泡沫に、実る

 数年ぶりの口づけは、林檎の味がした――


「きゃー!」
 まだ陽も登りきらない早朝の厨房に、騒々しい声が響く。奇声の主は作業の手を止めなくても分かった。昨年からこの洋菓子店〈Stella(ステラ)〉に務めはじめた後輩のものだ。私は無視を決め込み、ショートケーキのデコレーションを続けた。
「せんぱぁい!」
 しかしやたら間延びした甘え声で呼ばれると、相手しないわけにもいかない。思わず顰め面で振り向いてしまったが、後輩は朝日のように眩しい笑顔で私の目の前にオーブンから取り出したばかりの天板を突き出してきた。天板には焼きたてのアップルパイが三つ並んでいる。
「先輩の言う通り、生地をザックリ折りで混ぜたんですがぁ~もう見ただけで美味しそうじゃないですか? サクサクって感じが見た目に分かるっていうかぁ」
 後輩は目をキラキラと輝かせて熱弁しているが、胸の辺りに熱々の天板がある私の方はたまったものじゃない。余熱がコックコートを通して肌に伝わってくるのを感じ、そろりと一歩後退りをする。
「あのね、天板。熱いんだけど……」
「あ! スミマセン~!」
 言われて気が付いた後輩が天板を作業台に置き、火傷は免れたと安堵する。
「ところで、先輩がアップルパイを作ってるところ一度も見たこと無いんですがぁ。私でもこんなに綺麗にできるんだから、コツを教えてくれた先輩ならもっと上手なんだろうなぁ……って」
 突として投げられた何気ない言葉に、生クリームを絞る手が震えた。後輩に悪気が無いのは分かっているが、条件反射で萎縮する。
「――嫌いなのよ……」
 ほろりと、漏れた言葉。
「はい~?」
 返ってきたのは緊張感の無い相槌。思わず苦笑してしまう。
「林檎、嫌いなの」
「え?」
 明言すれば、どういうことかと問うように瞬きを繰り返す後輩。私は曖昧な笑みを返すと、そこで話題を打ち切った。そして大息一つ。会話の内容は彼方へ追いやる。それから自我を捨てたように、真っ白なクリームを絞ることにのみ集中した。


 ――林檎は、嫌いだ。
 私の実家は、林檎農家だ。林檎農家の娘が林檎嫌いなのは、ただの反発でしかない。子どもっぽいと分かっている。だからと言って、どうしても好きになれないものは、人間一つや二つあるはずだ。
 製菓専門学校に通うため一人暮らしを始めてからは、とんと林檎は食べなくなった。菓子作りで林檎を扱っても、食べる時は余かす徹底ぶりだ。
 それでも毎年実家から送られてくる林檎一箱は、なかなか断ることができなかった。近所や友達に配るなどして片すが、それでも減らなくて殆どはカラスの餌にしてしまうのだが。
 そうこうして学生生活を経て、卒業後は外部講師の先生が経営するこの〈Stella〉で働きだし、早十年。十年も働いているのだ。勿論、アップルパイのような林檎メインの商品を手掛けたこともある。だがどうしても気が乗らず、作っても売り物にならない出来になり、先生から“林檎禁止令”を出された。
「林檎が嫌いだから林檎の商品は作れませんって……貴女、だからいつまでたっても自立できないのよ」
 いつかは自分の店を持ちたいと夢見ている私に、先生が渋面でそう言った。もう随分前の話だが、まるで昨日のように覚えている。それ程、胸に刺さっているのかもしれない。
「いらっしゃいませ!」
 早朝からフルタイムで働き、帰るのは丁度おやつ時。混み合う店を後にして、〈Stella〉の在る商店街をぶらぶらと歩いていると、八百屋の店頭に並んでいた真っ赤な林檎が目に入ってきた。何気に見ていたのが、どうやら品定めしているように見えたらしい。声をかけられて我に返り、面を上げれば彼と目が合った。学生アルバイトだろうか。年のころは二十代前半。スラリとした長身に短めの髪。爽やかという言葉がピッタリの好青年だ。
「それ今朝入荷した青森産の“ふじ”ですよ!」
「え……いや、私、林檎は……」
 彼の勢いに気圧されて、言葉が濁る。巧く言い逃れることはできないかと周囲を見回せば、立派な白菜が目に入り反射的にそれを注文していた。
「あのー……やっぱり気になるようでしたら、一つおまけしましょうか? 林檎」
 しかし自然とそちらに気が行っていたのだろう。白菜一つでパンパンになったエコバックを差し出しながら、彼は言った。押しの強い営業上手な青年だ。
「有り難う。でも林檎なら、実家から送られてきたのが、食べきれないほどあるんです」
「そうなんですか! 実家は林檎農家かですか?」
 断るつもりが、思いもよらない方向へ話が飛ぶ。余計なことを口にしてしまったが、一度出た言葉は飲み込むこともできない。私は小さく頷き、区切りの文句を吐いた。
「林檎、嫌いなんです」
 私の常套句。これでその場を白けさせて、会話はお終い。
「え……? なんで嫌いなんですか?」
 この質問はよくある。答えはいつも曖昧な笑顔。
「実家、林檎農家じゃないんですか?」
 この質問もよくある。適当に相槌を打つだけで答えない。
「あ、もしかして反発ですか?」
「っ――……」
 しかし、図星を指されたのは初めてだった。反応に詰まる。
「もったいないな。林檎、美味しいのに」
 返答に窮していると、大きな手が腕に下げていたエコバックの入り口を引っ張った。
「あ……」
 そして、否応なしに転がりこんだ赤い実。
「あの……食べきれないほどあるって言ったじゃないですか! 頂いても捨てるだけです!」
 エコバックの中に転がる林檎を急いで取り出して、彼の手に戻す。大きく目を見開いた精悍な顔が、不機嫌に歪んだのはその直後。
「捨てるんですか?」
 低く唸るような声音に、ざわりと悪寒が走った。
「丹精込めて作った物を捨てるんですか?」
 貫くような真剣な眼差しと、小さいのに威圧的な声に諭されて、全身の身の毛がよだった。言い返すことができない。
 私だって、自分が作ったお菓子を粗末に扱われたら悲しい。それは林檎を作った方も同じこと。言われて気が付くなんて――。
 自分の愚かさに、頭が重くなってくる。重力に任せるように首を垂れれば、段ボールいっぱいの林檎が寂しげにこちらを見ていて、余計に心苦しくなってきた。
「ごめんなさ……」
「――す、す、すみません!」
 林檎と彼に謝ろうとしたが、なぜか彼に先をこされた。首をあげれば、困惑の色を滲ませた彼の目と目があう。彼はすぐさま頭を下げて、「お客様になんてことをっ!」と自戒しながら何度も何度も詫びてきた。何事かと他の客や店主が見ている気配がして、恥ずかしくて顔が熱っぽくなるのが自分でも分かる。
「あの! お代!」
 財布を握りしめながら叫んだ声は、自分でも驚くほど上擦っていた。


 それは自分の夢を叶えるために乗り越えなければならない壁だと、分かっていた。「たかが林檎が壁か!」と笑われるかもしれないが、ただ嫌いとは違う。嫌いなものを上手に使いこなしてこそ職人だというのに、それができないほどに嫌いなのだから。
 ――丹精込めて作った物を捨てるんですか?――
 彼の言葉や眼差しが、胸を締め付け、苦しい。
 どうすることもできず、アパートに帰ってからというものベランダで星空を眺めていた。空気が澄んでいて、星がとても綺麗に見える。
 そういえば、実家の農園から見上げた星空も凄く綺麗だった。そんなことを思い出して、星屑が埋め尽くす空に懐古の情を馳せる。
 昼夜問わず林檎の木の世話に励んでいた祖父母や両親。そして、笑顔で林檎を食べていた時期もあったと思い出し、嫌っていることが申し訳なってきた。
 そこで意を決し、実家から送られてきた未開封のダンボール箱を開ける。箱の中には食べきれないほどの林檎。その中からおもむろに一つ取り出すと、丸ごと齧りついてみた。
 蜜を多く含んだ身はしっかりとしていて、甘酸っぱくて――
「美味しい……」
 その味に懐かしさがこみ上げて、再度胸がいっぱいになった。


「先輩がぁ、林檎嫌いな理由~その一。昔の彼氏に~林檎のお菓子をプレゼントして、こっぴどくふられたぁ」
 林檎をカットしようと思ったのが悪かったのだろうか? 林檎嫌いを宣言した翌日だったのもあり、私の様子を見ていた後輩が茶化してきた。
「実際どうなんですかぁ?」
「語弊あり、で留めておく……」
「何ですか、それぇ~」
 キャラキャラ笑う後輩。無視しようにも、後輩の言葉で嫌なことを思い出してしまい気が滅入る。確かに、後輩の言った内容に近い経験があったのだ。
 中学生当時、好きだった人に手作りのタルトタタンをプレゼントした。しかし恥ずかしがった相手は悪態をつき、突き返されたのだ。当時は悲しかったが、それが林檎嫌いに直結したわけではない――と、思う。
 しかし今の私にとっては林檎嫌いの理由より、実家から送られてきたあの林檎の山をどう消化するかという方が問題だ。
 近所に配っても消化できないのは通年の話。どうしたものかと悩みながら林檎をカットしていると、なぜか爽やかな笑顔が頭の隅に浮かんだ。
「いらっしゃいませ! あ……昨日は有り難うございました!」
 仕事帰りに覗いてみた八百屋。彼は他の客の相手をしていたが、私に気が付くとすぐさま笑顔で話しかけてきてくれた。
「あ……こちらこそ」
 本当に覗くだけだった。だが声をかけられてしまうと、逃げることもできない。
「あの、実家から送られてきた林檎……食べてみました」
「食べたんですか? で、お味のほどは?」
「美味しかったです……」
 私は何を報告しているのだろう? けど彼がとても嬉しそうだったので、つい素直に言ってしまう。
「でも、段ボール一箱を消化するのは大変で。近所に配っても余るし……商品と違って、雑多に入れられているから痛むのも早いし……」
 私の言葉に彼は眉根を寄せると、軽く唸った。
「じゃあ、ジャムとかにしたらどうですか?」
 彼の案に、なぜそんな簡単な答えが出なかったのだろうか? と、はっとする。
「ジャム……昔はよく作ったな」
 キッチンで母と並んで作った林檎ジャム。林檎の一つ一つに家族との思い出が詰まっていることに改めて気が付かされ、ほっと吐息が漏れた。
「そうなんですか? 残念ながら俺の家にも林檎はたくさんあるんで生の消化は手伝えませんが、俺朝はパン食なんでジャムが巧くできたら俺も消化に加担しますよ!」
「加担って……悪事じゃないんだから」
 爽やかな彼の口から飛び出したおかしな台詞に、思わず笑いが零れる。すると瞠然と目を見開いた彼が、一瞬はにかんだように見えた。


「――アップルカルバドス……。スーパーでも買えるんだ」
 翌日は、久しぶりに星空時間の退勤となった。この時間だと商店街も店じまいしている所が多いので、商店街とは真逆の位置にあるスーパーの方へと足を向ける。丁度、部屋の蛍光灯がきれかけていたので、必要な日用品をまとめ買いしておくことにした。
 そして酒販コーナーで目にした、職場〈Stella〉で馴染みの酒に思わず足が止まる。
 フランス北西部、ノルマンディー地方のカルバドス地区で作られるので、その名前が付いた“アップルカルバドス”。林檎から作られた蒸留酒だ。普通に飲むこともできるが、私は職業柄、香りづけとして使うことが多い。
 発見した勢いに乗じて、昨夜作ったアップルコンフィチュールの香りづけとして購入しようかと一本手にする。しかし値段を見て、気持ちが挫けてしまった時だ。
「あれ……こんな所で会うなんて!」
 爽やかな声に呼びかけられて、反射的に肩が弾む。振り向けば、発泡酒を手にした彼がいた。
「何見てたんですか? カルバドス? ここのスーパーは商店街の酒店に負けないように……って、変わった酒が多いんですよね」
 驚きで固まる私の手元の酒瓶を覗き、彼は続ける。
「これ、飲むんですか?」
「あ……ううん。アップルコンフィチュールの香りづけにしようかと……」
 問われて我に返り、説明すれば彼は「お酒入ると朝は食べれないじゃないですか!」と笑った。そういえば、巧く出来たら彼にもあげると話していた。思い出してカルバドスを棚に戻す。しかし私が戻したカルバドスを手に取った彼は、屈託なく笑った。
「でも興味あるんで、カルバドス無しのと有りの二種類くださいよ!」
 初めて会った時もそう思ったが、彼はなかなか押しが強い。結局、カルバドスを購入するはめになった。
「荷物、多いですね。俺、自転車なんで、荷物運びますよ!」
「な……!」
 そして押しの強い彼は、レジを終えた途端、私のエコバックを取り上げてさっさと店を出ていってしまう。私は反論する間もなく蛍光灯一本手にしたまま、驚然と立ち尽くした。荷物を運ぶとは、どこまで運ぶ気なのだろうか?
「貴女の家までですよ?」
 当然そうに言われて、結局、自転車を引いた彼を従えてアパートに帰ることとなった。
 満天の星の下、他愛もない話をしながらの帰路。こんな帰り道は随分久しぶりだ。
 大学の農学部に通う彼は、休校の時間を利用して商店街の八百屋でアルバイトをしているという。「まるで関連が無いわけではないから、勉強になる。長時間働けないのは難だけれど」と笑う彼。その様からは自分の目指すところへ懸命に歩む姿勢が伝わって、とても眩しかった。
 そんな彼にだからこそ、自分の話もしてしまったのかもしれない。いつか、自分の店を持ちたいと思っていることを。
 彼はニコニコと笑いながら聞いてくれて、それが妙に心地よかった。
 しかしアパートの明かりが見えて荷物を受け取ろうとした時、またもや押しの強い彼に流されてしまう。
「蛍光灯、取り替えるんですよね? 女性がするのは大変じゃないですか? 俺やりますよ!」
 気を利かせてくれたのは分かる。だが女の一人暮らしの部屋に堂々と入ってくるのはいかがなものだろうか? そして断りきれなかった自分にも、呆れてしまう。
 だが今回限りだろうと割り切って、空き瓶にコンフィチュールを詰めることにした。彼が朝食に食べるだろうカルバドス無しの方だ。そして鍋に残った方には買ってきたばかりのカルバドスを数滴混ぜ込む。途端に林檎の芳醇な香りが部屋中に充満した。
「わ……良い香りですね!」
 蛍光灯の取り換えを終え、いつの間にか真横に立っていた彼。興味津々に鍋の中を覗き込んでくる。ちょっと、いや、かなり近くに彼が居て、驚きで息が詰まる。
 一歩後退りしつつ「味見する?」と尋ねれば、彼は嬉しそうに笑った。その笑顔があまりにも爽やかで――
「っ……」
 弾んだ心臓が、引き絞られる。
 ――何を意識しているの、私はっ!
 動揺を悟られまいと、手早くコンフィチュールを小皿によそい、彼に渡した。そして空き瓶にカルバドス入りのコンフィチュールを詰める作業に戻ろうとした矢先。
「あの、これ……自分で味見しましたか?」
 気まずそうな彼の声に、私の心は動揺から動転へと変じた。
「お、美味しくなかった? 鍋の中に入れたままだったし悪くなったのかしら」
 粗熱をとるためにしておいたことが、裏目に出てしまった可能性もある。具合でも悪くなったら大変な話だ。
「全部食べなくてよいから」と小皿を受け取ろうと手を伸ばす。すると突然、大きな手に手首を掴まれた。何事かと振り向けば、真摯な眼差しとぶつかる。
「味見、しますか?」
 彼の声音と吐息が、至近距離で面を掠めてゆき、その精悍な顔が視界いっぱいに映り込んだ。
「え? あのっ……」
 思考が止まった一瞬の隙――
 甘い温もりが、唇に触れた。
 コンフィチュールの味が、触れ合った熱とともに浸透してくる。
 体が震えるのは、その味のせいだろうか? それとも――……
 カチッと、時計の針の動く音が静寂を破る。同時に我に返ったのか、彼は弾かれたように身を引いた。
「っ……スミマセン!」
 酷く裏返った声で叫び、物凄い勢いで部屋を飛び出していく彼。コンフィチュールも、彼が買った発泡酒さえも忘れていったというのに、私は何も言えなかった。

 ――数年ぶりの口づけは、林檎の味がした。


「美味しいじゃない! 色艶も良いし、香りも良いわ! このまま店頭に並べても商品になるわよ!」
 翌日、アップルコンフィチュールを職場の〈Stella〉に持参したところ、先生から好評を得た。正直、自信がなかった。これを食べた彼が、気まずそうだったから。けれども、私が心配していたような味の変化はみられなかったようだ。
 じゃあ、なぜ彼はあんなことを言ったのだろう?
 唇に指を宛がえばあの時の感触が蘇り、鼓動が高鳴る。
 彼はいったい、どうしてあんなことをしたのだろう?
 しかし、その理由を尋ねる勇気はなかった。
 仕事後、忘れ物とコンフィチュールを渡そうと思い八百屋に寄ってみれば、彼の姿はなかった。その翌日も、そのまた翌日も――。
 避けられているのだろうか? と思い始めた五日目の帰り道。遠目から八百屋を窺えば、客相手に爽やかな笑顔を振りまく彼がいた。
 彼も私に気が付いたようで、一瞬表情を強張らせたが、営業スマイルに戻ると「いらっしゃいませ」と気前良く挨拶してきた。
 私は軽く挨拶して、ここ数日持ち歩いていた紙袋を差し出した。虚を突かれたような彼に「忘れ物」とだけ言うと、彼は気まずそうに視線を泳がせる。
「――先日は……あの……」
 珍しく歯切れの悪い彼。実にやりづらそうだ。対して私は、自分でも驚くほど落ち着いていた。淡々と野菜を注文して、エコバックを取り出す。そんな私の様に彼はほんの少し躊躇したようだが、軽く頷くと「まいどあり」とはにかんだ笑顔を零した。
「あのコンフィチュール、職場で好評でね。アップルコンフィチュールを使った新商品考案を任されたのよ。まだどんなお菓子にするかは考え中だけど」
 彼の様子を窺いつつ近況報告する。すると彼はエコバックに野菜を詰めていた手を止め、嬉々とした顔で振り向いた。どうやらいつもの彼に戻ったようだ。
「凄いじゃないですか!」
「……貴方のおかげよ」
 彼の言葉が、林檎嫌いの壁を乗り越える一歩になったのは確かだ。お代を払いつつ「有り難う」と述べると、強張った顔をした彼に金銭ごと手を握られた。さすがに周囲の目が気になって、硬直してしまう。
「また……また男手が必要になった時、伺ってよいですか?」
 低い、真剣な声音に、脈が速くなる。
 懸命に唾を飲み込みむも、乾いていく口内。
 結局、断ることができなくて――私は小さく頷いていた。


「美味しい! これ絶対売れますよ!」
 八百屋で彼と再会したその数時間後。彼は私の部屋に居た。
 彼の前には、掌サイズのタルト。アップルコンフィチュールを使った新作ケーキの試作品だ。
「そう? 有り難う」
 先日のコンフィチュールの時とは違い、彼の口から出たのは素直な感想。紅茶にカルバドスを淹れつつ、私はほっと胸を撫で下ろした。
 これで自信を持って、職場にこのタルトを提出できる、と。
 ――林檎を完全に克服するなら、作るケーキはかつて突き返されたタルトタタンにしよう。けれど在り来りなものでは採用されない。
 色々と考えた結果、小ぶりのタルトにカスタードクリームとコンフィチュールを入れ、シナモンたっぷりのクッキークランチで蓋をして焼き上げた。オーソドックスなタルトタタンとはかなり異なるが、出来は上々だ。
 いそいそと写メを撮り、先生に連絡するつもりが開いたアドレスは教えてもらったばかりの彼のアドレスだった。
 出来上がったタルトを見て――彼に真っ先に食べてもらいたいと思ってしまったのだ。
 なぜ? 理由は分からない。ただ、彼の感想が聞きたかった。そして時間も気にせずすぐさま訪れたその笑顔に、私は酷く安心してしまったのだ。
「これがお店に並ぶの楽しみです!」
「まだ採用されると決まったわけじゃないよ」
「採用されなかったら、自分の店を開いて売れば良いじゃないですか」
 当然のように飛び出した言葉に、私の方が驚いた。確かに、そうなれば素敵だとは思う。
「けど……」
 言い淀み俯けば、カップに添えていた手に斜め向かいから伸びた手が重なる。視線を上げれば、あの時同様の真摯な目が射抜いてきた。
「けど? 自分の店を出すのが夢なんですよね?」
 声が出なくて、小さく頷く。
「じゃあ、自分の店で売れば良いじゃないですか」
 普段の私なら「簡単に言わないで」と笑い飛ばすが、彼に言われるとそんなことは言えなくて、彼を見つめたまま再度頷いた。
 その後のことはしっかりと覚えていない。
 見つめあっていたのが、気が付いたら彼の腕の中。
 あの時以上に甘い唇に、全てを奪われていた――。


 彼はまだ大学生だ。私はもう三十路。いくつ年の差がある?
 それなのに、私は好きになっていた。
 好きになってしまった。
 彼のことを――。
 きっと、初めて会ったあの日。説教された時に、心は傾いていたのだ。
 そして重なった温もりに、彼も私のことをと期待してしまった。
 けど、どう考えても年の差という壁は乗り越えられない。
 “林檎嫌い”などという、乗り越えられる壁とは違う。
 ならば、芽生えた想いは胸の中に止め、口に出さなければよいだけのこと。
 そう。この想いは、実ることなく枯れていく儚い想い――


「すみませーん、カフェ対応お願いします!」
 昼下がり。〈Stella〉の店頭からの要請にコックコート姿のまま出ていけば、紅茶とコーヒーそして “アップルタルト”の皿が二つ乗ったトレーを渡された。“アップルタルト”とは、私の考案したコンフィチュールを使った新作ケーキだ。
 飲み物をこぼさないよう注意しながら、番号札を手掛かりにお客様の元へと足早に向かう。
「――あ……」
 先に気が付いたのは彼の方だった。大きく見開かれた目は明らかに動揺している。そんな彼の向かいには、彼と年相応の女性の姿。
「お待たせいたしました」
 番号札と席を照らし合わせ、彼とその彼女が座るテーブルにアップルタルトとカップを置く。そして営業スマイルで何事もなかったようにその場を後にした。
 背後から、彼女の愛らしい声が聞こえる。「美味しい!」と言ってくれているようだが、胸が軋んで――苦しくて。私はトレーを返すことも忘れ、厨房に駆け込んだ。
 始めから分かっていたはずだ。この想いは、実ることなく潰える儚い想いであると。
 それでも、苦しい。誰も慰めてくれないと分かっているのに、慰めてほしいと思った。
「馬鹿だ……」
 厨房も店頭も忙しくて、誰も反応してくれない。それが余計に空しかった。


 この〈Stella〉に居れば、この商店街に居れば、この街に居れば、きっとまた同じ思いをする。
 報われないのなら、自分から断ち切った方が良い。芽生えるまでは時間がかかるというのに、潰えるのは一瞬だ。すぐに忘れられるはず。
 ――この街から出よう。そして、あの星の綺麗な所へ帰るんだ。
 林檎が好きになった今なら、帰れる。そして、私の夢をスタートさせるのだ。
 思ったが吉日で、すぐさま先生に話をした。背中を押されて決心すれば、もう後ろは振り向かない。
 〈Stella〉を退社して引っ越しまでの速度は、驚くほど早かった。先生曰く「善と決心は、処々を考慮して急げ」だそうだ。
 アパートの管理人に鍵を返し、アプローチで手配していたタクシーを待つ。すると突然、外からガシャンという何かが倒れる音がした。
「――どういうことですかっ!?」
 そしてアプローチに飛び込んできたのは、血相を変えた彼。
「〈Stella〉を辞めるとか、帰郷するとか……どうして! どうして……何も言ってくれなかったんですか?」
 縋り付くように両肩を掴まれて、ビクリと身体が震えた。彼の温もりが伝わってきて、――揺らぐ。
「言う必要……ない、かな……って」
 彼への想いを断ち切るというのが、一番の理由だというのに、言えるわけがない。
 彼は面をくしゃりと歪め、忌々しそうに舌打ちした。
「俺のせいですか? 俺が、あんな……。それとも、先日一緒に居た奴……ですか……?」
「あんな……? 先日……?」
 今にも泣きだしそうな彼。私は苦笑すると首を振った。たとえ彼のせいだとしても、ここは首を振るしかない。
「貴方が林檎嫌いを克服させてくれたのよ? それが私にとっては大きなことだった。夢に近づくための力になったの……」
 両肩から、力なく落ちていく彼の手。解放された私は、何気なくアプローチから出た。外はすっかり陽が沈み、紫紺の空に星が瞬いている。ふと横を見れば、彼の自転車が横倒しになっていた。私はそれを起こしつつ、彼に向って宣言する。
「故郷で夢をスタートさせる」
 彼は、はっと顔をあげた。困惑に満ちた表情だ。だがキュッと唇を噛みしめた後、一転して見せたのはいつもの爽やかな笑顔だった。
「自分の店、開くんですね?」
 彼の言葉に大きく頷き、笑う。
 ――彼のように巧く、笑えているだろうか?
 自信はなかったが、それでも私は笑った。
 たくさんの「有り難う」の気持ちを込めて。
 突として背後から差したサーチライト。手配していたタクシーが到着したようだ。私は彼に軽く手を振ると、急く勢いで乗り込んだ。
「あのっ――!」
 彼は何か言いかけたようだが、扉の閉まる音でそれもかき消される。聞くのが怖かったので、思わず大きく息を吐いた。
 走り出したタクシーの中、後ろを振り向くこともしなかった。彼の顔を見れば、タクシーから飛び降りてしまうだろうから。
「く……ぅ……」
 それでも、溢れてきた涙を堪えることはできなかった。


 バックの中で鳴ったスマートフォン。見れば彼からのメールの着信で、落ち着いたはずの涙がまたはらはらと頬を伝った。

『夢、応援しています。
――そして……必ず追いつきますから、待っていてください』

読んだ!