路地裏の魔法使い

 雨の気配はない、ただ厚い雲が空を覆っている。秋も深まり、冬を待つこの時期にはこんな天気が続く。
「あ、しょーこ! 今日さ、寄り道して行かない? 実はいい感じのカフェ見つけたんだ!」
「ごめん、今日バイトなんだ」
 友達からの誘いを断ると「えー」と残念そうな声。ごめんまた今度、と謝るとしょうがないなぁ、と笑ってくれた。
「ていうか、バイトしていたっけ?」
 私は部活には欠かさず出ているし、友達と遊んで帰ることも少なくない。とてもバイトしているようには見えないだろう。私はまぁね、と笑って歩き出した。
「……曇りの日、だけだけどね」
 私はいかにも学生らしい紺のダッフルコートを着て通りを進む。人通りの少なくなったその路地裏へと入ると、空気が変わる。


 七瀬通りの西の端、路地裏に入ると古びた奇妙な店が見つかる。


 ――貴方ノオモイ、飲ミマス。


 そんな変わった看板の下に、天鼠亭という店の名前らしき文字。正気であれば、入ってみようなんて思えないほど怪しげだ。
 私は初めてその扉を開けたのは、もう半年も前のことになる。
 あの日も、今日のような重たい雲が空を覆っていた。
 ギギギ、とやけに重いドアを開けると、薄暗い店内の奥にひとりの青年の姿がある。膝にふわふわとした毛並みの猫を乗せて、顔を上げた。息を呑むほど綺麗な顔立ちの青年だ。
 扉を開けたのが私だと気づくと、彼は――衛宮レンはにっこりと笑う。彼の膝から猫がするりと降りて、私の足にすり寄ってくる。
 もしこれがお客さんだったら、彼は微笑んだままでこう言うのだろう。
 ――いらっしゃいませ、ご用件は? と。





 半年前、私は大切にしてきたひとつ恋を失った。
 ありがとな、とその人は照れ臭そうに笑った。
「清水のおかげで、俺たち付き合うことになったんだ」
 そう言う江藤先輩は、中学の頃からの先輩で、私がずっと、ずぅっと、片思いしていた人だった。
 その江藤先輩は、私の所属する部活の部長である三浦先輩を好きになって、私はそれにいち早く気づいた。気づいてしまった。
「おめでとう、ございます」
 へら、と笑顔を作った。大丈夫か、私。ちゃんと笑えているか?
 失恋するってわかっていて、なんで江藤先輩の協力なんてしたんだよって言われてもしかたない。でも、好きなひとに幸せになってもらいたいじゃない。三浦先輩はすごく素敵なひとで、同性の私でも文句の付け所がない。そんなひとが江藤先輩の恋人になるならぴったりだ。


 でもやっぱり、実際に自分が温め続けた恋が木っ端微塵に砕け散るとかなしい。
 そのあと、気づけば部活にも行かずにぼんやりと通りを歩いていた。空はどんよりと曇っていて、まるで私の心の中が空に映し出されたみたいだ。重苦しくて、汚い。
 消化されないままの私の思いは、胸の奥でもやもやしたまま胸焼けを起こしている。
 応援していたのは事実だし、ふたりがうまくいって良かったと思っている。それなのに、心の底からおめでとうございますって言えなかった。私の恋心が邪魔をして、一瞬だけどうして、と叫びたくなった。私は、ずっと好きだったの。好きだったのよ、と。


 ――忘れたい。
 忘れてしまいたい。


 こんな苦しくなる恋なんていらない。あんなに大好きなふたりを祝福できない自分がとても醜くて、汚らしいものに見える。
 ふと、ひとつの噂を思い出した。重苦しい雲が、思い出させたのかもしれない。


 七瀬通りの西の端、その路地裏には不思議な店がある。
 思いを、記憶を、消してくれるという店の名は天鼠亭。
 いつもの私なら、絶対に入ったりしないその店のドアを、私は開けた。


「いらっしゃいませ、ご用件は?」


 薄暗い店の奥には、綺麗な顔立ちの青年がいた。
 店の中には古びた本や、奇妙な形の置物、ハーブか何かを乾燥させたようなものが瓶詰にされていたり――とにかく奇妙だった。
「え、えっと……看板の」
 貴方ノオモイ、飲ミマス。あれはつまり、思いを消してくれるということなのだろうか。
「……何か、忘れたいことでも?」
 首を傾げる青年はとても絵になる。どうぞ、と店の奥へと招かれて、私はカウンターのイスに腰を下ろした。
「私、失恋したんです」
 ぽつりと零すと、胸の奥から溢れ出すように言葉が出てきた。青年は、ただ淡く微笑んで私の言葉をすべてじっくりと聞いていた。



 ――すべてを語り尽くした時には、私の瞳からはぼたぼたと涙が零れていた。
「辛そうだね」
 青年は苦笑して、そっと指先で私の涙を拭う。
 とりあえず、取り出してしまおうか。いとも簡単なことのように、彼は呟いた。え、と目を丸くしている私の目を、彼の手のひらが覆う。
「ひとつ、ふたつ、みっつ」
 まるで子守唄のように、彼が数える。よっつ、いつつ、それはいったいなんのおまじないなんだろうか。私はゆっくりと瞼を閉じた。
 瞼の裏で、光が瞬く。あおい光を見た気がした。閉めきったはずの室内で、ふわりと頬に風を感じる。
「さぁ、目を開けて」
 青年が指でつまんだそれは、ビー玉のようだった。鮮やかな緑色の球体の中には、気泡が混じっている。店のわずかな灯りにかざすと、きらりきらりと光を反射して綺麗だった。
「これは、君の思いを可視化し具現化したもの」
 青年はにやりと笑みを浮かべて、そう告げた。
「……手品?」
 さっきまで彼の手には何もなかったはずなのに、と私は目を丸くする。袖になにか仕掛けでもしているんだろうか。けれど、彼の手のひらはついさっきまで私の目を覆っていたはずなのだ。
「どう思うかは君の自由だけど」
 くすりと笑って、彼は水の入ったグラスにそのビー玉を落とした。ぽっちゃん、とそれは重力に従って沈んでいく。
 ことりとグラスの底に沈んだそれは、じわり、じわりと透明な水を己の色で染め上げていく。水がたちまちしゅわしゅわと音をたてた。絵の具が水に染み込むみたいに、あっという間にグラスの中の水は染まっていく。それと同時に、グラスの周囲にはきらきらと光が瞬き始めた。小さな星が、グラスをぐるりぐるりと取り囲んでいるようだ。
「え」
 鮮やかなグリーンの液体の表面には、いつの間にかアイスクリームがのっていて、私は目の前で変貌したグラスを凝視する。
 透明な水に沈んだビー玉のような物体は溶けて消え失せる。グラスの周りで輝いていたはずの光は、アイスクリームに吸い込まれてしまった。
 私は目をぱちぱちと瞬いて、これはなんだと自分に問いかけた。
 これは、どこからどう見ても――
「……クリームソーダ?」
 メロンソーダの上に浮かぶバニラアイス。ただの水だったはずの液体は、炭酸飲料に変貌している。
 驚く私に、満足そうに笑って彼は告げる。
「これが、君の消し去りたい思い。このクリームソーダを僕が飲み干したら、君の思いは消え失せるよ」
 おまじないか何かなんだろうか。確かにクリームソーダが出来上がるまでの光景は魔法みたいで非現時的だけど、こんなことで簡単に消えてくれるほど、安い恋じゃなかった。
 うれしかったし、たのしかったし、結末は分かりきっていたけどかなしかった、とても飲み干してしまえるような思いじゃないのに……そこまで考えて、ふと違和感に気づく。江藤先輩を思い出しても、何も感じない。さっきまで好きで好きで、苦しかったくせに、今は胸も痛まないし涙も出ない。
「……待って!」
 グラスを傾けてクリームソーダを味わおうとしている彼を止める。
 青年の目が、探るようにじっと私を見つめてくる。そらすことが出来ないその瞳に困惑した顔の私が映っていた。
「…………消えるって、本当に?」
「正確にはもう君の中にはないよ。こうしてクリームソーダに変わったのを見たでしょ?」
 そんな、馬鹿な話が、あるだろうか。
 思いがビー玉みたいに形をもって、グラスの中には沈んでいった。そして出来上がったクリームソーダは、私の江藤先輩への思いだという。大事に大事にしてきた、私の恋心だという。
「……忘れたい、消したいほどの思いってたいていは苦々しいものなんだよね」
 私の様子を見て、青年は苦笑した。
「だから、変わるとすげぇ苦いコーヒーだったりするんだ。こんなものに変わったのは初めて見たよ」
 しゅわしゅわと音をたてるクリームソーダ。バニラアイスがじわりと溶け始めている。
「君の恋は、苦しかった?」
「……いいえ」
 はいと咄嗟に口に出そうになったけれど、今の私は否定できる。そりゃあ、しあわせなだけの恋ではなかった。叶わないまま終わってしまう恋だった。
 けれど、好きなひとのしあわせを願っていた。
「なら、なぜ消したいの?」
 ――なぜ?
「……おめでとうございますって、心の底から言えなかったんです」
 叶わない恋であることを知っていて、大好きなふたりが結ばれたらおめでとうと言おうと決めていたのに。実際照れくさそうに笑う江藤先輩を前に、私の胸が悲鳴を上げた。
「こうなるってわかっていたのに。よかったって思えるのに、それでも私の中の恋した私は、どうしてって叫んでくる。どうしてどうして私じゃないのって、泣いている」
 私だって、好きだったのに。
 ずっと、ずぅっと、好きだったのに。
「こんな、汚くて醜いだけの思いなんて、消えてしまえばいい」
「……汚くて、醜い?」
 これが? と彼は首を傾げる。目の前のクリームソーダからは、醜さなんて感じられない。弾ける炭酸と、甘いアイスクリームは、それこそ初恋を表現するにふさわしいのかもしれない。
「清らかなだけの恋なんて、ないと思うけど」
 恋する思いは、しあわせとか綺麗な感情でできているんだと思っていた。けれど、このひとは違うと言う。きっと、私以上に、たくさんのひとの思いを見てきたであろう、このひとが。
「君は自分の思いの胸底に沈めて、好きなひとを応援したんだろう。胸がどんなに痛んでも、心が悲鳴をあげても、それを苦しいと思わなかったんだろう。甘やかなだけの恋ではなかったかもしれない。しあわせな恋ではなかったのかもしれない」
 ――それでも君は、恋をしたんだろう。
 涙は流れない。だって私の恋心はこの胸にないから。
「僕が飲み干して、いいの?」
 そうすれば、私の恋は、この胸から本当に消え失せる。きっと、すぐにでもあのふたりにおめでとうございますって心からの笑顔で言えるだろう。でもそれは、本当に、心の底からの祝福なんだろうか。
 私は。
 私は――。






 空を覆う重い雲が、天鼠亭開店の合図だ。
 風変わりな店主は、晴れの日は嫌いで店を開けず、雨や雪の日には客なんて来ないとやはり店を開けない。だから、天鼠亭の扉は曇りの日にだけ開かれる。天気が悪くなくても、人通りの少ない路地裏にお客さんがやってくるとは思えない。しかしあんなに怪しい商売は、表通りでは堂々とできないのだろう。
 店主曰く、必要な人間にしか天鼠亭への道は開かれない、とのことだったけれど、私にはよくわからない。
 洋風な造りの小さな店の、重い扉を開ける。中は最小限の照明しかなく、その中で分厚い洋書を読んでいる青年に声をかけた。
「――レン。ちゃんと灯りを点けないと目、悪くなるって何度も言っているじゃない」
「このくらいの明るさが落ち着くんだ」
 恋に破れたあの日から、半年が経った。私は曇りの日となると七瀬通りの路地裏にひっそりと開店している天鼠亭へ向かう。コートを脱いだ私の足元に寄ってきた猫を抱き上げて喉を撫でてやると、ごろごろと気持ちよさそうに喉を鳴らす。
「喉乾いたな」
「はいはい」
 アルバイトという名の私の仕事は、この引きこもりな店主のためにクリームソーダを作ることである。もちろん店内の掃除とか他にもやることはあるけれど、迂闊に動かすと危険なものや触らないようにと言われているような怪しげなものが山ほどあるので、せいぜい床を掃くくらいしかすることがない。
「……できたよ」
 ことりとクリームソーダをレンの前に置く。作るといっても、メロンソーダにアイスクリームを乗せるだけ。これといって難しいことはない。
 ありがと、と微笑んで彼は嬉しそうにクリームソーダを飲み始める。
「硝子のクリームソーダも飲んでみたかったんだけどな」
「……普通のクリームソーダと変わらなかったよ」
 そう? と彼は首を傾げた。
「君の特別な思いを沈めたものなんだから、とびきり美味しい特別なものだと思うけど」
 あの時、あの日の恋した思いは、私の胸底に今もある。レンに飲み干されるはずだったクリームソーダは、結局私が飲み干すことで元通りになった。あの日の思いもすっかり消化されて、仲良くふたりで帰る先輩たちを見ても胸は痛まなくなった。



『クリームソーダ、飲んだことないんだよね』
 あの日、空になったグラスを見つめて、彼は呟いた。
『……ファミレスあたりで飲めると思いますけど?』
『ファミレスまで行くのがめんどくさい』
 きっぱりと怠惰なセリフを言いきった彼に、私は「はぁ」と曖昧に相槌を打った。
『それなら、メロンソーダとアイスを買ってきて自分で作ってみたらどうですか』
 というか、あんな摩訶不思議な方法でクリームソーダを作ったのだから、正攻法じゃなくても作れそうな気がする。
『作れる気がしない。ねぇ、君が作りに来てよ』
『――はい?』
 彼は――レンは、にっこりと笑って甘えるようにそう告げた。



「もしまた失恋したら、今度こそ僕が飲んであげる」
「あいにく、その予定はないよ」
 次の恋は、今のところ砕け散る様子を見せない。
「それに、次もクリームソーダとは限らないんじゃないかな」
 そう答えながらも、きっと私の恋はまた同じく、あの鮮やかな緑色を生み出すだろう。


 だって、彼との思い出にはいつだってクリームソーダが中心にあるのだから。
 ギギギ、と店の扉が開く。
 おそるおそるといった風に店内を覗き込んできたお客さんに、私もレンも微笑みかけた。
「いらっしゃいませ――ご用件は?」



 七瀬通りの西の端、路地裏には天鼠亭という不可思議な店がある。
 その店は、雲が空を覆う曇りの日にのみひっそりと営業している、ちょっぴり不思議な、魔法使いの店。



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