かんかんと軽い音を立て、ボロの階段を上っていく。
 錆びた手摺りに手を沿わせ、鼻歌交じりに戸を叩く。扉の内から返答はない。しかしこほんと一つ、勿体ぶった咳をすると、ジキルは冷たい鉄のドアノブに手をかけた。
 吐いた息が、柔らかな白に染まっている。灰色の雲のどんよりと落ちた、ある真冬の日のことだ。安っぽいクラシナメタルで出来た、無骨な家が建ち並ぶ町。そこを歩く人々は、皆一様に継ぎ接ぎだらけのコートを身に纏い、足早に道を抜けてゆく。
 体重をかけ、重い扉を押し開ければ、埃っぽい室内に冬の風が吹き込んだ。室内に入ったジキルが慌ててそれを閉じれば、今度は奥の部屋から漂ってきた、暖かなスープの香りが彼の鼻孔をくすぐった。
(この匂いは、オニオンのスープかな。体がよく温まりそうだ)
 ふと見れば、以前ごみ捨て場から拾ってきたボロのソファに、継ぎの布が充ててある。先頃、今にも綿がはみ出しそうだと言ったのを覚えていて、直してくれたのだろうか。
「アイシャ。……アイシャ、いるんだろう? 帰ったよ」
 汚れた上着をひょいとかけ、奥の部屋へと声をかける。首を傾げて覗き込めば、隣の部屋で鍋の味見をしながら浅く振り返り、ジキルに手を振る妹の姿が見て取れた。
「そろそろだろうと思ったわ。うちの窓からも、兄さんのR型が滑空しているの、よく見えたもの」
 妹の視線を追って、ジキルもまた窓を見た。旧式のグル硝子をはめただけの窓が、北風にカタカタと鳴っている。窓の外には点々と、ジキルの乗るそれと同じグランジアムR型飛行艇が空を飛翔しており、その背景には、――ジキル達全ての人々の故郷であり、今ではすっかりスモッグに覆われてしまった灰色の惑星ガイアの姿が、空の三分の一程度を占めるように、雄大に構えて見えていた。
「お帰りなさい、兄さん」
 灰色の飛行機雲が駆け抜けていく空に背を向け、部屋の中心に佇んだ、アイシャがにこりと微笑んでみせる。
(ああ、いつもの、アイシャの笑顔だ)
 ジキルは拳を握りしめ、つられてにこりと微笑んだ。
 アイシャに促されるまま、風よけの付いた帽子と、ゴーグルを外して席につく。食事を摂ればスープの暖かな温度が、じわりじわりと、ジキルの体に染みこんでいくかのようであった。
「兄さん、今度の仕事はどうだった? ジーナの都へ行ったんでしょう。向こうはまだ、温かいのかしら」
「いや、もう随分寒かったよ。収穫祭の頃だったから、楽しくはあったけどね。アイシャはどうしてた? 仕立の仕事は順調?」
「順調よ。今度ね、自分で一からデザインをしてみないかって言われているの。この前ラディスの奥様に仕立てたワンピースが、好評だったみたい」
「へえ! ならいつか安い布を見つけてくるから、俺の分も作ってくれよ」
「いいわよ。どんなワンピースが良いの?」
「俺が着るのに、ワンピースのわけあるか」
 「ふふ、そうよね。わかってる」悪戯っぽくそう言って、アイシャがくすくす笑っている。しかしふと気がつくと、ジキルはちらと視線を逸らして、「お前の分を」とぽつり、呟いた。「良い布が見つかったら、まずは自分の分のワンピースを作ったらいい。お前はいつも、グレーの上下ばかりだもんな」
 アイシャがちらとジキルを見て、「ありがとう」と穏やかな相槌を打つ。そうして食事の済んだジキルの皿を下げると、彼女は次に沸かした湯で、ジキルのためにコーヒーを煎れる。
「コーヒーは要らないよ」
 ふと、言葉がジキルの口を突く。けれどアイシャは手を止めず、「どうして?」と呟くようにそう問うた。そうこうしている合間にも、コーヒーの香りはより濃くなり、ジキルの体に潜り込む。「兄さんったら父さんの真似をして、食後にはいつもコーヒーを飲んでいたじゃない」
 かた、と小さな音がした。アイシャがカップに注いだコーヒーが、黒々とした光を帯びて、今、ジキルの眼前に在る。ジキルはもう一度だけ微笑むアイシャの顔を見つめて、それからようやくコーヒーカップに手を伸ばし、「あっという間だな」と呟いた。
「ねえ、明日も晴れるかしら」
 アイシャの言葉に、「勿論さ」とそう答える。アイシャは「そう」と微笑むと、どこか遠い目をしたまま、穏やかな声で言葉を続けた。
「ずうっと晴れていたらいいのに。……雨は嫌いよ。雨は嫌い……」
 カップの中を覗き込めば、水面に一人の男の顔が映し出されている。そこに居るのは無精髭を生やし、目の下に隈の出来た冴えない風貌の青年だ。
 それが今の、ジキルである。
 アイシャがいたあの頃とは、似ても似つかぬ『今のジキル』だ。
「いつもいつも、あっという間だ」
 零れた言葉は涙となって、カップに小さな波紋を作る。ぽつり、ぽつりと静かに水を打つそれと共に、どこか遠くで刻を告げる無慈悲な音が、聞こえているのはわかっていた。
 
 ***
 
 コーンコーンと、壁時計の鳴る軽やかな音。それを隣に聞きながら、ジキルはぱちりと目を覚ました。
 毎度のことではあったが、ぽろぽろと零れる涙が止まらない。それでもなんとか体を起こし、今までその身を横たえていた、簡素な寝台に腰掛ける。すると背後から、低い男の声がした。
「お目覚めはいかがですか、ジキルさん。ここがどこだか、わかりますか?」
 聞き覚えのある声に、のそりと緩慢に振り返る。「わかるさ、『記憶屋』だろう」と答えれば、目の前に立つこの男は、満足げに頷いた。ぞろぞろとした黒い上着に、何やら似合わぬトップハット。おなじみの格好をした男はジキルに背を向けると、欠けたカップにコーヒーを煎れ、「飲みますか?」といつも通りにそう聞いた。
「たまには他の飲み物はないのか。紅茶とか、ミルクとか」
「申し訳ないことに、そういったものは用意が御座いません。私の知る限り、この界隈では、人間の覚醒にはコーヒーが最もよい飲み物なのです。強すぎず、穏やかに人を目覚めさせる事。生活の内に馴染みやすい香りを持っている事。そしてその黒々とした水面に、それを飲む本人の、嘘偽りない今の姿を映し出せる事。あなたのように現実から逃避し、わざわざ金銭をかけて過去の記憶を買いにいらっしゃるような御仁へお出しするのには、このコーヒーという飲み物がどう考えても最適なのです」
 「皮肉屋め」とジキルが言っても、この男はにやりと笑むだけだ。
 『記憶屋』と呼ばれる、この男の名をジキルは知らない。知る必要もないことだ。だがジキルは、この男に何が出来るかは知っている。
 依頼人の過去の記憶を呼び起こし、その記憶であたかも現実であるかのような『夢』を造り出す。そうしてジキルのような貧乏人から、うんと高い依頼料をむしり取っては、依頼人にその懐かしい夢を視せるのだ。
「……。金が用意できたら、また来る」
 男はにこりと微笑んで、「お待ちしています」と言葉を返した。
 
 昼下がりの町中を、独りあてもなく逍遥する。しばらく急の仕事が続いたものだから、少しは休むようにと通告されたのが、ほんの二日前のこと。とはいえその言葉が、本当にジキルの体調を気遣う故のものではないことを、彼は重々承知していた。
 ふと頭上を見上げれば、見覚えのあるグランジアムR型飛行艇が、南へ飛んでいくのが見える。あれは同期のアベルだろうか。彼は今でも真っ当に、職務をこなしているのだろう。
 一人乗りの複葉機を使った、郵便飛行。それがジキルの仕事である。その中でも、特に天候の荒れやすいランデルタール山脈を抜け、ディテア地区へ軽量物品や封書の類を届けるのが、ジキルの担当分野であった。軽い機体で風に遊び、雨の隙間を縫って航行する。しかし一週間程前からランデルタール山脈の辺りで大風雨が頻発しており、その方面へ飛行艇を出せない関係上、飛行艇乗りの仕事の量が減っているのだ。
 ジキルの父親もまた飛行艇乗りであったこともあり、彼は幼い頃から、風の読み方を心得ていた。耳で聴き、肌で読み、自分の直感を信じて突き進む――。どんな風雨の日にも必ず無事に山脈を越え、荷物を届けるジキルを歓迎してくれる人々は、昔は町にも多くいた。その頃であったなら、会社の判断で飛行艇を出せないような日でも、よく内勤の仕事に声をかけられていたものだが、すっかり厄介者になってしまった今のジキルに、そんな誘いは終ぞ無かった。
「ねえ、ジキルよ。あんなところで何をしているのかしら」
「大方、いつもの現実逃避でしょう。最近すっかり何を考えているのかわからなくなっちゃって、なんだか気味が悪いわよね」
 ああ、また噂好き共の雑談だ。陰口ならば、聞こえぬように言えばいいものを。そう考えてから、ジキルは思わず苦笑した。恐らく彼らには、『ジキルは既に気が触れている』と思われてでもいるのだろう。
「そりゃ、仕方ないわよ。両親を急に事故でなくして、順調にいっていたガイア調査隊への進路も諦めて郵便飛行士になったっていうのに、ほら」
「可愛がってた妹まで、あんなことになったんじゃあ、ね」
 ジキルの指先が、びくりと小さく痙攣する。それに気づいた人間は、恐らく一人も居ないだろう。ジキルがふらふらと歩き始めると、彼らはさっと道を避け、また他愛もないお喋りに興じはじめたようだった。
(ガイア調査隊――)
 その言葉が、ちくりとジキルの胸を突く。
 人類にとって母なる星、故郷たる郷愁の星、ガイア。およそ三百年程前に起こった隕石落下の影響で、粉塵と火山灰とにすっぽり地表をくるまれたその灰色の惑星の、現状を知る者は誰も居ない。非常事態を受け、ガイアにとって唯一の自然衛星であったこの星へ命からがら逃げてきた人々は、それまでに培われた膨大な技術や知識を、咄嗟に運び出すことが出来ないまま母なるガイアへ置き去りにした。その為、この星の文明レベルはガイアで人類が築いていたそれより、随分劣っているのだ。今では旧文明時代の宇宙船も失われ、現人類が持てる限りの技術で作った望遠鏡や簡易な探査機の類では、灰色のスモッグに覆われたその地表の様子をうかがうことなど、出来ようはずもなかったのだ。
「ねえ、兄さん。私ね。ガイアの繭の、内側のことをよく考えるのよ」
 幼い頃のアイシャがよく、ジキルにそう話しかけた。「繭?」とジキルが問い返せば、アイシャは得意げに頷いて、堂々たる態度で自らの考えを主張する。
「大人がスモッグとか呼んでいるあれは、繭なのよ。隕石の落下で傷ついたガイアが、自分の身を守るために作った大きな繭」
「蛾の幼虫が作るような?」
「うーん、まあ、そうね。ガイアは今、きっと一生懸命自分の身体を癒そうとしているんだと思うの。誰も寄せ付けないように、灰色の繭ですっかり自分自身を覆い隠して、その中で少しずつ、元の豊かさを取り戻そうとしているのよ。だけどもう、隕石落下から三百年も経っているんだもの。繭の中は山も川も元の通りになって、海にはもしかしたら、魚が泳ぎ回っているかもしれない。そういう事を考えていると、私、とっても素敵な気持ちになるのよ」
 なんの根拠もなく夢見がちにアイシャが語るのを、ジキルは大抵の場合、適当に相槌をうって聞き流すことに決めていた。未知の故郷であるガイアに、アイシャとはまた違った強い思いを、ジキルも抱いていたからだ。
「ガイアが今、どうなっているかなんてわからないよ」
「だけど、とっても気になるじゃない」
「まあね。でも、ガイアの今を知る方法はたった一つさ」
 首を傾げるアイシャに、幼い頃のジキルは、したり顔で笑ってみせた。
「父さんが言ってただろ? 今度正式に、『ガイア調査隊』っていうのができるんだ。俺達の手で宇宙に飛び立つ飛行艇を造って、ガイアの今を見に行くのさ。まだまだ実験段階だけど、俺達が大人になる頃には、本当にガイアに行けるようになっているかも知れない。そうなったら、――俺は絶対一番に、ガイアへ飛び立つ飛行士になるんだ」
 幼い頃のジキルの『夢』は、ただ子供の憧れに終わる類のものではなかった。彼は調査隊の訓練校に入るため、力学や工学、医学等幅広い分野を必死に勉強した。正直なところ、それでも知識面の成績は最下位ぎりぎりのラインであったが、飛行の実技に関しては、彼は同期の中でもトップの成績を誇っていた。
 家族も彼を応援した。訓練校に入ったジキルは寮暮らしを始めたが、それでもアイシャは度々ジキルに会いに来ては、ガイアへ向かって進む兄を、真っ直ぐな目で見守った。
 そんな穏やかな日々を唐突に終わらせたのが、今も忘れない、あの日の『事故』である。
 酷く雨の降る日のことだった。ジキルはその事故のことを、訓練校の教官から聞かされた。ジキルの両親とアイシャを乗せた、列車の脱線事故。奇跡的に一命を取り留めた乗客の中にアイシャが居たが、しかし救出までの十二時間を、段々と冷たくなっていく両親に囲まれて過ごした彼女は、以前のアイシャではなくなっていた。
「母さんが、私に覆い被さってくれたの。でも母さん、そのせいで、鉄塔の直撃を受けたのよ」
「アイシャ。母さんは、お前を守ってくれたんだ」
「父さんはしばらく息があった。ずっと、寒い、助けてって言っていたのに、最期は私に、『お前は家へお帰り』って笑ったの」
「アイシャ、……」
「ごめんなさい。……ごめんなさい。兄さんだって、辛いのに」
 それから同じように雨が降る度、アイシャは酷く取り乱すようになった。事故を思い出すのだろう。ガタガタと震え、上手く言葉も発せない。そんな妹の様子を見かねたジキルが訓練校を辞め、寮を引き払い実家へ戻った時には、アイシャは酷く泣き喚いた。
 雨が降る度、彼女が錯乱するようになったのも、思えばこの頃からのことだ。「私が居なければ」彼女は繰り返した。「私さえ居なければ、兄さんはガイアへ行けたのに」
 「アイシャ、気にするような事じゃないさ」せめて優しい妹を傷つけないようにと、ジキルは出来る限り、明るい様子を振る舞った。
「そもそも、まだ宇宙への有人飛行だって成功しちゃいないんだ。あのまま訓練生を続けていたって、俺はガイアの地を踏むことなく、一生を訓練生として過ごしていたかもしれない。もし本当にガイアへの飛行が可能になったとしたって、俺は飛行士に選ばれないかもしれない。実際、訓練校には俺より優秀な奴なんて沢山居るんだから。……なら、ガイアに行くのは俺じゃなくても良いじゃないか? ガイアへ行った誰かが、ガイアの今を、俺達みんなに報せてくれるさ。だけど今、お前の側にいてやれるのは、俺だけだろう」
 妹の力になりたかった。夢を追うより、ずっと大切なことがそこにはあった。ガイアへの未練がなかったわけではない。だが、――
(このまま勉強を続けても、俺なんかが、本当にガイアに行けるんだろうか。そうでないなら、俺のしていることの意味は、……)
 そんな思いは、ずっとジキルの胸中にあった。
 大人になり、幼い頃のひたむきさを失いつつあったジキルにとって、
 つまりこの不幸な事故は、彼が自らの『夢』を諦める口実としても、打って付けであったのだ。
 
 陽も落ち、明かりも灯さず暗闇と化したジキルの家の戸を叩く音が聞こえたのは、ジキルが『記憶屋』の元から帰った晩のことであった。
 「ごめんください」と呼ぶのは少女の声だ。一方でジキルは着替えもせず、家に着くなりボロのソファへ横になり、浅い眠りについていた。
 ガンガンと扉を叩く音。「あの、お留守ですか、いらっしゃいませんか」と続く声が、いやに、煩わしい。ジキルはしばらくその音も、声も聞き流していたのだが、そのうちついに我慢が出来なくなり、苛立ちながら体を起こした。少女は尚も、扉を叩き続けている。
「あの、ジキルさん。いらっしゃいませんか」
 重い扉をぐいと開けば、叩いていた扉を急に失ったせいだろう、少女が前へつんのめる。ジキルは咄嗟にその体を支えてやってから、すぐに彼女から手を放し、顔をしかめると、「どちら様?」と短く尋ねた。ジキルより十は年下の、まだ幼い娘である。この辺りでは、あまり見覚えのない顔だ。
「あの、突然ごめんなさい。私、急いでいて。荷物があるんです。でもランデルタール山脈には、今日も大風雨が、だからあの、ジキルさん」
「待て、一体何の話だ? 家賃はちゃんと払ってる。立ち退き要請ならお断りだ」
「そうじゃありません。私、仕事の依頼に来たんです」
「仕事、……俺に?」
 問い返せば、彼女はぱっと表情を明るくして、大きく三度頷いた。
「急いで届けてほしい荷物があるんです。本当は郵便飛行会社へ行ったんだけれど、今はランデルタールの天候が荒れているから、北の方角へ飛行艇は飛ばせないって断られてしまって……。でもちょうど近くを歩いていた男の人に、ジキルさんのことを聞いたんです。ジキルさんならこの程度の風雨、目をつぶっていても飛んでいけるって聞きました」
 「男?」と思わず聞き返せば、この少女はまた頷いて、「黒い服を着て、トップハットを被った人でした」と素直に告げる。
(トップハット……。まさか、『記憶屋』か?)
 そう考えて、しかしジキルは無感情に息を吐くと、ぎいいと軋んだ音を立て、扉を締めかけた。少女がはっと息を呑み、「待って下さい!」と声を上げる。
「郵便飛行会社で断られたんだろう。生憎、俺も自前の飛行艇を持っているわけじゃないんだ。会社の許可がなけりゃ、飛べない」
「飛行艇なら、トップハットの男の人が貸してくれると言っていました」
「はあ? 『記憶屋』が、どうしてそんなものを持ってる」
「『記憶屋』……? あの、でも、ジキルさんに引き受けてもらえたら、ロンドの丘に来るようにと言われました。そこに飛行艇を用意しておくから、って」
 この少女の言う男が、ジキルの推測の通り『記憶屋』であったなら。一体彼は、何を考えているのだろう。
「お願いします。どうしても、急いでいるんです。ランデルタール山脈では、一度大風雨が起こると長引くって聞きました。……郵便飛行会社が動いてくれるのを待っていたら、間に合わなくなってしまう」
 聞いて、ジキルはぎくりとした。『間に合わない』その言葉が、まるで冷たい刃のように、ジキルの心を撫ぜたのだ。
――ジキル、一体どこへ行っていたんだい! どうして早く戻らなかった。アイシャが、あんたの妹が、今、――
 ふう、と小さく息を吐く。しかしそれでもなお、ジキルが扉を閉めようとすると、少女はその口を真一文字に結び、「お願いします」と深々頭を下げた。
「母さんが病気なんです。医者様が言うには、もうあまり長くないって……。私、母さんと大喧嘩をして出て行った、お兄ちゃんを呼び戻したいんです。お兄ちゃん、どんなに電話で話しても、会わせる顔がないからって言って聞かなくて。……この荷物は、お兄ちゃんが母さんへ贈ったものなんです。これを、母さんが今も大切に持っていたって事がわかれば、きっと帰ってきてくれます。お願いします。――最期に、逢わせてあげたいんです」
 彼女の言葉は、切実であった。
 
 とっぷりと暮れたロンドの丘に、冷たい風が吹いていた。
 厚手の帽子を被り、継ぎ接ぎだらけの上着を整え、ゴーグルをぴたりと額に付ける。
「一体何が目的だ?」
 ぽつりと一言そう問えば、ジキルの前に立つトップハットの男――『記憶屋』は、「目的なんて無いですよ」と言ってにこやかに笑ってみせた。
「丁度、偶然、天の思し召しで、あの娘が郵便飛行会社と揉めているところに出くわしましてね。親切心から、貴方のことを紹介したわけです。考えてもみて下さい。貴方のような大人ならともかく、あんな年端もいかない若い少女が、この事で心に傷を負い、麻薬中毒者かのように私の元へ通ってくる姿なんて、想像したくもないじゃないですか」
 相変わらずの物言いに、ジキルが思わず眉を顰める。そうして彼のすぐ隣に用意された機体を一瞥すると、「F型か」と呟いた。
「ええ。郵便飛行屋が使うものより旧型です。大風雨の中、この機体で飛べますか?」
「お前が、俺になら飛べると吹聴したんだろう。今更無理だなんて言えるか。それより、どうしてお前がこんなものを持ってる」
「私は意外と、何でも持っているのですよ。よく、お代の代わりに頂きますので」
 『記憶屋』がにこりと笑むのを見れば、何やら背筋に悪寒が走る。しかしそうして機体に乗り込みながら、ジキルは思わず苦笑した。悪寒が走る、だなんて、随分久しい感覚だと思ったからだ。
 『あの日』から、自分の心はもうすっかり、錆び付いてしまったものとばかり思っていたのに。そう考えれば不意に、昔聞いたアイシャの言葉が脳裏に過ぎる。
――大人がスモッグとか呼んでいるあれは、繭なのよ。隕石の落下で傷ついたガイアが、自分の身を守るために作った大きな繭。
 操縦席に乗り込むと、まずはざっと、操縦桿の位置を確認する。旧型とは言え、配置はそれ程変わらないようだ。案外、手入れもきちんとされている。袖や首元の釦をきっちり締め直すと、ジキルは額にあてていたゴーグルを目の位置へ移した。
「間に合うと良いですね、今度は」
 『記憶屋』が、ぽつりとそう言った。
 耳を澄ませて風を聴き、広いロンドの丘を滑走路に、飛び立つ姿を想像する。『記憶屋』がその細い腕で、機体の先端に付いたプロペラをぐいと押し回した。
 軽やかなエンジン音が、冬の夜風にふと混ざる。機体が丘を下っていく。そうして傾斜を利用し、ある程度の速度が付いたところで、
 ジキルの乗ったグランジアムF型は、瞬く間に夜空へ飛翔した。
 星の少ない夜である。厚い雲の合間から見えるその光は、ジキルの進むべき方角を指し示すには物足りない。高度を上げていくにつれ、ちりちりとした寒気がジキルの頬をなぞっていく。それでもジキルは身じろぎもせず、肌で風のうねりを聴いた。
(届け先は、ランデルタール山脈を越えた向こう、カプスハウゼン)
――母さんが病気なんです。医者様が言うには、もうあまり長くないって……。
――郵便飛行会社が動いてくれるのを待っていたら、間に合わなくなってしまう。
(そんな仕事をこの俺が請け負って、良かったものやらわからんな、……)
 自嘲気味に笑うジキルの頬に、ぽつりと何かが落ちてきた。雨粒だ。
 眼を細めて、風を読む。しかし唐突に横風を受けたのを感じて、ジキルは操縦桿を握る掌に力を込めた。
 ランデルタールの、暴風域に入っている。
(ちっ、旧型は計器が見にくいな)
 星を読むことが出来ない以上、備え付けのコンパスで、こまめに方向を修正せねばなるまい。高度を下げて強い横風をやり過ごし、しかし唐突に視界に横切ったその影に、ジキルは思わず手を揺らした。
 鳥だ。羽ばたく力を失った鳥が、風に流されて横切ったのだ。しかしそうとわかったのとほぼ同時に、ジキルの飛行艇がぐらりと揺れる。
 上部主翼から異音がした。みしりと鳴ったその音に、ジキルの血の気が引いていく。一度、この風域から逃れて体勢を立て直さなければ。そうは思うのに、操縦桿が上手く動かない。叩きつけるように吹く雨が、ジキルの手元を滑らせている。エンジンを蹴り、自棄になって舌打ちをした。だがそうしてふと見上げた視線の先に、――雲の隙間が、ぽかりと口を開けていた。
 その背景には訳知り顔でジキルを見下ろす、灰色の繭を着込んだガイアが在る。
「上がれ、……上がれ」
――お願いします。最期に、逢わせてあげたいんです。
「上がれ、間に合え!」
 
 両親の時も、――アイシャの時も、ジキルはいつだって、最愛の人達の最期には間に合う事ができなかった。
 アイシャを亡くしたのも、やはり雨の日の事である。晴れの日には穏やかに暮らし、仕立屋での仕事も順調にいっていたアイシャだが、事故から数年が経ったその頃も、彼女は強い雨が降る度、倒錯を繰り返して苦しんでいた。
 急の天候の変化であった。突然のその雨に、想定外の仕事で足止めを食っていたジキルは焦れていた。きっと家では、発作を起こしたアイシャが震えて待っている。職場の人々に事情を説明し、ジキルは走って帰宅した。しかしそうして帰ったジキルを待っていたのは、――アイシャではなく、隣の家の住人であった。
「ジキル、一体どこへ行っていたんだい! どうして早く戻らなかった。アイシャが、あんたの妹が、今、――」
 そうしてジキルは、錯乱して外へ出たアイシャが車に轢かれ、今し方息を引き取ったところだと聞かされたのだ。
「アイシャはずっと、あんたのことを呼んでいたんだよ。ごめんね、ごめんねって何度も繰り返して。最期に何か言ったけど、もう、声もすっかり弱っていたからね……。その言葉もやっぱり、『ごめんね』だったんだとは思うんだけど」
 『ごめんね』。その言葉がずしりと、ジキルの心に圧力をかける。
――私さえ居なければ、兄さんはガイアへ行けたのに。
(違う。違う、俺はお前のことを、……『夢』を諦めるための口実にして、……)
 後悔するには、もう遅い。
 その日からずっと、ジキルは己を責めてきた。アイシャは、優しい妹は、ジキルの半端な『夢』の犠牲になったのだと――、そう思えてならなかったのだ。
 
 足を踏ん張り、渾身の力を込めて、雨ですっかり濡れそぼった操縦桿を引き上げた。そうして飛行艇の先が雲の隙間へ向かいつつあるのを感じると、ジキルは風の流れるその先を、灰色のガイアがあるその場所を、強く、睨め付ける。
 灰色のスモッグで覆われる前のガイアは、美しい青い惑星であったと聞いている。しかし今では薄ぼんやりとして、嵐の中に見つけても、明るい希望は湧いてこない。
――ガイアは今、きっと一生懸命自分の身体を癒そうとしているんだと思うの。誰も寄せ付けないように、灰色の繭ですっかり自分自身を覆い隠して、その中で少しずつ、元の豊かさを取り戻そうとしているのよ。
(俺が夢を追い続けていたら……お前の纏っていた『繭』を、俺は壊さずに済んだのかな)
――大丈夫。大丈夫よ、兄さん。私のことは心配しないで。私、兄さんの足枷にはなりたくないの……。
 いつも質素なグレーの服を着て、倹約して家事をこなし、仕立ての仕事さえ始めながら、懸命に元の自分を取り戻そうと頑張っていた、アイシャの姿を思い出す。目の前に見えるガイアの姿は、まるで彼女と同じに見えた。
 主翼がみしりとまた鳴った。打ち付ける雨にジキルの手が、ゆるゆると操縦桿を握る力を失っていく。高度が下がる。ああ、進路を変えなくては。このままではいずれ、聳え立つランデルタールの山々に激突してしまう――。
 しかしそうして、ジキルが深く目を瞑った、その時だ。
 ぽちゃん、と、何やら水の落ちる音。おかしな事だ。右も左もわからぬような風雨に晒されているジキルが聞くには、随分大人しい音ではないか。
(だけど、この音……)
 確かどこかで、聞いた音だ。そうしておぼろげな意識の中、思案を巡らせて、――
 はっと気づいて目を開く。その時に見た不思議な光景を、ジキルは生涯、忘れることはないだろう。
 遙か眼下に黒々と、水を湛えた場があった。湖だ。ランデルタールの山々に周囲を囲まれるようにして、一つ大きな湖が、ジキルの進む先にあった。その湖は雲の隙間から覗く僅かな星の灯りに瞬時、輝いて、
 その水面に落ちてゆくジキルの飛行艇と、茫洋と浮かぶガイアの姿、それに――一人の少女の姿を、映し出していたのである。
 遠くの湖に映るその少女が誰なのか、ジキルはすぐに直感した。ガイアと同じ灰色の衣服を身に纏った彼女は、すっとランデルタール山脈の向こう側、どうやら北の方を指さしている。それはジキルの運ぶ荷の目的地である、カプスハウゼンのある方角だ。
「間に合うわ」
 懐かしい声が、優しく告げる。
「ずっと言いたかったの。ごめんなさい。……それに、ありがとう、兄さん」
 ああ、あの小さな水音は、――『記憶屋』で仮初めの夢から目覚める時、耳に馴染んだあの音だ。
 
 ***
 
「おや、お帰りなさい」
 ぞろぞろとした黒い上着に、似合わぬトップハットを被ったその男が、ジキルに向かってこう言った。飛行艇を返却したいからと、彼が『記憶屋』に訪れた日のことである。
 ジキルはこの得体の知れない男を相手に、小さく溜息を吐くと、「機体はロンドの丘に戻してある」とまず言った。
「あの荒天の中、無事に仕事を終えられるとは。いやはや流石でいらっしゃる」
「お前が、そう仕向けたんだろう」
「ふふ。貴方が飛び立つよう仕向けたのは私ですが、その先のことは知りませんよ」
 そう言って、この男はくすくすと笑った。
「……いえ、実はね。私の所へ『夢』を買いにいらっしゃる時の貴方が、あまりに自暴自棄でいらっしゃるものだから、いっそこの辺りでオシマイにして差し上げた方が、良いかとも思っていたのですよ。あの飛行艇も、私には無用の長物でしたから、貴方と共に山に消えても、まあ、丁度良いかと」
 言われてジキルは、びくりと肩を震わせた。つまりこの男の目論見は、ジキルをあの大風雨に向かわせて、ひと思いに死なせてやろう、と、そういうことだったのだろうか。しかし相手はジキルのそんな反応を楽しむように笑ってから、穏やかな声で、「間に合ったそうじゃないですか」と呟いた。
「息子さん、荷物を受け取ってからすぐに列車に乗って、お母さんと妹さんの居るこの町へ戻って来たそうですよ。間に合いました。……、ちゃんと間に合いましたよ」
 何度も言わなくても、聞こえている。そう返そうとして、しかしジキルはそれをやめた。代わりに、「そういえば」と言葉を置くと、彼はただ穏やかな声で、「もう、お前の世話になるのはやめにするよ」と、そう続けた。
「カプスハウゼンに着いた後、一度だけ、夢に妹が出てきたんだ。あいつ、空みたいに明るい青色の、新しい服を着て、笑って俺に手を振ってた。海辺で……あれは、もしかしたらガイアの海かな。友達も出来たみたいで、なんだか凄く、幸せな夢だったんだ」
 『記憶屋』はわざとらしい驚き顔をして、「素敵な夢をご覧になったんですね」と相槌を打つ。
「しかし結局、妹さん離れできていないじゃないですか」
 「放っておけ」とジキルが言えば、相手はにやりと笑ってみせた。
「いいでしょう。それではこれで、さよならです。――どうぞこれからは、良い『夢』を」



見たよ!