ことり、と眼前に置かれたマグカップを見て、疲れたように少女は溜め息を吐いた。白地に桜の描かれたマグカップは少女のお気に入りで、それに淹れたミルクティーを飲みながら、炬燵でのんべんだらりと他愛もない雑談を交わすのが日課で、──何より変わらぬ日常だった。


「どうしたの」


 対面にもまた、ことりとマグカップが置かれる。黒地に桜の描かれた、少女のお気に入りと対になっているマグカップ。


「べっつに……なんとなく、疲れたなぁ、って」


 机に顎を乗せ、湯気を立てるマグカップを睨むように目を細める。そしてまた、溜め息一つ。
 はあ、と零れ落ちたそれに、青年は苦笑いめいたものを浮かべながら、少女の頭を二度ほど、軽く撫でた。


「よしよし、お疲れさま」
「またすぐそうやって、子ども扱いする」


 ぶすっと頬を膨らませる。いつになったら自分は、対等な、同じ目線の『大人』として彼に見て貰えるのだろう。目下の悩みはそれだった。窓の隙間から吹く風の冷たさに僅か、身震いをして、羽織ったカーディガンの襟元を寄せた。
 少女はまだ高校生で、青年は大学生だった。年齢にしてみれば、三つしか違わない。──否、三つも違う。自分が大学に入る頃には彼は就職活動を始めて、ようやく大学生活に慣れるであろう二年次には、もう社会に働きに出ているのだ。


「子供扱いなんて、してないよ?」


 ずず、とマグカップの中のミルクティーを啜って、青年は笑った。そう言われてしまえば、少女の悩みなんて容易く吹き飛んでしまうのだ。そうするとまた、新たな悩みやらが芽吹くのだけれども。
 それを悟られぬようにと「ならいいけど」──なんて、つんとした返事をしてしまったものだから、少女の自己嫌悪は最高潮だった。違うのに、そんなことが言いたいわけじゃないのにと何だか悲しくなって、じわじわと涙で視界がぼやけてくる。少女は誤魔化すように、机に顔を伏せた。


「……そうだ、この間の模試。結果、どうだった?」
「…………だいじょうぶだった」
「よかった。あんまり心配はしてなかったけどね、棗ちゃんならやれるって信じてたし」


 少しだけ顔を上げる。茶色の癖っ毛と、柔らかな榛の目が目に入った。「僕、教え下手だってよく言われるから、」と頬を掻いた青年の困ったような笑顔に、少女は息を吐く。溜め息とは違う、どちらかと言えば安堵のこもったそれ。


「樹は、教え上手だよ。わかりやすかったもん」


 少なくとも、少女の通う高校の先生なんかよりはずっと。マンツーマンで親身になって教えてくれるのだから、それも当然とは言えるけれど。青年はその言葉に目を細め、頬を綻ばせた。


「将来、教師になりたい人間にとっての最高の褒め言葉だよ」
「……樹カッコいいから、生徒にモテそう。心配だなぁ」


 そうからかい混じりに零せば、「僕は棗ちゃん一筋だから大丈夫だよ!」と微笑んで、なんてこともないように言ってのける。そういうところが大好きだよ、なんて自分もなんてことないように返せたら良かったのに、と思いつつ照れ隠しにそっぽを向く。
 素直になれないヤツなんてかわいくねーよな! なんてクラスの男子がぎゃいぎゃい言ってたのを思い出して、ほんの少し憂鬱な気持ちになった。天邪鬼と言われても仕方ないほどに、つんけんしてしまう自分が本当に嫌で嫌でしょうがない。


「……あのさ、樹」
「うん?」


 上体を起こして、マグカップを両手で包む。まだ仄かに暖かい。視線を幾らか彷徨わせたのち、ごにょごにょとどこか言いにくそうに口を開く。


「女の子は、素直な方がかわいいって、そう、思う?」


 ──何で自分は、自分が間違いなく傷付くであろう疑問を口にしてしまったのだろう。これもまた、天邪鬼が所以なのか。どこか自虐的な笑みを内心浮かべながら、少女はせめてもの可愛らしさをアピールしようと、小首を傾げてみせたりした。
 青年はきょとんとした表情で、まばたきを幾度か繰り返す。一体全体何がと言いたげな顔に、後悔が鎌首を擡げて心中を這いずりまわった。


「そうだなぁ……」


 うーん、と首を傾げ、マグカップに唇を付ける。少女は内面のドキドキやらを悟られぬようにと、マグカップの中、揺れるミルクティーを一心不乱に睨んでいた。まるで親の仇がそこにいるような、鬼気迫った表情だったというのは、後で青年から聞いた話だ。


「広義的な女の子については、よくわからないなぁ。僕が好きなのは棗ちゃんだけだし、可愛いなぁって思うのも棗ちゃんだけだし……素直だからどうこう、っていうのは、わからないかな」


 至って真面目。至って真剣。榛の目に弧を描かせて、青年は口元を綻ばせた。自分の憂いを見透かされたような心地だった。くすくすと、小さな笑い声に俯き掛けていた顔を上げる。きっと、今の自分の顔は林檎よりも赤いに違いない。異様な熱を持っていた。両の手で包み込んだマグカップの温い暖かさすら、よくわからなくなってきた。
 ──なんで、なんでこの人はこんなさらっと恥ずかしい、というか照れることを言えるのだろう!


「棗ちゃんのそれさ、」


 両の手で包み込まれたマグカップを指差して、青年はやはりおかしそうに笑い声を立てる。マグカップが一体なんだと言うのだろう。今、自分はだいぶ、それどころでは、ない。


「両手で、ぎゅっとマグカップ持つの。何か悩んでたりとか、そういう時の癖だなぁって」
「………………えっ!?」


 完全に無意識だった。というか癖なのだから、自分で気付くにはこうして人に言われないとどうしようもないのだけれど。だとしても、だなぁってことは。少女は驚きやら照れやらが綯い交ぜになった気持ちの整理を付けられもせず、口を開く。


「癖だなぁ、って、何時から!? えっ!?」


 少女と青年はかれこれ三年ほどの付き合いである。自分でもびっくりするくらい長く続いているなとは思っている。この三年の間、そりゃ喧嘩もしたし、冷戦状態の時もありはしたけれど、それでも一緒にここまで歩いて来れているのだ。──だから、癖なんて見抜かれてて当然だとも思うのだけれど、何か喋っていないとこの変なことを口走ってしまいそうで怖かったのだ。


「んー、このマグカップをプレゼントした時から、かなぁ」


 ──あれは付き合い始めてから初めてのクリスマスの時だろうか。いつものように、少女が青年の部屋に遊びに来て、他愛もない雑談を交わしていた時だ。「これ、棗ちゃんのマグカップね」と差し出されたこれ。すごく嬉しかったのと同時、こんなものを貰ってもいいのかと悩んだのだ。


「ほんとにもらってもいいの、返さないよ? って、マグカップ両手で持って言ってて」
「あっ、あーっ! そんなこと言った気がする! やだもう、忘れてよ!」


 恥ずかしいことこの上ない。というか何でそんなこと憶えてるんだ。言われなければきっと、思い出すことすらしなかっただろう。少女はようやく、マグカップの中の少し冷めたミルクティーに口を付けた。まだ頬がかっかとしている。


「忘れないよ、そんな勿体ないこと出来ない」
「……うー、」


 恥ずかしい、照れる、とは口に出さない。ずずっとミルクティーを行儀悪く啜って、少女は片手でぱたぱたと煽いだ。決して暑いわけなどないのだけど、と誰に対してか言い訳をする。


「喧嘩したときも、仲直りしたときも、バレンタインに手作りのチョコをもらったときも。全部、棗ちゃんとの大事な思い出だから」


 「ね?」と小首を傾げられてしまっては、少女に反論など出来るはずもない。──少女だって、同じだ。全部全部大事な思い出で、忘れたくない。


「……そうやって、いつも、樹がぜんぶ、言葉にしてくれる」
「ふふ。たまには棗ちゃんの口からも聞きたいけどね」


 いじわる、とは言わない。自分だって、言えるのなら言いたい。この三年、自分の素直な気持ちを告げることが出来たのは喧嘩をしてしまった時だけだった。それ以外でだって、ちゃんと伝えたい。信じているんだと、好きなんだと自分の口から伝えたい。


「──き、」
「ん?」


 青年が首を傾げた。舌が縺れて、うまく言葉に出来ない。ああ、なんてもどかしい。


「わ、たし、ちゃんと……、」
「うん」


 相槌ひとつ。柔らかな眼差しが少女を見詰める。


「ちゃんと、樹のこと、あの、」
「うん」


 聞いてるよ、と言いたげに相槌ふたつ。


「──っ、すき、だから!」


 段々と下を向いていってしまう顔を、勢い任せにあげた。
 ──そして、少女はとても、意外なものを見るような表情で、まばたきを繰り返した。


「な、つめ、ちゃ……」


 口元を覆い隠す、少女より一回りほど大きいのではと思われる右手。熱を持ったかのように赤くなった耳。あちらこちらへと泳ぐ視線。


「…………照れてる?」


 ちょっとした意趣返しのつもりだった。からかい混じりにそう口にすると、青年はおもむろに炬燵から出て立ち上がる。無言のまま、耳を赤くしたまま、少女の背後に立つと膝をついて、少女を包み込むように抱き締めた。


「……照れてるよ、そりゃ、照れますよ。」


 青年の言い訳じみた言葉に、青年の上がりきった体温に、掠れた囁きに、少女は一瞬身を竦ませる。それでも、抱擁に抵抗を見せることはなく、回された腕にそっと触れた。──ああ、なんだ。自分と、そう変わりないじゃないか。


「好きだよ、樹」
「ん、知ってるよ。……大好きだよ、棗ちゃん」


 言葉を交わす。照れたような笑みを浮かべて、背後の青年に背を預けた。少し視線を動かせば、青年の真っ赤な顔が目に入る。──ああ、しあわせだ、と。少女は青年の温もりを感じながら、何の憂いもない、晴れやかな微笑みを浮かべた。



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