いとしの乙女

 シャーロット・ヴィルゴ・インスタンニウム・アヤは自然公園の湖に住まう精霊である。齢八百の貫禄と知識の重積を裏切るように、その白き柔肌とたおやかな微笑みは多くの者を虜にしている。彼女はヨーロッパで生まれ育ったが、ある男がアヤの名をつけ水筒いっぱいの水と一緒にそっくり連れ帰ったため、以来この景勝地でのんびりと暮らしているのだった。
 アヤと出会って十年が経ち、わたしは地元の公立高校に通うようになっていた。窮屈な校則で髪を引っ張って結わえ、電車のなかで指定セーターの毛玉をちぎって過ごし、駅に着くと今度は自転車に乗る。授業も、アルバイトも、ただ時間を殺してゆくだけで、わたしの心にはちっとも響きやしない。
「ねえねえ、これからミスドで勉強しようよ」
「いいね! 抹茶のドーナツが食べたいわ」
 放課後、ふたつ隣のクラスの香奈子がそんなことを言い出した。右隣を歩く美咲は食いしん坊だから、決まって秀才の誘いに乗る。香奈子はどこへ行っても勉強ができるけど、わたしも美咲もファミレスやドーナツ屋さんへ行って、なにかを食べたり、おしゃべりしながらでないと勉強できない。わたしたちが香奈子より学年順位が低いのもその所為だろう。
「あ、孝太郎からラインだわ……香奈子ごめんね、きょう約束してたの忘れてた。彼、ちょっと怒ってるみたい」
「孝太郎って……翔くんとはどうなったの」
「別れた」
 出た、美咲の悪い癖。
「そうやって喧嘩別れするたびに新しい恋人を作ってたら、肝心なときに我慢できなくなるわよ」
「そうよ」香奈子が賛同する。「たしかに翔くんよりかっこいいけど、あのひとは他の学校のひとと付き合ってるって噂があるし……美咲が心配だわ」
「お母さんみたいなこと言うのね、わたしはわたしで人生が楽しいんだからいいのよ」
 美咲は口を尖らせたあとすぐ表情を戻し、
「でもいちばんはこの三人の友情だもの! 本気で反対するんだったらやめるわ」
颯爽と自転車を走らせ去ってゆく。
「……美咲はかわいいからね」
 わたしがぽつりと呟く。
「ええ」香奈子が整えていない眉毛を掻く。「あんなじゃじゃ馬でも、かわいいし、細いし、まあいいかって思っちゃうわね――それで、どうする」
「きょうは寄るとこあるから……」
「また湖ね」
「あした行こう」
短く返すと、香奈子は前を向いたまま、いいわよと言った。
湖を縁取る木々が色づき、まもなく季節が移ろおうとしている。交差点で香奈子と別れて、わたしはまっすぐ湖へと向かった。散らばる黄と橙、紅葉は夕焼けを真似て、静謐な夏場の景色よりも華やかだ。自転車のスタンドを立てて彼女を呼ぶ。アヤはその日も美しかった。華奢な肢体、本来耳のある部分にはカサゴに似た鰭があり、腰まで届く青い髪は凪いだ湖面の上でたゆたっている。整った鼻梁は上品で、わたしを映す扁桃型の碧眼は深く澄んでいた。
「アルバイトはどうしたの」
梳る手を止めず、彼女は視線だけをこちらに投げる。明け方に眠り、日暮れ前から起きだして髪を梳くのが日課だ。
「テスト期間だからお休みにさせてもらった」わたしは答える。「きょうから二週間はパンを売らなくていいの」
「テスト期間ならここに来てはいけないでしょう」
やれやれ、と困った顔で息を吐くアヤ。使い終えた櫛はしまう代わりに水中へ落とす。この湖は彼女の器であり、五感であり、源であり、部屋である。
「いいじゃない。わたしたち、友だちなんだから」
「ニッポンじゃ能力より勉強が大事でしょ。あとになって湖の水より涙を流しても知らないわよ」
「泣かないわ、ちゃんと勉強するもの」
「体ばかりが大人になって、心は湖に落としてしまったようね。早く拾って帰りなさい。なにをすべきか思い出して、ね」
 彼女が手をくるりと回すと、遠くで魚の跳ねる音がした。わたしは大きく頷いて、その場で制服を脱ぎ始める。
 持参した水着は皮膚を締めつけ、水滴は肌の上ではじけた。いつもそうするように勢いよく飛びこむ。沈んで――浮かびあがる。誰かに見つかったら叱られるだろうか。きっとアヤが庇ってくれる。前を泳ぐ背に期待を投げると、彼女が絶妙な頃合でわたしを振り返った。首筋の、耳の下あたりにある三対の鰓。精霊を象るもののなかで、唇と鰓だけが紅い。低い鼻と小さな口。けれども両目は大きくて、いつもどこか物憂げなかんばせ。
「わたくしの声、聞こえる」
「ええ。しっかり」
 釣り客を乗せたボートの影。まだらに降り注ぐ光の輪を遮る、魚に似たシルエットの下をくぐって、彼女はにわかに笑いだす。を、を、体で破る。水滴の宝石が散る。踊るようだ。なにもかもが。アヤの声が聴こえる。遠くで、近くで、ひらひらと。大きく、小さく、きらきらと。歌っているのだ。
「水中では空気中の四倍の速さで音が伝わるのよ」アヤが得意げに教えてくれたことがある。「空気中はもどかしいわ。お互いの声が届くまで、四倍の時間を待っていないといけないのよ……」
 泳いでいる間、わたしたちはひとつになっている。なんの疑念も欺瞞も不満もなく、水と戯れ、水に親しみ、互いの肌に触れている。わたしは湖の外で感じた悲しいことも、厭なこともすべてここで洗い流してゆく。アヤはそういう負のものを皆両手で掬って浄化してしまう。湖はいつも澄んでいる。なんの異物も許さない。まるで――まるで自分が自分であり続けることを――普遍を――微塵も後悔していないように。
 わたしは――変わるのが怖い。末恐ろしい。きょうのお弁当に入っていたゼリーになりたい。何者にも揺るがされず、いなしながら、躱しながら、形を保ったまま、崩れず生きてゆきたい。わたしは――隣を泳ぐ精霊のように、名も住処も変えられない。慌ただしい社会や、鮮やかな四季の移ろいに、唯一普遍の自己を沿わせる器用さなど持ちあわせていない。
「なにを考えているの」精霊があぶくを吐き出す。「テストのこと」
「いいえ」とすぐさま否定する。が、当たらずとも遠からじ、「将来……なのかな。自分のこと、いろいろ」
「そう……」
「ごめんなさい、突然黙りこんじゃって」
 岸に上がったあと、わたしは体を拭きながら彼女に詫びた。水の精は静かに笑って、
「あなたにはたくさんの未来が用意されているわ」
と言った。
 人生はひとつしかないのに。
 わたしには理解できなかった。




 シャーロット・ヴィルゴ・インスタンニウム・アヤは言うなれば思念体である。骨の代わりに普遍的概念を軸にし、息を吐く代わりにあぶくを零す存在である。顕現するときは水面が盛り上がって人を模り、姿を消すときはばしゃんと一息に水へ還る。わたしはというと半人前で、大したことも成し遂げられず、両親からおめおめと庇護を受け、学校のなかでぬくぬくと生きている。そうして十年前からこの不確かな人外の者を慈しみ、竹馬の友としてきた。が、それは同じ人間の友人が少ないことにほかならず、わたしの人生の大半はアヤと共に在った。喩えるならばわたしたちはミルクティーだ。わたしが紅茶で、彼女は牛乳だ。一度作ったら牛乳と紅茶を分けられない。種族の垣根を越えて互いを認めている。それなのにわたしはいま選びがたい道の択一を迫られている。
「おはよう」
翌日の放課後、約束どおりドーナツ屋さんで勉強をして湖へ向かうと、アヤは見知らぬ男子学生と話していた。同じ高校の制服で、名札の色から青年が三年生だとすぐに判った。彼女はこちらに気づくと鷹揚に手を上げた。平生男性を避ける彼女が青年のために顕現し湖の淵に腰掛けているのを見て、ふたりの間にただならぬ関係を感じた。
「なあに、ちょっと昔話をしていただけさ」精霊が目を細める。「怖い顔しないの」
「……お願いできますか」青年がおずおずと精霊を見る。
「もう帰りなさい」
と、薄笑いを浮かべたままアヤが言った。
「わたくしが決めることよ。おまえではなくてね」
有無を言わさぬ口調に萎縮したのか、彼はあっさり引き下がった。
「――あのひと、うちの高校の三年生だわ」
 青年が湖を去り、夕暮れになってひと泳ぎし終えたあとも、アヤは歌わなかった。精霊は人の形をしていながら人でなく、人と同じ世界に生きながら人の暮らす世間を厭う。かつまた、生き物と表すには些かそぐわない存在である。わたしはとうとう気まずい雰囲気に圧されていつもより早い時間に帰宅してしまった。
 わたしに寄り添った意見をアヤに言ってほしかった。先生や、両親や、そういう、わたしをどうにかしようとする人たちがぶつけてくるあからさまな感情が大嫌いだ。けれどもこれまで人任せでのうのうと生きてきたから、いざ自分の道を決めるとなると尻ごみしてしまって――正しくは決めることに慣れておらず――どうすればいいのか判らない。無論もう一七だから、どれもわたしを思っての言葉だと理解できる。それでも納得いかない。「わたしを思って」――なんとも都合の良い枕詞だ。本当にわたしのことを考えているのなら、気持ちの整理がつくまで放っておいてほしい。やりたいことだけをやって、楽しみながら死んでいきたい。国という政治体制が国民の集合であるように、人生も目的を持たずに過ごした日々の積み重ねであって、甘言に乗せられて苦悩するくらいなら、周囲より遅いスタートを切ってでも納得のいく道を選びたい。
部屋でひとり進路希望表を広げる。欄は空白のままだ。優先順位をつけなさいと言われた。進学か、就職か。進学するなら、国公立か、私立か。こんなに細かく選択肢が分かれていても、一番をつけたい道は書かれていない。締切日はまだ少し先とはいえ、来週の月曜まであと五日しかない。その後の人生を大きく変える選択を、たった五日でできるはずがない。土台無理な話だ。変革のための重圧は許容できても、重圧のために変革を伴うのはナンセンスだ。わたしにはどうすることもできない。
こんなとき、あの精霊ならなにを選ぶだろうか。
 どれを選ばないことを選ぶだろうか。
「早めに出さないと先生がうるさいよ」
 翌日。就職を第一志望にした美咲が隣であくびをした。アイスクリームを選ぶみたいに将来を決めたくないのだ、わたしは。
「判ってるよ……」
 その日は先生が何度テストに出ると繰り返したところで、視線は窓の外へ、意識は湖へと向けられていた。わたしがいない間、彼は彼女とどんな話をしていたのだろう。同じ敷地のなかにいるであろう青年。あの角度では肝心の名前が見えなかった。精悍な顔立ち、日焼けしていない割に、制服の上からでも十分な筋骨を持っているのが判った。屋内の部活動をしていたのだろう。彼が何者か突き止めたかった。そのあとどうするわけでもないが、アヤにわたしと同年代の友人がいたとは一度も聞いたことがなかった。たしかに彼女のことは誰でも知っている。が、彼女が仲良くしている人間はわたしだけだと思っていた。
 ――お願いできますか
 どんなお願いであっても、アヤが他の誰かと仲良くするのは耐えられない。わたしがいない間に誰かが彼女に近づくのなら阻止せねばならない。阻止するために選びたくない道を選ばねばならない。あの美しさを守らねばならない。美咲にとっての友だち、香奈子にとっての成績のように、わたしにとってアヤは代え難く譲り難い《いちばん》だ。
「面談のときまでに考えておけばいいのよ。考えが変わりましたって言い訳すればどうにかなるんだから」
 きょうばかりは美咲の悪癖を指摘する気になれない。調査表をもう一度ファイルにしまった。両親の負担が減るのを理由に一度目の進路調査では国公立大学への進学を志望したが、正直なところいまになって後悔している。わたしのやりたいことは近畿地方の私立大学にある。一方の意志を曲げればもう一方の望みは叶うけれども、もう一方の融通を利かせようとすると、今度は叶うはずだった望みが絶たれてしまう。十年続くアヤとの日々を今更変えることは難しいし、第一アヤなしの生活は想像もつかない。彼女がかつて体験したように自分もアヤを水筒に入れて近畿へゆくのもいいけれど、湖があるのは隣県だから結局のところ毎日は会えず、一年の大半はアヤと離れ離れになる。精霊は水が少ないと顕現できず、また生き物のいないダムのなかでも生きてゆけない。
 ――わたくしが決めることよ
 あの日から一ヶ月、青年と水の精が楽しげに話をする様子を頻繁に見かけるようになっている。最初は敢えて輪のなかに入っていって青年を追い返していたけれども、ここ一週間はわたしの気配を感じるなりふたりが先に口を噤むから、いたたまれなくなったわたしは湖に行かなくなってしまっていた。だから仮に同行を頼んだところであの美しい精霊は我が道をゆくに違いなかった。断られることのほうが恐ろしく、もはや八方塞がりになってしまっていた。
「……おおお」
 わたしの気持ちも知らないで、青年は目が合うなり間の抜けた声を上げた。彼はあの日と同じ場所に立っており、どうやらアヤの顕現を待っているようだった。きょうは自転車で訪れたと見えて、籠のなかにスポーツバッグと和菓子屋の紙袋、泥除けに出席番号が入ったステッカーを確認する。
「あんたも……用事があるのか」
「アヤはまだ起きません」とわたしは平生の顔を装って言った。もったいぶって時計を見る。十七時半。嘘だ。きっと彼女は起きている。すぐそこにいて、なにかを待っている。
 息を潜めて、
まるで存在しないかのように。
「……なんで待ってるんですか」
 探るような声色を聞き取ったのか、青年が眉を顰める。
「そっちこそ」
「待ってません」
「あ、そう」彼は表情を崩さず、ついと湖へ顔を向ける。「おれはね、声が聞きたくて」
 だから、と言い差して大きく伸びをする。
「だから――ずっと待つのさ。ひとまず、きょうは八時まで」
 湖面へじっと目を凝らす。深い碧翠の奥、静謐な色の先に――いる。彼女の両目が浮かんでいる。美しい扁桃型の瞳がゆっくりと瞬きをする。こちらを凝然と見つめている。青年に悟られないよう目を細めると、アヤは二度瞬きをして、目を伏せるが早いか消えてしまった。
「ひいじいちゃんがさ」
 唐突に話かけられて、思わず肩を震わせる。いつの間にか青年がこちらを見ている。時間が止まった気がした。青年は小説に出てくるような優男ではなかった。揃えられた短髪、無駄のない所作、よく鍛えられた肉体。精悍なかんばせに、
「あんた、おれのことがきらいみたいだけど、おれはただひいじいちゃんがアヤさんと仲が良かったから、話してるだけなんだ」
 見透かされている。わたしは一歩後ずさった。
「それで――きょうは形見を持ってきたんだ。ひいじいちゃん、最期まで会いたがってたんだよ。舌癌になって、話せなくなって、自暴自棄になって。そのくせ容れ物を見るたびびっくりしてた。
最初はなんでそんなに驚くのか判んなかったけど、葬式が済んだあとにばあちゃんからぜんぶ聞いたんだ。だからおれが代わりに会いに来て、いろいろ話してるんだよ。だから――」
 意志の強い眼差し。
「あんたからも、ひいじいちゃんを愛してたって言ってもらえるよう、とりはからってもらえるか」




 シャーロット・ヴィルゴ・インスタンニウム・アヤは欧州生まれの水の精である。彼は水沢恵介と名乗った。空手部の部長をしていたが、曽祖父水沢の遺品を整理するため納屋を掃除したことをきっかけに、誰のものでも誰からのものでもない品を見つけるに至ったのだという。
「オルゴールなんだ」水沢があの紙袋から金色の小箱を取り出す。「底に彫ってある字、あのひとのことだろ」
後半は経年劣化からほとんど読めない。が、たしかに彫られている。瀟洒な細工の施された小箱に、細い刃物――ナイフか、ピックか、細く頼りげない字で。


  Charlotte virgo


「これはアヤさんのもので――それかひいじいちゃんが渡そうとしていて、とにかく本来あのひとが持っているはずだったものなんだ」
 アヤがあの湖に来た所以を知る者はいない。《そこにいる不思議なひと》として当然と受け入れられていて、時折アヤのファンが柵の向こうでカメラ片手に佇んでいることもある。
 シャーロット・ヴィルゴ・インスタンニウム・アヤ。
「こんな綴りなんだ……」
口から間抜けな感想が垂れ出てきた。声を聞いて初めて自らの発言だと知り、失言だと理解する。可能性として十分有り得るにもかかわらず長いこと目を逸らしてきた現実に直面している。わたしはいま、とても動揺している。
「ヴィルゴはラテン語だよ。きっと、ずっと昔から生きてるんだ、彼女は。ほんとうに昔から、それこそ、うちのひいじいちゃんが生まれるより前に」
 嗚呼、頼むから。
「ひいじいちゃんのこと、最初は子ども扱いしてたんだって。つんけんしてたけど、打ち解けてからは早かったって」
 頼むから、それ以上は言わないで。
「お互い離れたくなくて、アヤさんを連れて帰ったんだって。アヤさんのいなくなった湖がどうなったのか知らないけど、精霊のいた湖は、精霊がいなくなると涸れるんだとさ」
「なんでわたしにそんな話をするんですか! 厭です、とりなすなんて、わたしはそんな役回り、絶対にしません! したくありません!」
 気づけば怒鳴っていた。胸のつかえがすごく痛くて、心臓の裏側をひっかかれたような感じがして、「むかつく」とか「わたしのことをなんだと思ってるの」とか、口走ったような気がする。
「失礼にもほどがあるよ!」
 どうして、わたしが。
 ずっと仲良しなのに、なんにも教えてくれなくて。
 こんなやつの頼みを聞いてやらなくちゃいけないの。
「死んだひとのことをぐちゃぐちゃ言われても困る! アヤはわたしの友だちよ、ずっと一緒だったんだもの! ミルクティーみたいに、一緒だったんだから! わたしの大事な十年をアヤの寿命を引き合いに出して笑わないで!」
 愛し合っていたからなんだというのだ。わたしも、水沢も、アヤも、いまこの時代に生きていて、アヤのそばにいるのはわたしだ。
「帰れ! あんたなんか、帰れ!」
「やめなさい」
 すると玲瓏な声が響いたかと思うと、凪いでいた湖面がにわかにさざめき、盛り上がって頭部から順に形作ってゆく。水は束ねられ、毛になり、手になり、足になり、白磁の肌へと変わった。水の精シャーロット・ヴィルゴ・インスタンニウム・アヤのお出ましである。
「わたくしが決めることよ」
 顕現した彼女は開口一番にぴしゃりとわたしを窘めた。
「アヤさん!」
 水沢が宙に浮くアヤの足許に駆け寄る。
「このあいだ言ってたものを持ってきました。どうぞ曽祖父の形見と思って――」
が、青年の掲げた金の小箱を一瞥したアヤは
「要らないわ」
と目も合わせずに言った。
「見たいと言ったけどほしいとは言っていないし、わたくしの望みが誰かを傷つけるのなら望まない。想っていないわけではないけれど、もう慕っていない」
「そんな……言ったじゃあありませんか、将臣は――曽祖父は惨めな最期だったと。近しい親戚以外誰も参列せず……せめて……せめて気持ちだけでも」
 そのとき、
「――志帆」
 アヤがわたしの名を呼んだ。
「どうしてわたくしがこんなに長い名前なのか、知ってる」
 首を振って答える。
「四人、愛したからよ」
 落ち着き払った声だった。
「人間は誰かを忘れてしまうとき、真っ先に声を思い出せなくなるのですって。それで将臣は――彼の曽祖父は――オルゴールを買ってきて、二人で歌おうと言いだしたの。なんの歌かは判らない。ただ彼のなかにわたくしを長く留めておくためのものだった」
水沢恵介の曽祖父こそアヤをここに連れてきた張本人だった。水の精は両想いの相手に裏切られたら殺すのが種族の掟だったが、アヤは殺さず、曾祖母との結婚を黙認したのだった。以来一度も再会することもないまま将臣が去って八十年、彼女はひとりの幼子を助けた。
「湖に落ちて、死にそうになっていた」
「七歳の頃よ」
「わたくしを『おかあさん』と呼んだの、憶えてる」
「や、やめてよう……」
「名前を変えるたび恐ろしかった。わたくしがひとつ眠るたび、頑是無い人間たちはみるみるうちに脆くなり、老いてゆく。喪失に――《死》に目をやりすぎていたのよ。それをあなたが気づかせてくれたの」
――シャーロットと名づけてくれたのは女性だった。
「人間は失っていく」
だが、帳尻を合わせるように、なにかを得ながら生きてゆく。だからね、と水沢に視線を向ける。
「おまえには申し訳ないけれど、いまのわたくしには志帆がいる。だけど彼女に名をつけてもらうわけにはいかないわ、二度も掟は破れない。だからわたくしを優先させるのではなくて、あなたにはその字のごとく、志高く、目標に向かって帆をあげてほしい。
さっき水の中で聞いていたわ、わたくしたちはミルクティーなんだって。そうかもしれない。互いに作用している。干渉している。だから自立するの」
 アヤの言葉は判るようで判らなかったが、彼女にとってわたしがいちばんだと判っただけで十分だった。清々しい気分だった。アヤならどんな道であれわたしの人生を批判しないだろう。相談するより先に答を言われた気分だったけれども、同時に進むべき道が決まった。
「いままで散々喪に伏してきたわ、もう潮時なのよ」
「アヤさん……」
「だから……そうね。三人とも、これで最後にしましょう。多くのことを」
 大事なひとの大事なひとが、自分だったのだから。
「――わたし、がんばる」
 水沢がオルゴールの蓋を開けた。流れる小川のような旋律が三人の間をすり抜けていった。



 これは、わたしがいまの道に進もうと決めるまでの物語である。




                                      おしまい 



見たよ!