人の役に立つ仕事

 毎日コーヒーを買っていくやつが、今日だけ急にレモネード買ったら、びっくりするだろう?

 俺が働いているのは、24時間営業のカフェ。テイクアウトもできるから、早朝は意外と忙しい。仕事の前くらい、缶コーヒーよりうまいコーヒーを、とか、逆に、お酒に絡んだ仕事のあとくらい、すっきりうまいコーヒーを、とか、そんなふうに思うやつは、意外に少なくない。
 ちょっとおしゃれな内装と、ガッツリ系のサンドと、おやつ的な甘いものとが並んでるから、女一人でも男一人でも入りやすいし、お昼休みの食べ物をついでに買おうかとか、朝食代わりにとか、もとよりモーニング目当てとか、そういう人並みは、始発の直前からちょろちょろと現れる。
 だから、始発の直前よりもう一歩前に、店の前を掃除する。
 冬が近くなってきて、夜明けは遅くなってきた。
 サックスブルーの空。
 レモンイエローの月。
 遠くでなんとなく騒がしい気配がするのに、しんと冷え切った空気。
 この時間帯が俺は好きだ。

「はよーざいまー」
「おーおはよー」

 大学生のアルバイトのハルタくんが、だるそうに挨拶する。俺は夜通し働いてそろそろだるい。相手は、起きたばっかりでだるい。同い年のだるいだるいコンビで、この店のウィークデーは乗り越えられている。
 いや、いいんだ、客の相手はちゃんとするし。

「奥田さん寒くないすか」
「寒い……けど、ダウン着込むほどじゃないぞ俺」
「俺寒がりなんすよ」
「おまえ年明けたらもっと寒いだろうにどうすんだよ……」

 くだらない雑談をしながら、店の前を掃いて、ごみを捨てて、掃除はオシマイ。ちゃんとした掃除は、ちゃんと専門の人が来てくれることになってるから、朝早い客へのほんの小さな心遣いってやつだ。

「年明けたら、あれっす、ヒートテック的なのをいっぱい重ね着して」
「ぬいぐるみみたいになりそうだな」
「あー。肘とかちょっと曲げにくいんすよね」

 わはは、と、馬鹿みたいに笑い合って中に入ると、ぶわっと重たいくらいの温かさが体を包む。深く息をついて、肺の中に暖かい空気を入れる。大学生のハルタくんは(そう言えば俺はそれが名前なのか苗字なのかすら知らない)さっとバックヤードに入っていった。あと五分もすれば、始発に乗る予定の客が来始める。
 忙しい朝に、コーヒー一杯の憩いを。
 これって、意外に、本当に人の役に立つ仕事だと思うんだけど、どうだろう?


 朝は、常連の客が多い。
 火曜だけ来る客とか、必ずテイクアウトの客、毎日違うものを注文して、そろそろコーヒーのメニューを全制覇しそうな客、絶対にいつも同じものを頼む客。毎日同じ時間に来て、イートインしたあと、きっちり測ったような時間で店から出ていく客。大急ぎで食べる客、朝からのんびりと食事していく客。ただ、グループの客はほとんどいない。ときどき、飲み会のあとオールしました、みたいな大学生風のグループもいるけれど、長期の休みでもない限り、多くはない。だから、店内は割と静かだ。店内放送で流れるラジオのおしゃべりが聞き取ろうと思えば聞き取れる程度にはいつも。

「いらっしゃいませ!」

 朝のだるそうな「はよーざいまー」を発音しているのと同じ人物だとは思えない爽やかさで、ハルタくんが客を迎える。俺はあれこれのマシンの前をうろちょろしながら、彼の声を聴いている。客の声も聴ける限りは聞いている。あ、この声の人、いつもブレンド、とか、ちょっとだけ先取りできることもあるからだ。

「おはようございます」

 それはいつも聴こえる声。丁寧にあいさつしてくれる声。鈴のような、とは言わない。女の人にしては低めの、けれど柔らかい声だ。

「おはようございます。ご注文はお決まりですか?」

 ハルタくんの声も若干浮かれて聴こえる。
 美人、っていうタイプじゃない。中の上くらい。でもきちんとしている感じがすごくいい、というタイプ。たぶん、年齢は俺より少し上かなと思う。もしかしたら結婚とかしているのかもしれない。指輪をしているところは見たことないけど。
 注文はいつも、「アメリカンをトールで」。
 自分のサーモマグを持ち込みするお客さんだ。俺は出しかけていた紙カップをしまった。が、

「……んー、」

 珍しく彼女は、一瞬迷った声を出した。
 思わず俺は聞き耳をたてた。

「ホットレモネード……、トールで、ください」

 それは、初めてのことだった。かしこまりました、というハルタくんの声もなんだか戸惑ってるみたいな声だった。彼も、割と客の顔とオーダーを憶えるタイプだから。

「ではあちらでおまちください」

 そう言いながら、こっちを見たハルタくんがそれを裏付けるように、ちょっとだけ首を傾げた。いつもの、桜の絵柄のサーモマグすらない。紙でできたカップを手に取りながら、レモネード、と繰り返す。
 リキッドはどろりとした黄色で、空の月よりよっぽど絵に描いた月みたいな黄色で光る。絞ったレモンのいい香りがふわりとした。
 コーヒーほどには淹れ慣れていないオーダーだし、店自体、コーヒーが売りだからこそ、他のメニューには若干のチープさが漂う。けれどせいぜい丁寧に俺はレモネードをいれた。
 そうしながら、ちらりと彼女を見る。名前も知らないけど、ウィークデーは毎日会ってるその彼女の顔を。様子を。
 ――あ、と、思う。
 彼女はずっと、喉を、かばうように右手で押さえていた。
 喉が、痛いのだろうか。
 紙カップのふたに、取り違え防止用にオーダーを書きながら、ほんの少しの悪戯心が湧いた。

「ホットレモネードのトール、お待たせしました」

 その声に、彼女は微笑む。それは店の人に向ける愛想笑いだ。勿論そんなことはわかっている。(けれどその愛想笑いすらしてくれない人は山ほどいるんだけれども)

「はちみつはあちらにありますのでお好みの量でどうぞ」
「はい」

 受け取った彼女の顔はもう、見なかった。
 でも、背中に、あ、と、小さく声が届いた。ほんのかすか、ほんのわずかに笑った声で。


 通勤ラッシュが過ぎるころ、俺は店を出る。
 ハルタくんに、美人相手にはしゃれた真似しますねぇ、とかからかわれながら、それでも互いに手早く仕事をこなしながら、朝は、過ぎた。
 見上げた空に、もう、月はない。
 剣みたいに細くて、心細そうな、レモネード色の月は、とっくにお休みのようだ。


 毎日コーヒーを買っていくやつが、今日だけ急にレモネード買ったら、びっくりするだろう?
 それだけのこと。たったそれだけのことだけど。
 白いふたに、真黒く、太い字で走り書きした「お大事に」が、彼女のかすかな、わずかなお守りみたいなものになれば、と思うだけ。

 忙しい朝に、美味しいコーヒーとか、ほんの少しの憩いとか。
 やっぱりこれって、そこそこ人の役にたつ仕事だと思うんだけど、
 どうだろう?

(終わり)



見たよ!