ぬばたまの夜のものがたり

新月の夜、あなたのもとに参ります
あなたが明日も、輝けるように――



 その夜のことは、実はあまりよく覚えていない。小さな子どもだったという訳でもないのに、なぜか詳しいことが思い出せないのだ。そもそも今となっては、あの夜以前のことなど既に忘却の彼方で、まるで自分ではない誰かの記憶かのように遠く霞み、もうすっかり薄れてしまっている。
 それでも確かに覚えていると言えるのは、あの夜の星が、僕の手でも届きそうなくらい近くにあって、ちかちかと瞬いていたこと。その星の間を駆ける風はとても冷たくて思わず震えるくらいだったのに、僕は構わずただじっと、孤児院の屋根の上にぺたりと座り込んで、その光を見つめていたこと。それから、新しい家となる屋敷へ辿り着くまで、僕の手をまるで壊れやすい陶器でも運んでいるみたいに柔らかく、そっと包んでくれた彼の温もりと、その優しい笑顔――ただ、それだけ。
 
 
 
「すみません、これ、何処でしたっけ?」
「ああ、そこではない気がするけどまあいいや。私も覚えてない」
「まったく……いい加減にしてください!いつもいつもその調子で、これじゃちっとも片付けられないじゃないですか!」
「はは、ツカサは厳しいね。そう言わず、許しておくれよ。何も、今に始まったことじゃないだろう」
 背の高いその人が仰向いて、高い梯子の上から声を掛けた僕に苦笑いする。ツカサとは、僕の名前。因みに、彼の名前はヒサト。僕の主人だ。
「……こんなに集めて、何になるんです?大して見もしないじゃないですか」
僕は愚痴っぽくそう言いながら、ぎしぎしと怪しい音のしている梯子を降りる。その隣の、触るだけで埃の立ちそうな古ぼけた長椅子に、彼は長い脚を組んで座っていた。
「まあね。私も使い方を知らないものばかりだ。しかし別にこれくらい貰ったって、いいじゃないか。少なくとも……」
そこで言葉を切り、彼はぐるっと部屋中を見回した。
「ううん、やっぱり壮観だねえ」
 そこにあるのは、かなり広いはずのこの部屋ですら狭く思えるくらい所狭しと並べられ、天井に届くほど高く高く積み上げられた、がらくたの数々。それは色褪せた小さな紙切れに始まり、ひび割れたランプ、何対かのくすんだ鏡、音の出ないオルゴール、絵の抜けた額縁、錆びたナイフ、何語かも分からないような言葉で書かれた黴臭い本、と挙げていけばきりがない。彼がちょうど今座っている長椅子も、似たようなものだろう。ここに山と積まれた物のほとんどを彼が実際に使っているところを、僕は一度も見たことがない。それでもこれらの品々がここに在り続けているのは、これら全てが、彼が長年かけて一つずつ集めたコレクションだからだ。それも、びた一文かけることなく。
「話が途中ですよ。少なくとも、何です?」
「ああ、そうか。ええと……少なくとも、これらの品々を対価として頂ける程度には、私は為すべきことを行っているつもりだよ、と言うつもりだった。それは元の持ち主だって、重々承知の上じゃないか」
「そりゃあそれくらい、僕だって分かってますけど。あまりにも多すぎやしませんか」
「まあね。集め始めてもう、とってもとっても長いから。頂いた時はぴかぴかだったのに、いつの間にか錆びてしまった物もある……でも全て、大切な品だ」
 そう言って、彼は僕の方に莞爾と笑ってみせた。そう言えば、初めて会った時にも、こんな風に笑っていたっけ……。あれからもう長く経ったような気がするのに、彼はちっとも変わっていない。僕は、少しだけ大きくなったと思うけれど。
 この収集品の話を初めて聞いたのも、その時だ。あの時は、彼がとんでもない大泥棒か何か――その割には下らないものばかり盗んできたものだと訝しく思ったけれど――ではないかと疑ってしまったが、そうでないことは程なくわかった。そうだ、その話をしよう。彼が、いや僕らが、この膨大な収集品の一つ一つを、どうやって手に入れるのか。そもそも僕らが、何をしてるのか。少しだけなら、僕にでも話せるだろうから。
 
 
 ***
 
 
【虚像の歌う音盤】
 
「ここですか?」
「ああ、恐らくね」
「ちょっと、ちゃんと確認してくださいよ!」
「大丈夫だよ。冗談冗談」
 今日は新月だ――月さえもその姿を隠す真の闇夜、ぬばたまの夜。僕らは見知らぬ古い屋敷の前に立っていた。時刻は真夜中。辺りは暗く、目の前に翳した掌さえも見えないほどだ。
「では、お邪魔するとしよう」
 ヒサトが小さな蝋燭に火を灯し、扉を押し開く。いつもそうだ、僕らが忍び込む所が、僕らを拒むことは決してない。僕らは、歓迎されているんだ――僕は、そう思うことにしている。その方が、素敵だから。
「ツカサ、こっちだよ」
 来たことなどないはずの屋敷の中を彼は音もなく進み、迷うことなく僕を誘う。彼の背中に遮られて蝋燭の光はほとんど見えないけれど、それでも僕が歩みを進められるのは、彼が僕の手を引いているからだ――あの夜と同じように。空いっぱいの星が眩く、明るく瞬いていた、決して忘れられないあの夜と同じように、優しく温かい手で、僕を導くのだ。
 最後の扉を開けて、僕らが辿り着いたのはとある部屋だった。明かりが灯りっぱなしのせいで、さほど広くないその部屋の中は隅までよく見える。部屋の中には大して物がなかったが、床には大きな蓄音機が無造作に置かれ、何枚かのレコードが無造作に広がっていた。そして傍らの冷たい床に蹲っていたのは、一人の痩せた少女。
「眠ってる……?」
「そうみたいだね。こんなところで、寒いだろうに」
そう言うと彼は少女をそっと抱き上げ、部屋の端の寝台に横たえた。僕は白く冷たい裸足の脚に毛布をかけてやりながら、彼女の蒼ざめた寝顔を覗き込んだ。
「なんだか、顔色悪いですね」
「だろうね。無理もない……母御を亡くしたばかりだ」
 僕は僅かに身を引いて、彼が寝台の脇に膝を付くのを見ていた。伸ばした彼の手が、少女の頭をゆっくりと撫でる。何度も、何度も。
「でも、それは最近のことではない。もう一月も前の話だ……でも、この子は母御を忘れられずにいる。今すぐにでも母御の元へゆきたいと、そればかり願っている。死を望むことは赦されないと分かってはいる、自ら命を断てばその罪は重いことも、分かっている。もしそうすれば、母御の元へはゆけないかもしれないということも」
 少女は確かに眠っていたのだから、彼の声はおそらく聞こえてはいなかっただろう。にも関わらず彼が言葉を切ったその時、彼女の固く閉じた瞳から、涙が一粒転がり落ちたのだった。
「それでも、願ってしまうのだ……彼女の頭はそのことでいっぱいで、何も手に付かない。食事すら、喉を通らない。何をしようにも、母御の面影が頭を過って、それに囚われてしまう」
 僕はただ黙って、彼が語るのを聞いていた。親が死ぬというのは、それほど辛いことだろうか。僕には生まれてこの方、親がいたことなどない。だから、この子の気持ちをそっくり知ることはできない。けれど……。
「誰も、彼女のことを分かってやれない。誰にも打ち明けられないから……彼女は孤独だ、それも、彼女の苦痛を重くする。彼女の受けた傷を、更に深く抉る」
 彼が、寝台に投げ出された少女の手を握る。そう、あの手で――何もかも包み込む、あの不思議な温もりを秘めた、あの手で。
「可哀想に」
 ぽつりとそう呟くと、彼は少女の額にそっとくちづけた。
「私は、母君の言葉を伝えに来た。忘れなさい、重過ぎる苦しみを。死を願うのはやめて、明日を生きなさい……彼女はそう言った。母君は、君の生を望んでいる。手放し難い記憶は全て、美しい思い出に変えよう。私たちが、君が母君の願い通り、強かに生きる手助けをしてあげよう」
 彼が耳元でそう語っても、彼女は目を覚ましはしなかった。それでも、青白い頬が少しだけ明るくなったように、硬く結ばれた唇が少しだけ緩んだように、僕には見えた。冷たかった部屋の空気がほんの少しだけ、暖かくなった気がした。僕が最後に手を伸ばして頬を撫でると、彼女は僅かに、でも確かに微笑んだ。
 
 
「で、今回は何を持って帰ったんです?」
 次の日、まるで何事もなかったかのように、僕らはすっかりいつも通りの生活に戻っていた。僕ははたきを手に棚の掃除に勤しみ、彼は長椅子で寛いでいる。
「レコードさ、あの部屋に散らばっていたのを一枚。彼女の母御の歌声が入っている」
「歌?確かあそこにあったレコード、しばらく前に夭逝したって噂だった歌手の……」
そこまで口に出した僕のはたきを掛ける手が、ぴたりと止まる。
「まさか!」
勢い良く振り向いた僕に、彼はにやりと笑ってみせた。
「はは、そのまさかだよ。あのお嬢さんは彼女の娘さ」
「あのひと、娘がいたんですね……知らなかった。お母さんのような年には見えませんでしたけれど。しかも、あんな古い家に住んでたなんて」
 彼は何処か遠くを眺めるように目を細めて脚を組み、その身を長椅子に沈めた。
「歌手は夢を売る職業だからね。苦しい現実はしばしば、覆い隠される。それが良いことだとは思わないけれど、それで私たちも楽しんでいるのだから文句は言えないだろう。私たちは、彼女の虚像を見聞きしているに過ぎない」
「虚像、ですか」
「そうさ。そして一度作ってしまったその像を、壊すことは困難だ。遺されたあの子もそれを思うからこそ、誰彼構わず胸の内を語ることはできなかったのだろう。自分の存在こそが、その像を壊してしまう原因になってしまうかもしれないのだからね。そのことは、彼女……母御自身も、嘆いていたよ」
「そうだったんですか」
 数日前、僕が出掛けている間に、一人の女性が来たと聞いた。今思えば、それがあの少女のお母さんであり、僕らの知っている件の歌手だったのだろう。何の話を二人がしたのかは詳しく聞いていないが、きっと娘を助けて欲しいと依頼されたに違いない。
「それにしても、改めて思えば……死者と言葉を交わすっていうのは、不思議な行為ですね」
「そうかな?もう私には、なんとも思えなくなってしまったよ。君だって、もう慣れっこになってるじゃないか」
「それは、そうですけど」
 そう、彼は――これはまだ、僕らはと言うには僕はまだ未熟すぎる気がするのだ――時に、既にこの世を去った者たちと言葉を交わす。勿論僕なんかが幾ら話したって、そう簡単に分かってもらえはしないだろう――そりゃあ初めの頃は僕だって信じられなかったけれど、幾度か目の当たりにするうちに、いつの間にか慣れてしまったのだから仕方ない。とにかく、彼はまるで生者に対するのとそっくり同じように、死者に接することができる。そして彼に言わせれば、僕も然りなのだ。どうしてなのかなんて皆目見当がつかないけれど、何はともあれヒサトは、死んだはずの彼女から本当に直接話を聞いたのだ。
「……で、そのレコードどうするんです?せっかくだから聴きましょうよ」
「ううん、蓄音機が何処かにあったと思うのだけれど……さて、何処にやったか。まあ良い、置いておくとしよう。持っていて損はない、私は彼女の声が好きだった」
「またそうやって!ああもう、片付ける場所がありません……」
「しかしあの家を見る限り、彼女は私たちが思うほど売れていたというわけでもなさそうだね。気の毒に」
「話を逸らさないでください!」
「はは、やっぱりツカサは厳しいね」
 僕らの暮らしは、だいたいいつもこんな感じだ。散らかしっぱなしの彼と、片付ける僕。笑う彼と、小言を言う僕。いつだってこうなのだ――月に一度だけ訪れる、新月の夜以外は。そう、月さえもその姿を隠す真の闇夜、ぬばたまの夜を除いては……。
 
 
【回生の革表紙】
 
 もうひとつ、僕がよく覚えている話をしよう。あの時はあらゆることがいつもと違っていて、何もかもが初めての経験だったから。あの頃はまだ、僕も幼かった。思い出すだけでも恥ずかしくなるし、もう今となっては、ずっとずっと昔のことになるけれど……。
 
 
 その人がやってきたのは、ちょうど新月の前の晩だった。屋敷の呼び鈴が鳴って僕が外に出ると、そこには一人の老人が立っていた。切りたての爪の先ほどに細くなった月の淡い光がその人の顔に影を作って、僕から彼の顔はよく見えなかった。
「頼みたいことがあるんだが」
彼は嗄れた声で、単刀直入にそう告げた。
「主人を……ヒサトを呼びましょうか?」
「いや、いい。……これを」
そう言いながらその人は、何処からともなく一冊の革張りの本のようなものを取り出した。僕はそれを両手で受け取った。本というより、手帳だなと頭の端で考えながら。
「これを、返してやって欲しい。中身を見ても構わない。返してくれさえすれば」
「えっと、誰にです?」
僕の問いかけに、答えはなかった。手帳に目を落としていた僕が顔を上げた瞬間にはもう、老人は霧のように姿を消していたから。僕は両手に手帳を持ったまま、ただただ茫然とその場に立ち尽くした――自分が死者と言葉を交わしていたということが、すぐには理解できなかったのだ。
「おめでとう、君もついに依頼を受けたか」
 部屋に戻り、椅子に座っても未だにぽかんとしている僕の肩を、ヒサトがぽんぽんと叩く。そのまま彼はいつもの長椅子に埃を巻き上げながら腰を下ろし、僕が受け取った手帳を開いてページを捲り始めた。
「ふむ、親切な人でよかった。返すべき人の名前も、住所も記してある。これ自体は、特に変わった手帳ではなさそうだけれど……いや……」
 ぶつぶつ呟いていた彼のページを捲る手が、遅くなる。一方の僕は、やっと状況を理解し始めていた。僕は、死者と話したのだ。僕もついにあの奇妙な存在と言葉を交わしたのだ、彼がいつもそうしているように!僕はその後しばらく、おかしなくらい仏頂面をしていた。だってそうしていなければ、ついつい頬が緩んでしまいそうだったのだ。ヒサトという、この歩く不思議とでも言うべき人物に――少しだけ、ほんの少しだけ近づけた気がして、たまらなく嬉しくなったから。
 
 
「じゃ、行こうか。支度して。手帳、忘れないで」
「もうできてますよ。分かってます、ちゃんと持ちました」
「素晴らしい!さすが、私のツカサだ」
「はいはい、行きますよ」
 例え月のない、まるで目隠しされているような暗い夜でも、僕らの他愛もない会話はいつも通りだ。眼前の闇を掻き分けるように、僕らは夜の街を進む。静まり返った路地に響くのは、石畳を叩く僕の靴音だけ。もしも僕らがこうやって話していなかったら、そして彼が僕の手を握っていなかったならば、僕はこの闇に包まれた世界にたった一人、取り残されたと思い込んでしまっていただろう。
「君が受けた依頼だからね、君が渡すといいよ」
「そうでしょうか……緊張しますね」
「ふふ、初心でいいねぇ」
彼が、口の端で笑う。少し心臓がどきどきして、僕の足が速くなった。
 
 
「誰だ」
 数十分の後、僕らは鋭い眼で此方を睨む一人の青年と対峙していた。一方、忍び込んだ部屋の主が目を覚ましているなんて今までに経験したことがなかった僕は、すっかり縮こまってしまっていた。
「え、ええと……僕らは……」
そもそも自分たちのことを何と名乗ればいいのかも分からずに立ち竦む僕を、背後に立っているヒサトがつつく。はっと振り向くと、彼は無言で僕の掴んでいる手帳を指差した。そうだ、これを返しに来たんだっけ。
「何なんだ、お前ら。こんな真夜中に、人の部屋にずかずかと……」
入り込んで、と言おうとしたのだろう、大きく開かれた彼の口がぴたりと動きを止めたのと、僕が革の手帳を両手で思いっきり突き出したのは同時だった。
「その手帳……どうして」
僕らを警戒していた目が見開かれ、驚きの一色に染まるのがはっきりと分かった。彼は何も言えずに口を開けたり閉めたりしていたが、しばらくしてようやく、なんとか声を絞り出した。
「……それは、もう燃えたはずなのに」
「預かったんです。あなたに、返すようにって。僕が預かったんです。だから、返しに来たんです。あなたに」
そう言いながら僕は半ば無理やり、今やただ立ち尽くしているだけの青年の胸に、その手帳を押し付けた。よし、とりあえずなんとか僕の最低限の任務は遂行されたはずだ……多分。
「燃えたんだ。灰になったはずなんだ。俺の爺さんと一緒に……俺があの棺に入れた、この俺が、この手で」
「その人から、預かったんです。あなたの、お爺さまから」
彼の指が手帳の革表紙をなぞるのを、僕は見ていた。その草臥れた表紙は彼の手に吸い付くように馴染み、それが確かに彼の所有物であることを示していた。ああやっぱり彼のものだったのだと、僕はなんだか妙に納得した。
「なんで……なんで、また俺に……」
「君の祖父君は、もう一度君に書いて欲しいんじゃないかな。そこに嘗ての君が記したように、素敵な物語をもう一度」
口を出したのは、ヒサトだった。彼が青年に歩み寄る。
「祖父君はやめて欲しくなかったんだよ、君に。君がもう書くことをやめてしまうことが、きっと彼には堪らなく惜しく思えたんだ。だって、こんなに美しい物語なんだから」
「やめろ!!」
青年の叫びが突如、空を裂く。
「もう書かないって、もう作らないって、決めたんだ!もう読む人なんて、聞く人なんていないんだから。だからこれもくれてやったんだ、あいつが彼の世まで、持ってけばいいと思って!そしたらもう、俺は書かなくて済む!」
激しい口調で叫ぶたびに大粒の涙がどっと溢れて、彼の頬を伝う。
「あいつがくたばったらもう誰もいないんだ、俺が書いたって、何にもならないんだよ……!」
「そ、そんなことないです!!あなたが書いたら、きっと僕読みます……!あなたが語るなら、僕、聞きに行きます!だから、やめないで」
気づいた時にはもう、言葉が口をついて出ていた。彼が叫んだのと同じくらいの激しい声で、僕は言葉をぶつけていた。それに驚いたのか、青年がまた口を噤む。
「僕にそれを預けたお祖父さまの気持ちを、忘れないで。僕がもしも力になれるなら、何だってします。だから、お祖父さまのお願い、聞いてあげて」
彼の零した滴が床に落ちて、跳ねる。彼は手の甲で、涙をごしごしと拭った。
「約束します、僕があなたにできることがあるなら、何だって厭わないって。この命の尽きるまで、あなたが僕を必要とする限り」
「約束……」
青年はそう呟いて、僕らを見つめた。その眼差しはまだ、迷いに揺れているようだった――だけどほんの一瞬、その双眸が大粒のダイヤのように煌めいたのを、僕らは見逃さなかった。
「そう、約束だ。私も、力を貸そう。君が今後も更に輝かしい物語を生み出せるように、私たちが手伝おう。どうかな、もう一度、書かないかい?」
彼が僕の台詞を補うように、穏やかにそう付け加える。でももう青年は、迷ってなどいなかった。拭っても、拭っても止まらない涙でぐしゃぐしゃに汚れた顔のまま、彼ははっきりと一つ、頷いた。


 
「今夜は何も持って帰らなかったんですね、珍しい。どういう風の吹き回しです?」
「それは無論、先にあの手帳を預かったからさ。中身を読むことは許されていたのだし、中身を読むことを対価としたって構わないだろう?」
「そりゃあまあ、そうですけど。手ぶらで帰るあなたが、なんだか奇妙で」
「失敬な!私はいつでも何処でも物を欲しがるようながめつい人間ではないよ。あの物語は荒削りだけれど、素晴らしかった。だから、それでいいことにしたのさ」
「あはは、分かってますって」
 なんだかいつも以上に、二人だけの会話を欲している。ついいつも以上に軽口を叩いて、彼に声を上げさせたくなる。こんなに緊張した新月の夜は、初めてだったから。こんなに必死になった夜は、今までになかったから。何もかもが初めてで――僕自身が依頼を受けたことも、僕に夜のうちに果たすべき役目が与えられたことも、僕が相手に対して、あんな風に真っ直ぐ話しかけたのも、約束なんかしたのも――全てが初めてで、本当は酷く怖くて、早く日常に戻りたくて……勿論、嫌なわけじゃない。でもどうしようもなく心の底がざわついて、彼の邪魔になっていないか、自分の役目を果たせているのか、心配になって……。
「そう言えば、言うのを忘れてたね。ツカサ、君は立派だったよ」
「えっ?」
「私が何も言わないのに、ちゃんと任務を遂行して見せた。初めてなのに、よくやったと……ああっ、大丈夫かい」
僕は自分で欲していた以上に、彼を驚かせてしまったようだ。当然だろう、彼の目の前で僕は突然、気を失ってしまったのだから。
 
 
***
 
 
「僕らって、いったい何なんでしょうね」
とある昼下がり、僕と彼は低いガラステーブルを挟んで二人、ささやかなティータイムを楽しんでいた。暑くも寒くもない、数多のがらくたに囲まれたこの部屋で、僕らはまるでこの世界にたった二人残されたように、静かにお茶を啜っていた。僕はこの時間がたまらなく好きだ――彼と二人だけの空間は、僕にとってはあの夜をいつも思い出させる。あの星の輝く夜、僕が初めてここにやって来て、ここで暮らすのだと知った時の、あの胸がうずうずして、単なる喜びを通り越して、なぜかとてつもなく哀しくなってしまうような不思議な感情。それが全部、あの時から少しも薄れることなく、まるで昨日のことかのように鮮やかに、この胸に蘇るようで。
「何してるって言うんでしょう……結局オヴにも、はっきりとは伝えられなかった」
オヴとは、あの手帳の持ち主の青年だ。遠い昔、あの新月の夜に交わした約束を守り、僕らはずっと互いに互いを気にかけあっている。オヴが果たして本名かどうかは知らないが、そんなことは僕らにはどうだっていい。
「さあねえ。満足する報酬があって、やる気になれるならば、何だってするさ」
「まあ、あなたはそうなんでしょうけど!でも、もし敢えて名前を付けるなら?」
「そうだな……じゃあツカサ、君なら何て付ける?」
「え、僕ですか?ううん……」
僕は暫し、考え込んだ。自分でもこんな風に考えることって、あまりないような気がする。でも、軽々しく名付けてしまいたくなかった。僕らのしていることが、素敵なことだと思えるような名前を付けたかった。石のようにじっと考え込んで、考えて考えて、やっと僕は口を開いた。
「言伝屋さん、かな」
言葉にすると思いの外安っぽくなってしまったように思えて、僕はまた口を噤む。彼なら、もっと良い言葉を思いつくだろうに。僕は上手くいかなくて、誰にでも言えそうなことしか思いつかなくて……。
「言伝屋?なるほど、いいね。死者からの言伝を預かる我々としては、それがぴったりだ。素晴らしい」
少し俯いていた僕に彼はそう言って、またカップに口をつける。
「そ、そうですかね……もっといい名前が、ありそうなものですけど」
「そんなことはないさ。君が一生懸命に考えたこと、それが私にとっては最も大切だよ。君がつけた名前であることこそ、重要さ。ツカサ、私のツカサはいつも、素晴らしいよ」
「そんなこと言ったって、何もありませんからね!」
「はは、ツカサはやっぱり厳しいね」
もう数え切れないほど何度も何度も繰り返し、口癖のようにすら思えるその台詞とともに、彼はいつもと変わらない笑顔を向けた。そう、僕がこの世の何よりも大好きな、あの笑顔で。何よりも柔らかく、どんなものよりも深く深く心を潤す、その優しい笑顔で。



見たよ!