夢見るあなたの世界

 キド・クレ=アシオンはその日、久しぶりに目を覚まし、世界樹ユグドラシルの枝元に座り込んで、果てのない天井を見上げていました。
 ここは世界樹が生きとし生ける者の世界を九つに分けた時、最後に芽吹いた枝の中。
 キドはクレ=アシオンの名を戴き、世界樹の葉と同じ深緑の髪と瞳、世界樹の枝と同じ白い枝の手足を持つ、九つ目の世界を見守る番人です。
 生涯を世界樹の中で過ごすとさだめられたキドの世界は、溢れんばかりの緑と一点のくもりもない白が、優しい光の中で踊る、このうえなく美しい世界でした。
 足元には枯れることのない世界樹の葉たちが、キドを暖かい光のにおいで包み込みます。天を仰げば、世界樹が手を広げるがごとく、真っ白な細い枝に覆われた天井がいつでもキドに微笑みかけます。  中でも、キドのお気に入りは、自分の手のひらほどの大きさであいている天井の隙間でした。深緑と白の色がひしめく世界の中で、その隙間からは、きらきらと青が零れ落ちてくるのでした。  それは「空」と呼ばれるものです。キドが見守る九つ目の世界に広がる天井の欠片なのだと、キドのすぐ上の兄が自慢げに教えてくれたので、キドは幼い頃から青色は空のものだと知っています。  塵ほどに細かい空の欠片は、指先が届く前にいつも空気に溶けて消えてしまうので、空というものはずいぶんとはかないものなのだと、キドは思っていました。
 その昔、創世の息吹で芽吹いた世界樹はあっという間に枝を伸ばし、世界を九つに分けましたが、そんな世界樹よりも青の天井は高い場所で広がっているのだと聞きます。
『空を見上げるとは、どんな素晴らしさだろう。視界を埋め尽くすほどの青色は、きっとすべてが霞むほど美しいに違いない』
 物知りで子どものように無邪気な兄の口癖でした。いつか空をこの瞳に映すのが夢なのだと、兄はよくキドに言っていたものです。世界樹の中で生を終える番人にとって、それは無謀で途方もない夢でした。それでも兄の瞳はいつも淡い青色を映してはきらきらとしていたのです。
 ただ、キドにはどうもこの「夢」というものがよく分かりませんでした。
 眠る時によく見るらしいそれを、キドは百年という永い時間を眠りに使っても、一度も見たことはありませんでしたし、兄のように途方もない希望を胸に抱いたこともありません。
 少し悲しくなったキドに『お前にもいつかきっと見つかるよ』と、兄はよく微笑んでいました。その笑顔は兄がキドのひとり立ちを見届けて、ここから違う世界へ旅立ってからも、脳裏に時おり現れては、寂しそうに消えていくのです。まるで空の欠片のように。
 そんなわけで、夢に微睡むことも、未来に想い馳せることもなく、キドは今日も世界樹の枝元に座り込み、白の天井とその隙間から零れる青を見上げていました。
 それは、キドが緑の瞳を瞬かせた直後のことでした。
 隙間に影が差し、一瞬だけ青色を覆い隠しました。
 小さななにかが隙間から転がり落ちてきたかと思うと、そのなにかが青みがかった銀の光を纏って輝きました。キドはとっさに手を伸ばします。
 ちょうど手のひらと同じくらいの大きさ。キドにとってはとても小さな人間の少女が、まっさかさまにキドの元に落ちて来たのでした。
 彼女は、瑠璃色の瞳をいっぱいに見開いてキドを見つめ、キドも初めてみる小さな人を瞬きに閉じ込めるように、ぱちぱちと瞼を開けたり閉じたりしていました。

 それが世界樹の番人キドと、少女ニケラの出会いでした。



 こんなはずじゃなかった。ニケラはただ、一人で泣いて喚いておもいきり悪口が言える場所を探したかっただけなのに。
 ほんのちょっと、石ころに躓いただけでどうしてこんなところに落っこちてしまうのだろう。これじゃあ自分を間抜けだと言って笑う少年への悪口だって、しおらしく引っ込むというものだ。本当に自分はいつもだめな子――いやいや違う、ニケラはまったく悪くない。こうなった原因もすべて彼のせいだ。そう、ぜったいそうだ。

 ニケラは二歳年上の少年、ジオンのことが大嫌いだった。もう十五歳になるというのに、彼はいつまで経っても子どものようにニケラに構って、なにかにつけて馬鹿にしてくるのだった。
 ジオンはニケラの父の弟子だ。ニケラの両親は宝石細工師をやっていて、石を星よりも輝くように磨くのが母、金属の土台を作ったり、細かな細工をするのが父の役目である。ニケラも母を手伝うべく石磨きの修行を始めたのだが、これが本当に難しい。母と同じ道具を使っているのに、なぜかいつもでこぼこになってしまうのだ。
 そんなニケラに、少し手先が器用で父に褒められただけのジオンはいつも得意顔をする。
「お前、本当に師匠の娘かよ」
 でこぼこで見るも無残な石を前に、そんなことを言われては、ニケラは恥ずかしくてぷるぷると震えることしか出来なかった。しかも今日は特にひどかった。父とジオンに食事を持っていく際、つい転んで食事を床にぶちまけてしまったのだ。さいわい両親には怒られなかったが、ジオンには後片付けが終わってからも盛大に笑われた。
「ニケラはほんと間抜けだなあ」
 涙を流してまで笑う彼のたこがたくさん出来た指を見た瞬間、悔しさが体中をぎゅうぎゅう押し潰した。
「どうせ私は間抜けで、ジオンが言うとおり、どじで馬鹿で意気地なしの泣き虫だもん」
「いや俺そこまで言ってない……」
「だいっきらい!」
 珍しく目を見開いたジオンに雑巾を投げつけて、ニケラは家を飛び出したのだった。一秒でも早く彼の前から消え去って、ひりひりと痛みだした目尻に溜まる涙を、我慢しなくていい場所に行きたかった。
 幸い世界樹を住処とする樹上国ミーガルドにはそういう場所はたくさんある。ようは幾重にも伸びる枝の先を目指せば良いのだ。枝先は不安定で居住地域も少なく、複雑に伸びているため人目にもつきにくい。
 迷子になるかもしれないという考えさえなく、肩の下までで切りそろえている青みがかった銀の髪を揺らし、まっすぐがむしゃらに枝先を目指そうとした、その時。足が石ころを踏んだために体が傾いた。
 突然のことでまったく対処出来なかった体は、そのまま幾重もの枝が連なった道に打ちつけられるはずだった。だが、ちょうどニケラの体が着地しようとしていた斜め前方には、まるで道が途中で破れてしまったかのように、丸い空洞が広がっていたのだ。
 そしてニケラは、空洞に向かって見事なまでにまっさかさまに落ちた。
 体が投げ出される浮遊感の後に、なにかかたいものがお尻に当たって、痛いと思う間もなく、瞳がとらえたのは深い緑色だった。
 鏡のように透きとおっているのに、緑は中心に向かうほど濃くなっており、何層にも重ねられた色は、近づけば沈んでしまいそうな深さがある。
 今まで見たどんな宝石とも違う。これはいったいなんだろう。
 おもわず手を伸ばしそうになったが、その緑色に映る自分の姿にやっと我に返った。緑に染まっている自分は放心したように動かない。ただ瞳を見開いて座り込んでいるだけの姿は、間抜けにしか見えなかった。
 人形のようにぎこちなく目線を動かし、ようやく見つめていたものの正体を知る。
 目の前にいるのは、絵本の挿絵に出てきそうな巨人である。顔は人間なのだけれど、手足はニケラのものよりもずっと白く、先が尖っている。世界樹の枝が伸びて人の手足を模したと言えばいいのだろうか。ほんのり冷たさを宿していそうな肌も、木の葉によく似た短い緑がかった髪も、例えるなら樹木がそのまま人になったような大男だ。
 ニケラを軽々と乗せているのは、彼の真っ白な手のひら。そして深い緑色は、彼の大きな瞳だった。彼も突然の闖入者に驚いているのか、瞼を何度もぱちぱちと瞬かせていた。
 隠れては現れる深緑の瞳は、やっぱりきれいで。母が一番大切にしている大きな緑石の指輪もこれには敵わないだろうなぁとぼんやりそんな感想をおぼえる。
 周りを見渡せば、白い幹を中心に緑の葉が覆い茂っている。上は幹から伸びる枝が幾重にも重なって天井を作っていた。ニケラが落ちたのは、どうやら天井に偶然出来た隙間だったらしい。
 ここは世界樹のためだけに作られた、秘密の庭のようだった。
 いつまで経っても、きょろきょろと視線だけを動かすニケラの脳内に突然、だれ、という二つの文字が舞い込んできた。声が聞こえたわけでもなく、文字が突如として現れた感覚は、今まで感じたことのないものだ。不思議な感覚だった。
 自分に「誰」と聞くのは、目の前の彼しかいないだろう。その証拠に、彼は首をゆっくり傾げて、ニケラの答えを待っている。
 普段のニケラなら、こわがって泣きだしてもおかしくない状況なのに、気づけば自然と名前を口にしていた。なぜだろう、彼のことはまったくこわくなかった。落っこちてきた自分を助けてくれたからかもしれないし、存在自体が不思議すぎて現実感がわかなかったのかもしれない。
 あるいは、瞳があまりにきれいだったから。
「私は……ニケラ。あなたは?」
 しばらくして、ニケラの頭には「キド」という文字が飛び交った。
「キドという名前なの?」
 巨人――キドは首肯して色のない唇をふっと緩めた。
 ニケラ。自分の名前が幾度か脳内を駆け巡り、花咲くようにふわりとほころぶ。名前を呼んでくれたのだと、遅れて気づいた。先ほどまで別の意味で熱がともっていた頬に、やわらかな温度がのぼっていく。なんだかとてもうれしかった。
 ニケラは居住まいをただし、彼を今一度見上げる。
「キド。まずは……助けてくれてありがとう。突然落っこちてきてびっくりしたでしょ? ごめんね。本当に助かりました」
 どういたしまして、という返答に胸を撫でおろすと、続けて、どうして落ちてしまったの? と聞かれた。
 どうして落ちたのか。それは先ほどもニケラが考えていたことだった。すべての原因はあのいじわるで子どもっぽいジオンのせいだ。
 ちょうど溜まっていた鬱憤を晴らすべく、ニケラは唇を湿らせた。
「あのね、これには深い理由があるの。まず、私のお父さんの弟子でジオンっていう子がいるんだけど。私より年上のくせに、すごくいじわるな子でね――」
 ニケラは、ここに来た経緯を、ジオンへの愚痴を多大にはさみながら説明しはじめた。
 いつの間にか、体を押し潰そうとしていたはずの悔しさや悲しみは、きれいさっぱり消え去っていた。



 前髪の切りそろえられた栗色の髪にオレンジ色の丸い瞳。体格はひょろりとしていて、背が高い。宝石細工師を目指して、十三歳の時から弟子入りをしており、得意な作業は石に複雑な模様のカットを入れること、逆に苦手な作業は金属の土台を作ること。好きな食べ物は温かい山羊のミルクスープとオレンジを使ったケーキ。
 キドは気づいてみれば、会ったこともない少年の容姿から好き嫌いまでありとあらゆることに詳しくなっていました。それもこれもすべてニケラが、教えてくれたことです。
 あの出会いの日から一年。ニケラは暇があれば、キドに会いにやってくるようになりました。
 たいていは涙まじりに、ジオンとのささいな諍いや可愛らしい口論について、小さな唇をひん曲げながら話してくれるのですが、たまに笑顔で彼とのこれまでのことや、キドには知り得ない世界樹の外のことを語ってくれることもありました。
 外の世界にはたくさんの色が溢れていることも、それと同じくらいの生き物たちが営みを続けていることも、世界樹の番人であるキドは知っていましたが、彼女の口から語られるものは、もっときらきらと輝き、色鮮やかでした。
 たとえば、いつもより上手く磨けた石がキドの瞳より少し薄い緑であっただとか、近所の子どもたちと産卵期の暁鳥を見に行っただとか、両親には内緒でジオンときれいな宝石になりそうな星を捕りに行っただとか。
 体を跳ねさせながら話してくれる彼女は、本当に楽しそうでした。
 キドが空が好きだった兄の話をした時は、空は澄み渡るような青色だけではないということを教えてくれました。時には雲と呼ばれる白い物体が青を遮ってしまう日もあり、また夜という時間になると、小さな小さな星が灯火のように揺れ、黒と見間違いそうな藍色になるのだと言います。
 これはきっとあの物知りで空を見たいと願っていた兄も知らないことでしょう。彼がもし青以外の空を知ったら、どんな反応をするでしょうか。夢が増えたと喜ぶ兄を想像して、キドはほんのり微笑をくゆらせました。
「キド聞いてる? それでね、ジオンったらまた私のこと馬鹿にしたんだよ! もういやになっちゃう。自分だって銀の指輪作り失敗してお父さんに怒られてたくせに!」
 キドの口元に浮かぶ笑みに気づいたのか、ニケラがずいっと顔を近づけてきました。背中まで髪が伸びた彼女は、一年でますます花開く瑞々しさ溢れる少女となりました。
 とはいえ、今日もジオンと小さな喧嘩をしたようです。一年前と比べると、少しだけ口が達者になったらしいニケラは、ここ最近では言い負かされっぱなしというわけではなく、きちんと対抗することにしていると自慢げに語っていました。結果は、いつもジオンが譲ったうえでの引き分けだったようですが。
 声を持たないキドは、聞いてるよ、心で伝えます。誰かと話す必要のない番人には、この方法でしか気持ちを届けることが出来ないのです。
 ニケラはもうすっかり慣れたらしく、頷きながら彼についての話を続けました。
「この間は優しく石磨きを教えてくれてね、ちょっと嬉しかったのに……あ、本当にちょっとだけだからね? ほんのちょっと」
 照れくささを隠すためか、折れてしまいそうな細い指が弾くのは、先日ジオンからもらったという瑠璃色の石を嵌め込んだペンダントです。石磨きからすべての工程を彼自身がやった初の作品なのだと、ニケラは教えてくれました。
 その時のニケラの表情と言ったら、それはもう輝く瑠璃の瞳がまぶしすぎるほどで。
 キドには誰かを愛すという気持ちはよく分かりませんが、きっとペンダントを渡した後の彼も同じような顔をしていたのではないでしょうか。
 嬉しかったんだね。そう伝えれば、ニケラは照れくさそうに笑って、やっぱり彼女の瞳と同じ色を持つ石をぎゅっと握りしめました。
 ニケラが笑ってくれれば、世界がこんなに鮮やかになることも、キドの新しい発見でした。彼女が訪れるようになってから、キドの狭い世界はますます輝くばかりなのです。
 百と一年前までは眠ってばかりいたキドでしたが、もうしばらくは眠りたくないなと思いました。
 夢というものが分からなくても、彼女が来てくれれば嬉しいと、そんな気持ちが芽生えたのは、生まれて初めてのことでした。



 ニケラは逸る胸をおさえながら、すっかり慣れた道を歩いていた。
 上へ上へとまるで急き立てられているかのように伸びる世界樹は、ここ五年でさらに枝葉を広げ、空を目指している。召集がつかなくなってきた国の領主たちは、なんとも迷路のような複雑な区域ばかりを作っては放置を繰り返した。
 おかげで大人でも迷って帰ってこられなくなるという、冗談か本気か分からないことを口々にいろんな人が言うせいで、ニケラが出かけようとするとジオンはいつも「知らない道は通るなよ」なんて親みたいなことを言う。
 昔のドジで泣き虫な自分ならいざ知らず、今はもう十八歳になったニケラである。おかげで、枝から枝を跳ねて渡ることもお手のものとなった。おそらくジオンよりも得意だろう。彼は、最近本格的に細工師を継ぐために、ニケラの父と引き籠ってばかりいるから。
 無意識に左手を触ろうとして、引き留める。浮かれているなぁと自嘲しながら、最後の枝から下がって、いつもの空洞へとたどり着いた。
 見つけた当初は少し余裕のあった大きさだったのに、いつの間にかぎりぎり通れるサイズになってしまった。細身だった数年前の姿を裏切り、力仕事で逞しくなってしまったジオンなら間違いなく詰まるだろう。
 結局一度も彼にはキドについての話をしていない。前は自分だけの秘密を作っておきたくて、今は単純に彼がここを通れないから。キドとの話題の中心はいつだってジオンだったのにおかしな話である。
 でもこの時間は、やっぱり自分にとってなにより特別なので、このままでもいいかななんて思っていたりもする。
 ニケラは一旦立ち止まって一声かけてから、臆することもなく空洞に飛び込んだ。軽い浮遊感の後、少しかたいどっしりとした手に飛び込む。今日も同じ位置で座り込んでいたキドに、にっこりと微笑んだ。
「おはよう。キド」
 手からニケラが落ちないように、優しく運んでくれるいつも通りの彼にちょっと落ち着く。彼の膝のあたりまで降ろされると、緑のにおいが鼻腔をくすぐる。それを楽しむ間もなく、ニケラはさっそく口火を切った。
「今日は報告があるの」
 一息に言うことは出来なかった。うるさすぎる心臓を右手で押さえてから、呼吸を何度か整えて。もう一度口を開いた。
「あのね、私……ジオンと家族になったんだ」
 二日前に渡された指輪が輝く薬指を、彼の大きな瞳に映るように掲げる。そこには、以前もらったペンダントと同じ瑠璃の石と、ジオンの瞳と同じオレンジの石が嵌め込まれている。ジオンがニケラのために作ってくれた銀の指輪だ。
 二人で一つの輪になるのだと彼は言っていた。まさかジオンがそんなことを言うなんてニケラは想像もしていなくて、ただ珍しくオレンジの瞳に真剣な、それでいてひどく壊れやすそうな光が宿っているのを見つめることしか出来なかった。きっと、初めてキドに会った時のような間抜けな顔をしていただろうと思う。そういう時こそ「間抜けだなあ」と言ってくれればよいものを、ジオンはただ黙ってニケラの言葉を待っていた。
 そして今は、ニケラがキドの言葉を待っている。
 キドは何度も瞼をぱちぱちと瞬いた。驚いた時の彼の癖である。ニケラの住む、天井の外側の話をする時もよく瞬きをしていた。
 しばらく深緑の瞳がニケラの薬指をさまよった後、じんわりと沁みこむように、五つの文字がニケラに届いた。
 おめでとう。何度も文字を脳内で反芻して、ニケラは口元を緩めた。
 最初にキドに伝えたかった。ずっとずっと、他愛もないジオンとの話を最後まで飽きることなく聞いてくれていた彼に。どうしても。
「ありがとう。本当はね、ちょっと迷ったの。でも、うん、これからも一緒に二人で毎日を重ねていけたらいいな」
 途中から恥ずかしくなってしまって、無意味に指輪をくるくるといじった。キドは俯くニケラを静かに見守っていて、それがまたなんとも気恥ずかしい。
「これからもさ、くだらない喧嘩ばっかりしてキドに聞いてもらっちゃうかも!」
 熱くなった顔を誤魔化すように笑ったら、伸ばしっぱなしになっていた青に近い銀の髪を、大きな指で梳かれた。いつもニケラたちがなんの気なしに歩いている真っ白な世界樹の枝とたしかに同じなのに、それよりももっと柔らかくて滑らかだった。
 楽しみにしてるよ、と彼から届けられた文字が躍る。キドの唇は表情豊かなのに、そこから言葉が紡がれることはない。
 もし、彼が声を持っていたら、今のはどんな響きを伴っていたのだろう。もし彼が――。
「……キドも一緒に外に行けたらいいのに」
 ニケラは転がり出た言葉に、自分で驚いた。出会ってしばらくした頃から考えては打ち消してきたはずの思いが、こんなところで出てしまうとは思わなかった。それは決して言ってはならないはずだったのに。
 ニケラはもうとっくに知っているのだ。彼がどういう運命を課せられた人なのかも、ここから出ることを許されないことも。
 ――誰にも言いたくなかったのは、この出会いをなかったものにされたくなかったから。もし「世界樹の番人キド」の存在を知られたら、きっとあの空洞は塞がれてしまう。それがこわかった。
 寂しそうに肩を揺らしたキドも、きっと分かってる。でも、でも。
「変なこと言ってごめんね。でも、キドが一緒にいてくれたら楽しいし……本当に優しくて温かい人だから」
 ニケラはキドと別れても帰る場所がある。両親もジオンも友達もみんながいる。けれど彼はここでいつもひとりだ。こんなに優しくて温かい人が、どうして誰もいないこんな場所で生きていかなければならないんだろう。
「いつか、もしあの天井をぶち壊しに出来たら、キドに空でもなんでも見せてあげたい。星も鳥も私が磨いた石も。ジオンにも会ってほしいな。本当にいじわるでどうしようもないんだけどね、でも私の一番大切な人だから。きっとみんながキドを好きになるよ……だから」
 目尻が涙をこらえているせいで痛くなった。子どもの夢物語よりもひどい勝手な願いだ。そんな未来なんて想像も出来ないくせに。あの空洞を壊すには、この手は小さすぎる。
 ニケラはまだ結局わがままな子どもでしかなくて、自己満足のせりふしか並べられない。
 ずっと髪を梳いていた指先が、ふいに背中にまわった。ニケラの薄い背中は、彼の指一本で楽に覆えてしまう。唯一無二の樹から創られた滑らかな指が、かすかに震える背をぎこちなく撫ぜた。何度も何度も。
 ありがとう、と。言葉も声も届かなかったけれど、ニケラには分かった。キドの瞳は穏やかに凪いでいて、光をきらきらと散りばめている。
 きっとどんなに石を磨いても、こんなにきれいな緑は見つからない。そう、この瞳は宝石よりもなによりも、きれい。
 キドの手のひらに触れる。冷たそうに見える彼の手は、ほんのり熱を持っていた。
「……やっぱりキドは優しくて温かいね」
 涙が混じってしまった声が、どうか普通に聞こえていますように。
 キドは一度だけぎゅっとニケラの体を両手で抱きしめた。ゆりかごのような柔らかさが体を包み、そしてすぐ離れた。
「ありがとう。今日は報告だけしたかったの。また来るね」
 それを合図に、キドはゆっくりと腕を天井へと伸ばした。ニケラが空洞の淵に掴まって無事によじ登るまで、ずっと手は下げないでいてくれる。
「いつもありがとう。じゃあまたね」
 手慣れた動きで穴から這い出ると、ようやく手を戻したキドに手を振って、今日はお別れだ。
 ニケラは立ち上がり、来た道に視線を向けたが、引き留められるようにもう一度、だいぶ小さくなったキドへそれを戻す。彼はまだこちらを見上げていた。
「キド。さっきジオンのことが一番大切って言ったけど、一番感謝してる人はキドだよ。私ね、あの日にキドに出会えて、本当によかった。ありがとう」
 なぜか今言っておかなければいけないと思った。
 キドに出会えていなければ、あの日ニケラは一人で泣いて喚いて、悪口を散々言って、ジオンに大嫌いと言ったことを後悔することもなかったかもしれない。今まで積み重ねてきた喧嘩の一つ一つだってうまく乗り越えられなかったはずだ。
 ニケラを映した深緑色の大きな瞳が、面映ゆそうに揺れた。喜んでくれたことにほっとして、ニケラは手を大きく振る。

 今度こそ青い空を覆い尽くさんばかりに伸びる世界樹の枝を見据え、キドのいる世界から背を向けて歩き出した。きっと今ごろ、修行でへとへとになっているニケラの大切な家族の元へと。



『いつか、もしあの天井をぶち壊しに出来たら、キドに空でもなんでも見せてあげたい』
 その願いに似た言葉は、キドの胸の中に、まるで星のようなきらめきをもたらしました。星空なんて見たことはありませんでしたが、きっとどんな灯火たちよりも、この胸に灯る光は強く優しく美しいものだとキドには分かったのです。
 視界はより色鮮やかに光を取り込み、彼女の薬指で幸せそうに輝く瑠璃とオレンジの宝石までもが、キドに向かって微笑んでくれたような気がしたのでした。
 言ったあとで彼女はすぐに泣きそうな顔になってしまいましたが、本当はキドの方こそ泣いてしまいそうでした。
 行きたいと思ってしまった自分に驚きながらも、キドは心の底から願いました。
 ニケラと一緒にあの天井の隙間から、外に出たいと。彼女を取り巻く鮮やかな世界を、この目で、手足で、感じたいと。
 それを夢と呼ぶのだと、もし兄がいたら微笑んでくれたかもしれません。
 世界樹と共に生き、世界を見守る番人としては、それはあまりに無謀で途方もない夢ではありましたが、けれどもたしかに胸に芽生えた光は、キドの大きい身体の頭からつま先までをまばゆく照らしたのでした。
 彼女が去って行った後の隙間から、少し寂しげに青が降りそそいでいます。キドは世界樹の枝で覆われた天井を見上げながら考えていました。
 昼も夜もない永遠の白と緑の世界。この上なく美しいと思っていた世界の外には、一体どんな美しいものが広がっているのだろうと。けれども、おそらく彼女の笑顔よりまばゆいものはないのだろうと、そんな思いが胸の中の灯火をより一層輝かせました。
 瞼を幾度か瞬いていたキドは、久しぶりに眠りへと誘われました。ニケラと出会ってからは初めてのことです。眠りに抗おうとするよりも早く、瞼が重くなっていきました。自然と、胸に灯る光を抱きしめるように、キドは体を縮こませます。 『私ね、あの日にキドに出会えて、本当によかった』
 ニケラの言葉がまるで子守唄のように、キドを優しく包んでいきました。

 その日、キドは生まれて初めて夢を見ました。
 夢の中でキドは小さな緑色の髪と瞳を持つ少年の姿をしていました。手も足もニケラのように小さな爪とやわらかい皮膚で作られており、白い枝の面影はありません。
 少年キドの目の前には出会った日と変わらないニケラがいて、その隣には背が高く、生意気そうな顔をしたジオンがいます。ニケラは満面の笑みでキドの手を引き、キドの足がもつれるのにも頓着せず、走り出しました。
『ほら見て。これが私たちの世界だよ。キド』
 そう笑う彼女の頭上には、満ち溢れるほどの青が――。

 生まれて初めて見た夢は、このうえなくあたたかで幸せな物語のような夢でした。
 キドはそのまま深い深い眠りに落ちていきました。
 広がるたくさんの緑と天を覆う白、そしてその隙間から零れ落ちる青色だけが、眠りゆくキドを見守っていました。


見たよ!