硝子のウサギと月のワルツを

 あなたに、二つの選択肢をあげましょう。ここに残るか、別の道を歩むか。
 声はそう告げた。悩むことなんて一つもない。私の答えは決まっていた。
 その答えを告げると、分かりましたと声は答える。
 形の良い唇が、口角をあげて微笑んでいるのが見えた気がした。柔らかい光に包まれているだけで、声の主も何も見えてはいなかったのに。


***


 わたしの部屋の窓の縁には、硝子細工のウサギが居る。明るいうちは、太陽の光が射し込んで輝いて見える。夜になると、月の光が反射して部屋の中を照らす。部屋の中で丸い光の輪ができるのを、あきは海の中みたいだと言ってよく眺めていた。わたしには、ウサギの影と月が踊っているように思えた。彼女は隣に寝転がり、ただ飽きもせずそれを楽しそうに見ていた。わたしたちはよく、こんな風に静かな時間を過ごした。
 最初に硝子のウサギを見つけたのは、あきだった。中学生のころ、年末の大掃除でわたしたちの部屋の押し入れを二人で片付けていた。ほとんどがわたしの荷物であきのものは少なかったけれど、わたしたちは二人で次から次へと出てくるものを片付けていた。必要ないものは捨ててしまいなさい、とお母さんに言われていたから、わたしは長い間開けていない段ボールの中のものはできるだけ捨てることにした。あきにも、段ボールの中を開けて確認してもらう。その中の一つにそのウサギは眠っていた。
「ねえ、瑞穂、見て」
 彼女は段ボールの中を覗き込みながら、わたしの名前を呼ぶ。胸のあたりまである長い飴色の髪が段ボールの中に垂れていて、わたしは汚くならないと良いなとぼんやり思っていた。
「どうしたの?」
 段ボールに囲まれて一歩も動くことのできなかったわたしは、声だけ返した。本当は何を見ているのか気になっていて、すぐにでも覗き込みたかった。
「ほら、じゃーん」
 取り出されたのが、硝子でできたウサギだった。首にピンク色のリボンが結ばれている。段ボールの中に押し込まれていたせいか、リボンが皺になっていた。いつから持っていたのか、どうして持っていたのか、まったく思い出せない。恐らく、誰かからのプレゼントだったのだろうと思う。
「可愛い、ねえ」
 あきはにこにこと笑いながら、そのウサギを見つめていた。白い肌を桃色に染めて、幸せそうに。
「あきが欲しいなら、あげるよ」
 わたしがそう言うと、彼女は勢いよく顔をあげ目を丸くする。あきは、嬉しい時と驚いた時によくこういう顔をした。
「いいの、本当に? ありがとう、嬉しい」
 踊りだすような勢いでウサギを抱えたまま回転すると、そっと窓縁にその硝子の人形を置く。わたしが不思議そうに眺めていると、その視線に気が付いたのか、彼女ははにかむような表情をする。
「ここに置いたら、空が映って綺麗かと思って。大切にするね」
 あきのその時の顔は今でもよく思い出す。名前をどうしようか真剣に考える横顔も。
「この子、ルーナにする。月のウサギみたいじゃない?」
 いたずらを思いついたような表情でそう告げた。
 結局ウサギのルーナは持ち主が居なくなった今もわたしの部屋の窓縁に置かれたままだった。けれど、いつかあきが戻ってくるような気がして、わたしはそこから動かすことができなかった。動かしてしまったら、本当にもう会えないような気がしてしまうから。


***


 猪爪あきは、幼稚園児だった頃にわたしの家へやってきた。お母さんが初めてあきを連れてきた時、わたしはこんなお人形みたいな子がいることも今日から一緒に居ることになることも信じられなかった。
「みずほ、今日からあきちゃんも一緒に暮らすことになったの、仲よくしてね」
 リビングのソファに座ったあきは、小さな声でよろしくおねがいしますと挨拶をした。けれど、わたしは、あきの飴色の髪の毛も、海の底のような深い青い瞳も、何もかもが綺麗で見惚れてしまっていた。触ったら壊れてしまいそうな気がしたけれど、それでもそこにちゃんと存在することを確かめたくて仕方なかった。そして、唐突にわたしは手を伸ばし、肩までしかない短いあきの髪にそっと触れた。
「とってもきれい」
 目を丸くしてされるがままになっていたあきも、漸くわたしの意図が分かったようで、頬を染めて恥ずかしそうに笑った。
その日から彼女はわたしの家族であり、「特別」だった。人見知りをするあきと、いつも隣にいるわたしの距離が近づくのに、それほど時間はかからなかった。
 少しだけ癖のある、なめらかな感触のその髪の毛を触るのがわたしは大好きだった。いつの間にか彼女のほつれやすいその髪の毛を結わえるのがわたしの役目になった。それは、高校生になっても変わらない。毎朝、登校前にベッドの上に腰掛けるあきの髪をいじる。
「あきの髪を触ってるの、好きだなあ」
 腰のあたりまで伸びた飴色の髪を三つ編みにしながら、わたしがそう何度も呟く。あきの反応はいつも同じで恥ずかしそうに楽しそうに笑った。小刻みに揺れる細い肩を眺めるのも好きだった。後ろから強く抱きしめたら、壊れてしまいそうだった。制服の白いシャツの上に着た水色のカーディガン。時々、感じる海の匂いみたいなシャンプーの香り。
「そんなに良いものでもないけれど、瑞穂がそんなに好きって言ってくれるなら嬉しい」
 正面を向いたまま答えるあきの声が弾んでいたから、わたしも嬉しくなった。
「行こう、遅刻しちゃう」
 照れる気持ちを隠すように、わたしはあきの肩を軽く叩く。振り返ったあきは、うん、と返事をして立ち上がる。部屋を出て、階下へ降りる階段を降りると色違いで買った紺色のあきのリュックが動きに合わせて揺れる。何年か前にあげたくらげのマスコットのストラップがそのリュックにはついていた。それを眺めながら、わたしはもうすぐあきの誕生日だったことを思い出した。
 駅へ向かう途中で少し先を歩く彼女に声をかける。
「もうすぐ、あきの誕生日じゃない? プレゼント、何が良い?」
 あきは驚いたように肩を少し震わせた。不思議に思ってわたしはあきの隣に並ぶ。顔を覗き込もうとすると辛そうな表情を浮かべていたのが視界の端に見えた。しかし、それはすぐに消えて、代わりに小さく笑っていた。
「何が良いかなあ」
 突然、あきが走り出す。そして数メートル先で立ち止まり、わたしの方へ振り返った。膝より少しだけ短い制服のスカートが翻る。
「ねえ、プレゼントは要らないから、わたしと家族でいて」
 ねっと念押しするように言う彼女は、真剣な目をしていた。笑い飛ばすこともできなくて、わたしも真面目な顔をして当たり前でしょうと言い返す。その言葉を彼女は深く頷いて受け止めた。
「今の言葉、忘れても良いから忘れないでいてね」
 聞き取れないくらい小さな声で言われたその言葉に、わたしは気が付かないふりをして、結局しきれなくて動揺してしまう。一瞬だけ反応が遅れたその隙に、あきは急ごうと前を向いていた。その時、彼女がどんな顔をしていたのか、わたしには分からなかった。その後も、あきはその話を繰り返すことはなく、まるで忘れてしまったように振る舞っていた。
 それでも、18歳の誕生日はやってくる。


***


 休日の朝は遅い。わたしはお昼になる少し前に起きて、ベッドの中で休日を満喫する。カーテンの隙間から差し込む光と、ほんのり温かい布団の中で、本を読むのが大好きだった。今は、あきが薦めてくれた本を読んでいる。小さな星に住む王子さまが、自分の星から出て、あらゆる場所を巡り、大切なものを見つけるお話。有名な小説だけれど、わたしは読んだことがなかった。学校からの帰宅途中に立ち寄った書店で、最近よく見るようになったその本を眺めていると、一緒に来てふらふらと店内を見回っていたあきが戻ってきて言った。
「著作権が切れたばかりで、いろんな翻訳版が出てるから、読み比べてみたら面白いと思う」
 確かに、平積みされた何冊かの本は表紙と訳者が違っていた。
「これは、私が持ってるから貸してあげる」
 白い表紙のその本はわたしでも見かけたことのあるものだった。わたしは、あきからその本を借りた。
 あきと比べて読む速さが遅いわたしは時間がかかるけれど、それでも、本を読むのは嫌いじゃない。
 お腹が小さく鳴ったのを聞いて、わたしは本を置いた。時計を見ると、もうお昼の時間だ。わたしはリビングのある1階に降りる。


 あきはいつでも早起きだ。そして、休みの日にはお昼を作りながらわたしが起きるのを待っていてくれる。
「おはよう」
 足音に気が付いたのか、彼女が声をかける。階段を降りてすぐ右側がキッチン。左にリビングがある。キッチンの入口には扉がなくて、そこからあきが顔を出していた。
「おはよう」
 挨拶を返しながら中をのぞくと、蓋がされているフライパンの中で何かが焼かれていた。目玉焼きだろうか。わたしは半熟ゆで卵が好きだけど、あきは目玉焼きが好きだった。
「もう少しで出来上がるから、ちょっと待ってて」
 リビングのあるテーブルには、すでにお箸やフォークが並べられていた。水色のマグカップがあき、桃色がわたし。気が付くと青系統のものがあき、明るい色がわたしの持ち物に増えていた。
「今日のお昼はサラダパンケーキにしてみました」
 キッチンから運ばれてきたのは、パンケーキが詰まれたお皿とサラダ。それを見て、わたしもキッチンに向かい牛乳を用意する。あきのパンケーキはふわふわで美味しい。それほど甘くないので、サラダとも合う。大好きな料理の一つ。
 取り皿に好きなだけパンケーキを取り、その上に好きなものを好きなだけのせる。ちょっとしたパーティみたいだった。
「ねえ、見て」
 最後に彼女が持ってきたのは、目玉焼きだった。お皿の中で、二つの黄身がこちらを見ている。双子の目玉焼き、と呟くとあきが頷く。
「割ったら、二つ出てきたから、今日は目玉焼きを一つにしちゃった。半分こにしよう」
 彼女はお皿の上で双子の目玉焼きを半分に分けた。
――わたしと家族でいて
 以前に聞いたあきの言葉がよみがえる。双子の目玉焼きを食べたら、わたしは彼女と双子や姉妹になれないだろうか。
 取り分けられた目玉焼きにはもう双子の相手がいない。もう片方は、あきのお腹の中に入る。わたしたちは、こんなにも一緒に居て、同じものを食べているのに。家族だと伝えなければ、家族で居られないなんて。
「どうしたの」
 黙ってしまったわたしに、あきが心配そうに尋ねた。後ろでゆるく束ねた髪からリボンが落ちそうになっていた。
「リボン、ほどけそう。後で結びなおしてあげる」
 リボンの状態を手で触って確認すると、その反動でリボンはするすると落ちてしまった。紺色のリボンが床に落ちていく様子が不思議とゆっくりと見えた。


***


 少し、カーテンを開けておいて、とあきはわたしに声をかけた。もう家中が静かに寝静まっている頃合い。わたしは、その言葉に従って半分だけカーテンを開く。硝子のウサギに月の影がかかる。なぜか、その時そのウサギが泣いているように見えた。
 部屋の中で、月の光が影を作る。水の泡が浮かびあがる。
 ベッドに仰向けになり、あきは天井に映るその様子を見ていた。
「わたし、18歳になるの」
 静かに言われる。わたしはその話を聞きたくないと思った。けれど、あきはそんなわたしの気持ちなんて気にせず、話を続ける。
「18歳になったら、大人になるの。だから、私、戻らなければならない。深い深い夜の底に」
 小さい時にわたしの家にやってきたあきの事情を、わたしは聞いたことがなかった。いつの日か、いなくなってしまう日が来ることを恐れていたから。
「夜の底って?」
 息を吐き出すように、絞りだすようにそれだけを問いかける。
「瑞穂にはね、ちゃんと伝えておきたいの」
 隣に寝転がっていたあきがわたしの方を向く。パジャマ代わりの白いワンピースと、そこから出ている白い肌と、そしてこちらを見つめる瞳。その瞳が揺れていることに気が付いてしまった。ギュッと、わたしの手が彼女の手のひらを握りしめる。
「わたし、本当は人魚なの。18歳になる日まで、海の中で暮らすか地上で暮らすか選ぶことができる。わたしは丘に上がることを選んだの。外の世界に憧れてたから。だから、わたしは瑞穂の家に来たんだよ」
 わたしは咄嗟にあきの足に視線を移す。白い形の良い足がベッドの上に放り出されている。
「本当は私の足は魚みたいなのよ、薄紅色の鱗があって、とても綺麗なんだから。瑞穂にも見せてあげたいけど」
 明るいあきの声が部屋の中で響く。そんなこと聞きたいわけじゃない。
「どうしても、ここには居れない?」
 首を横に振り、悲しそうに答える。
「ごめんね、どうしてもそれはできない。地上で暮らすための決まりだから」
 決まり、という言葉を強調するように告げる。わたしの頭を優しくあきの手が撫でた。彼女はずっとこんな気持ちで、ずっと隠したまま笑っていたんだろうか。
「誕生日の放課後にわたしは海に帰る。瑞穂とは朝でお別れしよう。わたし、瑞穂に会ったら戻れなくなっちゃう」
 それは、残酷な宣告に聞こえた。けれど、わたしにも分かっていた。海に帰るあきを見送ったら、きっとその手を離せなくなる。分かった、と笑いかけると、泣きそうな顔をしてわたしに抱き着いてきた。
 わたしたちはその日、小さいころのように抱き合って眠った。大切なものを失くさないように。


 あきの誕生日の朝、わたしたちはいつものように学校に向かい、教室の前で別れた。
「お誕生日おめでとう」
 その言葉と、彼女への贈り物を押し付けて、わたしは泣かないように彼女の前から走り去った。その後のあきの顔をわたしは知らない。
 夜になってもあきは帰ってこなかった。一人になった部屋は広くて冷たい。


***


「みずほさん、ですか?」
 図書館で本を読んでいると、声をかけられる。顔を上げると、声をかけたと思われる二人組の少女がこちらを見ていた。どこかで見おぼえがある顔をしていたけれど、名前が浮かんでこない。知り合いではないはず。
「そうだけど、えっと、なんでしょう?」
 肯定するとほっとするような顔をした手前の少女が後ろの子に振り向いて目くばせをする。同学年ではなさそうだから、後輩かしら。そう思ったところで、心あたりを思いつく。
「あきの、後輩?」
 部長をしていたあきと後輩が歩いているところは何度か見かけたことがある。その中に、目の前の彼女も居た気がした。
「そうです」
 わたしが気が付いたことに嬉しそうに頷く。
「わたしたち、猪爪先輩と一緒に海に行ったんです」
 その言葉で、彼女たちはあきを見送ったのだと悟った。どうだったのか聞きたかったけれど、それをあきが望んでいないことは理解していた。
「猪爪先輩と一緒に住んでいたのがみずほさんだし、わたしたちよりみずほさんが持っていた方がいいと思って。これ」
 布に包まれたものを差し出される。それを受け取ると、二人はお願いしますと頭を下げ、離れていった。
 わたしも軽く頭を下げ返す。
 1人になって、その布をそっと開ける。中には薄紅色の鱗。あきが綺麗だと自慢していた鱗。最後のプレゼント。
 わたしはそっとそれを胸に抱えて、押し寄せる波みたいな感情が引くのを待った。もし、もう一度会うことができるなら、わたしは彼女にありがとうと伝えよう。そして、わたしたちは、まだ家族だと伝えよう。


Fin.



見たよ!