メメント・メモリー

 内田君のことを思い出すのは、きまってこんな星の綺麗な夜だ。あれは夕方の事件、そう、いわば大事件だったけれど、あの日はむしろ雨や曇りの日が続く寒い秋だった。私は私をロマンチストだと思ったことはないけれど、案外そういうところもあるのかもしれない。
 それを初恋、と言ってしまっていいのかは分からない。なにせ彼ときちんと話したのは、あれが初めてだったから。
人はすべてのことを覚えてはいられないという。昨日会った人の名前、受験数学の方程式、それから、恋の思い出。膨大な記憶は負荷となり、人を襲う。
 内田智也くん。高校二年生の時に同じクラスだった男の子だ。特に顔がかっこいいわけでも成績がいいわけでも、スポーツ万能ってタイプでもなかったけれど、女の子も男の子も、彼に惹かれて集まってくる。おっかない生徒指導の先生も、淡々と授業を進めていた数学の主任も、彼に何か一声かけていく。そんな、不思議な魅力を持つ人だった。彼が一番不思議だったのは、そうしてクラスの中心にいるのに、浮いたウワサがないところ。高校生の浮いたウワサっていうのはつまり、「だれそれが内田のこと好きなんだってさー、」みたいなやつ。
 その日私は友人の明穂と、グラウンドの横の道をのんびりと歩いていた。だんだん寒くなってきた日で、のどが痛かった私はマスクとマフラーを巻きながら。サッカー部や野球部のランニングを見るともなく見て、演劇部の発声練習や吹奏楽部の金管楽器の鳴る音を聞くともなく聞きながら。赤いアスファルトの道は時折運動部のマネージャーや外周を走る陸上部とすれ違うけれど、バス停に一番近い門までまっすぐ繋がっている。
「あ、内田じゃん」
グラウンドから出る金網のドアのところに、内田くんがいた。ユニホーム姿で野球帽。明穂が手を振ると、内田くんも振り返す。のんびり彼のところまで歩いていくと、向こうから声をかけてくれた。
「なに、もう帰るわけ」
「帰宅部の部活動中なだけですー。優香の体調も悪いから、今日はまっすぐ帰るけど」
明穂の言葉に内田くんが私の方を見る。みんなの人気者の内田くんだったけれど、「みんな」の輪の中に私が入ることはあまりなかったし、きちんと話をするのは初めてかもしれなかった。マスクをしていて良かった、と思う自分と髪や制服がおかしなことになっていないかな、と思う自分がいて、あれ、と思ったことをよく覚えている。身だしなみはそりゃあ女子高生なんだし私だって気にするけれど、男の子の視線でそんな風に思うのは初めてだったから。
「そう、ちょっと風邪気味で」
「じゃあこれ、やるよ」
え、と私が言うより早く、内田くんが手に持っていたスポーツドリンクを差し出してくる。青いラベルの、お馴染みのやつだ。夏の練習の成果だろう、日に焼けた内田くんの肌にそのボトルはよく似合っていた。陳腐なセリフだけれど、CMみたいだ、と思うほどには。
「森川、風邪ひいてんだろ?だから、これ。お見舞いな」
「そんな、内田くんこれから練習なんでしょ?」
いいのいいの、と言いながら内田くんはグラウンドに戻っていってしまった。彼がその日の練習中に何を飲んだのかは、結局分からずじまいだ。
グラウンドに着いた足跡みたいな思い出だけれど、私はよく覚えている。高校時代の思い出の、隅っこの方で輝く1等星。
そして、星は綺麗だけれど、私はまた風邪をひいている。ここ最近寒くなってきていたのに、油断していた。のどがやられてああ、駄目だな、と思っているうちに熱が出る、小さいころからお決まりのパターンだ。実家を出て学生用アパートでひとり、体調を崩すことがこんなに孤独だとは思わなかった。食欲もあるし、そんなにだるいわけでもないけれど、背中から這い上がってくる悪寒とともに、さみしさが心臓から全身に広がるみたいだ。
明日には病院に行こう、こんな日は早く寝てしまおう。そう思ってテレビを消したところで、見計らったようなタイミングでインターホンが鳴る。こんな時間に、というほど遅くもないけれど、訪ねてくる人に特に覚えもない。セールスだったら居留守を使おう、と決めて、少し緊張しながらスコープを覗く。そこに立っていたのは新聞屋さんのおじちゃんでも宗教勧誘のお姉さんでもなく、落ち着きなく視線をうろうろさせながら立っている同じ学部の中原くんだった。どうして、こんな時間に、と思いながら慌ててドアを開ける。10月だとは思えない冷たい風が吹き込んできた。
「中原くん、どうしたの」
「いや、森川さんがさ、体調崩してるって聞いて。ほら、詩織ちゃんから」
そういって中原くんは私の友達の名前を挙げる。手に持っているらしい袋ががさりと音を立てた。私が何も言わないのをみて、さらに彼は焦ってしまう。
「飯、ちゃんと食ったのかな、とか思って。あと、スポーツドリンクと」
風邪の時はこれだろ、と言い訳みたいに付け足す。ありがとう、とぽつりと呟いて、なんだか言葉が続かない。心臓がどきどきいうのは熱が上がってきたからだろうか。そうでもないと、内田くんが私にくれたのと同じスポーツドリンクを見てこんなに動揺しているなんて、自分でもなぜだかわからない。内田くんと、中原くんはちがうのに、でも。
 話しかけられはしなかったけれど、内田くんをずっと見ていた。中原くんが私の体調の変化に気付いてくれたのは、私を見ていてくれたからだろう、ずっと。 
大好きだった彼には言えなかったことを、大好きになれそうな彼には、きちんと言いたい。
「――ありがとう、少し上がっていかない?」
 驚いたような顔をする彼に、私まで驚いてしまう。寒い中お見舞いの品だけ置いて、そのまま帰ろうとしていた彼のやさしさに。続いた私の言葉は、おかしな言い訳みたいに響いた。さっきの彼と同じように。
「その、風邪をうつしちゃうかもしれないけど」
中原くんが、やっと笑顔になって言う。
「俺にうつして、治せばいいよ」


やさしい、やさしい。世界はあたしに優しいから、あたしはときどき逃げ出したくなる。
やさしい、やさしい、世界があたしに優しいから、あたしもそうっとこたえたくなる。



見たよ!