未完成パズル

「奪っても良いよ」

唐突な言葉に、青年の持つペン先が止まる。
紙面から顔を上げると、その人は遠い窓の外を眺めていた。けれど、部屋には彼らふたりだけの姿しかなく、何より青年がその声を聞き間違えるはずがなかった。
「……何だよ、ちゃんと聞こえてるぞ」
「うん、知ってる」
睨み付ける眼差しに臆することなく、彼は身体を小刻みに揺らすと、やっと相手と目を合わせた。
噎せ返るようなアルコール臭の中、儚げな微笑を湛える。そして、青年の手元に置かれた桜色の手紙へとちらりと視線を投げかけた。
「欲しいのなら、奪っても良いよ。……もちろん、条件はあるけれど」
「条件?」
「うん、そう」
冗談混じりの口調とは裏腹に、その双眸は笑っていなかった。真っ暗な眼球が切実に、熱烈に。秘めやかな想いを揺らめかせる。
気の早い紅葉が、窓の外で音もなく舞い落ちた。



――あなたに会って、話したいことがあります。

見慣れてしまった癖字と、いつもとは違う他人行儀な文面に、とうとうこの日がやって来たのだと絢(あや)確信した。
差出人名は「成宮 晴(はる)」。名前の後ろに添えられた、不格好なウサギのマークが紛れもない現実を突きつける。
未練がましく、何度、カラシ色の便箋を読み返してみても、それが変わることはなかった。
「はぁ……」
溜息をひとつ、絢は机の引き出しからレターセットを取り出した。選んだのは、つい最近、一目惚れして買ったコラージュ風の便箋だ。
今や電子メールが当たり前。短い用事や連絡なら、SNSや無料アプリのスタンプひとつで意思疎通が出来てしまうこのご時世、手紙を書くという行為は時代遅れにすら見えた。絢自身、仕事からプライベートなやりとりまで、そのほとんどはパソコンとスマートフォンで済ませるタイプだ。
けれど、この手間も時間もかかるやりとりが、この面倒さが何故だか手放し難く、気づけば文通を始めてから十年が経っていた。
手紙には出来れば今月中に会いたいということが、書かれていた。日付は彼女の都合を優先してくれるらしい。
手帳を取り出し、絢は次の休みを確認する。一番近い日だと、四日後の水曜日が空いていた。
(これだと、あまりにも急すぎるかしら)
そう思い、一応、他の休日についても書き添えて、封をする。
自分の住所と名前、そして目印であるウサギのイラストを添えると、彼女は夜中まで開いている郵便局へと急いだ。
その胸中は、ついにやって来てしまった終焉への不安に揺れていた。



成宮晴は、絢の幼馴染だ。昔、小学校低学年のときに入院した病院で知り合った。
生まれつき病弱だという彼は、とても静かな少年だった。よく窓の景色を眺めたり、絢なら五秒で投げ出しそうな、難しい漢字の書かれた本を読んだりして過ごしていた。
怒ったり、感情的になることは稀で、絢が突然やって来ても、いつも優しく笑って、広いベッドの上に招き入れてくれる。そういう少年だった。
入院中、絢は母にもらったばかりのジグソーパズルを持って、よく彼の病室に遊びに行った。
暇つぶしを兼ねたそのプレゼントが、当時の彼女には少し難解だったこともあるが、今思えばそれは彼に会うための口実だったのかもしれない、と絢は思う。その証拠に、一度完成させたあとも、彼女はそれを再び壊し、彼に教わりながら何度も飽きずに組み立てて遊んでいた。
ふたりの文通は、少女が退院してから、すぐに始まった。
絢は、母に書いてもらった自分の住所と名前の終わりに、クレヨンで大きくウサギを描いた手紙を彼に送った。
その頃、絢は自分の名前の最後にウサギの絵を描く癖があった。年子の妹との持ち物を区別するために、母は昔から絢の小物類にウサギのワッペンを貼りつけてくれた。それは、幼い絢にとって自分を示すための大事な目印だった。
その癖を、晴が真似した。絢が小学校を卒業し、地元の中学に入学しても。隣町にある高校に通っても。東京の大学に進学し、独り暮らしをはじめ、そのまま都内の企業に就職してからも――それは、ずっと続いた。ウサギの目印と共に。


十一月半ばの東京は、秋の気配で満たされていた。
公園の銀杏並木は金へと色を変え、肌を刺すような冷たいビル風がスカートの裾をはためかす。
ざっくりとしたニットと、ワインレッドのフレアスカート。格子柄のネイビーのタイツには、あたたかなファー付きのショートブーツを合わせた。
(少し、若すぎたかしら……)
大通りのショーウィンドーに映った自分の姿を横目で眺め、絢は逸る胸を押さえた。指先にコットンパールのネックレスが触れる。
ここ最近は仕事が立て込み、せっかくの休日も溜まった家事を済ませて終わった。女子大の友人たちともなかなか休みが合わず、気分転換に出かけることも出来なかった。
だからこうして着飾るのは久しぶりで……それもまた、絢の心を落ち着かせない要因となっていた。
「ばかね……デートじゃあるまいし」
己の不謹慎さに、絢は苦笑いを零した。
ビルの合間から覗いた秋空は、何処かくすんで見えた。

待ち合わせに指定されたカフェは、絢の自宅から地下鉄で二本隣の駅にあった。
駅から十五分ほど歩いた場所に構えた店先には、手書きのメニューボードが立てかけられている。
駅前の大型チェーンと比べると集客数は少ないが、それでも店内はそこそこの賑わいを見せていた。カラン、コロン……と、味わい深いベルの音に胸がときめく。
出迎えた店員に「成宮」の名前を伝えると、すぐに席へと案内された。
明るい窓側の席に腰掛けていたのは、学生らしいあどけなさを残したひとりの青年だった。
「……お待たせ」
絢が親しげに声をかけると、青年は驚いたように瞠目した。その前には、少しぬるくなったコーヒーが置かれていた。
「いえ。こちらこそ、急に呼び出してしまって、すみません」
緊張した面持ちで会釈を交わした彼は、絢が席に座ったのを見計らい、メニュー表を差し出した。
「何か、頼みますか? ……この店、チーズタルトが美味しいそうですよ。絢さん、好きでしたよね」
「覚えていてくれたの」
手紙で何度か書いた大好物を、彼はきちんと覚えていたらしい。そんな些細なことが嬉しくて、絢は上機嫌に顔を綻ばせた。
「あなたも、食べる? 奢ってあげる」
「……それは、俺の台詞ですよ。絢さん」
メニューから顔を覗かせ尋ねると、彼が苦笑いを返した。その表情は、先程よりも少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
残ったコーヒーを飲み干すと、彼は近くにいた店員を呼んだ。チーズタルトをふたつに、オリジナルブレンドと、ホットカフェオレをひとつずつ注文する。
運ばれてきたお店自慢のチーズタルトを口に含めば、ほろほろと、ほどよい酸味が広がった。
「どうですか、噂のチーズタルトは」
「すごく、美味しい。今まで食べた中で、一番好きかもしれない」
その甘すぎない口触りは男性にも食べやすいのか、青年の皿を盗み見ると、すでに三分の一しか残っていなかった。
「……ホールで頼めば良かったかしら」
「どれだけ気に入ったんですか、絢さん」
その言葉を勘違いした青年が、またおかしそうに笑った。
明るい響きに咎める気も失せて、絢はカップに口をつけた。ミルクと砂糖だけでは溶かしきれない苦味が、仄かに鼻をつく。
「今日、は……」
掠れる声を、再び飲み物で潤す。
「今日は、晴れて良かったね」
「そう、ですね……でも、さすがに寒くなってきましたね。女の人って、タイツで寒くないんですか?」
「女の子のオシャレに、多少の我慢はつきものなのよ」
文通のやりとりを思い出しながら、探り探り、無難な話題を交わし合う。
聞きたいことは、他にあった。
話したいことは、他にあった。
互いに抱く想いは、きっと同じだ。それでも、相手が抱く躊躇いを言い訳に、互いに逃げ道を探す。核心に触れないようにと選ぶ言葉は、何処か固かった。
けれど、いつまでも逃げることは出来ない。そのことを、ふたりは良く分かっていた。
「……絢さん」
びくり、と、カフェラテを持つ手が震える。
そろそろと顔を上げた先にある真剣な眼差しに、絢は続く言葉を促すように息をついた。
「実は、俺……――」
だが、青年が口を開けたと同時に、店内がわっと騒がしくなった。来客を告げるベルの音さえ掻き消すように、いくつかの学生のグループがレジ前に集う。
丁度、近くの大学の講義が終わった頃なのだろう。レジュメのぎっしり詰まったファイルが懐かしい。
「……混んで来ましたね。場所を、移しましょうか」
「そう、ね……」
ふたりの間に、ぎこちなさが逆戻りする。
支払いのために先に立ち上がってしまった青年を追いかけて、絢はブーツの踵を鳴らした。



店を出ると、すかさずビル風がふたりを嬲る。
公園に行きましょう、と青年は言った。絢は頷き、彼の背中に続いた。
手を繋ぐ訳でもなく、それでも他人と言うには近しい距離を以て、ふたりは歩いていく。カフェから更に十分ほど歩くと、彼が言っていた小さな公園が見えた。
恐らくは、近隣のマンションの住人だろう。僅かな遊具で遊ぶ親子の姿がちらりと見える。入口の花壇には、秋らしいマリーゴールドの黄色とオレンジが風に揺れていた。
彼に促され、空いたベンチに腰掛ける。
遠く、子供の声を聞きながら、ふたりは再びの沈黙を交わした。
「……絢さん」
名前を呼ばれ、振り向く。
青年の表情はやはり少しだけ固かった。
「一応、確認ですけど……俺が、成宮晴ではないことは、分かってますよね?」
「えぇ」
記憶の中の少年よりも、ややつり目がちな眼差しを捉えながら、絢は呆気なく頷いた。
晴は、今年で二十六になる絢よりもひとつ年上だ。対して青年は、彼と目許がよく似ていたものの、どう見ても年下の、健康的な大学生だった。
彼が、成宮晴であるはずがなかった。
「でも、二年くらい前から代筆していたのは、あなたでしょう?」
「……気づいて、いたんですか」
心底、驚いた様子の彼に絢は優しく微笑んだ。
「だって、字の癖が、晴くんとは少しだけ違っていたから」
キーボードで打ち込んだ、規則的で無機質な文字の羅列とは違い、ペン先が綴る文字は不安定で、そして個性的だ。
もう何百回も晴の手紙を読み込んだ絢には、些細な変化さえ気づくことができた。
彼が代筆していた手紙は、ぱっと見では見分けがつかないほど晴と字が似ていた。恐らくは、意識的に書き方を真似ていたのだろう。それは、彼の几帳面さをよく表していた。……ただ一ヵ所を覗いては。
「晴くんってね、名前を書くときだけ、何故か最後の『青』の一画を長く伸ばす癖があるの。……あなたみたいに、きっちり跳ねないのよ」
手紙の最後に添えられた「成宮晴」の名前。
人が、一生のうちで最も書く回数が多い自分の名前だけは、誤魔化せなかった。それは、無意識に癖が表れてしまうところだから。
だから、分かった。手紙を綴る相手が、彼自身ではないことを。もう、ずっと前に。
「……そうだと分かっていて、文通を続けていたんですか。二年間も、顔も知らない男と」
「それくらい、必死だったの。晴くんとの連絡手段は、この手紙くらいしかなかったから……」
昔、一度だけ、どうしても会いたくて、手紙の住所を頼りに実家を訪ねたことがある。
けれど、そこに彼の姿はなかった。

――上のお兄ちゃんが病気で、ずっと入院生活なんですって。ご両親は共働きだし、年の離れた弟さんも寮暮らしになるっていうから、寂しくなるわねぇ。

近所の老婦人は、人好きのする笑みでそう言った。試しに彼の入院先を知っているかどうか尋ねてみたけれど、分からなかった。
そのとき、足元から這い上がるような恐怖を彼女は抱いた。
もしも、この手紙が途絶えてしまったら……今度こそ、絢は本当に彼を見つけられなくなると思った。二度と、あの再会の約束を果たすことは出来ない、と。
ネット社会と言われる現代、地球の裏側の人間とさえ、簡単に繋がれると人は信じて止まない。
けれど、実際には。手が届く場所にいるはずの、たったひとりとの縁(えにし)ですら、不確かで不安定で。彼女にとって、この文通だけが、唯一にして最後の手段だった。晴と繋がる、細い、細い糸だった。
「……成宮晴は、俺の兄です」
かつての少年とよく似た目許をした青年は、そう打ち明けた。
「今日、絢さんを呼んだのは、兄貴に頼まれたからなんです。これを、あなたに返して欲しいって……」
「……これ、は……」
そう言って青年が差し出したものに、彼女の声が震える。
深い、深い群青のそれは、再会の約束と共に絢が手渡した、ジグソーパズルの一欠片だった。
「まだ、持っていてくれたの」
「えぇ。兄貴は、それをお守りみたいに、大事にしていましたよ。ただ、……ずっと未完成のままじゃ、悪いからと……」
「……そう」
掌に落ちた欠片の意味を、反芻する。
もう一度、会える日までと。そう指切りをして渡したそれが、こうして戻ってきた意味を。
「……これで、晴くんとは本当にお別れなのね」
言葉にして、その現実の重さに息が詰まる。
覚悟していたはずの別れのときは、想像以上の喪失を絢にもたらした。
ぽつり、ぽつり。細かな水滴が、握り締めた掌の震えと共に、声もなく落ちる。
「絢さん……」
青年の、困惑した声が耳朶を撫でた。
絢は慌てて涙を拭うと、誤魔化すようにわざと明るい声を出した。
「そういえば、名前、聞いてなかったね。弟くんは、なんていう名前なの?」
「……セイ、です。――さんずいに、『青』と書いて、清です」
「清くん。かっこいい名前」
赤くなった鼻をすすり、濡れた跡を残したまま彼女は微笑んだ。
ブーツの踵が、かつん、と後ろへ後退る。
「清くん、今日は有難う。チーズタルト、すごく美味しかった。それから……ずっと、文通相手になってくれて有難う」
「絢さん」
「でも、あとはもう大丈夫。わたしは、もう少しここで落ち着いて行くから、清くんは先に帰――、っ!?」
けれど、絢が全てを言い終わる前に、力強い手がその腕を掴んだ。
「……っ、絢さん。このあと、時間はありますか」
「……」
青年の切実な雰囲気に飲まれ、絢は思わず頷き返す。
すると、彼は一瞬だけ唇を噛み、そして……にやりと笑った。
「それなら、……これからふたりで、バカ兄貴の鼻をへし折りに行きませんか?」
「え?」
いたずらっ子の顔をした清に手を引かれ、絢は目を白黒させる。涙も、一瞬にして止まった。
公園を突っ切り、大通りへと出た彼は、目についた空車のタクシーに手を上げる。そして、有無を言わせず彼女を車内へと押し込んだ。
「あ、あの、清くん? 鼻をへし折るって、一体……」
「あしや総合病院まで、お願いします」
そんな絢の問いには答えず、清は運転手に向けてはっきりとした声音で行き先を告げた。



病院独特の、アルコール臭が鼻をつく。それは何処か懐かしく、絢の心をざわめかせた。そして。
「ここ、は……」
個室の前に掲げられたネームプレートには、彼女が待ち望んだ名前が書かれていた。
声も出せずにそれを凝視する絢を余所に、少し不機嫌そうな顔をした清がドアを開けた。
その音に、ベッドの背を立て、窓の景色を眺めていた細い影が逆光と共に振り返る。
「やぁ、清。思ったよりも早かっ――」
その穏やかな双眸が、驚きに見開かれる。
言葉を失う兄の表情に、青年は「ざまぁみろ」と言わんばかりに、鼻を鳴らした。
「全部、あんたの思い通りに行くと思うなよ、バカ兄貴」
悪態をついた清が、入り口で佇んだままの背中を押す。
その勢いのまま、彼女はよろけるように足を踏み出した。
「晴、くん……」
声帯が熱を帯び、呼ぶ声が掠れる。
たった数歩にしか満たないはずの距離さえ、今はもどかしかった。
「晴くん、……だよね?」
やっと辿り着いた先、乞うように顔を上げると、懐かしい眼差しが彼女を見ていた。
声変わりし、少し大人びた容貌になったものの、それは間違いなく成宮晴その人だった。
「清は、男心が分かっていないねぇ……」
――こんな弱った姿、見せたくなかったのに。
やれやれと言うように肩を竦めるその様子がおかしくて、愛しくて、絢は小さく笑った。
「それなら、晴くんは乙女心が分かってないね。……わたし、ずっと、会いたかったんだよ」
「うん、……知ってた」
震える指先が、ぎこちなく彼女の目許を拭う。
触れた箇所から伝わる、不自然な痙攣。それでも、昔と変わらずに伸ばされた優しい仕草は、絢の頬を余計に濡らした。
「ごめんね。嫌われちゃった?」
その問いかけに、彼女はふるふると首を横に振った。珊瑚色に涙の粒が弾ける。
「さっき、タクシーで清くんから聞いたよ。代筆の理由も、それから……あのパズルを、ずっと大切にしていてくれたことも」
すごく、嬉しかったの。吐息のように、彼女は囁いた。
「晴くん。手紙が書けないなら、会いに来るわ。喋るのが辛いなら、わたしが代わりにたくさん喋る。……弱さを見せたくないと言うのなら、それ以上に、わたしが弱さを見せる」
二年前の手術の後遺症で、未だ痙攣の残る彼の手を絢は握り締める。
そして、十年分の想いを込めるように、ただひとつの願いを懇願した。
「だから、また会いに来て、良い……?」
「絢ちゃん……」
黒い瞳が、そっと眇められる。それは、今にも泣きだしそうな色をしていた。
痩せた面を切なげに歪め、色素の薄い唇を噛み締めながら、彼は言葉を絞り出す。
「そしたらきっと、また、君を泣かせちゃうよ?」
「それでも、いいよ。だって、そのときは晴くんが拭ってくれるでしょう?」
絢が当然のように首を傾げると、相反するように晴が苦笑いを零した。
「絢ちゃんって、案外、頑固で我が儘だよね。……昔から、ずっとそうだ」
大きな溜息をたっぷりと吐き、彼は絢が握っている手とは反対の手を、肩の辺りまで上げた。
「降参です。……僕も、本当はすごく会いたかった」
「うん、知ってた。手紙に、書いてあったから」
「そうだっけ?」
「えぇ、そうよ。全部、全部、書いてあったわ……」
彼の臆病さも、寂しさも、恋しいという想いも。
全ては不安定な文字に滲んでいた。
「……ねぇ、晴くん。これ、やっぱり返すね」
そう言って、絢は不思議そうな顔をする晴の手に、青い一欠片を握らせた。
「でも、これは……」
「わたしも、まだ持ってるの。だから、このピースは晴くんが持っていて……」
――今度、わたしがあのジグソーパズルを持ってくるときまで。
その言葉に応えるように、彼はもう片方の手で彼女の手をそっと包み込んだ。



絢の背を押すと、彼女は危うい足取りながらも、真っ直ぐに晴の元へと歩を進めた。
十年ぶりに再会する幼馴染の姿に、兄がくしゃりと破顔する。その表情を目にした清は、もう大丈夫だと、そう確信した。
「偉そうなことばっかり、言ってたくせに……」
奪っても良いと、兄は清にそう言った。
そして、その条件として彼はあのジグソーパズルを清に手渡した。
『これを、彼女に返してくれたら、奪っても良いよ』
そう言って渡された破片を、自分で返せば良いと押し返せなかったのは、清の浅ましさだ。
兄の代筆として手紙を交わし合ううちに、細い女文字に滲んだ人柄に惹かれた。兄が大切そうに語る少女を、実際にこの目で見てみたかった。そんな不純な気持ちが勝った。
けれど、期待と罪悪感を抱えての対面は、まるで重たい罰だとでもいうように、彼女の揺るぎない想いを青年へと知らしめた。
(奪える可能性なんか、最初からなかったじゃないか)
それでも清には、兄の臆病さや、彼女の往生際の悪さを嘲笑える資格はなかった。
最後に告げられた「さよなら」を匂わせる言葉に、縋るように彼女を連れ出した。彼女との縁を、細い糸を、繋ぎとめるために。
たとえ、振り向いてもらえなくても、それでも彼もまた、繋がっていたいと願った。……成宮晴の、弟として。
「……あら、清くん。そんなところで、何してるの?」
兄の病室の前で所在なく立っていると、顔見知りの看護師に声をかけられた。その眼差しは、部屋に入らなくて良いのかと、彼に無言で問いかける。
「そっとしておいて下さい。……失恋中なんです」
それに対し、清が苦笑気味に返すと、彼女は「まぁ」と興奮したように口に手をあてた。にやにやと笑う唇は、しかし見事に下世話な好奇心を隠せていない。
「あらそうなの、ふぅん。……うふふ、若いって良いわねぇ……」
彼女はひとしきり笑ったあと、青年の肩を親しげに叩いた。
「年上が好みなら、わたしたちが、いつでも傷心を慰めてあげるからね」
「……考えておきます」
ひらひらと手を振る彼女を見送り、彼は肩を竦める。恐らく、ナース室はしばらくこの話題で賑わうに違いない。
(下の自販機で、飲み物でも買ってくるかな……)
部屋に入る口実を模索しながら、青年は兄の病室から微かに漏れ聞こえる笑い声に、耳を傾けていた。
それは、何処までも明るく響いていた。




――それから数日後、未完成だったジグソーパズルが、十年ぶりに完成した。



見たよ!