流しの日にも、あなたはここを訪れた。そのときには自分を流浪の王族だなんてのたまったわね。去年だけじゃないわ、おととしも、その前の年も、あなたはこの宿に泊まっては、そのたび別人みたいな生い立ちを私に語り聞かせたでしょう。私だって曲がりなりにも宿屋の跡取りよ、毎度同じ時期に同じ騒ぎを起こしてくれる客のこと、忘れられるわけがない」
 ふいに持ち上げられた娘の指が、宿の窓際を指し示す。そこに置かれているのは小さな鉢植えだ。花のない茎が一本、寒々しい格好で立ち尽くしている。
「足りなかった酒代を、花の種ひとつでツケにしようだなんて言ったこともあったわね。いいえ、花の種なんて冗談。一年待っても蕾のひとつもつけやしなかったわ。あの時のお代、今年こそ払ってくれるんでしょうね」
「ああ……まあ、その話は追々、追々だ。日も高くなったことだし、俺もそろそろお暇するとしようかな」
 いそいそと男が机に置いたのは、一晩の宿代と酒の代金がちょうど。軽い荷を取り上げた男を一睨みし、娘は深いため息をつく。
「まったく、とんだ酔狂もいたものだわ。百歩譲ってさっきの話を信じるとしても、あなたが他人の物語に耳を傾ける理由にはならないでしょう。真偽の区別もつきやしないのに」
「そうかい? あれらはなべて真実だったじゃないか。すくなくとも昨晩のうちは」
「それは……」
 ランプの硝子を舐める灯火、麦酒の杯に踊った紅、窓を覆った水の粒が一斉に金色を照り返す宿で繰り広げられた、旅人たちの歴史語り――その最中、ひときわ輝いていたのが彼らの瞳であったことを、給仕を務めた娘もよく憶えている。
 男は危なげなく立ち上がると、磨かれたばかりの机に杯を置いた。彼の背中を追うように、装束は遅れて翻る。
 その背に「待って」と声をかけたのは娘だ。
「まだ訊いていなかったわ。毎年毎年、どうしてわざわざこの宿を選んでいるのかって」
「異なことを言う。お姉さんはこの宿に自信が持てないのかい?」
「私はあなたの懐具合のことを気にかけているの。いつだってロビーの端で安いお酒ばかり飲んでいるんだもの」
「なるほど」
 貧乏人には貧乏人にふさわしい宿がある、と――歌うように言った彼に、娘は肯定も否定も示さなかった。男が肩をすくめる。
「あいにくだが俺はこの宿が気に入っていてね。安くても酒は旨いし、働き手がみんな揃ってやさしい。なにより立地がいいじゃないか」
「丘の上にあるからって? かもめ流しの日に泊まりに来るなら、景色なんかあってないようなものでしょう」
「うんうん、その通りだ」
 男は唇の端に含み笑いを浮かべるも、それ以上言葉を吐くことはしなかった。代わりに彼が口ずさんだものは、寂しげな調子の旋律がひとしらべ。酒の気配を毛ほどにも感じさせない足取りで、宿の扉を押し開く。
 途端に吹き込んだ凍て風が、宿のランプを揺らしていった。耳を裂くようなその音色が、いっとき、泣き声じみた響きを帯びる。瞠目した娘を、男は首だけでふり向いた。
「宿を貸してくれてありがとう、お姉さん。よい一晩だった。店主殿にもどうぞよろしく」
 空は灰青、地は真白、かなた広がる滄海には白波。吹雪の晩を乗り越えて、最後のかもめが飛び立っていく。かれら旅鳥の行く先を見定めることさえ、宿の人間にはかなわないのだろう。珍妙な装束が街角に消えてゆくのを眺めると、娘は扉を締めきった。
 胸にはいつからか、冬晴れの空に似た清々しさがある。夢の跡を、歴史の終幕を、しかし惜しむ必要などどこにもないのだ――また一年が廻ったのち、この宿がふたたび数多の物語に満ちる日に、立ち会うことさえかなうのであれば。娘は高らかに掌を打ち合わせ、宿の働き手たちをふり向いた。
「さあ、みんな、今日もせいいっぱい働きましょうか!」
 めいめいの返事を耳に受け、娘はブラシを握り直す。
 宿のロビーの隅の隅、暖炉にくすぶる火の粉がひとつ、ゆるりと光を落としていった。

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