今日の天気はすこぶる快晴。だけど時々、うっすら雲が陰る。特徴的な、筋状の雲。
 この雲を見ていると思い出す事がある。あの日見た、飛行機雲。あの日から見たことのない本物の飛行機雲。
 長くてまっすぐで、迷いなく空を切り分ける飛行機雲。


 私は今、異世界にいる。私の生まれた場所でない場所。私にとって、異質な世界。この世界にとって、異物な私。
 私にとってこの世界は私の望まない世界であり、この世界にとって私は望まれないであろう個人である。互いに違うもので、望まないもの。異質と異物。それが私とこの世界の関係。
 どうして私が異世界にいるのか──それはおそらくあの事件があったから。


 幼い頃、私は家で一人で留守番をしていた。寒い冬の日だったので、両親はストーブを点けたまま出かけてしまったの。
 幼い私はストーブが危険なものだと認識していなくて、温かい箱として、ストーブの周りで遊んでいた。そして事件は起こった。
 遊んでいた人形にストーブの火が燃え移ってしまったの。
 もちろん私は慌てて人形を振り回して火を消そうとした。だけど逆効果。
 火の粉が飛び散って、じゅうたんやカーテンに火が燃え移った。それからはものすごい勢いで家中を焼き、あちこちに延焼する燃え盛る炎しか覚えてない。
 熱くて煙たくて苦しくて、私は泣き叫んでいた。声をあげて、ただひたすらに叫んでいた。
 助けて。熱いよ。誰かきて。お母さん、お父さん。
 何を叫んでいたのかも分からない。だけど必死に叫んで、炎から逃れようともがいていた。外へ逃げるという事も分からないまま、ただ、叫んでいた。声をあげていた。
 そうしたら急に熱さがなくなって、私は今いるこの異世界に一人、放り出されていたの。命は助かったけど、何もかも失ってしまったの。
 なぜだかは分からない。けれど私は異世界に飛ばされる事によって、命を取り留める事ができた。
 まさに奇跡と呼ぶしかないわ。


 それからの私は、異世界の町で小さな商店を経営している夫婦に拾われ、そこで暮らして育ててもらった。育ての親である夫婦は優しくて、身元のはっきりしない私を我が子のように育ててくれた。
 後から知った事だけど、育ててくれた両親は本当の子供を火事で失ったばかりだったらしいの。私は身代わりだったのかもしれない。愛情は感じていたけれど。
 私は育ての親である夫婦と仲良く暮らして、お店を手伝ったりご馳走を作ってもらったり、それなりに楽しく幸せに暮らしていた。
 だけどやっぱり思い出すのは本当の両親。私の心の奥底には、元の世界に帰りたい、本当の両親に会いたいという気持ちが燻っていたの。
 育ての親の元で歳を一つとるごとに、私は異世界にいる、私はこの世界に望まれて存在していない、私もこの世界を息苦しいと感じる、そういった感情が芽生えてきていたの。本当の事を何もかも忘れて暮らすという事ができなくなっていたの。

 本当の世界で私が暮らしていたのは、まだ幼い頃までだったのに、本当の世界へ帰りたいという気持ちが大きく膨れ上がっていったわ。


 育ての親に拾われて十年が過ぎた頃、私は彼らの元から去り、この森の奥で一人で世間から隠れるようにひっそり暮らし始めた。時々、育ての親が訪ねてきてくれたけど、この場所は他の誰にも知られていない、私だけの秘密の場所だった。ここで私は本当の世界に帰る日を待とうと思ったの。
 私のいた本当の世界への扉をまた開ける事ができる日まで。本当の世界の誰かが、この世界にいる私を見つけてくれるまで。


 一人で暮らし始めて、何もかもを自分でやるようになって、日々の細々した家事に追われながら、私は自分の抱いている感情に違和感を覚え始めた。
 私は本当に、元いた世界へ戻りたいのかが分からなくなってしまっていたの。それほど長く、この異世界で過ごしてきたから。
 戻りたい? 戻りたくない? 自問自答を繰り返す。
 そして決まって一つの結論に辿り着く。
 ──戻れるならば戻りたい。この世界が私を不要としているのなら、戻りたい。戻れないなら、この世界が私を必要としているのなら、このまま留まろう。
 私の意志ではなく、この世界そのものに私の感情を押し付ける。命運を任せる。我が身のありかを自分以外のモノに委ねるなんて卑怯だけれど、これしか私にはないと思ったの。だって私は流れに身を任せるしかない、無力でちっぽけなただの人間だから。


 今日も空を見上げると、特徴的な筋状の雲が浮かんでいた。本当の世界では飛行機雲が見せてくれた形の雲。
 飛行機ってどんな形だったかな? そんな薄ぼんやり消えかかった記憶を掘りおこし、私は本当の世界の事を一生懸命思い出す。私の記憶がきっと、本当の世界へ戻るためのロープになってくれるから。だから今日も本当の世界で体験したはずの、幼い頃の思い出を思い出す。
 窓から見た青い空と、空を切り分ける飛行機雲。寒い日。温かい箱はストーブ。大事にしていたお人形。燃え盛る部屋。熱さと煙たさ。炎の中で泣き叫ぶ自分の声。
 明瞭に覚えているのはあの日の事ばかり。それ以前の記憶はとても曖昧になってきている。本当の両親の顔も、今ではぼんやりとしか思い出せない。
 それなのに、本当に私は帰りたいのだろうか? いや、この世界に拒絶されているなら戻るべきなんだろう。
 私はこの世界に拒まれているのだろうか? 私はこの世界にとって異物なのだろうか? それとも望まれているのだろうか? 何かを託されているのだろうか?
 また同じ疑問にぶち当たる。
 ぐるぐる、ぐるぐると、周り巡って自分の存在意義の可否に到達する。


 ああ、世界よ。私はあなたにとって、異物なの? それとも必要なモノなの? なぜ私はこの世界に飛ばされてしまったの?


 ぼんやりとしながら、湖から水を汲む。水汲み桶の中に、青空と白い雲が見えた。筋状の、特徴的な雲。空を切り裂いたら、その隙間から本当の世界に戻れるかしら?
 私は水汲み桶の水に映る空を切り裂く白い筋に向かって手を差し入れた。水は冷たく、私は向こう側に行けず、ただ手を濡らしただけだった。
 私は戻りたいの? 戻れないの? いつまで答えを待たなくちゃいけないんだろう?
 ふうっとため息を吐き、私は水汲み桶の水から手を出した。ひんやり冷たい風が濡れた手の体温を奪っていく。その冷たさは、あの日の寒さを思い起こさせた。私をこの世界に追いやった、炎の熱さを思い出させた。


 私にとってこの世界は異質。そして私はこの世界にとっての異物。この関係は揺るぎないもの。私はいつまで待たなければならないのだろう? 今日も答えを求める。



読んだ!