真っ直ぐにのびる、その町でいちばん高い塔の階段を少年は登っていく。ぐるぐると螺旋を描きながら、途中設置された小部屋を通過し、上へ上へと。
 風はなかなか通らず、白いシャツは雨と汗を吸い取りぺっとりと背中に張り付いた。ポタポタと雫を垂らし足跡を残しながら、ほとんど日課と言ってしまってもいいような道のりを歩んでいく。
 やがてひとつの大きなドアの前に立つと目元を一度、ぐいと拭った。
「じいさん」
 ノックもせずにドアを開け、そこにいるであろう人物へ声を掛ける。部屋の中央にいたその人物はちらりと少年の方を向くと、にっと意地悪そうな顔で笑いかけた。
「お前さん、また懲りずに来たのかい」
「まあね」
「外は酷い大雨だろうに、精が出るな」
「じいさんがくたばった後のことを考えてだよ」
「かかかっ。憎まれ口を叩きよって」
 三日と空けずに少年がここへ通うものだから、もうすっかり馴染みの挨拶となってしまった。ゴウンゴウンと規則正しく歯車は動き、二人の声をかき消さんとばかりに張り切っている。
 時計塔の心臓は、いつだって元気だ。そしてその心臓のある部屋でいつも、老人と少年は互いの暇を潰していた。
 少年は老人の名を知らない。独り身なんだろうということは何となく知っていたけれど、それ以外はこの時計塔の管理者であり整備士であること以外、全くと言っていいほど知らなかった。同じように老人も、少年の服装や顔立ちからまだまだ若い学生であろうということは知っていたが、それ以外は名前さえ知らなかった。それでも二人は何だかんだで共に過ごしているのである。名前などなくとも、意外と人と人は繋がれるらしかった。
 心臓の音にかき消されないように声を出しながら挨拶を終えると、少年はどさりと肩にかけていたカバンを下におろす。雨で湿ってしまったタオルを引っ張り出し全身のある程度の水分を拭く。その間に近くの小さなチェストから決まりきったようにして、老人はチェスのボードと駒を取り出した。少年と老人はこうして集まり、時間が過ぎるまでチェスをして過ごすのが当たり前となっていた。
 盤上に駒を配置する。メモ用紙を見ながら前回途中になってしまっていたゲームそのままを再現し終えると、老人は「おい」と声を掛けた。
「シャツなんぞ脱いでその辺に干しとけ。帰る頃にはあらかた乾くだろうしな」
「じゃあ、他のシャツ借りるよ」
「好きに使いな。ジジイのお古だがな」
 つい三ヶ月ほど前に知り合ったばかりだというのに、二人はまるで旧知の友のように言葉を交わしていた。その期間が短いのか長いのかは図りかねるが、それだけ彼らは馬があったのだろう。
 狭い空間に少したわんで設置された麻紐に着ていたシャツを適当に洗濯ばさみで固定して、かわりに少し黄ばんだ白いTシャツを拝借する。所々くしゃくしゃで色のバリエーションも少ない物干しには、服などに無頓着な老人の性格が見て取れた。少年は老人のそんな気取らない部分も気に入っていた。
 シャツのついでに濡れてしまったタオルも干して、ようやっと老人の正面に座る。先程まで軽口を叩いていた二人は一変して、静かになった。真剣勝負の続きだ。
 ゴウンゴウンと鳴り響く中、不思議と駒が盤上を滑る音がコツリと耳に残る。時間の制限などはなく、ただただ一手を考え、楽しむものだった。何もない時計塔での、唯一の娯楽。
 やがて互いに数手進めると、「そろそろ出るか」と老人が呟いた。
「もうそんな時間?」
「早く下に行くぞ」
 メモに今日進んだ所まで追記すると、老人はさっさとチェスを片付け始める。今日も決着は着かなかった。
 いまだに湿っているシャツとタオルを手に持ち、カバンを肩にかけて少年は一足先に階段を下りていく。来る途中に横切った小部屋に入ると、質素な作りのその床に直接腰を下ろした。
 やがて老人が降りてきて一分と経たないうちにリン、ゴンと激しい音が聞こえてくる。時計の針が、午後六時を知らせる音だ。
 鐘の音が響く間、二人は黙ってその場で耳を澄ませていた。町が眠りに向かい始める、最初の音。
 鳴り止んだその余韻までたっぷりと待ち、さあもう帰んな、と老人は少年に声を掛けた。彼はいつもこうして、少年を優しく家路へと着かせようとする。だからどんなに帰りたくなくとも、少年はうん、とだけ返事をし、その部屋を後にするのだ。
「じゃあね、じいさん。また近いうちに来るよ」
「ああ。また来るといい」
 あんなに軽く言葉を交えることもできるのに、人生の長さでは叶わないのだといつも思い知らされる。Tシャツは借りたまま、今度返すよと言ってそのまま部屋の扉を閉じる。とん、とん、と幾分重い足取りで塔を下りきると、すぐ近くに置いていた自転車にまたがった。少年の家は、時計塔からずいぶんと遠い場所にある。


 * * *


 鬱々と雨が降り続ける、五月。それは単なる思いつきだった。
 ――教室の窓から見えるあの時計塔に登ってみよう。
 少年は代わり映えのない灰色の日常から脱したかった。規則正しく時間を刻む、この町のシンボルに近づけば何か分からない、力のようなものが得られるような気がした。だから放課後、家とは反対方向のその時計塔へと傘をさして徒歩で向かったのだ。
 思っていたよりも時計塔のある場所は遠かった。普通に考えれば当然のことだ。教室からではそこそこの大きさとして見えているが、時計塔なんてものは、本来近くで見上げても視界に入りきらないくらい大きいもので、簡単に行けるわけがない。
 それでもここまで来てしまったんだ。ここで帰るわけにはいかない、と半ば意地を張って、一心不乱に歩き続ける。明日は学校も都合よく休みで、一日くらい家を空けたって何も言われない。
 どうしても今日中に塔を登りたかった。けれどもっと単純に言うならば、高い場所で、日常とは切り離された異質な空間に行きたかった。たった数分でも、数秒でもいい。少年は自身に絡みつくものから逃れたかった。
 やがてたどり着いたのは海岸から少し離れた崖の上に建てられた、目的の時計塔。生まれてこのかた来たこともないような場所に建てられていたという未知への好奇心と、少しばかりの気後れを感じながらぼんやりと見上げる。近くで見る時計塔は見慣れた文字盤を視界に収めることすら困難で、なんだか思っていたものより幾分か違う印象を抱かせた。
 下から満足いくまで眺め終えると、ぐるりと塔の周りを歩き入口を見つける。恐る恐るドアノブを回してみるとあっさりと扉が開く感覚がした。一瞬戸惑いはしたものの、扉の向こうにある階段を登っていくことにする。
 普段行かないような道と距離を歩いてへとへとの両足を叱咤しながら、ゆるゆると階段を登っていく。途中にあった扉は入るか否か考えた結果、止めておくことにした。下手なことをして怒られたくはないし、何より彼の目的は高い場所へ行くことだった。
 階段の終わりにぽつりと現れた大きめの扉に手をかける。ノブを回すと、入口と同じように施錠はかけられておらず簡単にくるりと回った。ゆっくりと扉を手前に引く。
 そこは少年にとって未知の世界だった。
 今まで見たこともないような大小さまざまの歯車が所狭しと噛み合わされて、ゴウンゴウンと音を立てている。どこにどう繋がっているのか分からない鎖が何本も垂れていて、たくさんのパイプが組み合わさっている部屋は、思っていたよりも随分狭苦しく埃っぽいところだった。
 少しでも高い場所へ。清々しい所へ。今までと違う空気の所へ。そう思って来た場所は、どの思いも満たしてくれるような所ではなかった。悲しいけれど、その一方でどこか安心も覚える。疲労した足の重さが前にも後ろにも進ませてくれない。
 こつりと階段を登ってくる音ではっと我に返る。鍵が開いていたとはいえ、勝手に入っていい場所ではないのだろうことは明白だ。
 どうしようかと思案しつつ開け放った扉を背に階段を見ていると、やがて階段を登ってきた老人と目があった。少年は何かを言おうとしたけれど、何をどう言えばいいのか分からずぱくぱくと口を動かすに留まる。一方の老人はひょいと片眉を上げると、事もなさげに声をかけてきた。
「お前さん、どうしたんだ。こんな時間に一人で」
「えっと……。その……」
 指一本と動かさず、両の目だけを居心地悪そうに動かす少年を見て、老人は一人ふむ、と納得したようだった。
「まあいい。こっちへ降りて来い。飯も寝床も、一応はあるぞ」
 とっくの昔に日は沈み、辺りは真っ暗になっていた。少年を一人で返すのは危険だと判断したのかそうでないかは分からなかったが、少年は大人しく老人の言うとおりに階段を下りていく。
 塔の途中にあった部屋に入り、パンにスープと簡単なものを用意した老人は適当に腰掛けるように促す。ひたすら黙ったまま食事を終えると、今度は少年にベッドで寝るように促した。少年は一言も喋らなかったし、老人は彼を責めることはなかった。
 翌日の昼前に腹を空かせて起きると、くしゃりと笑った老人が「おはよう」と挨拶を投げかける。もう何年も口にしていなかった挨拶を返して共に食事を取ると、早々に少年は家へ帰ることにした。
「ああ、お前さん」
 塔から出て歩き出そうとすると、老人に呼び止められた。
「来たけりゃいつでも来ていいぞ。ただし日の高いうちだけだがな」
 少年は返事の代わりに笑顔を返す。前日の雨など嘘だったかのように青空が頭上に広がっていた。


 * * *


 じりじりと肌を焦がす強い太陽。その光を反射する白い砂。水平線のむこうにもくもくと広がる大きな入道雲を背に、唐突な報告を受ける事になるとは思わなかった。いつものように時計塔へ向かい入口近くに自転車を止めると、見知らぬ壮年がやってきて少年に尋ねる。
「ああ、もしもし。きみ、この時計塔の人と交流があった子かな?」
「はい、そうですけど」
 額に汗を滲ませた壮年は安堵したように続ける。
「ああ良かった! いやね、探していたんですよ。あの人、遠くへ行っちゃったみたいでね」
 話が急すぎて頭がついていかない。少年の目は大きく見開かれる。
「これをね、預かってたんですよ。たぶんまたすぐに来るだろうから、渡しておいてくれってね。さあさ、ちゃんと渡しましたよ」
 そういって右手に押し付けられたのは一枚の紙切れだった。じいさんはどこに行ったんだとか、いついなくなったのかとか、聞きたいことはたくさんあった。たくさんあったけれども、壮年は紙切れを押し付けると早々にその場を後にしてしまったために何も聞けずに終わってしまった。
 貰ったくしゃくしゃの紙を恐る恐る開く。白くきらきらとした砂子が散りばめられた何かの切れ端のようなそれには、癖の強い字で数行の要件が書き込まれていた。
 曰く、必ず戻る。またチェスをしよう。時計塔はお前に預ける。『時計塔のジジイより』と締めくくられていた。

 買い物に出かけて、不調気味だった歯車のツナギを補修して、散歩にでも出かけようかとしたとき。見慣れぬ子供が塔の扉の前にいた。
「お前さん、どうしたんだい」
 少年から青年へと歳を重ねた低い声で、子供に問いかける。子供はにっと悪戯っぽく笑う。どこか懐かしい面影。まるで、あの老人のような。
 子供は一言、青年に告げる。
「紙切れに書いた約束、果たしに来たんだ」



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